主よ、手を置いてください

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌166番
讃美歌205番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨブ記 13章4-6節 (旧約聖書857ページ)

13:4 あなたたちは皆、偽りの薬を塗る/役に立たない医者だ。
13:5 どうか黙ってくれ/黙ることがあなたたちの知恵を示す。
13:6 わたしの議論を聞き/この唇の訴えに耳を傾けてくれ。

新約聖書:マルコによる福音書 5章21~24節&25~43節 (新約聖書70ページ)

5:21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。
5:22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、
5:23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」
5:24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。

《説教》『主よ、手を置いてください』

本日はマルコによる福音書の第5章21節以下をご一緒に読んでいきます。最初の21節に「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると」とあります。先週読んだ5章1節以下で主イエスは弟子たちと共に舟に乗ってガリラヤ湖を渡り、その東南のデカポリス地方、ゲラサ人の地に行かれました。そこで汚れた霊に取りつかれた一人の男を癒されました。そして本日の箇所で再び舟に乗って、もとのガリラヤ地方に戻られたのです。すると今度は二人の女性との出会いが起りました。一人は会堂長の一人でヤイロという人の幼い娘です。もう一人は十二年間出血の止まらない病気で苦しんできた女の人です。この二人とも、主イエスによって、新しい人生を歩み出すことができたのです。しかも本日のヤイロの娘と次回の長血の女の二つの物語は織物の縦糸と横糸が互いに織り込まれるように語られています。本日の21節から24節に、会堂長ヤイロが主イエスのもとに来て、娘が死にそうだから来て癒してほしいと願ったこと、主イエスがその願いを聞いて出かけられたことが語られています。ところが来週の25節以下には、ヤイロの家へと向かう途中で、十二年間出血の止まらない病気の女が、後ろからそっと主イエスの服に触れて、そこで癒しの出来事が起ったことが語られているのです。この話が中に挟まれて、35節から再びヤイロの娘の話になっています。このようにこの箇所では、二つの話がサンドイッチ構造になって語られているのです。マルコ福音書にはしばしばこういう語り方が出てきます。これは、二つの話の内容が密接に結びついているので、両者を一つの話として読んでほしい、という著者のサインだと言ってよいでしょう。そのことを、意識しながら聞いて下さい。

当時、ユダヤ人の会堂で行われていたことは数々ありますが、先ず、何と言っても「安息日の集会」です。犠牲をささげる礼拝はエルサレムの神殿で行われますが、エルサレムから離れた各地の会堂では、律法の朗読を聞き、会堂長が選んだ人の講話を聞き、祈りを合わせていました。安息日の集会、これがユダヤ人にとって最も大切な民族的自覚の確認であり、ユダヤ人のアイデンティティーの中核を占めていました。

会堂は、住民たちの中心であり、地域の核と言っても良いでしょう。ですから、会堂長とは、安息日集会の責任者のみならず、教育の責任者、生活の指導者、行政上の責任者、地域社会の代表者であり、彼は常に住民たちの視線にさらされていました。

さてヤイロの娘の話と言いましたが、むしろ重要な登場人物は父親である会堂長のヤイロです。そのヤイロが、ガリラヤ湖のほとりにおられた主イエスのもとにやって来て、その足もとにひれ伏したのです。そして23節にあるように、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と「しきりに願った」のです。多くのユダヤ群衆の目の前で、主イエスの足もとにひれ伏してこのように願うというのは、地位も名誉もある会堂長の彼にとっては大変な勇気のいることだったのです。しかし彼は、もはや恥や外聞にこだわってはおれない、切羽詰まった状況にあったのです。十二歳になっていた最愛の娘が死にかけていたのです。勿論これまでに、医者を始めとしていろいろと手を尽くして娘の病気を治そうとしてきたでしょう。しかしもう万策尽きてしまったのです。恐ろしい死の力が愛する娘を、そして彼の家庭を飲み込もうとしており、その力の前で自分が全く無力であることを思い知らされているのです。そういう苦しみ、絶望の中で彼は、主イエスの足もとにひれ伏したのです。おそらく彼は主イエスに今日初めて会ったわけではないでしょう。主イエスがガリラヤでの活動の拠点としておられたのはカファルナウムの町であり、彼はおそらくそこの会堂長の一人だったのだと思います。ですから彼が管理している会堂で主イエスが説教してきたのを彼は何度も聞いていた筈です。1章21節以下には、主イエスが会堂で、汚れた霊に取りつかれていた男を癒したことが語られていましたが、彼はそのみ業を目の前で見ていたに違いありません。しかし今まで彼は、主イエスの足もとにひれ伏すことはありませんでした。それは彼が会堂長という社会的にも宗教的にも一目置かれる立場に立つ者であったからです。ユダヤ人社会の重鎮であり、信仰的にも指導者である、そういう自負、自尊心を彼は持っており、これまではその自分の立場から、主イエスの教えやみ業について、いいとか悪いとか判断していたのではないでしょうか。彼は主イエスとは距離を保ちつつ、その教えやみ業を評価、判定していたのです。主イエスの教えを聞き、み業を見て、この教えは納得できるとか、いやこれはおかしいとか、この業は不思議だなどと言っていたのです。私たちはそれぞれ、自分がこれまでに得てきた知識や体験に基づいて世界観、人生観あるいは信念を持っています。社会的地位に基づく自負や自尊心もあります。私たちはそういう自分の思いを基準にして、聖書の教えを評価し、なるほどと思ったり、それはちょっと納得できないと思ったり、そんなバカなことが、と思ったりしているのではないでしょうか。ヤイロはこれまではまさにそのように主イエスのことをある距離をもって眺めていました。しかし今、娘が死にかけているという人生の危機に直面して、自分の力ではどうすることもできない恐ろしい死の力に脅かされる中で、彼は主イエスの足もとにひれ伏して救いを求めたのです。地位も名誉も外聞もかなぐり捨てて、自分の人生観や価値観も脱ぎ捨てて、主イエスに「助けてください」とすがったのです。彼は主イエスに「どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」と言っています。主イエスが手を置いてくれれば娘の病気は必ず治ると心から信じ、主イエスにしか救えないという確信を持っていたということです。ヤイロはここで、「娘が死にかかっている」という現実の問題だけではなく、「ヤイロ自身が娘と共に死に直面している」と考えるべきです。むしろ、あちこちで癒しの業を行っているという主イエスの評判を聞くだけでなく、主イエスの一言で汚れた霊が追い出されたのを自分の会堂の中で目撃した、その主イエスという方に、まさに溺れる者が藁をもつかむ思いですがった、ということだったのだと思われます。

「死」は人間の避けることのできない運命です。どのような人でも必ず「死」を迎えなければなりません。そしてその「死」は、人間の予想や計画を全く無視して、ある日突然襲って来るのです。

何の予告もなく襲いかかり、ある日突然、大切なもの全てを奪って行く「恐るべき死」の力。その前で、何の抵抗も出来ない人間の限界。この世で築いて来た幸福の儚さが突きつけられる時、私たちは初めて、自分の「生」に対して疑問を抱くのです。自分の生き方について、自分の生涯について、ここに決定的な問い掛けを改めてヤイロは投げかけられたのです。

ヤイロは会堂長でした。恐らく、当時の状況から見てユダヤ教のファリサイ派であったでしょう。旧約聖書の御言葉は殆どそらんじていたに違いありません。そして彼は、その信仰を、会堂長として、地域の代表者として、語り続けて来たに相違ありません。またファリサイ派は終末の日の復活を信じていました。ですから、「死」の問題は「解決済み」であった筈です。それにも拘らず、ヤイロは娘の「死」を恐れました。何故でしょうか。何故、彼の信仰が、彼がこれ迄学び続けて来た旧約聖書の御言葉が、人生の最大の危機に直面した彼の心を支えなかったのでしょうか。

ヤイロが「イエスの足もとにひれ伏した」とありますが、ユダヤ教の会堂長ヤイロにとって大変なことでありました。ファリサイ派は「神の子」を語るナザレのイエスを憎んでいたからです。その憎しみは、今度はヤイロが「裏切り者」として受けることになり、これ迄、地域の指導者であった彼が、人々の前で信仰のなさと無力さをさらけ出すことになるのです。これまでの全てを失うことになると言っても良いでしょう。何故ヤイロは、これほどの行動に出たのでしょうか。

ここはカファルナウムであり、主イエスの活動がこの町の会堂から始まりました。(1章21節以下、3章1節以下参照)。カファルナウムには現在でも立派な会堂の遺跡が残っています。ヤイロは、この会堂の責任者として、幾度も主イエスの説教を「他人事として聴き」、悪霊を追い出す御業を「見物人として見て来た」のです。

しかし今、自分の娘が「死」に直面し、「死」を、「単なる肉体の滅びではなく罪の結果である」と告げた主イエスの説教を思い返した時、かつては「他人事として聴いていた」説教が、真正面から自分に問いかける御言葉として聞こえて来たのです。

「死」とは、私たちには全く分からない神様のみぞ知ることで、人は「死んだ時」には神様の前に立たされるのです。人は生きていた時の神様との関係の歪みを覚えた時、「死」に対しての心の平安はなくなり、神なき世界に生きた負い目を持つ者の心は、乱れに乱れざるを得ません。この時ヤイロは、初めて、主イエスこそが、自分の「死の苦しみ」に直接関っていることに気がついたのでした。

自分の存在の意味が失われようとする時、私たちは、いったい誰に最後の望みを託せるでしょうか。苦しみの中で、心から誰に「主よ、私に手を置いて下さい」と言えるでしょうか。それこそ神様でしかないでしょう。

主イエス・キリストはヤイロと共に娘の居る彼の家へ向かって出かけられました。自分の誇りの全てを投げ捨て、過去の業績の全てを虚しくした人間と共に、主イエスはご一緒に歩まれるのです。

私たちのこの世における歩み、人生には、自分ではどうすることもできない苦しみ悲しみ困難があります。抗うことのできない死の力によって愛する者を奪われてしまうことがあります。また自分自身も、病や老いによって次第に死の力に支配されていくことを体験させられていきます。ヤイロが味わった苦しみ、絶望を私たちも覚えるのです。そのヤイロは主イエスの足もとにひれ伏して救いを願いました。その時主イエスは私たちの願いに応えて、共に歩み出して下さいます。しかし、時としてその歩みにおいても、「もう神様に頼れない」と私たちを絶望させるような出来事が起ります。主イエスはそこで私たちに「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけて下さるのです。そして、ヤイロとその家族が体験したように、主イエスによって死の力が打ち破られ、その絶望からの解放が与えられることを体験していくのです。それは主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったことによって実現した恵みです。

十字架と復活の主イエスが、「恐れることはない。ただ信じなさい」、「あなたを脅かしている死は、私の恵みの前では眠っているに過ぎない」と語りかけ、私たちの手を取って、「わたしはあなたに言う。死の恐れの中から起き上がりなさい」と告げて下さっているのです。

お祈りを致します。

黙れ、この人から出て行け

《賛美歌》

讃美歌332番
讃美歌191番
讃美歌243番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨブ記 4章7節 (旧約聖書779ページ)

4:7 考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ
正しい人が絶たれたことがあるかどうか。

新約聖書:マルコによる福音書 1章21~28節 (新約聖書62ページ)

1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

《説教》『黙れ、この人から出て行け』

今日のマルコによる福音書1章21節に「一行はカファルナウムに着いた。主イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた」とあるように、マルコは安息日の会堂での主イエス・キリストのお姿から語り始めます。

ここにマルコの意図が明らかにされていると言えるでしょう。「主イエスこそ安息日の主であり、主イエスこそ会堂の中心である」ということです。

マルコは主イエス公生涯の初めの御言葉を「時は満ち、神の国は近づいた」と、極めて簡潔に記していました。「時は満ちた」と言われましたが、その「時」は何時から始まるのでしょうか。「神の国の実現」の宣言は何処で語られるのでしょうか。マルコはそのことを、ここで明らかに示すのです。

主イエスの時代、イスラエルの信仰形態には二つの型がありました。第一は、エルサレムの神殿における祭儀です。そこは、神への供え物として動物を献げる一般の人々は立ち入ることの出来ない場所であり、そこでなされるのは、祭司たちの祈りと音楽と御言葉の朗読でした。そこには、神殿を訪れた人々に語りかける御言葉の説き明かしなどは一切ありません。神殿での礼拝は祭司だけの儀式であり、民衆が参加するようなものではなく、民衆は祭司を媒介にして神に祈るだけでした。

第二は会堂いわゆるシナゴーグでの集会です。各地に設けられた会堂は、紀元前六世紀のバビロン捕囚の時代から始まったものです。主イエスの時代には、ユダヤのみならず、世界の何処であろうと、ユダヤ人10家族がいるところには、必ず造らなければなりませんでした。シナゴーグは、その地域の中心であり、祈りと御言葉の説き明かしの場でした。当時それを「礼拝」とは言いませんでしたが、実質的には、現在の私たちの教会での礼拝に極めて類似していました。会堂長が管理の責任を負い、律法学者たちが自由に御言葉を語ることが出来ました。毎週、安息日の午前中に集会が守られ、人々は律法とその説き明かしを聞くことによって、祖先アブラハムに告げられた神の約束を確信し、信仰の希望を強められました。生活が苦しければ苦しいほど安息日の会堂は豊かな慰めの場となり、地域活動の中心としての役割を果たしたので、神の民として生きるユダヤ人にとって最も身近で大切な「神の御心との触れ合いの場」であったと言えるでしょう。

主イエスは、このユダヤ人の会堂を新しい時代の始まりを告げる場としてお選びになったのです。限られた人々が定められた形式だけを守っている神殿ではなく、一週間の生活に疲れた人々が、新たな日々のために慰めと勇気を求めて集まって来る会堂、常に聖書の御言葉が語られ、御言葉を中心にして祈る人々の信仰が確かなものにされて行く会堂、「そこにおいて主イエスが語り始められた」ということこそ福音の始まりに最も相応しいとマルコは告げているのです。キリストの福音は、疲れた心、求める心に語りかけられます。

御言葉を聞かずには新しい日々へ向って行くことが出来ない人々に、主イエスは語りかけられるのです。

この主イエス・キリストの御言葉の中にこそ、安息日の真実の姿である「新しい時」の始まりを見ることが出来るのです。まことの安息とは、主イエス・キリストによって実現する「神の国」において与えられるからです。

マルコは私たちに「安息日の会堂」に眼を向けさせています。安息日とは何か、会堂とはどのような場であるべきなのかということ、それを問いかけているのです。

22節に「人々はその教えに非常に驚いた」とあるように、この日の会堂は人々の驚きで始まりました。この時、人々は主イエスのお話しになった何に驚いたのでしょうか。

しかし、マルコは、そしてルカも、この時の主イエスの説教について何も記さず、その内容は1章15節に「『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」とまとめられている以外何も分かりません。マルコは、人々の驚きの様子以外に主イエスの説教そのものを語りません。

安息日の会堂で行われていたのは、聖書の朗読であり律法学者たちによる説き明かしです。この時会堂で読まれていた聖書は旧約聖書でした。旧約聖書は人間の罪を指摘しています。罪を責める預言者たちの激しい言葉で満ちています。

預言者アモスは神の正義が人間に対し容赦なく迫ることを警告し、そして同時に預言者ホセアは、その罪にも拘らず、人間を見捨てられない神の愛を語っています。

このように御言葉の説き明かしを会堂で毎週聞いていた筈ですが、御言葉をあらゆることの中心に置いているユダヤの人々の心に、何の衝撃も驚きも感動も与えていなかったのです。人間の罪に対決する神の正義と愛が、何の感動も呼び起こさなくなった会堂での礼拝の虚しさが想像されます。このような礼拝は、ただ宗教的な言葉や表面的な解説の繰り返しに過ぎない、中身のない形式的なものでした。毎週の安息日は、形式的な礼拝によって宗教的な雰囲気を味わい、自己満足にふける程度のものでしかなかったと言えます。

御言葉は日々の生活のあり方や道徳を規定する世俗的な戒めになってしまっていました。

その中心に在るのは、もはや主なる神ではなく人間であると言わざるを得ません。日々の生活を支える言葉が適当に選び取られる場に過ぎなかったと言えるでしょう。律法学者たちは知恵と知識の全てを傾けて聖書を説き明かしたでしょうが、彼らが語る言葉は神の言葉ではなく、人間に仕える者としてのみ聞かれていたのです。

そしてそのことは、23節にあるように、この時会堂に「汚れた霊に取りつかれていた男がいて叫んだ」ことからも明らかです。この「汚れた霊」とは、聖書のいたるところに現れる「悪霊」と同じものです。

「汚れた霊」即ち「悪霊」を、古代の人々の迷信と軽んじてはいけません。当時の人々は、一切の悪の根源をなすものを人格化して「悪霊」と呼びました。聖書に出て来る「悪霊」とは、現代社会では精神病とか肉体の病気の一種とするでしょうが、大切なことは、「悪霊に取りつかれる」ということが人間の罪と結びつけて考えられていたことです。

旧約聖書のヨブ記4章7節にこのような場面があります。悪霊であるサタンの策略によって子供たちを含め、全てをの財産を失い、自分自身も悪性の皮膚病で苦しむヨブに対し、訪ねて来た友人エリファズはヨブにこう言うのです。「考えて見なさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれることがあるかどうか」とあります。

当時のユダヤ人は、人間が神に対して罪を犯すと、神が怒り、サタンの攻撃に対する神の守りがなくなると考えていました。その結果として「悪霊に憑かれて苦しむ」のであり、全ての人間の苦しみ悩みは、その人の神に対する罪の結果だということでした。

確かに、「悪霊」とか「汚れた霊」という表現は古代人のものです。しかし、人間全ての苦しみを、神への罪と結びつけて考えるというユダヤ人の倫理性は、大いに学ぶべきところがあるのではないでしょうか。

ですから、23節の「汚れた霊に取りつかれた男」とは、現代的な表現で言えば、「神を認めないで生きる者」のことである言ってよいでしょう。

律法は完全性と清潔さを常に重んじて来ました。それ故に、安息日の会堂には、神の怒りを受けていると見做された身体の不自由な者、重い病気にかかっている者、罪人として忌み嫌われている者などは、入ることは許されませんでした。その「安息日の会堂に、汚れた霊に取りつかれた男がいた」というのですから、誰の眼にも分かる肉体的障害や心の病いに苦しむ者でないことは明らかです。表面的には、ごく普通の人でした。従って、「汚れた霊に取りつかれていた男」とは、姿かたちや行いにおいてではなく、「心の中で神を認めない人間」とみることが最も適切であるでしょう。

本当に恐るべきことは、「心の中で神を認めない人間」が会堂の中にいても誰にも分からないということです。悪霊に支配されている人間が会堂にいたのです。

神を信じない人間、御言葉を聞こうとしない人間、御心に従おうとしない人間。このような者が「祈りの場」である会堂にいました。それに誰も気付かず、その男自身、そこに違和感を感じなかったというのです。

神に逆らう者がいても何も起こらない会堂。何の反響も起こさない説教。それが果たして真実の礼拝と言えるでしょうか。人間中心的な、またこの世の人々と妥協した「耳障りのよい御言葉の説き明かし」が如何に無意味で虚しいものであるかを、ここに見なければなりません。

主イエスの御言葉を聞いた時、その汚れた霊に取りつかれた男は沈黙していることが出来なくなりました。今までどおり、居心地よく会堂の椅子に座っていることが出来なくなったのです。

24節で、その男は「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と叫びました。真実の福音とはそのような力を持つものです。罪からの解放を告げるだけでなく、人間を苦しめるサタンがそこにいたたまれなくなるような力を持っているのです。

彼はこの時主イエスを「神の聖者」と呼んでいます。皮肉なことに、この言葉は他の誰よりも主イエスを正しく見ていることを示しています。また、彼は「かまわないでくれ」と叫びました。この言葉は、正しくは「私と何の関係があるのだ」という意味です。主イエスを神の子・聖者と認めながら、キリストとの関係を拒否し無関係に生きようとしているのです。

神の御子を認めながら、神の御心を否定してしまう自分自身に気付かない上に、その会堂にいる誰もがそのことに気付かないのです。会堂の礼拝の場が、「汚れた霊に取り付かれた男」にとって、居心地のよい場所であったということに驚かなければなりません。

25節に、主イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになったとあります。どのような時でも神の御心に従わない者の存在を主イエスはお許しになりません。主イエスは「出て行け」と言われ、「ここにいるな」と命じられるのです。

主イエス・キリストが語られる時、福音が明かに告げられる時、それを聞く人間には「そこに集まる者」と「追い出される者」との二通りしか有り得ません。神に従うか、罪の中を歩み続けるのかの分かれ道です。

主イエス・キリストは、私たちに完全な服従、新しい生き方のみを求められます。古い自分を捨てきれない者を断固として追い出されるのです。

27節には、「人々は皆驚いて、論じ合った。」とあります。ここでもまた、「人々は皆、驚いた」と記されているのです。彼らは「主イエスが悪霊を追い出した」ということに驚いていますが、私たちは、「キリストが『私のために』悪霊を追い出してくださる」ということに驚きをもって感謝しなければならないのです。

主イエスの御言葉が何を指し示して語られているかを聞き取らなければなりません。全ての造られたものの主、創造主なる「私たちの力を遥かに超えた」御方が、私たちに何を語られているのかを聞き取らなければならないのです。

万能の力を持つ主なる神が、「取るに足りない一人の人間に向けて御業を明らかにされる」ということに驚かなければなりません。

あの時、カファルナウムの会堂で始まった主イエス・キリストの御業は、今もここに続けられています。

あの日のカファルナウムの会堂で主イエスが語られた御言葉が今も語られ、あの時叫ばれた御言葉が今もこの成宗教会の礼拝堂に響いており、あの日実現した正しい礼拝の回復が、今、私たちの教会を支えているのです。

福音の物語、即ち、私たちの救いの物語は、「礼拝を正したキリストの御業に始まる」というマルコによる福音書の核心を、心して聞くべきでしょう。

お祈りを致しましょう。

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死者の中から甦り

聖書:ヨブ記19章25-27節, コリントの信徒への手紙一 151222

 イエス・キリストの福音を宣べ伝える礼拝、今日も守ることができる幸いを感謝します。この福音はキリスト教会の二千年の歴史を振り返ること無しに、語ることはできません。教会に新しい方が来ると、私たちはその方のことを何も知らないのですが、その方と教会とのつながりを神さまが作ってくださっていることを思います。先月ご結婚された成宗教会の兄弟が、初めて成宗教会に来た時、私は兄弟の出身の国と日本の長い歴史を思いました。それこそ千年、二千年にわたる交わりです。日本人は昔あなたの国に留学生を送って勉強したのですと、わたしは申しました。

本日は愛知県の半田教会から40年前の私たち夫婦の知り合いの方々がいらっしゃると聞いて、私は思いがけないことを思い出しました。それは、半田教会の創立者は数年前まで成宗にギリシャ語を教えに来てくださった小泉仰先生のお祖父さまご夫妻ではないかということです。小泉紋次郎先生は、今91歳の方のお爺様ですから明治の初めの頃の方でしょう。脇差を腰に徒歩で青森から東京に出て来た話や、戦争中に空襲を避けるために国策で強制的に教会堂を壊された話を伺ったことがありました。

教会は人々の労苦を経て建っています。ですから人々の労苦を忘れないことはとても大切なことです。しかし、人の労苦だけで建っているのなら、100年、200年と続いて行くのはとても困難でしょう。ところが100年、200年どころか、教会は1000年も2000年も続いているのです。とても人間の力ではできないです。しかも、全世界に建っている。それは、イエス・キリストの名によって建っているからに他なりません。もっと言えば、その時代、その時代の人々が、昔も今もイエス・キリストの御名を信じたからに他なりません。キリストは今も生きておられると。今も生きて私たちを救ってくださると。昔も今も、そして世界の津々浦々で信じられているからこそ、教会は建っているのです。

キリストは今も生きておられると信じる。それはつまり、キリストは十字架にお掛かりになった。本当に死んでしまわれたこと。お墓に葬られたことを信じたのです。キリストの死を信じた上で、しかし、キリストは死人の中から甦られたことを信じている、ということなのです。教会は信仰告白において、このことをはっきりと告白しました。そして主なる神は、この告白の上に教会を絶ち続けてくださっています。

しかしながら、この告白は何の問題もなく、あっさりと教会の人々に受け入れたのではありませんでした。今日の新約聖書のテキスト15章12節で、使徒パウロは教会の人々に尋ねています。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」と。この手紙が書かれた時代は紀元五十年代です。それは、主の十字架の出来事からまだ三十年も経っていない頃でありました。それなのに、キリストが十字架に死に給うたことを信じるかどうか。そして三日目に復活されたことを信じるかどうか。そういう議論が、早くもコリント教会で問題になっていたことが分かります。つまり教会の中に、この頃早くも復活を信じない人々が現れていました。それで議論が起こっていたのです。

すごいことだと思います。ついこの間の出来事であろうと、2千年前の出来事であろうと信じない人々は信じない。そして信じる人々は信じるのです。それでは、信じない人には、「信じなくてよい、勝手にしなさい。我々は信じる者だけでやって行くから」ということになったとか、というと、全くそうではありません。復活を信じる者が福音を宣べ伝えて来たのです。復活を信じる者が教会を建てて来たのです。そして信じる者を助けるお方がおられる。すなわちご復活の主がおられるからこそ、教会は建つのです。

そこで教会を建てるためですから、使徒パウロは信じない者を放置しません。議論し、説得に努めたのです。キリストの復活を信じることは、私たちの復活を信じる根拠でありからです。そこで、もしキリストが復活したのならば、私たちも復活するでしょう。もし、キリストが復活しなかったのならば、私たちもまた復活しないでしょう。これを逆に言っても同じです。「もしわたしたちが復活するとすれば、キリストが復活されたからです。もし私たちが復活しないならば、キリストもまた、復活しなかったのです。」

それならば、キリストは復活されたが、それはわたしたちの復活とは関わりない、という話にはならないのです。またキリストは復活されなかったが、わたしたちは復活するとか、もう既に復活している、などという考えは成り立たないということなのです。なぜなら、キリストが死んで、甦られたのは、御自身のためではないからです。そうではなくて、御自身の体となった教会のためです。そして教会の中に、主に結ばれた信者であるわたしたちもいるからです。

それなのに、あなたがたの中にいる一部の人々は死者の復活などない、と言っている。よろしい、とパウロは、その人々の主張を仮に正しいものとしたらどうなるかを考えましょう、というのです。13節。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」キリストが地上の生涯の間、語られた福音を人々は聞きました。また、なされた数々の不思議な業を体験し、証言しました。キリストは神の真心を具体的に表されたのです。しかし、人々はこの方を十字架の死に至らせた。この義人の死を認める人々は多かったでしょう。しかし、神はこの方を復活させる力がないというのでしょうか。死者は死者のままで終わる。たとえキリストであっても復活はない、というのであれば、その人々がキリストの名を呼び続けるのは空しいことではないでしょうか。

キリストが死に呑み込まれ、全く滅び去り、罪の呪いによって圧倒されていたならば、つまり、キリストがサタンに打ち負かされていたならば、もはや何が残っているのでしょうか。キリストの死だけを認め、復活がないものとすれば、そこに見い出されるのは絶望の種ばかりです。それでは、全く死に打ちひしがれた人が他人に救いをもたらす者となることは不可能でしょう。

よく人の名前の付いた教会があります。○○記念教会という名前ですが、たとえそれがその教会を建設するために力を尽くした人の名であっても、その人の名を呼んで教会を建てることはできません。キリストの教会を建てるためにはキリストの名を呼ぶのです。そしてキリストの名を呼ぶのは、正にキリストが生きておられるからです。主の名を呼ぶ者を救う力がある方がキリストだからです。キリストの復活を信じない人が、自分の都合によってキリストの名によって祈り、助けを求めることほど、矛盾していることはありません。復活について信じるのか信じないのか、いい加減な考えのままで生きている。危機に直面したときだけ、いくらか真剣に考えるけれども、そうでない時には忘れている。こういう中途半端な信仰が教会に増えれば増えるほど、教会は力を失って行ったのだと言わなければなりません。パウロや使徒たちの労苦はこのような不信仰を打ち破るためにも費やされました。

大切なことは、イエス・キリストの体である教会に結ばれることです。そのために最も大切なことは、キリストは死者の中から甦られたことを信じることです。福音のすべては、ただ一重にキリストの死と復活に掛かっているからです。

わたしたちはもし福音によってその益を得ようと真剣に考えるならば、この点にこそ、自分の思いを集中しなければなりません。使徒パウロはギリギリの所まで自分を追い込んで、伝道者の存在を賭けてこう述べています。15節。「更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。」神によってその永遠の真理を宣べ伝える者として立てられた使徒が、もしも嘘偽りをもって世の人々をだましてきたことが発覚するならば、それは由々しき一大事と言わなければならないでしょう。なぜなら使徒たちは、何と神に対して大変な侮辱を与えることになるからであります。

更に不幸なのは、使徒たちの教えによって信仰に入った教会の人々ということになってしまいます。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストも復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。」もし、キリストの復活がなかったものと仮定するなら、生きている者は今もその罪の中にあることになります。なぜなら、キリストの罪の執り成しがなかったことになってしまうからです。そうだとすれば、人は以前そうであったように、自分の正しさを証明するために自分で果てしなく償いをしなければなりません。

そして更にキリストの執り成しを信じて眠りについた信者にとってもそれは空しいことになってしまうのです。罪赦され、終わりの復活の日に、御国を継ぐために召し出される希望がなければ、死者にも幸いはありません。最後に生きて労苦している信者たちも、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めなもの」だということになります。

この世の生活でキリストに在って信じるだけしか、考えていないのは、実は現代人にこそ最も特徴的ではないでしょうか。物質的繁栄の結果、すべての望みをこの世にかけるような堕落が起こっているのです。それは、私たちの信仰の実をこの世だけで結ばせようとする考えであって、私たちの信仰がこの世の果てよりも更に遠くを見通し、更に広く広がって行くことがなくなります。そうなると、ひたすら今繁栄している人々が羨ましい、苦労はただただ避けたい。苦難、困難に何の意義も感じないということになりかねない。神の御支配どころか、神がおられることすら、頭から消えてしまって考える余地もなく、時を過ごしているのです。

神はキリストに苦難を負わせられました。キリストは御自分の罪ではなく、罪人の罪、わたしたちの罪のために苦しまれたのです。だから、わたしたちもご復活に与る者であることを信じなければ、すべての労苦は空しくただただ辛いだけになってしまうでしょう。クリスチャンがそうでない人々よりも苦労しているように見えるのは何も不思議なことではありません。クリスチャンが皆貧乏なわけでもなく、皆病気なのでもありません。キリストを信じる人も信じない人も富める人、貧しい人、健康な人、病気の人がいます。そして共通しているのは、皆等しく年取って行くことにだけです。

しかし、クリスチャンでない人々がしばしば幸福そうに安泰に見えるのは無理もないことです。自分のことしか考えない人々は悩みが少ない。それに対して、身近な人々、更に多くの人々の集団に対して責任を感じ、いつも皆の安寧平和を考える人々は、いつも多くの悩みを共有しているのです。額にしわを寄せ、重荷を負って皆のことを思う人々は、当然キリストのご労苦が分かります。ご自分のためでなく多くの人々の幸福のために自ら労苦して、自ら不幸を負ってくださった。わたしのためにも死ぬほど苦労してくださったと思えば感謝があふれます。死者のさまよう陰府に降って霊のことさえも心配してくださったと思えば涙があふれます。

一方、そういうことを少しも考えない人はのんびりしたものです。生き生きと自分の楽しみに邁進しているように見えます。ちょうど、屠られる動物が、屠られるその日まで丸々と太らされるように、悲しむことも労苦することもないのを見て居るだとしたら、キリストを信じる者は羨ましく思ってはならないのです。キリストの福音は神の愛があふれてわたしたちに届いたのですから、わたしたちもそれに応えて、キリストを愛し、隣人を愛して教会を建てて仕えたいと願います。最後にⅡペト1:7-8を読み、祈ります。436下。「信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、私たちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。」

 

主なる父なる神様

尊き御名をほめたたえます。本日の礼拝を感謝します。わたしたちは、使徒信条の中で「三日目に死人のうちからみがえり」とはどういうことかを学びました。人間の不信仰は新約聖書の時代にも、早くも復活を曖昧にして来ました。それにもかかわらず、教会が全世界に福音の宣教によって建てられたことは、一重にあなたの憐れみと愛の勝利です。

主イエスキリストが復活され、死に勝利されましたので、わたしたちも主に結ばれて復活の希望に生きることができます。日本の社会はますます困難な時代を迎えますが、わたしたちはそれぞれの置かれたところで、過去の恵みを日毎に思い起こし、人々に証しすることを怠ることなく、恵みの教会、恵みの救いを世に宣べ伝え、残して行くことができますように。死ぬ者をも生かす愛の神。罪人を死と滅びから救い出される神に、栄光を祈り続けて参ります。

今日礼拝を守ることができなかった方々にあなたの顧みがございますように。御名を呼ぶ者を、憐れみ、悔い改めに導いてください。ご病気の方々を支え、励まし平安をお与えください。若い世代は多忙を究めていますが、あなたのご配慮によって必要を満たしてください。全国連合長老会が明日から金沢で開かれます。主よどうぞ、地方で労苦している教会、教師、長老の方々を励まし、一つのキリストの体を与えられますように助けてください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神は何でもお出来になる

聖書:ヨブ記42章2-6節, マタイ福音書19章23-26節

 私たちの教会は、先週十貫坂教会との講壇交換礼拝を守りました。十貫坂教会から若いというか、働き盛りの男の牧師が来てくださいました。私の方は十貫坂教会に出かけるのは初めてではなかったので、向こうでは知り合いの先生だ、という感じで迎えられましたが、成宗ではどうだったでしょうか。長老以外の方々は改めて東日本連合長老会の十教会の交わりに入るということは、こういうことなのか、と実感されたのではないでしょうか。

私も、東日本で共に学び、共に教会を建てて行くことが出来ることを、十貫坂教会の礼拝の場で主に感謝しました。どこの教会も日本の少子高齢化を映し出さないところはほとんどないと思います。特に小さな教会、そして地方の教会はそうでしょう。たくさんの人が長生きが出来、高齢に達するということは、社会の平和と繁栄の結果ですから、大変感謝するべきことです。けれども、それは同時に多くの高齢者を社会全体で支えて行くということです。「ゆりかごから墓場まで」という標語は社会保障で言われることですが、それを教会についていうなら、それは地上に生を受けてから、地上の生涯を終えるまで、主イエス・キリスト教会の中に守られ、神の家族の一員として守られることだと思われます。

また、「終わり良ければ総て良し」という言葉がありますが、それは、「神の子イエス・キリストに結ばれて、天の父に守られて生涯を全うする」ということではないでしょうか。ですから、私たちは一日一日年を取りますが、最後までキリストの教会の一員として生きる、つまり主に従う者として心を引き締めて生きるのです。有り難いことに、成宗教会には主に結ばれ、教会に結ばれて地上の生活を送っている方々が過去にも、また現在も多くおられます。本当にありがたいことで、喜ばしく、また誇りに思います。その兄弟姉妹がキリストの恵みの証し人として、私たちを今も励ましておられるからです。これは一重に、教会に送られた慰めの霊、励ましの霊、聖霊のお働きによるのであって、そのこと無しには決して起こらないことです。

では、私たちはその励まし、高齢の方々の励ましを受けて何をするのでしょうか。地上の生涯の終わりに向かう私たちがなすべきことは、地上に命を与えられている人々に福音を宣べ伝えることではないでしょうか。私たちは体をもって生きています。目に見える姿で生きて生活するので、衣食住は欠かせません。ですから「何でもできる」という言葉を聞くと、すぐ目に見える「できる」ということを考えます。飲み食いする。住むところがある。着るものがある。これらは皆、お金がなくてはできません。だからこそ、お金にこだわっています。そして神様は私たちにそのすべてが必要であることをご存じです。

しかし、地上に命を与えられている人々に福音を宣べ伝えるということは、そういうとは無関係ではないのですが、目に見える姿だけに関わることではないのです。目に見える姿形と同時に、私たちには目に見えない心があります。心と体を合わせて魂と呼ぶこともあります。私たちは目に見える衣食住のことだけで生きているのではない。むしろ地上の生涯を全うしたとき、私たちに備えられている神の命に生きる者となるために、地上に教会を建てるのです。体だけの救いのためではなく、私たちの心も体も魂も救われるために、今できることをして生きたいのです。

イエス・キリストのお建てになった教会は代々同じ信仰を受け継いで、告白してきました。私たちはその信仰を使徒信条によって告白し、同時に学んでおります。本日は「我は全地の造り主、全能の神を信ず」というところの、「全能の神」についてみ言葉に聞きたいと思います。「神は全能である」ということは、「神は何でもお出来になる」ということです。今はオリンピックのシーズンですから、ひたすら誰が一番か、金メダルか、ということに世界中が注目する。多くの人々にとって、「できる」ということはそういうことなのです。また私たちは、中学生棋士の出現で、「おお!」と驚き、ボナンザという名の将棋ロボットに人間が勝ったの、負けたのと、大騒ぎします。そこで、私たちにとっては「神は何でもお出来になる」という言葉も、何かそのような能力のことのように聞こえてしまうのではないでしょうか。

今日のマタイ福音書の聖書箇所は、一人のお金持ちの青年が主イエスの御許に来た、あの有名な話に続く部分です。お金がある人がどんなにもてはやされ、羨ましがられるかということは、今も昔も変わりないことです。実は、人々がお金持ちに恭しく頭を下げるのは、その人に対してではなく、その人の持っている富に対してなのですが、本人はその区別が分からないかもしれません。そこで、自分は何か偉い尊敬される価値があると思い込んでしまい、何でも思い通りになって当然のように考えるに至ります。しかし、お金で買えないものがあることも金持ちは知っていました。そこで悩んで主イエスに教えを乞うのです。「永遠の命を得るためにはどんな善いことをすればよいのでしょうか」と。

つまり彼は、永遠の命、すなわち、救いに入れられるためには、何か善い業をする必要がある、と考えているのです。人間は善い業によって救われると信じているのです。主イエスは、それならば、と答えられました。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と。

この人は善い業をすることによって救われると信じる。ところが、主の命令は彼のできることではありませんでした。つまり、自分の財産を貧しい人々に施して、自分も貧しくなることはできなかったのです。金持ちは永遠の命を得るよりも、自分が金持ちであることの方が大事でした。私たちが考えると、「いくらお金をもっていても、この世を去る時には何一つ持って行くことはできないのに」と思いますが、富を持つ人は、なかなかそうは考えられないのでした。

主イエスは、この気の毒な青年のことについて、弟子たちに警告して下さいました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」らくだが針の穴を通るとは、何とも大げさなたとえですが、要するに、全く不可能であることが強調されているのでしょう。今、コツコツ働いて報酬を得るのではなく、マネーゲームのような取引でお金を儲けようとする人々が世界の市場を動かしています。お金をもうけて何かを買う、とか、目的があるのではなく、ただただ富をかき集める欲望は、非常な禍の元でありますが、富に頼る傾向。つまり、天国に入れなくてもお金さえあれば・・・という考えも救いから遠ざかる結果を招くことになるでしょう。

もちろん、富そのものは本来悪いものでもないし、神に従う道を必ず妨害するものでもありません。第一、神に従うことから、私たちを遠ざけるために、悪魔が用意している手段は、富以外に、他にもいくらでもあるのではないでしょうか。とは言え、豊かに持っている人々はついついその豊かさにおぼれて、神に心を向けなくなっていることもしばしば起こることなのです。地上の生涯を終える時は、誰にでも必ず定められているのに、金持ちはこの世の楽しみをいつまでも満喫できると錯覚を起こしてしまうかもしれないからです。皆が頭を下げて迎えてくれるような地上の生活に慣れている金持ちであっても、神がわたしたちに受け入れてくださる救いの道は、狭くて小さな入り口から入ることになりますから、へりくだって身をかがめて入れていただかなければならないでしょう。

さて、弟子たちはこれを聞いて仰天しました。彼らは「それでは、だれが救われるのだろうか」と途方に暮れたのでした。しかし、この話は何も金持ちの青年が救いから閉ざされたことを結論づけるために記録されたのではありません。なるほど、金持ちの青年は失望して去って行きましたが、彼ら弟子たちはびっくりしたものの、がっかりして主から離れ去ったのではありませんでした。むしろ、彼らは「それでは一体、誰が救われるのでしょうか。それが知りたいのです」と言いたかったのです。だから、びっくりはしたけれど、がっかりもしたけれど、それでも主のもとから離れなかった。そこがあの青年と全く違うところです。

弟子たちの問い、そしてそれは私たちの問でもありますが、「それでは、だれが救われるのだろうか」という問い対して、主イエスは彼らを見つめて言われたのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と。そしてその御言葉によって、キリストは彼らの心をすべての憂いから完全に解放してくださったのでした。私たちは自分の力で天に上ることがいかに困難であるかを知らなければなりません。人間の力では、金持ちであろうが、貧乏であろうが、どんな人も救われることは不可能だということです。なぜなら、すべての人間の救いは完全に神にかかっているからです。天に上るということはエベレスト登山とは全く違います。神がお招きくださらないのに、天の神のお住まいに上って「わたし、自力で上って来ました」と、誰がいうことが出来るのでしょうか。

人間には不可能なことだ。しかし神にはすべてが可能であると主は言われます。私たちはこの言葉を、福音としていただかなければなりません。たとえ、自分に自信のある人々が「あれをしなさい」「これをしなさい」「そうすれば救われる」と言われる方が好きだとしても、それは自分の能力に、自分の持ち物に頼るから、そうなのです。やがて、自分ができると思っていたことが、実は出来ていなかったということに気がつくでしょう。自分が善いことをしていたと思っていたことが、実は全くそうではなかったということにも気がつくでしょう。特に信じていた自分の善意さえも、正直さえも、実はそうではなかったのではないか、と気がつきます。

しかし、それは辛いことではありますが、不幸なことではありません。いや、むしろそれどころか、幸いなことであると分かります。なぜなら、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」という主イエスのお言葉は、私たちを慰めるために、励ますために語られたからです。あの人はもう駄目だ。もう救われないと人が人を見はなすことになっても、神にはできないことはないからです。イエス・キリストが指し示してくださった天の父は、救いがたい罪人を救ってくださることがお出来になる。絶望の中に希望を生まれさせることが出来る方です。神の全能とは、救われるに値しない罪人、滅びるより他にない人間をなお、愛することがお出来になるその御力、その愛ではないでしょうか。

ヨブとその友人たちは、ヨブの想像を絶する不幸の原因について、また神の義しさについて議論しました。しかし、神の義しさを理解し、自分の正しさを論じることの結論は何だったのでしょうか。ヨブは自分に理解できないこと、自分の知識をはるかに超えたことをあれこれと論じようとしていたことを悔いております。それでも、ヨブははるかに天を仰いで信じ、告白することが出来た。それは、天には自分のために執り成してくださる方がおられるということでした。苦しみから救い出してくださる方がおられる。それはどなたか、いつ、どういうふうにして自分を救ってくださるのかも知らないままに。しかし、神はヨブのこの呻きに、この告白に、答えを備えておられたのです。

時が満ちて、天の父は、その計り知れない御心によって御子を世にお遣わしになりました。神は私たちの思いをはるかに超えたその愛によって、罪人を救いに招くために、愛する御子をお遣わしになって、その御心を地上に明らかにされました。キリストを拒絶したことで、神の愛を拒絶する者の罪は、いよいよ明らかになりましたが、その一方、十字架の苦難が自分のためにも忍ばれたと信じる者は、悔い改め、御子を信じて神に従う者となったのです。これが信仰の告白であり、洗礼であります。私たちは何をすればよいのでしょうか。自分の持ち物に少しも頼ることなく、この神の恵みによって救われることをひたすら信じ、神に心を傾けて祈ることであります。私たちにできること、それは自分の力により頼まず、天からの力を求めて祈ることです。

私たちの教会も東日本連合長老会の教会と共に、また同じ信仰を告白する教会と共に、自分たちの力ではなく、主の恵みの力によって立つことを信じ、ひたすら祈りましょう!

 

御在天の父なる神様

尊き御名を賛美します。私たちは今2018年の受難節の最初の礼拝を捧げました。ありがとうございます。不可能を可能にしてくださるあなたは、私たちの不幸を深く憐れみ、御子をお遣わしになって恵みの福音をお伝えくださいました。

私たちはあなたから遠く離れていましたが、あなたの計り知れない慈しみを示され、罪を悔いて御前に集うことが許され、すべてにわたって御子の正しさによって救われました。どうぞ、この喜びを多くの人々が知る者でありますように。今多くの人々が年を取り、多くの人々が自分の富に自分の能力に頼ることが出来ないことを実感しております。また若い世代の人々にも昔に無かったような時代の悩み、苦しみが押し寄せていることです。

どうかすべての必要な者を備えてくださる主に依り頼み、ただ多くの人々がこの恵みの救いに入れられますように、祈る者とならせてください。多くの方々が教会に来られなくなっていますが、あなたが生きるために無くてならない神の言葉で養い、導いてください。

今日も教会学校から、守られ祝福を受けていることを感謝します。ナオミ会の例会、教会学校教師会が開かれますが、それぞれの会をあなたの恵みの業としてお導きください。また、礼拝に集うすべての方々の上に、そのご家庭に、職場に、あなたの恵みが伴われますように。何よりもお病気の方々、生活の様々な困難に直面している方々に聖霊の助けがございますように。私たち、いつもあなたを仰ぎ、あなたに寄り頼み、絶えず祈る者とならせてください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。