キリストの御心に包まれた者

《賛美歌》

讃美歌Ⅱ-188番
讃美歌162番
讃美歌217番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 13章45-46節 (旧約聖書181ページ)

13:45 重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。
13:46 この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。

新約聖書:マルコによる福音書 1章40-45節 (新約聖書63ページ)

1:40 さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
1:41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
1:42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
1:43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
1:44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
1:45 しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

《説教》『キリストの御心に包まれた者』

本日は重い皮膚病を患っている人が主イエスの御許にやって来ました。この物語も主イエスによる病気の癒しです。奇跡物語、特に病気の癒しを読むときに注意することは、前回にもお話ししましたが、聖書が語ることの真意を信仰的に正しく読み取らなければなりません。

この物語を読むときも、先ず誰でも感じることは、主イエスがこの男の病気を癒したということへの驚きではないでしょうか。そして、多くの人々は、「このようなことはありえない、信じられない」と言って、この聖書を信じるのに値しない書物、と考えてしまいます。

実は、この出来事を受け容れられないということは、神の御業を信じていた当時のユダヤ人も同じでした。不思議な力を持つ人によって病気が治るということ自体は驚くべきことではなく、神秘的な神の力が「特別な者」に与えられていると思うことは、この時代珍しいことではありませんでした。医師と祈祷師の厳密な区別がない時代です。それにも拘らず、ユダヤ人たちは、この物語を「有り得ないこと」として、はっきりと否定したのでした。

それは、聖書がここに語ることが、治療困難な病気を「主イエスがまたも不思議な力によって治した」という単純な奇跡物語ではないということなのです。この出来事そのものが、神を信じ、神の戒めに従って生きる人々にとって、「有り得ないこと」であったのであり、当時のユダヤ人にとってこの物語は最初から信じられないことでした。

最初に「重い皮膚病を患っている人が来た」と記されていますが、当時のユダヤ人なら、先ずそれを疑うでしょう。事実、当時の生活を知る者にとって、これは異常な出来事であり、ユダヤ人社会を知らない者の作り話としか思えなかったのです。

聖書で「重い皮膚病」と表現されている病気は、当時最も恐れられている病気でした。これは、必ずしも現代のハンセン氏病と同じとは言えませんが、極めて悪性の皮膚病全体を指す言葉でした。この病気に関しては、聖書が詳しく語っていますので、当時の生活に如何に密着した問題であったかが分かります。詳しいことは省略しますが、レビ記13章と14章の全てがこの病気に関する規定であることには驚かされます。

乾燥した砂漠地帯のため、水が乏しく、狭い居住空間に大家族が住む非衛生的な社会では、悪性皮膚病の伝染力は極めて強く、一度かかったら殆ど治ることなく、隔離も厳しく守られていました。病気に罹った者は誰が見ても明らかに異常な姿をしなければなりませんでした。自分から「わたしは汚れた者です」と叫ばなければなりません。町に入ることも許されませんでした。また、道で誰かに会っても挨拶を交わすことも出来ず、人に2メートル以上近づいてもなりませんでした。ですから、重い皮膚病の病人が前を通った店では「食物を買う人もいなくなった」とさえ言われているのもうなずけるでしょう。

さらに悲惨なことは、重い皮膚病は「普通の病気とは違う」と考えられたことです。普通の病気は神の怒りによって負わされた肉体の苦しみとみなされたり、或いは悪霊によるものとされていました。しかし、社会から追放されることはありませんでした。聖書にも、集会を行っている主イエスのもとへ友人たちが天井を破って吊り降ろされた「中風の男」、偉大な治癒力を受けたいと背後から主の衣に触った「長血の女」が記されていますが、彼らはいずれも社会から弾き出されてはいませんでした。

それに対して「重い皮膚病」は、神の御前に出ることが許されない「汚れ」としてとらえられており、レビ記第14章は、この汚れから清められたことが確認される時の儀式を語っています。主イエスが44節で、この人に「行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」と言っておられるのは、この儀式を行いなさいということです。この人が清められたことを確認するのは祭司です。汚れているか清いかを判断するのは祭司の役目だからです。ですから逆にある人を汚れていると宣言するのも祭司の務めで、レビ記の13章は、祭司はどういう場合にその人を汚れていると宣言しなければならないかが定められています。そして、汚れていると判断された人はどうしなければならないかが、レビ記13章45節と46節に語られているのです。そこを読んでみます。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」とあります。汚れていると判定されたら、その人は自分の汚れが人にうつらないように、人に会うごとに「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらなければならないのです。そしてさらに、「その人は独りで宿営の外に住まなければならない」とあるように、一般の人々の共同体の中にいることができません。「病」ではなく、「汚れ」であるがゆえに共同体から出て、別に暮らさなければならないのです。これが病であれば、家族や仲間たちが看護し、治療がなされていきます。しかし汚れている者は、その汚れを人に移さないために、家族や仲間たちから切り離され、隔離されてしまうのです。そこに、汚れていると判定された人々の、病気とはまた別の、深い苦しみ悲しみがあったのです。

その惨めさは、かつては一族の長でありながら、発病と同時に町の外のゴミ捨て場の灰の中に放置されたヨブの姿を思い浮かべれば十分でしょう。このような状態になった者は、極言すればもはや人間とは見做されないのです。

日本においてハンセン氏病の患者たちは、まさにこれと同じように家族や社会から切り離され、療養所に隔離されて深い苦しみ悲しみを体験してきました。しかもこの病気の原因が分かり、特効薬が開発されて治る病となってからも長く国の隔離政策が続き、不当な苦しみを受けてきたことを私たちは忘れてはなりません。主イエスに清めていただくことを求めてやって来たこの人が抱えていたのと同じ苦しみ悲しみを、ハンセン氏病の患者の人々は味わってきたのです。しかしこの苦しみをハンセン氏病の人々のみの苦しみとしてしまうのは間違いです。病ではなく汚れであるがゆえに生じる苦しみ悲しみは、様々なかたちで私たちの身近な所にあるのです。

現代の私たちから見れば「ひとつの病気」に過ぎないものを、何故、これ程までに「神の御前における汚れ」として規定するのか理解に苦しむところもありますが、重要なことは、当時の人々が「そう見做した」ということです。それほど恐ろしかったということでしょう。このようなことを確認した上で、40節を改めて見てみると、この出来事が如何に驚くべきことであったかが分かります。

この男は来てはならないところへやって来たのです。近づいてはならない人々のところへ近づきました。守らなければならない「私は汚れている」という言葉を叫びませんでした。彼は全ての律法を破っているのです。公然と律法を破る者は石打ちの刑に処すると定められていました。死刑です。

ですから、この日の出来事は、まさに当時では「有り得ないこと」であり、「考えられないこと」でした。その「有り得ないこと」「考えられないこと」が現実に起こったということが、ここに告げられているのです。

41節に、「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われ」たとあります。

ここの「深く憐れむ」という言葉は、本来、「はらわたが揺り動かされる」という意味の言葉です。そこから発展して、身体全体を揺り動かされるほどの感動を表す言葉となりました。主イエスは、彼の苦しみ悲しみをはらわたがよじれるような深い憐れみをもって感じ取って下さり、そして彼を清くしようと思し召しになったのです。

「手を差し伸べてその人に触れた。」これこそ革命的なことでした。この主イエスの意志、断固たる御業、聖書はそれを語りたいのです。接触を禁じ、隔離を命じた古い律法を、主御自身、明確に否定されました。

律法は何故、隔離を命じたのでしょうか。触れれば「汚れる」からです。しかし、主が触れた時、重い皮膚病は清められました。それは、この時「汚れが去った」と考えるより、「主イエスの清さが移った」と考えるべきです。主イエス、キリストとの触れ合いは、主が持っているものを戴くことであり、主から頂いた「清さ」がおのずから罪の汚れを取り除いてしまうのです。

主イエスのご意志は44節にも示されています。主イエスは彼にこうおっしゃいました。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」。主イエスのご意志は、彼が祭司に体を見せ、清められたことを確認してもらい、レビ記14章に定められている儀式を経て人々に自分が清められたことを証明することでした。レビ記14章8節に、「清めの儀式を受けた者は、衣服を水洗いし、体の毛を全部そって身を洗うと、清くなる。この後、彼は宿営に戻ることができる」とあります。それまでは宿営の外で暮らさなければならなかったのが、宿営に戻り、家族や仲間たちと再び共に生きることができるようになるのです。もはや「わたしは汚れた者です」と呼ばわり、人々を避けて生きなくてもよくなり、通常の社会生活に復帰できるのです。主イエスは彼がそのように社会復帰することを望んでおられるのです。

彼の「清めの儀式」を通して社会復帰を主イエスが望まれたのは単なる日常生活への復帰ではありません。汚れた者は神の御前に出て礼拝をすることができなかっただけではなく、汚れた者が民の中にいると、その汚れが民全体に移って、神の民イスラエル全体が汚れて神を礼拝することができなくなると考えられていました。その汚れが清められたというのは、神の民の一員として神の御前に出て礼拝をすることができるようになった、ということです。ですから彼の社会復帰とは、礼拝への復帰です。神と共に生きる信仰生活への復帰です。主イエスはそのことをこそ望まれ実現して下さったのです。

更に、44節で主イエスが彼におっしゃったことがもう一つあります。それは「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」ということです。主イエスが彼を清くしたことを誰にも言うな、ただ祭司にだけ体を見せ、清くなったことを確認してもらいなさい、と主イエスはおっしゃったのです。しかも43節には「厳しく注意して」とあります。ですからこれは、「このことはあまり人に言ってはいけないよ」という程度の穏やかな話ではありません。また43節の前半には「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし」ともあります。あなたと一緒にいる所を人に見られたくないからすぐに立ち去れ、とおっしゃったのです。何だかずいぶん冷たい態度です。清めていただいたこの人は、主イエスについて行きたい、自分も弟子になりたい、と思ったかもしれません。しかし主イエスはそれをお許しにならなかったのです。それは何故でしょうか。45節以下に、彼は主イエスのもとを立ち去ると、「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」のです。主イエスが厳しく誰にも言うなとおっしゃったのに、「イエス様が私を清めて下さった」ということを彼は語らずにはいられなかったのです。その結果何が起ったか。「イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た」とあります。大勢の人々が主イエスのもとに押し寄せて来たのです。あまりに多くの人が群がって来るので、もう町に入ることができず、町の外の人のいない所に留まらざるを得なくなったのです。これらの人々が主イエスのもとに来たのは、病気の癒しや、悪霊からの解放や、汚れからの清めを求めてです。その人々の思いは、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」というのとは全く違うものです。病の癒しや清めの業が独り歩きして伝わっていくとこうなることを主イエスは見通しておられたのです。人々が癒しや清めのみを求めて殺到してくることは、主イエスの願っていたところではありませんでした。主イエスはあくまでも、神の国の福音を宣べ伝え、人々が悔い改めて福音を信じるために宣教を行い、その一環として病の癒しや清めの業をしようとしておられたのです。それゆえにあんなに厳しく、「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」とおっしゃったのです。

このことは、主イエスの十字架の死において、私たち全ての者にも与えられている恵みです。主イエス・キリストは、私たちと神様との間を隔て、私たちが神様の民として生きることを妨げている罪と汚れを全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。私たちの罪も、汚れも、それによる苦しみや悲しみも、十字架にかかって下さった主イエスが全て引き受けて下さったのです。この主イエスの恵みによって私たちは、神様の民とされ、こうして毎週神の御前に出て礼拝をささげ、神様と共に生きることができるのです。私たちの地上の歩みはなお罪と汚れの中にあります。自らの罪や汚れによって様々な苦しみや悲しみを味わうことがあります。また私たち自身が汚れた者を作り出したり、人をいじめ苦しめてしまうようなことも起ります。しかしそのような中で私たちは、私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスを信じて、主のみ前にひざまずき、「主よ、御心ならば、あなたは私を、私の罪と汚れから、そして苦しみや悲しみから、救って下さいます」と告白することができます。主イエス・キリストは私たちを深く憐れみ、み手を差し伸べて私たちに触れ、「清くなれ」と宣言して下さり、罪と汚れの苦しみ悲しみを取り除いて下さり、罪から解放して下さるのです。お祈りをいたします。

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あなたは地の塩、世の光

教会学校との合同礼拝

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌512番
讃美歌77番

《聖書箇所》

旧約聖書:レビ記 23章13節 (旧約聖書164ページ)

2:13 穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ。

新約聖書:マタイによる福音書 5章13~16節 (新約聖書6ページ)

5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。
5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。
5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

《説教》『あなたは地の塩、世の光』

今日は、教会学校の生徒さんとご一緒に新約聖書マタイによる福音書の「山上の説教」を読みます。このマタイによる福音書の5章から7章までの間にあるイエス様の語られた「山上の説教」とは、5章1節の「山に登られた」という書出しから名付けられました。この「山上の説教」に比べて短いのですが良く似た説教がルカ6章17節以下に記されています。こちらは、「イエスは……山から下りて、平らな所にお立ちになった」と書き始められているところから「山上の説教」と、はっきりと分けるために「平地の説教」とも呼ばれています。

今日の「山上の説教」は、イエス様を信じてついて来た12人の弟子たちに山の上で語られたもので、この福音書に書かれているイエス様による5つの説教の最初のものです。イエス様が神の御子であり、救い主としてのご自身を深く自覚して、宣教・伝道の先頭に立って語られたものです。

既にこの時、イエス様のお名前はユダヤの国中に広まっていて、多くの人々がイエス様の説教を聞きに集まっていました。イエス様がガリラヤ伝道を始められた時の説教は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4:17)でした。そして、この「山上の説教」では、既に天の御国に招き入れられた者たちに対して、その御国とは何であるかを説明されたのでした。

この「山上の説教」はまぎれもなく弟子たちと同じく私たちすべてのキリスト者に語られたものであり、第一にキリスト者の真の幸いとは何か、それは何処にあるのかが語られています。次いで、天の父なる神様を喜ばせるにはどうしなければならないかが語られているのです。

また私たちは、「山上の説教」のすべてが、イエス様ご自身を現わしていることをハッキリと知ることができます。また、それだけではなく、イエス様がモーセの権威をはるかに越える主権を持って、私たちを含めた新しい契約の民の心に、愛による本当の律法を刻み込んでくださっているのです。

この「山上の説教」で最も大切なことは、私たちがイエス様と本当に出会って、イエス様を知ることなのです。

聖書には、神様とは「光そのもの」であると書かれています(Ⅰヨハ1:5)。イエス様は、その「光そのもの」である神様を人々に示するために「世の光」として来られたのです。始めの5章13節と14節には、「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」とイエス様は言われました。ここで、イエス様は「あなたがたは地の塩である」と「あなたがたは世の光である」と断言しています。「どうして地の塩なのか」という説明も、「どんな世の光なのか」という解釈もまったくないままです。

この「地の塩」とは何でしょうか。私たちは人間社会で生きています。学校や会社など周りの沢山の人たちと共に暮らしているのです。そんな中で学校や会社などに対する不平・不満があります。余り好きでない人と一緒に仕事をしなければならない会社、古いしきたりを守っているとしか思えない教会などがあるでしょう。そんな私たちに話しかけるように、イエス様は、弟子たちはこの世において「地の塩」の役割を果しなさいと命じられているのです。塩は味付けはもとより、食べ物が腐ることを防ぎます。その腐敗防止の働きがなければ、塩の存在する意味がなくなり、世の人々からも顧みられなくなります。弟子たちはこの腐敗して腐ってしまう世の中でしっかりと防腐剤の働きをしなければならないとイエス様は教えられているのです。

私たちが不平・不満を周りにぶつけると、周りを腐らせてしまうでしょう。腐らせるのではなく、むしろ周りの人々に対して腐らない様に働く防腐剤としての塩となりなさいとイエス様は言われているのです。

また、「世の光」とは何でしょうか。続く15節と16節には、「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と、キリスト者が世に輝く光として振る舞いなさいと教えられているように聞こえますがそうでしょうか。例えば、牧師個人が教会で光り輝くのでは教会は教会でなくなるでしょう。そうではなく光である神様に照らされ、その光を反射して輝けとイエス様は仰っているのです。

弟子たち、私たちはキリストという光を反射して世界を照らす光となる(エフェ5:8、フィリ2:15‐16)のです。自分が光として輝くのではありません。光であるイエス様が周りを明るく照らす時に、弟子たち私たちは、そのイエス様の光を反射して世界を照らす光となるのです。弟子たちや私たちキリスト者に、イエス様は闇を照らすご自身の光を反射して光り輝けと言われているのです。そしてまた、どんな小さな光でも「家の中のものすべてを照らす」のです。小さな光、小さな私たちが明るくなれば、この世界で周りの人々を照らすことが出来るのです。光として表現されるイエス様の弟子たちの使命は、人々の注意を自分に引きつけることではありません。光である天の神様の光を反射して神様の存在を人々に明らかにして、人々が神様をあがめるようになるお手伝いをするのです。

そして、16節では「あなたがた」と複数を用い、世の光を単数で表してありますが、この「あなたがた」の複数は共同体である教会を現わしているのです。一人一人のキリスト者は、このように光にも譬えられていますが、今日の聖書箇所では共同体である教会全体が、「地の塩」であり「世の光」として神様に仕え、共同の伝道を果たすようにイエス様から命じられているのです。神様の召しである伝道を忘れてしまう教会は、自分自身の塩気をなくし何の役にも立たないものになってしまうと言われているのです。

これらのイエス様の言葉は、このマタイ福音書の最後の28章で、力強く宣言されたあの大宣教命令、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:18-20)を導く言葉と言えます。

教会が本当に世の光であるのは、キリストを宣教する時のみです。知識や学問ではありません。生きて生活する中にあって、キリストを告げ知らせることが大切なのです。

最後に新約聖書329ページ、コリントの信徒への手紙第二 4章5節をお読みします。「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです。」

私たち一人一人にとって、大切な人たち、身近な人たちに、この素晴らしい光であるイエス様を、この私たち自身の姿で伝えていく者とならせてください。

お祈りを致します。

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神の心

《賛美歌》

讃美歌Ⅱ-1番
讃美歌338番
讃美歌242番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 61章1節 (旧約聖書1,162ページ)

61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。

新約聖書:マルコによる福音書 1章29~39節 (新約聖書62ページ)

1:29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
1:30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
1:31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
1:32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
1:33 町中の人が、戸口に集まった。
1:34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
1:35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
1:36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、
1:37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
1:38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
1:39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

《説教》『神の心』

主イエスはガリラヤ湖で漁師をしていたシモンとその兄弟アンデレ、そして、ヤコブとヨハネの兄弟の四人に声をかけられ弟子とされ、ガリラヤ地方で伝道を始められました。その伝道の方法はユダヤ教の会堂・シナゴーグで安息日に説教されるというものでした。

主イエスは、このユダヤ人の会堂を新しい時代の開始を告げる場としてお選びになりました。限られた人々が定められた形式だけを守っている神殿ではなく、一週間の生活に疲れた人々が、新たな日々のために慰めと勇気を求めて集まって来る会堂、「そこにおいて主イエスが語り始められた」ということこそ、福音の開始に最も相応しいとマルコは告げています。

キリストの福音は、疲れた心、求める心に語りかけられます。御言葉を聞かずには新しい日々へ向って行くことが出来ない人々に、主イエスは語りかけられるのです。そして神が定められた安息日とは、この主イエス・キリストの御言葉による「新しい時」の始まりの中にこそ見ることが出来るのです。まことの安息とは、主イエス・キリストによって実現する「神の国」において与えられるからです。

この主イエスが公生涯の初めとして語られた言葉は1章15節にある「時は満ち、神の国は近づいた」であると、マルコは極めて簡潔に記しています。

安息日の会堂で悪霊に対し神の子としての権威を示された主イエスは、集会が終わると、本日の29節にあるように、シモンとアンデレの兄弟の家に行きました。主は何をするためにシモン・ペトロの家に行かれたのでしょうか。この時の状況を注意深く見ると、次のようなことが分かります。先ず第一に、イエスは「すぐに」ペトロの家に行きました。ペトロの家は会堂の「すぐそば」にあったのです。次に気がつくことは、私たちの聖書には書かれていませんが、原文の30節は「しかしながら」という意味の言葉で始まっています。そして31節の「もてなした」とは「奉仕する」という言葉で食事の準備をすることです。

これらのことから考えられることは、初めて会堂でイエスの説教を聴き、悪霊の追放という驚くべき御業に接したペトロが、集会後「主イエスを食事に招待した」ということです。本日の聖書の箇所は、「病人の癒し」が中心になっているように思われますが、ペトロは「姑の病を癒してください」と言って主イエスを招いたのではなく、また主イエスも「病気を癒すために」この家に行ったのでありませんでした。集会後の愛餐、それがこの時の目的でした。ところが家に入ってみると、思いもかけずペトロの妻の母が熱を出して寝込んでいたのです。主イエスを食事に招待したくらいですので、これはペトロにとっては予想していなかった突発的なことであったのでしょう。ですから、この奇跡はまさに偶発的な出来事でした。会堂における悪霊との戦いのように断固とした態度を示されたのでもなく、心を痛めて病人の家に行ったのでもありません。マルコによる福音書は、この出来事によって何を語ろうとしているのでしょうか。

この時、主イエスは集会を終えたばかりで、会堂で明らかにされたことは「イエスこそ安息日の主である」ということでした。「福音が語られ神の御子が働かれる時、新しい時代が始まった」ということが宣言されたのです。そして今、ペトロの家に入ったのは、未だ日没前であり、当然、安息日の最中です。ユダヤの一日は日没が区切りですので、安息日が終わるのは「日が沈む」32節です。そして律法によれば、病気の癒しは安息日には固く禁じられていました。ですからこの日の午後、ペトロの姑の癒しは、律法からは、「許されないこと」だったのです。マルコ福音書は、安息日の午後、思いがけない成り行きによって禁じられている業を行われた主イエスのお姿を記すことによって、古い律法に縛られない新しい時代の到来をここに告げ、イエス・キリストは会堂の主であるのみならず、会堂の外においても、安息日においても主であられるということを明らかにしているのです。その安息日の終る日没になると、32節「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は主イエスを知っていたからである。」とあります。ここに、「多くの悪霊が追い出された」と記されています。これがいったいどういうことなのか、この記事だけでは詳しくは分かりません。ここでは、単なる病の癒しではなく、私たちの理解を遥かに超える事柄が起こっているのです。

病気の癒しであるならば、現代医学は当時より遥かに進んでいます。ペトロの姑の発熱くらい、簡単に治るでしょう。そうすると、現代医学は主イエスの御業のある部分を肩代わりするということになるかもしれません。医学が進歩すればするだけ主イエスの御業は必要性を失い、やがては病気の治療に関して、医学のほうが「主イエスより遥かに多くの部分を受け持つ」ということになってしまうでしょう。もし、「病気の癒しそのもの」がこの物語の中心ならば、このような結論になってしまいます。さらにまた、この奇跡を誤解して、「祈れば病気も治るはずだ」と言う人もいます。または、「教会は何故病気を治せないのか」と非難する人さえいるかもしれません。しかし、もし「病気の癒しそのもの」が大切ならば、何故、主イエスは十字架で死なれたのでしょうか。何故、伝道開始以来僅か三年余りで死んでしまわれたのでしょうか。もっと何十年も長く生きて、多くの病人を癒したほうが遥かによかったのではないでしょうか。しかし、それは医者としてだけの主イエスの姿です。それは、決して救い主のお姿ではないでしょう。医学は、救い主・主イエスに取って代われるものではありません。医学の発展の前に信仰が不要になることも有り得ません。この奇跡物語を読み誤ってはいけません。私たちの驚きは、「病気が治った」という表面的な事柄にではく、主イエスの御業を通して聖書が告げようとしている事柄に目が向けられなければならないのです。

医学の発達していない当時の人々は病人を「悪霊に取り憑かれている」と信じていました。あらゆる思いを遥かに越え、自分自身ではどうすることも出来ない大きな力、人間を苦しめ傷つけ何時までも惨めさの中に閉じ込めるもの、それを人々は「悪霊」と呼んでいたのです。病気とは、この恐るべき悪霊に憑かれることから始まり、その力の下で苦しみ続けるというのが、避けることの出来ない人間の定めとして理解されて来ていました。ですから、病気の癒しは、何よりも「悪霊の追放」と結び付けられ、人間の力の及ばない事柄と考えられていたのです。そのことを知るならば、主イエスがここで何をなさろうとしているのかが明らになるでしよう。この物語の重要なところは、熱が去った・病気が治ったという現象的なことではなく、病人が人間としての正常な姿を取り戻したこと、「悪霊が追い出された」ということにあるのです。

病気は確かに恐ろしいものです。私たちの肉体を苦しめ、精神を傷つけ、死を招きます。しかしながら、キリスト者の生き方は病気による死によって終わるのではありません。その死の先にある希望を見なければなりません。イエス・キリストを救い主として信じる者にとって、人生の目標は父なる神の御国に召されることです。もし、眼に見えるこの世の生活が全てであるとするならば、確かに、その生活を奪い取る死は最も恐ろしい敵であると言えるでしょう。しかしキリスト者は、この世の生活を神の御国への旅路として見ており、死を越えて永遠の生命に生きることを信じているのです。その信仰を抱く者に「病気」は、一体、何をすることが出来るのでしよう。父なる神の御前に出るのに、「病気」が何の妨げになるのでしょうか。神の国に生きる者に「病気そのもの」は何の障害にもなりません。新約聖書18ページのマタイによる福音書10章28節には、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と記されています。「病気そのもの」を恐れる必要はないのです。病気の苦しみに付け込んで私たちの心を神様から引き離そうとする存在にこそ、眼を向けなければなりません。それが「悪霊」と呼ばれているものです。

悪霊を単なる「古代人の幼稚な迷信」と考えてはなりません。現代的に言えば、神様に逆らい、私たちを「神様から引き離そうとする力」のことです。私たちの魂の自由を束縛する全てのものと言うことも出来るでしょう。このような力が人々の心を惑わしている事実は、現代でも肉体の病気を治すことに熱中するあまり、魂の自由を平気で売り渡す人が如何に多いかを見れば明らかでしょう。そこに、肉体の苦しみを利用して魂を真実の神から引き離そうとする巨大な力の働きを見ることが出来ます。身体と魂とどちらが本当に大切なものかを、先程お読みしたマタイ10章28節の「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」との御言葉を思い返さなければなりません。

病気と信仰は全く別な問題と言ってよいでしょうか。肉体の健康は医者、魂の健康はキリスト、と完全に分離できるのでしょうか。「私はただ人の傷に包帯を巻くだけであり、あとは神が癒される」と言ったキリスト者の医師がいます。もちろん、この言葉は医者の働きについて謙虚に語っているのであり、医師としての最大の努力は尽くしたことでしょう。語っていることの意味は、治療という事柄の中にも神の御業が現されている、という告白です。医師は、知識と技術によって神の御業に仕えているのであり、最後の決定は「ただ神のみがなされる」というのが私たちの信仰です。肉体も魂も全ては神の御手の中にあると信じるのがキリスト者であり、その神の絶対の権威の下で全ての奇跡を見なければならないのです。

今日の、この奇蹟物語は、イエス・キリストが人間の魂に自由を与え、神の御許に行く道を開いて下さるという福音の宣言を、「病気の癒し」という出来事を通して語っているのです。

主イエスがなさった病人の癒しは、会堂で語られたことの「眼に見えるしるし」に過ぎなかったのです。それにも拘らず、人々は「しるし」の目的を見ることなく、たまたま行われた「眼に見えることがらのみ」を追い求めたのです。そしてその「しるしとしての奇跡」も、苦しむ者を見過ごしに出来ない「主の憐れみ」によるものであることに、誰も気付きませんでした。38節で「私は宣教するために来た」と主は言われました。その御心を思わず、主の憐れみのみを利用することを考える人間の心の貧しさが浮かび上がって来ます。

あなた方を罪から自由にすると言われる主イエスの御心を省みず、自分の要求だけを押し通す人間の醜さが、私たちに突き付けられているのです。

私たちは今、どのような主イエスのお姿を信仰の眼に映しているでしょうか。どのようなことを期待して主イエスを追い求めているのでしょうか。新約聖書362ページ、フィリピの信徒への手紙 1章21節でパウロはいっています、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」

罪という悪霊から解放された人間が、如何に大胆に勇気を持って生きることが出来るか、ということを、信仰の先達たちが多くの実例をもって示しています。

生死を御手の中に置かれるイエス・キリストが、全世界の主として私たちの前に立っておられるのです。主イエスが居られるところ、それが「神の国」です。父なる神の主権が御子キリストによって明らかにされているのです。

今日のマルコ1章29節以下の主イエスが行われた御業は、神の主権の所在と御子キリストの絶対の権威を強く宣言しているのです。主イエスとは何者かを語っているのです。

御子なる神のお姿に、神の義と愛とを正しく見る時、御子なる神のお姿に罪の惨めさと解放の喜びを知らされる時、その時こそ、主イエスに向って、「あなたこそ神の子キリストです」という正しい信仰告白がなされるのです。

その時、主イエスは、告白する私たちと共に、永遠に留まり続けてくださるのです。

この素晴らしいイエス・キリストの救いの御業を覚え、ただ感謝するだけでなく、お一人でも多くの方々に、この素晴らしさを伝えて行きたいものです。

お祈りを致しましょう。

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偽善と本当のこと

《賛美歌》

賛美歌7番
賛美歌24番
賛美歌280番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨナ書 4章1-11節

4:1 ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。
4:2 彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。
4:3 主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」
4:4 主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」
4:5 そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。
4:6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
4:7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。
4:8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
4:9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
4:10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
4:11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

新約聖書:マタイによる福音書 6章1-15節

◆施しをするときには
6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
◆祈るときには
6:5 「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:6 だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
6:7 また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。
6:8 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
6:9 だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
6:10 御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
6:11 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
6:12 わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
6:13 わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
6:14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
6:15 しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

《説教》『偽善と本当のこと』

わたしたちは幸せに生きたいと思います。幸せに生きたいと願っています。
ですが、今、私たち、幸せでしょうか。幸せですか?
誰もが幸せを願っています。でも、幸せって何でしょうか?
私たちが幸せを感じる時は、どんな時でしょう。
聖書は、どう考えているのでしょうか。聖書は、信仰、希望、愛が大切で、最後まで愛は残ると言っています。
幸せの根本は愛です。
愛が大切なのです。
とは言っても、愛ってなんなのでしょうか。
愛って、たとえば、自己愛という言葉があります。
それって、愛でしょうか。聖書が言う愛でしょうか。
それは違うでしょう。聖書が言う愛とは、対極なものです。
私たちが本当に求める愛も自己愛とは違うのではないでしょうか。
愛は自己愛を満たすことではありません。
けれども、私たちは愛されなければ、委縮し、いくら美辞麗句で、塗り固めても心は焼け焦げていくのではないでしょうか。ただ、その美辞麗句をいつのまにか求めてしまうということがあるかもしれません。
とは言っても、もし、いつもけなされたり、頭ごなしに言われたり、下僕に言うように言われたら、魂は焼け焦げて、涙すら枯れてしまうかもしれません。
そんな不幸なことってあるでしょうか。
愛って、何なのでしょうか。それを今日の聖書に聞きたいと思います。
そして、偽りではなく、愛を求めたいと思うのです。

今日の聖書は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」というイエス様のお言葉からはじまります。
これは、なるほどと思います。
ただ、善行、善い行いは大抵はだれかのためにすることです。ですから、人の前で行うことになるでしょう。
イエス様は、善い行いを人前でするなとおっしゃっているのでしょうか。
それは、違います。
イエス様は、「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。」とおっしゃっています。
「見てもらおうとして」というのが問題なのです。
でも、それはこれ見よがしにするなという意味でしょうか。確かにそうも言えます。ただ、それは人に「見てもらおうとして」善い行いをすれば、あざといので人にその意図がばれてしまうから、「見てもらおうとして」善い行いをするなということなのでしょうか。
それも違います。
そもそも、善い行いとはなんでしょうか。
イエス様は続けてこうおっしゃっています。
「さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。」と。
すると、善い行いとは「天の父」、神様から「報い」を受けるためにするのでしょうか。それは、「善いこと」をすれば、何か神様から善いことが来るからするのでしょうか。
日本には、「情けは人のために非ず」という言葉があります。
これは、人に情けをかけるのは、巡り巡って自分のためになるから、人のためでなはいという意味です。そう、自分のために善い行いをするのです。
でも、それって本当に善い行いでしょうか。情けでしょうか。自分のために情けをかけるのですから、それは、結局は単に自分の利益のためで、なんの善い行いでもなんでもないのではないでしょうか。
見てもらおうとして善い行いを行うこと、それは、自己愛を満たすだけのことにすぎないのです。
そうではなくて、見てもらおうとしないで、人前で善行を行うことは、それは愛の問題なのです。
人のため、相手のためを思ってすることです。善い行いには愛が伴うのです。
でも、それは一方的なものではありません。疲弊していきます。愛し合うことが大切なのです。
イエス様は、こうもおっしゃいました。
「だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」
これもなるほど、イエス様のおっしゃる通りだなと思いませんか。
これは、施しの話です。
善い行いの中で、具体的な話です。それをたとえで、こうしてはならないとおっしゃっています。
それは、「偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。」というお話です。
人にほめられようと会堂や街角で、ラッパを鳴らしてしていた人がいたんでしょう。でも、今だって、街角で歌を歌っている人はいます。そういう人たちがいけないといっているのでしょうか。
そんなことをイエス様はおっしゃっておられません。
そのラッパを鳴らすということは、宗教的な意味合いがあったのでしょう。ラッパを鳴らすことでいかにも神様に敬虔な人物であるかのように自分を見せていたのです。
そういう施しはしてはならないとイエス様はおっしゃっているのです。結局、自分のための自己愛のための施しだからです。

ところで、イエス様は、お生まれになったあと、どこに行ったでしょうか。その時の王、ヘロデ王は、ユダヤ人の王が生まれると聞いて、その子を探し出して殺そうとしました。イエス様の父ヨセフに天使のお告げがあって、ヨセフはイエス様と母マリアを連れて、エジプトに逃げました。
そこには、父ヨセフのイエス様に対する愛がありました。
ただ、ヨセフとマリアとイエス様の親子は、難民となったのです。当然、施しを受ける立場になったことでしょう。困窮を極めたはずです。人から舐められ、人からの上から目線での施しや、笑われて、さげすみ、善意と称する偽善にもあってきたはずです。身をもってイエス様はそれを体験していたはずです。
そこで、イエス様を支えたのは、神様からの愛と、お互いを愛する愛です。
イエス様は、ヘロデが死んで父ヨセフの故郷イスラエルのナザレに帰ってきました。
ところが、父ヨセフは、早くに亡くなってしまったようです。
イエス様には、母マリアと多くの兄弟姉妹がいました。
イエス様は長男でしたから、母マリアと兄弟姉妹たちを食べさせ、彼らが独り立ちし、母マリアも生活していける段取りをつけてから、伝道にでたのです。もちろん、十戒の「父と母を敬え」という律法があります。それを守ったということもあるでしょう。
でも、大切なのは、イエス様が家族を愛したことです。兄弟姉妹は少なくとも6人以上いたと考えられます。その兄弟姉妹を独り立ちさせるには、相当のご苦労があったはずです。さらに、母マリアがイエス様が伝道にいかれても、食べて行けるようにもなさったのです。どれほどのご苦労がおありだったのか。神の子イエス様が、本当にこの世界で人間として生活され、ご苦労され、律法を守られた、その背景には、イエス様がきちんと家族を愛した愛があったのです。そして、伝道にいかれたのです。神様から愛され、人を愛され、神様と、人とお互いに愛し合う愛がそこにあったのです。
ところで、施しについて、イエス様は、こうおっしゃっています。
「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
イエス様のおっしゃる通り、施しは人の目につかなくても出来ます。イエス様は、エジプトにいたとき、善意と称するさげすみの、あるいは自己満足な施しをうけたかもしれません。イエス様は、現実を知っておられるのです。
ただ、ここでも「隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」とおっしゃっています。
神様から、報いを受けるために施しをするのでしょうか。
イエス様は、今日の聖書の中で、「主の祈り」を私たちに教えてくださいます。そのお祈りのはじまりは「天におられるわたしたちの父よ、」です。
「父よ」と祈れとおっしゃいます。
たとえば、子供が何か出来たときに、「お父さん、見て見て」とくると思います。そしたら、お父さんは「すごいね。よくできたね。」と言うのではないでしょうか。
それはいけないことでしょうか。
そうではありません。
子供は純粋にお父さんにほめられたいと思っていると思います。それをほめるのは愛です。
「偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」とイエス様はおっしゃっていますが、「偽善者たちが人からほめられよう」とおっしゃっています。
偽善者たちは人からほめられるためにいかに自分が神様に敬虔であるかを見せようとします。それは善い行いでも施しでもなんでもありません。イエス様はこうもおっしゃいました。「はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。」
これは、何を指しているのか、少し、難解ですが、実は、とても単純で、イエス様のおっしゃるとおり、彼らは報いを受けているのです。
それは、自己愛を満足させることです。
善い行いも施しもすべて、自分の自己愛を満足させることです。そこには愛する対象はありません。すべて自分の利益のみです。なんとむなしくさみしい、魂が焼け焦がれる状態ではないでしょうか。
しかし、私たちにはそうなる誘惑がいつも転がっています。
人から美辞麗句を言われたい、善い人だと思われたい、あるいは敬虔な人だと思われたい、そうやって、偽善の罠が待ち構えているのです。
ただ、偽善には、もう一つあるのではないでしょうか。
自分を綺麗に、良く見せようとするほかに、綺麗なものは、すべて建前で、綺麗事だと考えることです。
一見、真実のようにも聞こえますが、果たしてそれが真実でしょうか。これも偽善なのではないでしょうか。
本当に、善い思いからしていることや敬虔さはかけらもないでしょうか。
イエス様は、施しについて、「あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」とおっしゃいました。
神様からの報いとは、子供がお父さんからほめられたいというの似ているのではないでしょうか。父なる神様が喜んでくださる、父なる神様にほめられたいと。
そして、神様を、あの人を愛するから助けるんだという思いもあるのではないでしょうか。それは善意です。

しかし、この当時の人々は、とくに律法を厳格に守り、敬虔さを売りにしていたファリサイ派や律法学者には、その愛を忘れて、自己愛を満たすことだけにすべてを費やしていったのではないでしょうか。

例えば、赤信号があります。
赤信号ではわたってはならない
それは法律です。
もしかしたら、無機質なものかもしれません。
秩序のためであることは確かです。
でも、赤信号は、人を殺さないためにある、人を傷つけないためにあると考えたら、全く違って読めるのではないでしょうか。人の命を守るためなんだって。それにだれも人を殺したくはないからです。
そういう意味で、愛の法律だって考えることも出来ます。
でも、ファリサイ派や律法学者たちは、律法を厳格に守り為にどんどん無機質になっていったのです。
律法は神様が制定されたものです。
無機質なわけがありません。
例えば、十戒の第1戒「あなたはわたしの他に、何者をも神としてはならない」第6戒
「あなたは、人を殺してはならない」
この二つも神様の「あなたはわたしの他に、何者をも神としないでほしい」「あなたは人を殺さないでほしい」という神様の思いが込められているのです。
それなら、大切なのは、無機質に厳格に守ることではなくて、神様の思いに応えること、受け取ること、それが神様の求めておられることなのです。神様は一方的なことをのぞんでおられるのではないのです。神様の思いが先にあって、それに私たち人間が応える、神様が私たち人間を愛してくださって、私たちも神様を愛する、それを神様は望んでおられるのです。
しかし、私たちは、神様を愛することも、人も愛することも出来ないでしょうか。
そう、イエス様が十字架につけられるまではできなかったのです。だから、イエス様は十字架につけられなければならなかったんです。
善い行いをしているつもりで、実は、人に見られるためにやっていたり、神様に対して敬虔であるように見せかけて、自己愛を満足させるためであったり、愛し合うということは一つもなかったのです。
そこに愛がなかったのです。だから、なんの罪もない神の子イエス様が私たちの代わりに罰を受け、十字架につけられ死なれたのです。そして、神様によってイエス様はその死から復活されました。
愛のない私たちの罪のために、イエス様は十字架につけられて、その死から復活されました。それは愛のない私たちの罪が赦されるためでした。そこに本当の愛があるのです。
ただ、それは、赦されたんだから、何をしても許されるということではありません。たとえば人を何人も殺したり、貶めたりしても、それを悔い改めなくても何をやってもいいなんてことにはならないんです。
むしろ、愛せない自分の罪が赦されたことを知った時、イエス様の十字架と、その死から復活が自分のためであったことを知ったとき、私たちは変えられていくのです。赦しには変化が伴うのです。
少しづつ神様を、人を愛することが出来るようになってくるのです。
神様に愛されて、神様を愛し、私たちは人間同士少しずつ愛し合うことが出来るようになるのです。
今日の聖書ある主の祈りのはじめは、「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけから始まりますが、「わたしたちの」と祈るのです。そこに私たち同士が愛し合うことも秘められているのです。
主の祈りは、愛の祈りです。
イエス様は、現実を知っておられます。
だから、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください。」というお祈りがあるのです。私たちの信仰や愛は、精神論ではないのです。
次に「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」というお祈りがあります。
これは難解です。
何をやられても赦すということを意味するでしょうか。
それは違います。
もし、家族が殺されようとしている、強姦されようとしている、それをすることを許すのでしょうか。それは違います。
殺しに来る相手とは、全力で命をかけて戦わないと勝てません。その時、自分が殺されるかもしれません、そうしなければその相手は止まらないかもしれません。強姦をしてくるあいてもそうです。
ですが、戦わなければ家族の愛は壊れます。
もとに戻ることはないでしょう。
赦しには変化が伴うのです。
悪いことをしても、反省もしない人がいます。でも、それは、既に報いを受けているんじゃないでしょうか。
私たち人間は、赦すことはできないかもしれません。でも、神様は、反省して悔い改めた人をお赦しになるでしょう。
ということは、反省も悔い改めもしないということ自体が裁き、報いになっているのです。
それに、私たちが思う負い目や過ちは、私たちの見る目でしかありません。例えば、私のお祖父さんでは、よく怒鳴る人でした。僕は怒鳴られたことはありませんでしたが、父はとても苦しみました。
一度、理不尽におばあさんに怒鳴っているのを見た私は、お祖父さんにやめろと怒鳴りました。すると聞こえないふりをしたのです。
私はその時、思いました。自分は怒鳴って他の人に嫌な思いをさせているのに、しかも弱いおばあちゃんに、なのに、自分が怒鳴られたら逃げるのかと。自分が嫌な思いを人にさせているのに、自分がやられるのは拒否するのかと。
今日の聖書の最後に書かれている「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」というイエス様のお言葉は、まさにそのことを指しているのではないかと。
確かに、私たちの目に移る負い目や過ちは自分の感覚でしかないかもしれない、でも、その自分の感覚で裁かれるのではないでしょうか。だから、偽善者たちはもう報いを受けているのです。自己愛を満足させるという報いを。
でも、その負い目、過ちを認めるなら、そのことで人を裁くのはやめにしよう、赦そうとなるんじゃないでしょうか。
人に怒鳴るなら、人から怒鳴られても赦そうと。
僕たちがしなければならないことは、神様を愛して、人を愛して、そして愛し合うことです。そして、本当の負い目をイエス様があの十字架で磔にしてくださった私たちの神様を人を愛せなかった自分です。
だから、今は、そのイエス様の十字架とその死からの復活を信じる時、少しづつでも神様を愛し、人を愛し、お互いを少しづつでも愛せるようになるのです。そのために全力で戦うのです。愛の戦いです。神様を愛し、人を愛し、お互いを愛し合うそれが本当の幸せです。だから、この一週間もそうしてすごしてまいりましょう。

黙れ、この人から出て行け

《賛美歌》

讃美歌332番
讃美歌191番
讃美歌243番

《聖書箇所》

旧約聖書:ヨブ記 4章7節 (旧約聖書779ページ)

4:7 考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ
正しい人が絶たれたことがあるかどうか。

新約聖書:マルコによる福音書 1章21~28節 (新約聖書62ページ)

1:21 一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。
1:22 人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
1:23 そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。
1:24 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
1:25 イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、
1:26 汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った。
1:27 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」
1:28 イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった。

《説教》『黙れ、この人から出て行け』

今日のマルコによる福音書1章21節に「一行はカファルナウムに着いた。主イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた」とあるように、マルコは安息日の会堂での主イエス・キリストのお姿から語り始めます。

ここにマルコの意図が明らかにされていると言えるでしょう。「主イエスこそ安息日の主であり、主イエスこそ会堂の中心である」ということです。

マルコは主イエス公生涯の初めの御言葉を「時は満ち、神の国は近づいた」と、極めて簡潔に記していました。「時は満ちた」と言われましたが、その「時」は何時から始まるのでしょうか。「神の国の実現」の宣言は何処で語られるのでしょうか。マルコはそのことを、ここで明らかに示すのです。

主イエスの時代、イスラエルの信仰形態には二つの型がありました。第一は、エルサレムの神殿における祭儀です。そこは、神への供え物として動物を献げる一般の人々は立ち入ることの出来ない場所であり、そこでなされるのは、祭司たちの祈りと音楽と御言葉の朗読でした。そこには、神殿を訪れた人々に語りかける御言葉の説き明かしなどは一切ありません。神殿での礼拝は祭司だけの儀式であり、民衆が参加するようなものではなく、民衆は祭司を媒介にして神に祈るだけでした。

第二は会堂いわゆるシナゴーグでの集会です。各地に設けられた会堂は、紀元前六世紀のバビロン捕囚の時代から始まったものです。主イエスの時代には、ユダヤのみならず、世界の何処であろうと、ユダヤ人10家族がいるところには、必ず造らなければなりませんでした。シナゴーグは、その地域の中心であり、祈りと御言葉の説き明かしの場でした。当時それを「礼拝」とは言いませんでしたが、実質的には、現在の私たちの教会での礼拝に極めて類似していました。会堂長が管理の責任を負い、律法学者たちが自由に御言葉を語ることが出来ました。毎週、安息日の午前中に集会が守られ、人々は律法とその説き明かしを聞くことによって、祖先アブラハムに告げられた神の約束を確信し、信仰の希望を強められました。生活が苦しければ苦しいほど安息日の会堂は豊かな慰めの場となり、地域活動の中心としての役割を果たしたので、神の民として生きるユダヤ人にとって最も身近で大切な「神の御心との触れ合いの場」であったと言えるでしょう。

主イエスは、このユダヤ人の会堂を新しい時代の始まりを告げる場としてお選びになったのです。限られた人々が定められた形式だけを守っている神殿ではなく、一週間の生活に疲れた人々が、新たな日々のために慰めと勇気を求めて集まって来る会堂、常に聖書の御言葉が語られ、御言葉を中心にして祈る人々の信仰が確かなものにされて行く会堂、「そこにおいて主イエスが語り始められた」ということこそ福音の始まりに最も相応しいとマルコは告げているのです。キリストの福音は、疲れた心、求める心に語りかけられます。

御言葉を聞かずには新しい日々へ向って行くことが出来ない人々に、主イエスは語りかけられるのです。

この主イエス・キリストの御言葉の中にこそ、安息日の真実の姿である「新しい時」の始まりを見ることが出来るのです。まことの安息とは、主イエス・キリストによって実現する「神の国」において与えられるからです。

マルコは私たちに「安息日の会堂」に眼を向けさせています。安息日とは何か、会堂とはどのような場であるべきなのかということ、それを問いかけているのです。

22節に「人々はその教えに非常に驚いた」とあるように、この日の会堂は人々の驚きで始まりました。この時、人々は主イエスのお話しになった何に驚いたのでしょうか。

しかし、マルコは、そしてルカも、この時の主イエスの説教について何も記さず、その内容は1章15節に「『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」とまとめられている以外何も分かりません。マルコは、人々の驚きの様子以外に主イエスの説教そのものを語りません。

安息日の会堂で行われていたのは、聖書の朗読であり律法学者たちによる説き明かしです。この時会堂で読まれていた聖書は旧約聖書でした。旧約聖書は人間の罪を指摘しています。罪を責める預言者たちの激しい言葉で満ちています。

預言者アモスは神の正義が人間に対し容赦なく迫ることを警告し、そして同時に預言者ホセアは、その罪にも拘らず、人間を見捨てられない神の愛を語っています。

このように御言葉の説き明かしを会堂で毎週聞いていた筈ですが、御言葉をあらゆることの中心に置いているユダヤの人々の心に、何の衝撃も驚きも感動も与えていなかったのです。人間の罪に対決する神の正義と愛が、何の感動も呼び起こさなくなった会堂での礼拝の虚しさが想像されます。このような礼拝は、ただ宗教的な言葉や表面的な解説の繰り返しに過ぎない、中身のない形式的なものでした。毎週の安息日は、形式的な礼拝によって宗教的な雰囲気を味わい、自己満足にふける程度のものでしかなかったと言えます。

御言葉は日々の生活のあり方や道徳を規定する世俗的な戒めになってしまっていました。

その中心に在るのは、もはや主なる神ではなく人間であると言わざるを得ません。日々の生活を支える言葉が適当に選び取られる場に過ぎなかったと言えるでしょう。律法学者たちは知恵と知識の全てを傾けて聖書を説き明かしたでしょうが、彼らが語る言葉は神の言葉ではなく、人間に仕える者としてのみ聞かれていたのです。

そしてそのことは、23節にあるように、この時会堂に「汚れた霊に取りつかれていた男がいて叫んだ」ことからも明らかです。この「汚れた霊」とは、聖書のいたるところに現れる「悪霊」と同じものです。

「汚れた霊」即ち「悪霊」を、古代の人々の迷信と軽んじてはいけません。当時の人々は、一切の悪の根源をなすものを人格化して「悪霊」と呼びました。聖書に出て来る「悪霊」とは、現代社会では精神病とか肉体の病気の一種とするでしょうが、大切なことは、「悪霊に取りつかれる」ということが人間の罪と結びつけて考えられていたことです。

旧約聖書のヨブ記4章7節にこのような場面があります。悪霊であるサタンの策略によって子供たちを含め、全てをの財産を失い、自分自身も悪性の皮膚病で苦しむヨブに対し、訪ねて来た友人エリファズはヨブにこう言うのです。「考えて見なさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれることがあるかどうか」とあります。

当時のユダヤ人は、人間が神に対して罪を犯すと、神が怒り、サタンの攻撃に対する神の守りがなくなると考えていました。その結果として「悪霊に憑かれて苦しむ」のであり、全ての人間の苦しみ悩みは、その人の神に対する罪の結果だということでした。

確かに、「悪霊」とか「汚れた霊」という表現は古代人のものです。しかし、人間全ての苦しみを、神への罪と結びつけて考えるというユダヤ人の倫理性は、大いに学ぶべきところがあるのではないでしょうか。

ですから、23節の「汚れた霊に取りつかれた男」とは、現代的な表現で言えば、「神を認めないで生きる者」のことである言ってよいでしょう。

律法は完全性と清潔さを常に重んじて来ました。それ故に、安息日の会堂には、神の怒りを受けていると見做された身体の不自由な者、重い病気にかかっている者、罪人として忌み嫌われている者などは、入ることは許されませんでした。その「安息日の会堂に、汚れた霊に取りつかれた男がいた」というのですから、誰の眼にも分かる肉体的障害や心の病いに苦しむ者でないことは明らかです。表面的には、ごく普通の人でした。従って、「汚れた霊に取りつかれていた男」とは、姿かたちや行いにおいてではなく、「心の中で神を認めない人間」とみることが最も適切であるでしょう。

本当に恐るべきことは、「心の中で神を認めない人間」が会堂の中にいても誰にも分からないということです。悪霊に支配されている人間が会堂にいたのです。

神を信じない人間、御言葉を聞こうとしない人間、御心に従おうとしない人間。このような者が「祈りの場」である会堂にいました。それに誰も気付かず、その男自身、そこに違和感を感じなかったというのです。

神に逆らう者がいても何も起こらない会堂。何の反響も起こさない説教。それが果たして真実の礼拝と言えるでしょうか。人間中心的な、またこの世の人々と妥協した「耳障りのよい御言葉の説き明かし」が如何に無意味で虚しいものであるかを、ここに見なければなりません。

主イエスの御言葉を聞いた時、その汚れた霊に取りつかれた男は沈黙していることが出来なくなりました。今までどおり、居心地よく会堂の椅子に座っていることが出来なくなったのです。

24節で、その男は「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」と叫びました。真実の福音とはそのような力を持つものです。罪からの解放を告げるだけでなく、人間を苦しめるサタンがそこにいたたまれなくなるような力を持っているのです。

彼はこの時主イエスを「神の聖者」と呼んでいます。皮肉なことに、この言葉は他の誰よりも主イエスを正しく見ていることを示しています。また、彼は「かまわないでくれ」と叫びました。この言葉は、正しくは「私と何の関係があるのだ」という意味です。主イエスを神の子・聖者と認めながら、キリストとの関係を拒否し無関係に生きようとしているのです。

神の御子を認めながら、神の御心を否定してしまう自分自身に気付かない上に、その会堂にいる誰もがそのことに気付かないのです。会堂の礼拝の場が、「汚れた霊に取り付かれた男」にとって、居心地のよい場所であったということに驚かなければなりません。

25節に、主イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになったとあります。どのような時でも神の御心に従わない者の存在を主イエスはお許しになりません。主イエスは「出て行け」と言われ、「ここにいるな」と命じられるのです。

主イエス・キリストが語られる時、福音が明かに告げられる時、それを聞く人間には「そこに集まる者」と「追い出される者」との二通りしか有り得ません。神に従うか、罪の中を歩み続けるのかの分かれ道です。

主イエス・キリストは、私たちに完全な服従、新しい生き方のみを求められます。古い自分を捨てきれない者を断固として追い出されるのです。

27節には、「人々は皆驚いて、論じ合った。」とあります。ここでもまた、「人々は皆、驚いた」と記されているのです。彼らは「主イエスが悪霊を追い出した」ということに驚いていますが、私たちは、「キリストが『私のために』悪霊を追い出してくださる」ということに驚きをもって感謝しなければならないのです。

主イエスの御言葉が何を指し示して語られているかを聞き取らなければなりません。全ての造られたものの主、創造主なる「私たちの力を遥かに超えた」御方が、私たちに何を語られているのかを聞き取らなければならないのです。

万能の力を持つ主なる神が、「取るに足りない一人の人間に向けて御業を明らかにされる」ということに驚かなければなりません。

あの時、カファルナウムの会堂で始まった主イエス・キリストの御業は、今もここに続けられています。

あの日のカファルナウムの会堂で主イエスが語られた御言葉が今も語られ、あの時叫ばれた御言葉が今もこの成宗教会の礼拝堂に響いており、あの日実現した正しい礼拝の回復が、今、私たちの教会を支えているのです。

福音の物語、即ち、私たちの救いの物語は、「礼拝を正したキリストの御業に始まる」というマルコによる福音書の核心を、心して聞くべきでしょう。

お祈りを致しましょう。

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