三位一体の神

聖書:エゼキエル書37章11-14節, ヨハネによる福音書16章7-15節

 キリスト教の信仰は、二千年の歴史を経て教会が受け継いで来たものです。私たちは教会の信仰、つまり、教会は何を信じて来たのか、ということを学んでいます。この学びが正しく誠実になされるならば、それは、必ず神をほめたたえる礼拝として、捧げられることになるからです。

わたしたちの教会は礼拝で使徒信条を告白しています。しかし同時にわたしたちは日本基督教団に所属する教会ですから、教団の信仰告白をも持っています。日本基督教団信仰告白は、1890年に日本基督教会が制定した信仰告白を土台にして、1954年に完成したものです。世界中には各国、各地域の教会が生み出した信仰告白があり、またこれからも各地域、各時代の教会の戦いの中で新しく生まれる可能性があります。

その一方、使徒信条のような基本信条は初代教会、また古代教会の信仰を伝えるもので、同じ信仰告白の下に、全世界に福音が宣べ伝えられ、主の体の教会が建てられるための土台であります。そのことは昔も今も変わりありません。日本基督教団の信仰告白も元を正せば、使徒信条の信仰の上に立てられている訳です。

さて、本日は「三位一体の神」という説教題を掲げました。この言葉は聖書の中に書かれている言葉ではありません。しかし、日本基督教団信仰告白には次のようにあります。「主イエス・キリストによりて啓示せられ、聖書において証しせらるる唯一の神は、父・子・聖霊なる、三位一体の神にていましたまふ」と。一(ひと)頃(ころ)、何かと信仰告白や聖書の文言を批判する考えが教会の内外で盛んな時期がありました。その批判は、ついに信仰告白にまで及び、「三位一体なんて言葉は聖書にはない」とか、「そんな言葉はもう古い」などと言われたことを思い出します。ところが、当時の小泉首相が三位一体の改革と銘打って、税制改革を打ち出すと、それは教会の言葉だということが社会に改めて認識されました。その後は三位一体に言いがかりをつける風潮は下火になって行ったことは不思議でした。

教会暦について少し申しますと、待降節、降誕節、受難節、復活節と教会暦は進みます。ペンテコステの後の主日は三位一体の日と呼ばれ、その後は、日本基督教団の教会では聖霊降臨節と呼んでいるようですが、これはいつからか、分かりません。しかし、世界中で用いられている「日々の聖句」では、教会暦は、三位一体後は待降節までずっと三位一体節という名称が用いられています。成宗教会では、少なくとも大石牧師の時代には、この三位一体節という名称を使っていました。そこで私もこの教会の伝統を踏襲して、そのまま三位一体という名称を残して参りましたのは、当時の教団の風潮に対するささやかな抵抗の気持ちでありました。

三位一体の神の信仰は、教会にとって真に要であり、土台となるものです。本日はエゼキエル書37章を読んでいただきました。預言者エゼキエルは、心頑なな信仰共同体の民に、神の言葉を語る召命を受けたのです。しかし、人々の頑なさは、神の言葉から遠ざかり、自らに不幸を招くばかりでありました。大きな者強い者から、小さな者弱い者に至るまで皆、神に背き、その結果は悲惨でした。国は破れ、能力ある者は神の僕となる代わりに、他国の民の奴隷となりました。そして美しい谷は戦場となり、死者の骨で埋め尽くされたのです。その時、エゼキエルは命令を受けました。預言せよと。しかし、心頑なな人々に預言せよ、というのではありません。神は言われます。「骨に預言せよ」と。

「骨は枯れた。望みは失せた。我らは滅びるばかりだ」という骨に向かって。エゼキエルは死に絶えた者に神の言葉を語りました。主の言葉。「わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」と。霊とは何でしょうか。それは息です。神の息です。創世記第二章に神は土から、塵に等しい人間を造られました。そして息を吹きかけられました。神の息によって、神の霊によって、人は生きるものとされたのです。

その時のように、今、再び人間が創造されます。罪に死んで、背きに背き、ついに枯れ果てた骨に神の言葉が語られる。人はみ言葉によって再び生きる者とされる。神の息が吹きかけられると人々は再び立ち上がる。再び礼拝の民が形成された。罪に枯れた人の復活。それはすべて、神の息、神の霊のなさる御業であります。

この神を証しするために、キリストは地上に降って来られました。「わたしを見た者は父を見たのだ」と御子は言われました。地上でキリストにお会いした弟子たちは、キリストを「先生」と呼び、「主よ」と呼び慕いました。「あなたはメシア、生ける神の子」と告白し、「あなたのためなら命を捨てます」と告白しました。皆、それほどキリストを愛していたのです。しかし、弟子たちは父なる神と御子キリストが一つであることを本当に理解してはいませんでした。

弟子たちは、キリストが父の御もとに行くと言われた時、悲しみで一杯になりました。その彼らを、キリストは慰めようとして言われた。それが今日の言葉です。7節「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」弟子たちはいつも目の前に主の御姿を見ていたいのは真に当然の気持ちでありました。しかし、キリストは何が本当に彼らの得になるかを教えておられます。御自身が弟子たちの傍を離れ、天の父の御許から神の聖霊を弟子たちに送ってくださる時、それは聖霊のあらゆる賜物を送ってくださることと同じなのですから。その恵みがわたしたちに伝達される時、それはキリストのお姿を見るよりもはるかに素晴らしく、望ましいことなのだ、と主イエスは力を尽くして語っておられます。

「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」と主は言われました。聖霊は、ただ個々人の弟子に来てくださって心に住んでくださるのではありません。聖霊を受けて弟子たちは、全世界にイエス・キリストの福音を宣べ伝えることになります。「世」と言われているのは、これから福音を聞く人々すべてを含む人々です。福音を聞いてすぐに悔い改める人々もいるでしょう。その人たちはどうして悔い改めたのでしょう。どうしてキリストを信じ、従うようになるのでしょうか。

それは、罪ということが分かるからです。特に他人の罪ではなく、自分の罪について分かるから、神の前に心が低くされるのです。罪とは何でしょうか。これを宣べ伝えるのは大変です。人々は罪について考えないからです。あるいは他人のことだと思っているからです。福音を宣べ伝えるにあたって、罪のことを告げるのは難しいことです。もし、律法について宣べ伝えるとしたら、その方がはるかに分かりやすいでしょう。もっとも、喜ばれるかどうかは別です。「あれをすれば救われる。」「これをすれば救われる」というのは、逆に言えば、「できなければ救われない」ということですから。わたしたちも子供の時からそういう教育は徹底して受けています。「良い子にしていないと○○はもらえないよ」とか、「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるよ」ということです。

しかし、福音を宣べ伝えるために、「聖霊は罪について世の人々の考えの間違いを正される」と主は言われました。では、罪とは何か。罪とは、キリストを信じないことです。キリストを見た者は神を見たのです。またキリストは、父の御心を常に言い表し、常に行ってくださいました。この方は罪人のために十字架にお掛かりになり、罪人の罪の贖いのために死んでくださいました。そのことは、世の人々には俄かに信じられないのです。なぜなら、世の人々には、「神とキリストが同じ心であるとしても、そんなはずはない」と思われるからです神さまはそんなにお人よしなはずはない」と思う。「神さまはそんなに優しいはずがない」と思う。そして更に、欲張りな人は、「神さまは狡い、自分ばかり何でも持っていて」と思い、冷酷な人は「神さまは冷酷なんだ」と思っている。そして「自分も何でも持ちたい、何でもできるようになりたい。神さまがしているように人を踏みにじっても、蹴倒しても・・・」と思うに至る人々も少なくないでしょう。

罪はキリストによって証しされた神を信じないこと。このことこそ、実に神の愛を踏みにじる罪なのです。罪の唯一の原因は不信仰であるとキリストは言われました。目の前にキリストを見ている弟子たちも、キリストの姿が見えなくなったときこそ、信仰が問われるのです。見ないで信じる者は幸いである、と主は言われました。そして、キリストは弟子たちを聖霊によって幸いな者にしてくださいました。彼らに聖霊が来てくださった時、聖霊は信仰の確信をもたらしてくださったからです。

また、聖霊が来られる時、義についての世の人々の誤りを正してくださるでしょう。人が第一に、人が自分の罪に心を動かされなかったら、決して神の正しさを求めて、飢え渇くことはないでしょう。何よりもまず、謙虚な思いにさせられなければ、福音のうちにいささかも成長を遂げることはできないからです。律法の目的は、人々に自分では正しいことができないことを思い知らせ、神の裁きに恐れ慄かせるものです。しかし、それに対して福音の目的は、私たちを罪ある者から正しい者へと変えることであり、死から救い出して命に導き入れることに他なりません。

私たちの正しさとは、律法を守ることによって達成される正しさではありません。それは、主イエス・キリストの恵みによって私たちに伝えられる正しさ、義であります。主は「わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」これは、ローマ4章25節の御言葉です。279上。復活された主は天の父の御許に昇ることによって、私たちの救いを成し遂げてくださるのです。エフェ4章10節に次のように書かれているからです。「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりもさらに高く昇られたのです。」356上。

讃美歌第二篇に「シャロンの花」という讃美歌があります。キリストをシャロンの花にたとえて主をほめたたえている讃美歌です。「シャロンの花、イエス君よ、わがうちに開き給え、善き香り麗しさを我に分かちあたえつつ・・・。また「二番にはわがことば行い皆、なれのごとくになるまで」と歌います。天に昇られたキリストが天の栄光の座にいらして、キリストの義の甘美な香りと快い匂いとをもって、全世界をかぐわしいものとする。この希望は天に昇られたキリストから遣わされる聖霊の賜物によって、教会が清められ、日ごとに成長させられることによって成し遂げられる恵みです。そして、13節を御覧ください。

「その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて審理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」聖霊もまた、神の御心を忠実に告げ知らせることが語られます。ですから、父も子も聖霊も三つの位格で表現された一人の神であり、全く同じ神として崇め礼拝されるべきなのです。

教会の歴史には、様々な誤った教えが現れました。聖霊の神についても聖霊が特定の人にだけ降るように解釈し、聖書を差し置いてその人の考えを尊重するように主張する考えも起こりました。教会は、近代、現代でも同じ試練を受けています。多くの学者や牧師などが、自分は聖霊によって独自の新しい考えを与えられたと考え、自分の考えは聖書の教えに優ると主張することがあるからです。

しかし、聖霊はイエス・キリストから切り離された賜物をもたらすことはございません。知恵と知識のすべての宝はキリストの中に隠されているのですが、それは十字架に付けられた形で見ることのできるキリストです。聖霊の導きによって教えられる時、弟子たちには満たされました。それは、彼らが聖霊から受けた知恵を人から人へと与えるためであり、使徒たちはその義務を果たしたのです。わたしたちの信仰の高さ、広さ、深さはキリストの中に顕わにされた神の愛がどのようなものか、知ることにあります。今日は特に聖霊の神についてお話ししましたが、5世紀の神学者、聖アウグスチヌスは語りました。「父、子、聖霊のどれかお一人がおられるところに三位一体なる唯一の神がおられることを信じるべきである」と。祈ります。

教会が受け継いで来た信仰

聖書:詩編33篇4-19節, コロサイの信徒への手紙1章15-20節

 今、多くの人が、買い物はネット通販を利用しています。忙しい人々も、時間はあるけれども買い物に出ることが難しい人も、ネット通販で物を手に入れることが出来ます。しかし、それで問題になっていることがあります。一つは今までのような商店街が成り立たなくなって行くこと。もう一つは配達業者が忙しすぎて苛酷な労働を強いられることです。

これは物流の話ですが、では心の問題はどうなのでしょうか。教会まで一人一人が足を運ぶ。みんなで集まって礼拝する。自分の声を出し、皆と合わせて、祈り、讃美する。自分の耳を傾けて聖書の言葉を聞き、その説き明かしを聞く。本当にわたしたちは当たり前だと思ってこれらのことをして参りました。

歴史的に見ても、戦争や、疫病や、政治的迫害、弾圧を別にすれば、そのようにして全身全霊を上げて、具体的に動かして礼拝するために教会に集う。それが当たり前のことだったのです。そして、共に集まることは、大きな喜びでありました。しかし、今ネット通販と同じようなことが起こっているのではないかと思います。本当に働いている人々は多忙を究めています。日曜日の、決まった時間に休みを取ることが難しい時代になりました。

また休みと言っても、文字通り倒れて寝ているだけ。そうしないと疲れが回復しないということもあるのでしょう。まだまだ他にも原因があるのだと思いますが、分かりません。

それに対して、これまで喜んで共に神様の前に出ていた人々が出来なくなる、その理由は大変良く分かるものです。とにかく高齢世代になると、病気やケガ、その他の支障が起こるからです。それで、礼拝に出かけることが困難になるのです。物を手に入れるためには、ネット通販がある。注文すれば、届けてもらうことが出来る。衣食住の問題はそれで何とかなるのでしょうが、しかし、私たちの命の糧の問題はどうなるのでしょうか。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」とは、旧約聖書申命記8章3節の言葉です。また、主イエスも、悪魔の誘惑に遭われたとき、この聖書の言葉によって戦ったのでした。

私たちが試練に遭うことについても、主はそれを通して命のパンに飢えることについて私たちに考えさせたいと思われているのでないでしょうか。すなわち、肉の糧を得る物流(それはもちろん大切なのですが)、それにもまして大切なもの、命の糧を得るためにはどうしたらよいか、考えなければならないのではないでしょうか。私がこの教会に参りました時に、最も努力したことの一つは、このことでした。すなわち、教会に来られない状況になっている方々に、どうしたら教会をお届けするか、ということでした。教会を届ける、と申しましたが、一体何をどうしたらよいのか、私には分からないまま、暗中模索の日々でした。ただ、聖霊の助けによって、一つだけが分かったことがあります。それは、教会に来られなくなった高齢の方、病気の方は、私が「教会から来ましたよ」と声を掛けると、嬉しそうに相好を崩されたことでした。

その時、私は使徒信条の告白を思いました。「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の甦り、永遠の命を信ず。」そうだ、私たちは教会を信じているのだと。そして私たちは、教会が受け継いで来た信仰を信じているのです。成宗教会は毎週、使徒信条を礼拝で告白しております。これは、プロテスタント教会とそれを生み出したローマカトリック教会でも告白されて来ました。このような信仰の内容は長い歴史の中で整えられてきたものです。私たちが今日取り上げましたコロサイ人への手紙の中に、使徒信条の信仰の内容の一部が語られています。

読んでみると一見、とても難しいことをバーンと言われたような印象です。しかし、神について、信仰について考えること、そして「私たちはこう信じます」と告白することは、実は大きな、そして真剣な戦いの中から生まれて来たのです。そして、私たち自身もいつ倒れるかもしれない、いつ礼拝を守れなくなるかもしれない、という危機感の中で、このことを考えることの大切さを発見するわけです。なぜなら、教会とは何か。神とはどなたか、という問いの答を見い出さないでは、私たちの救いはどこにあるのだろうか?ということになってしまうからです。

コロサイ人への手紙は使徒パウロによって書かれました。この教会があった場所はフリギアという地方で、今のトルコの内陸です。コロサイの町はラオデキア、ヒエラポリスというこの地方都市と共に、ローマ皇帝ネロの時代に襲った地震のために破壊されたということが5世紀の歴史家によって伝えられています。つまり、パウロがこの手紙を書いてから何年も経たないうちに大災害が起こったことになります。その頃、パウロが手紙を書いてコロサイ人を教えようとした背景には、災害とは別の大変大きな危機感があったのだと思われます。この地方には人々を伝えられていた福音から外れさせようとする力が働いていました。しかし、それは何も暴力的な力ではないのです。

私たちは「暴力でなければ大丈夫だ、平和だ」と思ってしまいがちですが、実は人を唆し、救いから遠ざけるものは、暴力とは限りません。それは、主イエスが福音を宣べ伝える前に荒れ野に行かれ、そこで受けたサタンの誘惑を考えても納得するでしょう。(マタイ、ルカ、共に4章)コロサイ教会の人々を逸脱させようとしたものは、哲学者たちが論じる星、運命、その他さまざまの空想でした。また、そういう興味を引く話の一方、教会にいるユダヤ人たちは儀式的なことにこだわりました。ああでなければならない、こうでなければならないという主張が、次第に律法主義的になって行ったのです。その上、この時代盛んに論じられていたのは、何と天使の階級論でありました。見たこともない天使についてあらゆる空想を加えた結果、その人々は天使をランク付けし、天使を神と人との仲介者として立てて、天使によって神の御前に近づこうと企てたのです。

それに対してパウロは真っ向から否定します。彼の主張は、あらゆるものはキリストに在り、コロサイ人にとってはキリストのみで十分であり、それどころか十分以上であるべきだということでした。まず15節。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」とパウロは述べます。これは、ヨハネによる福音書の主張でもあります。ヨハネ1:18「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(163下)すなわち、神が我々にご自分を表されたのは、ただ、キリストによってのみなのだとパウロは言いました。

また、15節では、神の姿と言われていますが、それでは、神がキリストの人間としての姿をもっておられるということではありません。キリストのお姿は、あくまでも私たち人間、限りある人間の目に認識できるように現れてくださったお姿なのです。つまり、私たちが理解できるように、そうして下さったということなのです。そして神が私たちにご自分を表されたのは、ただキリストによってのみであったのですから、その他の姿形によって神を求めることがあってはならないのです。もし、キリストを抜きにして、神を表そうとするものがあるとしたら、それはすべて偶像に他ならないでしょう。

また、キリストは「すべてのものが造られる前に生まれた方」と主張されています。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。万物は神の言葉によって造られたのですから。キリストはまた、死人の中から最初に生まれた者と呼ばれています。なぜなら、私たちもキリストによってのみ、復活の希望があるからです。すべての被造物はキリストによって造られたということは、キリストが万物の基礎であるということですから。

「天にあるものも地にある者も、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」天は、神の居ますところを表しますが、また天使の存在するところをも表します。人々は天使の階級という複雑な空想を造り上げ、人間と神との間の仲介者と考えようとしました。その考え方は結果的にキリストの権威を弱めることになったのです。これに対して、パウロは、天使は体を持たないが、被造物であり、天使の持つ主権も支配も権威も含めて、すべてのものが御子において造られた、と主張しました。

天使がキリストによって造られたその目的は、キリストに仕えるためであります。キリストは天使をその力によって支えておられるのだと。

次にパウロはキリストと教会との関係を教えています。「また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めのもの、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一のものとなられたのです。」キリストは、人間の体に対して頭に例えられています。なぜなら、人間の体において、頭は、そこから生命力が他のあらゆる部分に流れる司令塔ですから。それと同じように、教会の生命はキリストから生じるからです。しかし、ここでは、主として支配について語っています。キリストは教会を支配する権威を持った唯一の存在です。そうであるならば、信徒はキリストにのみ注意を払わなければならないのは当然ではないでしょうか。なぜなら、キリストはこの栄誉を受けておられる通りに、その職務を真実に遂行なさる方に他ならないからです。

キリストは創造の初めに神と共におられた方であり、甦ることによって神の国を始められたので、初めのものと呼ばれます。私たちは、キリストと共に十字架に死んで、キリストの死と結ばれたように、キリストの命に結ばれて再び生きるものとされる約束をいただきました。そして、新しい命の希望に生き始めているのです。キリストは「復活の初穂」(Ⅰコリント15:20)と呼ばれています。その結果キリストは、御自分の体である教会にも生命を取り戻してくださったのです。19-20節。

「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」「満ちあふれるもの」とは、「あらゆる完全」と訳されることが出来ます。父の御心は、あらゆる完全がキリストに宿ることであったからです。キリストの完全とは何でしょうか。宗教改革者は述べています。それは、「全き義、知恵、力、あらゆる種類の恵みである」と。では、私たちの救いのために何が必要でしょうか。私たちは真剣に考え、真剣に願わなければなりません。そして、私たちが望むすべての善きことを、キリストの完全から引き出さなければならないでしょう。

言い換えれば、「キリストは私たちにとってすべてである。キリストなしには、私たちは何も持たない」ということですこれが私たちが代々の教会から受け継いで来た信仰です。だから、反対のことを考えてみるならば、神から離れること以上に、悲惨なことは在りません。また私たちは、この称賛をキリスト以外の人間に移すことはできない。ましてや、人を神に近づける仲裁者として天使などを考えることも、救いから遠ざかる悲惨につながるのです。

キリストの血は十字架において流されました。それは、私たちと神との和解のしるしです。私たちが神に義しい者とされるために、御子は償いの生贄となり、罪の罰に耐えなければならなかったからです。私たちは平和な時代を生きている間も、教会が受け継いで来た信仰を告白し、礼拝に連なることが出来ました。パウロが大きな危機感を持って書いた手紙、その中に記されたキリストをほめたたえる信仰は、今日にまで続いているのです。この手紙を受け取ったコロサイ人の町はまもなく破壊されました。人々は悲惨な時代を生き抜いたでしょうか。生き抜いた信仰者がいたからこそ、この手紙が残され、聖書正典の中に入れられたのではないでしょうか。

私たちも困難な時代を生きなければなりません。ただいつの時代の教会にも目標があります。時が良くても悪くても、福音を宣べ伝え、福音を生きることです。それは、「礼拝を守れなくなる時まで」ではありません。むしろ、礼拝を守れなくなっている人々の信仰生活のために祈り合うことこそ目標です。祈りによってキリストにを通して神と交わり、祈りによってキリストに通して人々と交わり、これを地上にある限り続けることです。なぜなら、この私たちのために主は地上にいらして労苦の限りを尽くされ、私たちを教会に呼び集めてくださいました。私たちはその愛を思い起こしているからです。だからこそ、キリストの完全の中に、私たちはすべてを期待しましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神様

御名をほめたたえます。使徒信条の中に表された教会の信仰を感謝します。私たちはあなたの御心を知らないままに唱えていることが多いのですが、改めてキリストによって示されたあなたの計り知れない御心を思うことが出来ました。どうか愚かなもの、貧しいものの罪を赦し、ただキリストのみを救い主と信じる信仰の計り知れない恵みを悟らせてください。教会に来られなくなった方々を訪ねて互いに喜んだ過去の交わりを今、思い起こします。今、私たちの多くが年を取りましたが、どうかこの恵みのうちに歩むために、あなたの豊かな知恵と力をお与え下さい。

また、若い人々のためにも祈ります。激しく変化する社会にあって、昔の知恵の思い及ばない世界を生きて苦闘している

人々のために、どうかあなたが必要なすべてを備えてくださいますように。一切をあなたに委ねて、教会が祈りをもって世に送り出すことが出来ますように。また高齢の世代にもなすべきことが沢山あることを教えてください。御言葉をもって、知恵をもって励ますために、聖霊の神様、弱い者にも、病気の者にも勇気と愛とを増し加えてください。私たちが御国へと続く道を指し示す者でありますように。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2018年1月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。並木邦夫先生のお話(これは12月10日の礼拝で話されたものです。)

並木邦夫先生のお話

(これは12月10日の礼拝で話されたものです。)

聖書:マタイ福音書1章18-25節

「クリスマスプレゼント」

並木 邦夫

 今日はアドヴェント第2週となりました。アドヴェントの期間はクリスマス前の4週間で、クリスマスを迎える準備期間です。このクランツにもあるように1本ずつローソクを灯してゆき、4本目がともると丁度クリスマスの日になります。元々はラテン語のAdventusという

「来るべき」という言葉が語源のようですが、「重要な人や物が現れる」という意味があります。そこで、今日はその準備期間ということで、一緒にマタイの1章18節を学びましょう。

イエス様の生まれる時の様子が書いてあります。マリアとヨセフと結婚することになっていました。ところが、結婚する前に聖霊によってマリアは身ごもっている、子供を宿していることが判りました。聖霊というのは、神さまご自身の力や働きかけのことですから、まさに神さまのお子様ということになります。ヨセフは自分の子供ではないことが判っていたので、とても悩みました。その頃は、結婚前に他の人の子供ができたりすると石で打ち殺してしまうような事が行われていました。なんとかマリアを助けようと考えていました。マリアと縁を切ろうとも考えていました。すると、夢の中に天使が現れて「恐れずにマリアと結婚しなさい。聖霊によって宿った子を産んで、イエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからです。」と言いました。ヨセフはずっと悩んでいましたが、この天使の言葉を聞いて、マリアと結婚し、この子供を自分の子として育てることに決めました。

ヨセフさんにとってはとても大きなプレゼントでした。それは、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」という神さまの言葉を信じる心でした。夢から覚めると天使が命じたとおりマリアを迎え入れた、と書いてありますが、このことが起こってからずっと考え、悩んでいたので、この神さまの言葉を信じることができたのでした。また、同じようにマリアについてもイエス様の誕生が予告された時の話がルカによる福音書に書いてあります(1章26-38)。ここでは天使ガブリエルが現れて、マリアに「あなたは身ごもって、男の子を産むが、その子をイエスと名づけなさい。」と言われました。マリアは驚いて「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と答えました。それでも天使の説明を聞くと「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。」と言いました。 神さまの言葉をそのまま受け入れ、従いますと言ったのです。このように神さまはヨセフにもマリアにも信じる心をプレゼントして下さいました。

それでは、クリスマスに神さまはわたしたちに何をプレゼントして下さったでしょうか。それは神さまのひとり子、イエス様を世に送って下さったことです。神さまはどんな姿や格好をしているか皆さんは判りませんね。でも神さまはイエス様を人の形で誕生させて下さいました。そして私たち人間が経験すること、苦しんだり、そして死んでいくことを、身をもってお示しになり、わたしたちを最後まで愛して下さいました。人であり、神さまであるイエス様はインマニエル「神は我々と共におられる。」という名前をもっていますが、本当にその通りにわたしたちと共に生きて下さいました。そしてわたしたちの罪を背負って十字架に掛って下さいました。

ヨセフさんもマリアさんも神さまの言葉をそのまま受け入れ、イエス様の両親となることを決心しました。神さまから言葉を頂いても、それをそのまま受け入れられる心がないとがわたしたちには届きません。わたしたちも、神さまのプレゼント、言葉をそのまま受け入れられるようになりたいと思います。

1月の御言葉

ヨハネによる福音書20章29節「イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」

1月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。

◎ お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

1月7日 (日)    ヨハネ20:24-29     お話の担当…  並木せつ子

14日(日)  ガラテヤ3:11-14            並木せつ子

21日(日)  フィリピ2:6-8           勝田令子

28日(日)  ヨブ19:25-27           興津晴枝

成宗教会学校からお知らせ・・・お祈りと報告

  • 新しい年2018年が始まりました!この年が皆さんにとって恵みの年となりますように。全地の造り主なる神様、私たちを世に生まれさせてくださった神様がご自身の目的を示してくださり、平和な世界を実現するために私たちを用いてくださいますように。
  • イエス様の知恵、神様の知恵を教会学校で学んでください!イエス・キリストを通して、今年も恵み深い神様を信頼する一年となりますように。
  • 12月24日(日)教会学校のクリスマス礼拝・・・精勤賞の表彰を受けたのは、伊藤航太君、松井初樹君、川畑舞佳さん、中村里桜さん、松井克樹君、川畑明日佳ちゃんです。おめでとうございます!
  • 12月24日(日)クリスマスイヴ礼拝・・・キャンドル点火の天使役を矢田部聡音さん(小5)と川畑舞佳さん(小3)が今年も務めました。また聖書朗読は中3の岡本秘露美さん、中2の関真奈香さん、中1の金井一史君、小5の矢田部聡音さん、小4の伊藤航太君が務めました。皆さん立派に大役を果たしました。

教会に集められた人々

聖書:ヨエル3章1-5節, 使徒言行録2章37-42節

 私たちの教会は只今、カテキズムによって教会が受け継いで来た信仰について学んでいます。カテキズムとは信仰問答とも訳されて来ましたが、必ずしも問と答えという形式をとるものではなかったようです。カテキズムという言葉の語源はカテケーシスという「響き合う」、「再び響かせる」という意味です。古代教会の時代から、洗礼志願者が洗礼を受け、聖餐に与るために、教会が伝えて来た信仰の言葉をくり返し学ぶことが熱心に行われて来ました。私たちはキリストの福音を宣べ伝えるために、共にキリストの救いの秘儀と信仰を伝え、共に救いに招かれていることを、繰り返し心に響き合いたいと思います。

さて、先週の新年礼拝では、「幸いな人」と題して、イエス・キリストの教えの一つ、山上の説教について学びました。主イエスは私たちに何を教えてくださったのでしょうか。それはこの世のことに忙殺され、目をくらまされ、この世の幸福と不幸を押しつけられて生きている人々には、――そして私たちもその中で苦しむことがしばしば、なのですが――驚くばかりの、そして信じがたい教えでありました。なぜなら、私たちを圧倒している価値観は、「豊かな人は幸いであり、喜んでいる人は幸いであり、あらゆる能力を発揮して人々を支配する人は幸いである」というものだからです。そしてそのような幸いを追い求める結果、身近なところから、全世界の隅々まで、不幸の種は尽きず、戦争の火種はつきません。

だから、それを見れば分かるのではないでしょうか。私たちの世界で通用している価値観がどれだけ間違っているかが。そして主イエスが教えられたことが、どんなに私たちにはそうは思えなくても、真に正しいのだと。キリストは神の御心を私たちに教えておられるのだと。神の御心は、私たちを御自身の国に招くことであると。神から遠く離れていた私たちを御自身の救いに招くことであると。神に造られた私たちであるのに、造り主を知らない私たち。人間は神に似る者として造られました。神の似姿に造られたのです。それなのに、神から離れ、神に背を向けて生きている人間は皆、罪人であります。

その人間を罪から解放するために、救い主は世に遣わされました。この方の贖いによって私たちの罪が赦されるためです。このようにまでして、罪人を愛しておられる神がおられる。キリストはこのことを知らせてくださいました。この愛の神を信じることが、どんなに幸いなことであるか。この神を、この愛を信じきって、神にすべてを委ね切って、神に従う人だけが、本当に幸いな人なのです。その人はだれでしょうか。それは主イエス御自身ではないでしょうか。主は本当に神の御心をご存じでした。主こそは本当に神を愛し、人を愛して愛し抜かれた方でした。

さて、今日の聖書は主イエスの弟子、ペトロが語った説教です。これはペンテコステの日、すなわち聖霊が弟子たちの上に降った日の説教です。主イエスは山上の説教をはじめ、たくさんの教えを下さり、その教えが真実であることを奇跡の御業で示してくださいました。しかし、弟子のうち、だれ一人として最後まで主イエスに従い切った人はいなかったのでした。皆、十字架に付けられた主から逃げ去ってしまいました。このことは、人間の力では、だれも主に従うことが出来なかったことを表しています。

しかし、十字架に死に三日目に甦った主イエスは、弟子たちを愛して、彼らに御自身を現してくださったのでした。では、弟子たちが本当に主イエスを神の子と、救い主と信じる者、本当に従う者となったのは、いつでしょうか。それは、ペンテコステの日、すなわち、聖霊が弟子たちの上に降った時だったのです。

人々はその時、弟子たちが言葉の壁を超えて神の偉大な業をほめたたえるのを聞きました。その時ペトロは立ち上がって旧約の預言書ヨエルの言葉を語り始めます。預言の言葉が実現したのだと。今日読んでいただいたヨエル3章1-5節です。「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。天と地に、しるしを示す。それは、血と火と煙の柱である。主の日、大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。主が言われたように、シオンの山、エルサレムには逃れ場があり、主が呼ばれる残りの者はそこにいる。」1425頁。

聖霊の奇跡の御業は、言語の壁を乗り越えることばかりではありませんでした。聖霊は頑なな人々の心を打ち砕いて、ペトロの教えに耳を傾けさせたのです。だからこそ「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言ったのです。これこそ、悔い改めの始まりでした。なぜなら、ペトロが「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方です」と宣言し、「あなたがたは、この方を十字架に付けて殺してしまった」と追及したからです。しかし最後に、「神はあなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」と証ししました。聞いていた人々は、自らの間違い、不幸に胸を突き刺されました。そして彼らは神への恐れに満たされたのです。それは、悔い改めの始まりであり、聞いていた人々に福音が訪れた瞬間でした。

ペトロは言います。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と。悔い改めとは、何よりも人が心において新たにされることです。ローマ12章2節「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかを弁えるようになりなさい。」291下。主に教えられ、主に従って、今までとは全く別人のように心新たにされたい人を、神は決して拒まれません。主イエスはまた、「門をたたきなさい、そうすれば、開かれる」(ルカ11章9節)と約束しておられます。

人々の言葉「わたしたちはどうしたらよいのですか」は、直ちに神に服従する彼らの志を意味します。一方では、聖霊が教えるものに神のご意志を与え、他方では聞く者に悔い改めを起こしてくださる。どちらにも聖霊の御業が働いているのです。福音の訪れの第一歩は、ペトロが人々に自らの罪に思い至らせ悔い改めを促したことです。しかし、それと同時にペトロは人々に罪の赦しの確信を与えました。罪を知らされただけでは救われる希望はありません。ですから罪の赦しがキリストによって備えられていると、ペトロは語りました。それによって伝道者は罪人を正しい道に立ち帰らせることが出来たのです。

ですから、悔い改めと赦しは、主イエス・キリストの名によって宣べ伝えられなければなりません。私たちのために死んでくださったキリストの死に、私たちも結ばれなければ、私たちは神と和解することが出来ない。すなわち、キリストの復活の命に結ばれることはできません。このことが教えられ、受け入れられる時、信じる者には、バプテスマを受けることが勧められます。バプテスマは救いの恵みを約束する保証であります。

そうすれば、賜物として聖霊を受けると、人々は教えられました。聖霊の恵みはイエス・キリストが天に在って父と共に私たちに与えられる賜物です。聖霊によって、私たちは心に信じていることを真心から告白することが出来るのです。聖霊によって私たちに賜物が与えられます。また聖霊によって私たちはサタンとこの世の誘惑や脅しに対して立ち向かうことが出来、勝利することが出来るのです。

このようにわたしたちは溢れるばかりの救いの恵みを受けるのですから、家族、友人、社会のあらゆる人々が、主イエスの福音を聞くことが出来るように、悔い改めに至り、罪の赦しの確信を得て、キリストを救い主と信じて、神に従う者としてバプテスマを受けることが出来るように、日々祈りを篤くしようではありませんか。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子どもにも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と宣言されているからです。

ペトロは、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めました。この勧めも、私たちはしっかりと心に留めなければなりません。神の愛を信じる者の一番の困難は、キリストに敵対する人々、また神に背いている者が絶えず仕掛けて来る有形無形の攻撃なのです。ペトロはこういう危険から離れることを命じました。私たちにも警戒が必要です。私たちが世に在って生きることは、邪悪な人々に従うか、それとも、善良な人々と共に神に従うか、という選択をしながら生きることなのですから。

ペンテコステの日、ペトロの初めての教えを受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わったということです。ここに聖霊の御支配により教会が始まりました。福音はイエス・キリストによる恵みの救いです。この主の死につながれ、主の命に結ばれ、主イエスが例えられたように、真のぶどうの木に接ぎ木された人々が教会であります。教会と訳されたギリシャ語エクレシアとは、元々は呼び集められた人々、のことでありました。招集された議会のことです。

それでは最初の教会、キリストに呼び集められた人々は何をしたでしょうか。そのことが、2章42節に書かれています。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」最初の教会は、自分たちの信仰を確かなものにするために役立つことを絶えず熱心に努力することでありました。説教者の教えを聞きました。なぜなら、教会の魂がここにあるからです。神の御子が使徒たちを通して与えてくださった教えがあるからです。人々は教えを聞いて自分たちの生活に役立たせることに努めました。

次に信徒同士熱心に交わりをし、共にパンを裂いたとあります。パンを裂いたのは、一緒に食事をしたということよりもむしろ、聖餐式を執り行って主の体の教会を建てていることを意味します。信徒同士の交わりは、教えを聞いている結果、起こっていることです。共に集まっているところに、キリストを通して祈りの扉が開かれるのです。ここでは当然のことながら、共通の信仰の告白も整えられて行ったことでしょう。最初の告白は、「イエスは主である」という短いものであったそうです。それを皆で唱える。そして皆で祈るのです。もし皆が共に祈るために集まらないとしたら、一人一人が特に自分の家の中で祈りを捧げても、それは十分であるとは言えないのです。

今日の聖書から、私たちは教会にはどのような人々が集まって、何をしていたかを学びました。それは二千年経った今日の教会と変りありません。建物とか、規模とか、言葉とか、讃美歌とか、そういうことを別にすれば、変わりないのです。なぜなら私たちもまた真の教会を建てることを目指しているからです。真の教会のしるしとは何でしょうか。少なくとも、そこには、教え、聖餐、交わり、祈りがなければなりません。それは、共に集まり、教えを受け、聖餐に与り、主に在る交わりの中で祈る教会です。

わたしたちは今、厳しい時代にいると言わなければなりません。教会に集まることが難しくなかった時代と比べているからですが、子どもたちや若い世代が大勢いた平和な時代がありました。家が狭いので、日曜日は親が子供たちを教会に追い出してくれ、教会は溢れるばかりでした。また、大人も日曜日は休みという職業も多かったのではないでしょうか。今は介護、養護、病院、など24時間、365日の交代勤務。休日があってないような仕事も増えました。高齢者が出来なくなった仕事を下の世代が担って行く。本当にゆとりのない時代。しかしそういう時代でも教会は続いて行きます。それは、「続いて行かなければならない」という義務ではなく、たとえ私たちには非常に困難でも、主が続けてくださるからです。集まることが困難な人々が増える度に、私たちは改めて思います。主に在る交わりの尊さを。互いに祈り合うのは、主が私たちを恵みによって集めてくださったからです。主が大切に思ってくださる兄弟姉妹だから私たちもそう思うのは当然です。私たちは弱い。しかし、主は私たちを励まして聖霊の助けによって支えておられます。私たちは困難の中にこそ、主が幸いだと言ってくださる教会の交わりの喜びが生れているのを感じるのではないでしょうか。祈ります。

 

恵み深き主イエス・キリストの父なる神様

本日の礼拝を感謝し、あなたの尊き御名をほめたたえます。今日も私たちを呼び集めて下さり、恵みの礼拝に与りましたことを感謝いたします。真の教会の姿を、私たちは追い求めながら、日々困難と向き合っています。しかし、あなたが私たちに御言葉を聴き、交わりを持ち、祈りをささげる教会としてくださいました。どうか、今、力弱くなっている方々をお支えください。共に御前に出ることが出来ますように。また、どうか、私たちに与えられた福音を後の時代にも伝えるために、この教会を用いてくださいますように祈ります。成宗教会が東日本連合長老会に加盟して以来、共に学び合い、助け合って歩んでいる諸教会を覚え感謝いたします。小金井西ノ台教会の引退教師の青戸歌子先生が召されました。残された青戸宏史先生の上に慰めが豊かにございますように。

本日は今年最初の長老会を開きます。この教会、また東日本の教会の諸行事を通して、また長老、信徒の方々を通して、主の恵みの御業が現れますように、生かし用いてください。特に少子化の時代に教会を建てようと、連合長老会のみならず、教区、教団、更には他の教派との間にも協力が生れていると聞きます。主よ、どうか心を低くして共に祈るこれらの働きを祝福して下さい。

今、病気やお怪我のため、療養しておられる兄弟姉妹を特に顧み、またご家族を祝して下さい。癒しの御手を祈り求めます。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

幸いな人

聖書:申命記6章4-15節, マタイによる福音書5章1-11節

 主の年、すなわち西暦2018年が始まっています。世の中は大変好景気といわれております。1980年代のバブル期のようだという人もいます。しかし、東京の街中の様子を見ると、どうしてもあの頃とは違うと感じてしまいます。違いを感じることの一つは、車です。外国車の数が圧倒的に増えています。日本の車は性能が良いのに、どうして買わないのだろうかと思います。また、自動車産業は関連する産業のすそ野が大変広いのですから、国産車が売れると、日本の労働者の生活を安定的に支えることに繋がります。そうして多くの人々が恩恵を受けることが出来たのが、以前の好景気でした。

ところが、今車を買わない若い人々が多いと言われています。そして高収入の人々は外国車を買う傾向にあります。これが好景気なのか?と思いたくなるのは、昔と比較する私の考えが古いのでしょうか。しかし、車がなくても生活できるのは若い時代だからだ、と私は思います。遠くに出かけるのに、時間も体力も使うことが出来るからです。私が成宗教会に赴任してから16年。浴風園キリストの会という老人ホームでの集会に出かけたり、病院のお見舞いに遠出するのは、バスや電車を乗り継いで行けばよいのですが、より多くの時間と体力が必要です。教会の墓前礼拝について考えても、やはり車を出すことが出来なければ、なかなか困難です。

二十年前、三十年前と今を比べた時、明らかに分かるのは、好景気ではないでしょう。以前は体力があった。車もあるのが当然だった。時間も取ることが出来た。それが、今は大変乏しくなっています。これは何も私たちの教会に限って言えることではありません。日本の社会全体が、好景気といわれているにもかかわらず、いろいろな意味で貧しくなっているのではないでしょうか。そしてこれは日本だけの問題では決してない、世界の多くの地域でいろいろな貧しさが進んでしまっているのではないでしょうか。

とはいえ、私たちが過去を振り返って、現在と見比べるのは、せいぜい50年、100年のことでありましょう。私たちが知っている昔とは、その程度の長さだからです。主イエス・キリストが地上に来てくださった時、神の御子は神の国の限りない豊かさから、限りない貧しさの中に降り立って下さいました。しかし、主の地上での御使命は、私たちと同じ貧しさを共にするためではありません。もしそれが目的なら、ああ、イエスさまは私たちと同じ人間の苦労をして下さったということに尽きることになります。もしそれだけが目的なら、確かに感謝は生まれるかもしれませんが、それだけで、人は救われるでしょうか。

主イエスの目的は、私たちの貧しさの中にいらして、天の御国の豊かさを教えることではありました。神の国について教え、そして私たちを神の国の豊かさに招くことであったのです。ですから、今日の聖書、山上の説教として有名な教えを、主イエスは教えられたのです。主イエスは群衆を離れて山に登られました。そして近くに従っておりました弟子たちに教え始められました。弟子とは、どういう人々でしょうか。弟子とは先生の教えに聞き従う人であります。ここでは、キリストに従う人々であり、キリストを通して神に従う人々であります。神の御心を知った時、それは、「ちょうど私の考えて同じです。喜んで従いましょう」ということではないのです。「えーっ!」と驚き、「とても信じられない」と思いながらも、自分の考えを捨て、御心に従って行った人々です。

思えばマリアもそうでした。主イエスの誕生に先立って、マリアに天使が現れて、常識では考えられないことを告げた時、マリアはどうしたでしょうか。自分の考えを捨てて従ったのです。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように。」またマリアの夫となるヨセフもそうでした。主イエスの誕生に先立って、ヨセフに天使が現れて、常識では考えられないことを告げた時、ヨセフはどうしたでしょうか。自分の考えを捨てて従ったのです。このように、キリストが世に生まれてくださるために、神は地上に従う人々をすでに備えてくださいました。

そのようにして人々の貧しさ、乏しさの中にキリストは来られました。そして従う者を集め、教え始められます。それは、幸いな人とはだれか、という教えです。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」心の貧しい人々とはだれでしょう。それは、自らを空しくし、神の憐れみに頼る人。苦悩にさいなまされ、押しつぶされても、それでも神に全く服従し、そして、心から謙遜であり、神に救いを求めてやって来る人々。そういう人々は幸いだと主は言われます。そうです。母マリアがそうでした。ヨセフもそうでした。常識では考えられないことが起こった時、自分に頼らず、他人に頼らず、ただ神に全く服従する。私たちもそうでありたい。だから神に救いを求めて教会に集まるのです。

しかしこのことは、何か他の人々と比べて、「救われる」特権を持っているかのように得意になることではありません。主イエスは従う人々が天の国に入れることを確信させ、だからあらゆる困難を忍耐するようにと、励ましておられるのです。また主は教えられました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」と。世間の常識では、悲しみは幸いとは程遠い。むしろ不幸なことではないでしょうか。しかし主は悲しみに暮れる人々は悲惨ではない、と仰るのです。それどころか、涙を流すことそのものが幸福な人生の助けとなる、と教えられました。

私は教会に在って、皆様と共に多くの悲しみを経験しました。それは、多くの方々が教会を去って行ったからです。ある方々は高齢になり、また遠くに行ってしまったので、教会に足を運ぶことが出来なくなりましたから。また、他の理由で教会に来られなくなった方々もおられます。その方々はどうしていることか、主がどこかの教会に招いておられるだろうか、などと思います。しかし、私たちはその他の方々を天に送りました。召された方々とのお別れには一番涙を流しましたけれど、それは不幸ではありません。私たちには愛する人々がいるからです。ですから愛する人々と別れる悲しみは確かに幸いなのです。この悲しみが天の国の希望に続いているからです。私たちの悲しみはただ神によって慰められると信じるなら幸いです。

主イエスはまた教えられました。「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」と。柔和な人々とはだれでしょうか。それは侮辱されてもすぐに立腹しない。人々にひどいことをされても同じことで仕返しをしない。何事にも忍耐強い、穏やかで温和な人々のことです。この教えもまた信じがたいのです。むしろやり返さないとますます相手は傲慢になって悪事を重ねるだろうと思うからです。その不安が争いに争いを巻き起こすのです。私たちは命じられています。主イエスだけが私たちをお守りくださると確信しなさいと。確信して、その救いの翼の陰に隠れなさいと。そうするためには、私たちは悪人に悪をもって報いる人であってはならないのです。主は羊飼い。そして、私たちは主のもの。主の羊なのですから。

多くの土地を所有するために力を振るう人々は、いかにも繁栄しているようですが、実は、他から力で奪われないように絶えず警戒しなければならない、従って絶えず不安なのです。反対に私たちは、地上に僅かなものしか持っていなくても、確かに地上に住むところが保証されています。なぜなら私たちは神の恵みをいただいているからです。そしてやがて地上を去る時、神の国に住まいが用意されていることを思えば、主に従って生きる者が地を受け継ぐのです。

6節。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」と主は教えられました。飢え渇くという言葉は、生活必需品にも事欠くような貧困に苦しんでいることを表します。さらに義に飢え渇いている人々は、大変な侮辱、屈辱を味わって苦悶にうめいているのですが、しかし彼らは、「生きて行くためには、もう何でもするより他はない」ということにはならない。どんなに苦しんでも道を踏み外さず、節操を守っている。そしてそのために苦しみ、弱り果ててしまっているのです。

人々の目には、このような人々は愚かに見えるかもしれません。しかし、主は言われます。これは、幸福への確かな準備であると。なぜならついに、彼らはついには幸福で満たされるようになるからです。母マリアは次のように神をほめたたえる賛歌を歌いました。ルカ1:53「(主は)飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」このことを神がなしてくださる。いつの日か神は彼らのうめきを聴き入れ、彼らの正しい願いを満たしてくださるからであります。

「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」という教えもまた、4節の悲しむ人々と同様の幸いではないでしょうか。世の人々は、他人の不幸など顧みないで、彼ら自身の安楽を計っている人々を「幸いな人々」と思っているかもしれません。

しかし、キリストの言われる幸い違います。幸いな人とは、自分の不幸を担おうとするだけでなく、苦しんでいる貧しい人々を助けるために、他人の不幸をも担い、苦しんでいる人々を助けるために、喜んでその人々の中に進んで入り、その不幸を共有する人々であります。そういう人々は、神からばかりでなく、ついには人々の間でも憐れみを受けるだろうと言われるのです。争いが絶え間なく起こるこの世に在って、ついに人々は心に何のゆとりも無くなり、すべて恩知らずとなりかねないのです。その結果、親切な人々を利用し、受けた善意にも悪をもって報いるようなことも起こるでしょう。しかし、憐れみ深い人には神によって恩恵が備えられています。なぜなら神こそが恵み深く、憐れみに満ちておられるのを知るからです。それを知る人々は心満たされると、主は教えられるのです。

そして8節。「心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る」と主は教えられました。清い心とは、何でしょうか。それは、人々の交わりにおいて常に純真であり、心の中に思っていること以外は、言葉にも表情にも全く表さない。すなわち二心がない。二枚舌を使わない、ということではないでしょうか。それは、だれもが「美しい心」だと一応認める性質でしょう。しかし軽蔑する人々は、このような純真な人のことをあたかも思慮が足りなくて、物事を十分見ることが出来ないかのように思っているのであります。ところがキリストは改めて心の清い人々を高く評価なさいました。二心がない、たとえ悪人に騙されることがあっても、人を欺くことが出来ない人々は、天の神の御前で神に喜ばれることだろうと。

そして「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」と主は教えておられます。人々の間でも、あるいは組織、国家の間でも、不和の状態、戦争状態にある者たちを仲直りさせるのはやっかいな骨の折れる仕事であります。平和を作り出そうと努める善意の人々は、双方から侮辱されたり、不平不満や非難を受けても、それに耐えなければならないことがしばしばです。なぜなら、人々はだれもが、執り成す者に、まず自分を守ってくれるよう期待するからです。そこで主は何と言われたでしょうか。主は私たちが誰よりも、何よりも、父なる神の調停によって平和を作り出すように努めるように教えておられます。だから人々の平和のために働く者は、人の思いどおりにではなく、神の正しい裁きが行われるように祈り働く者となりなさい。そうすれば、あなたがたは、たとえ人々から良い評価は受けなくても、それどころか、いわれのない悪評を受けることになっても、大丈夫。主は私たちを御自身の子と数えてくださると約束して下さいました。

2018年最初の礼拝、私たちは主イエス・キリストの教えを聞きました。主イエスは、この世の人々の繁栄の幸いではなく、神に従う者の幸い、神と人を愛して生きる道を教えてくださいました。私たちは新しい年に改めて、主の教えに従い、幸いな人に数えられたいと思います。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

新年最初の礼拝を感謝し、御名をほめたたえます。あなたは私たち成宗教会の群れを守り導き、新しい年を迎えさせてくださいました。多くの方々が高齢となり、病気やお体の不調に悩み、仕事や家庭に困難があることをあなたはご存知です。しかし、目に見えてここに、あなたの御前に集まる者は少ない者ですが、その生活の所々に在って、あなたの御名を覚え、心を合わせて祈る群れであることを感謝します。

私たちは主が恵み深く、地上に在って、私たちの乏しさを神の国の豊かさに変えてくださるために教えてくださることを感謝します。今多くの悩みがある中で、あなたがどうぞ私たちになすべき務めを教えてくださいますように。あなたが聖書によって、主イエスによって、恵み深さを表してくださいました。今、私たちは聖餐によって、主イエス・キリストが私たちになしてくださった救いの恵みに与ります。主イエスは山上の説教の教えを身をもって生き、十字架にご自分を捧げ、私たちの罪を赦し、平和の礎となってくださいました。私たちは主に感謝し、主の御体の教会にしっかりと連なる者となりますように。

高齢化少子化が進む社会にあって、あなたの御心が成り、私たちの罪が赦され、福音が日本の社会に伝えられ続けるために、この年も私たちの教会を、連合長老会の教会と共に、また日本基督教団をはじめ、全国全世界の主の教会と共に、一つなる教会が形成されるために用いてくださいますように。成宗教会の長老会の働きを強め、教会学校、ナオミ会、ピアノ・オルガン教室の働きを豊かに祝して下さい。また明日行われる東日本の日曜学校研修会と長老会議から、2018年の連合長老会の諸行事が始まります。すべてを祝し導いてください。

この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。