神は命を与えられた

聖書:創世記1章26-31節, 使徒言行録17章22-27節

 この夏、名古屋の動物園のサルが話題になりました。その鳴き声がおやじの叫び声そっくりというので、檻の前は人だかりが出来ました。忍耐強く待って聞くことができた人々は皆、「ほんとだ、そっくり」などと楽しそうに笑っていました。学校では人間はサルから進化したと教えられることが多いので、ああ、こんなにもサルに親近感もっているのかなあ、とわたしは思いました。

しかし、動物に親しみをもつことから大変な非難と人種差別が起こることもあります。随分前ですが、オーストラリアの動物愛護団体が、クジラを獲る日本の調査捕鯨船を攻撃する事件が話題となっていました。その頃、オーストラリアを観光している若い日本人女性たちに現地のマスコミがインタビューして、「クジラを殺す日本人は残酷だから、日本人を殺しても構わないと思いませんか?」と尋ねる場面を、わたしはテレビで見たことがあります。

生き物の命を尊ぶ、大変親近感を抱く。しかしその一方で、生き物を食物としている人間を生き物以下に見做すという転倒した考えはどこから来るのでしょうか。わたしたちの社会ばかりでなく世界中に、真の神を畏れない、真の神を知らない人々がいるからではないでしょうか。進化論的にサルは人間の祖先であると教えられても、わたしたちが感じることはせいぜい、サルに親近感を持つくらいですが、一方で牛を殺して食べているのに、クジラを食べるとは残忍非道な人間だという人々に親しみを持つという訳には行きません。

わたしたちが地上で平和に生きて幸せになるために、最も大切なことは神がおられることを知ることです。神とはどなたかを知ることが必要です。なぜなら、神はすべてのものをお造りになったからです。すべてのものを創造された方、何もない所からすべてのものを創造され、存在させられた方であります。そしてお創りになったすべてのものを良しとされた。祝福されたということは非常に重要なことです。さらに神は最後に人間を創造されました。「御自分にかたどって人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」と言われました。

人間は神のかたちに造られたのです。紀元前5~4世紀のギリシャ哲学者たちは人間のことをマイクロコスモス(小宇宙)と呼び始めたと言われます。人間は小宇宙。宗教改革者は述べています。「人間においては、神の栄光が輝いている。他のすべての被造物よりもいっそう輝いて、無数の奇跡に満たされている」と。神のかたちであることは、人間が動物と区別されたあるしるしを神から受けたことを意味します。もちろん、人間は他の動物と共通するものを多く持っていますが、ただ一つ、神との特別な関係のゆえに、動物よりはるかに優れているのです。その特別な関係とは何でしょうか。それは、人間は神と交わりを持つために造られているということです。そして人間は地上の生き物を治める権威を神から与えられているのです。

わたしたちに、このような信仰を与えられることは、大変な恵みであります。それは神の呼びかけを聞き、神に応える命を生きることだからです。そしてどのような時も、この命を造られた神が造り主としての責任を果たしてくださると信頼することだからです。このことは、サルは人間の先祖だなどと教えられるのとは決定的な違いを私たちにもたらします。なぜなら、わたしたちが求めているのは、サルとの関係ではないからです。またクジラとわたしたちとどっちが値打ちがあるかなどということではないからです。わたしたちが求めているのは、自分が日々、どうやって生きるか、ということです。

わたしがある教会の信者であった頃、児童養護施設に務めている教会員がいました。その人は何とかして施設に暮らす子供たちに教会学校の楽しさを体験してもらおうと、子供たちを連れて来ました。その子供たちを、教会学校の先生たちも生徒もその親たちも大変歓迎しました。家に連れて行って美味しいものをご馳走したり、贈り物をしたりしていたと思います。しかし、ある子はあまりうれしそうではありませんでした。なぜでしょう。そこには、自分にはいないお父さん、お母さんに囲まれている子共だち、いつも自分の家族を守っている教会の大人がいたからです。それを見て、彼女はいっそう寂しくなっていたのでした。自分にはない家族が一緒にいる。お父さん、お母さんがいる。どうして自分にはいないのだろう。この疑問にだれが答えられるでしょうか。

今、高齢化、少子化が深刻になっているというのに、このような辛い思いをしている子供たちがますます多くなっている社会の現実があります。今、私たちが生きるためには、私たちが人を活かすためには、「神とはどなたであるか」を知らなければなりません。なぜなら、わたしたちの命は神から与えられたものだからです。すべてのものをお創りになった神は、あなたをも、わたしをもお造りになって、良しとされた、祝福された、そうして世に私たちは送り出されたのです。これは、厳しい現実を生きるために教会が持っている、そして真剣に社会に提供しなければならない大切なメッセージです。神が命を与えられたということを知り、このことを信じ、日毎に夜毎に思い起こし心に刻む者は、どのような時にも生きる道を、この命を与えられた方に見い出すでしょう。

今日、選ばれた新約聖書は使徒パウロが、アテネのアレパオパゴスの丘(今も観光名所になっていて、行かれた方もいらっしゃると思います)の多くのアテネ人や在留外国人を前に演説した時のものです。「パウロは、アレオバゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。』」どんなものでも神として礼拝していれば、信仰だ、と考える人々は多いかもしれません。しかし、真の神を求めている人々にとっては、そうはとても考えられません。パウロはアテネではありとあらゆるものが偶像となり、拝まれているのを見て憤慨していました。現代人はこういう憤慨を、狭量だと思う傾向にあります。何を信じようと信じまいと自分の自由だ、という訳です。それは、言ってみれば、何かを信じてその結果生きようが、死のうが自分の勝手だ、構わないでくれ!と言っているのと同じなのですが。

こういうのが、自由という言葉の難しさであります。「人は生きる権利がある」ということは信仰の有る無しに関係なく万人に受け入れられています。しかし、では「死ぬ権利がある」とか、「滅びる権利がある」「自由がある」とは言えるのでしょうか。とにかく死にかけた人がいたら、みんなでよってたかって助けようとする、それがわたしたちの考えによれば、救いはここにある、ということのしるしであります。ですから神様もわたしたちを世に遣わしておられるのです。それなのに、「真の神を知らないで、訳の分からないものを礼拝しているとは、何と惨めなことか」とパウロは憤慨したのです。しかも、彼は名前のない神の祭壇まで見つけました。

名前に分からない神を礼拝する、ということがどういうことかお分かりでしょうか。それは、たくさんの神々を拝む人々の気持ちです。彼らは、神がおられることは信じている。しかし、どういう神なのかはよく分からない。分からないけれども、ある程度以上の力はもっているとなると、宥めの供え物をして祟られないようにしよう、という気持ちになります。あっちの神にも、こっちに神にもお参りして拝んだけれども、それだけではまだ不安なのです。まだ、知らない神がおられるかもしれない。としたら、その神を拝まないと祟りが起こるかもしれないということになるのでしょう。そこから見えてくるのは、神々を拝んでいても不安は消えない。いつ、どこから思いがけない祟りが来るかしれない。それを避けるためにどの神を頼れば良いのか分からない、ということなのではないでしょうか。多神教の悩みは深いのです。

どこの国、どこの地方にも地元の神々という信仰はありました。しかし、人がもし地元を離れたら、その神の勢力圏を離れることになります。また国同士、地域同士に争いがあった時にはどこに救いを求めたらよいのでしょうか。そして実際には、人々は昔から国同士別々に生きていて、交わりもなく鎖国状態で暮らしていたのではありません。聖書の時代にも、実に多くの人々が地域を移動し、他国の人々が移り住み、自分たちも他国に出かけて行くという商業貿易、交易、交流がありました。まして戦争や、飢饉が起こった時は、土地を追われ、奴隷にされ、また移民政策により、人々が移動を余儀なくされていたのです。21世紀を生きる私たちは、世界的に動乱の時代に入って来ていると感じていますが、そのような現実はむしろ、今も昔も変わりないと考えるべきではないかと思います。

さて今日の聖書を見ますと、使徒パウロは、アテネ人は少なくとも神はいないと思ってはいないのだ、と理解していました。そこで、よく分からないままでも礼拝を捧げているアテネ人の気持ちを、信仰心として受け入れることから話を始めました。23節。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしは知らせましょう。」こう言って彼は、唯一の神、天地創造の神を宣べ伝えました。

「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」ここに、わたしたちを活かすただ一つの神信仰があります。それは第一に、わたしたちが拝む神はどんな方であるかをはっきりと理解することです。神は万物の造り主。そして人間を御自分にかたどって造られた。これが教会の信仰です。次に神はどのように拝まれ敬意が払われるべきか、ということです。

この方に礼拝を捧げるために、人々は神殿や礼拝堂を建て、そしてそれを神の家と呼びます。しかし、神がそこにだけ住んでおられると考えることは愚かなことであり、人間の造ったものに神を閉じ込めようとすることになります。それは恐ろしい罪ではないでしょうか。しかし、この時代の人々は、神殿で壮大な儀式を献げ、動物、収穫物、金品を捧げ礼拝しました。ギリシャの神々の神殿では、人々は競技会や踊りや、今でいうイヴェントのような華やかなものを捧げることで満足していたようです。

しかし、真に礼拝については、イエスキリストは次のように話されました。ヨハネ4:24「神は霊である。だから、だから、礼拝する者は、霊と真理とをもって礼拝しなければならない。」このお言葉を言い換えれば、霊と真心をもって礼拝するのでなければ、人の目に見える儀式がどんなに豪華でも盛大でも、神は礼拝としてお認めにならないということになるでしょう。

人間は地上の生活に浸り切って楽しみたいとばかり思うならば、自分の欲望に対応し、満足させてくれるような神をもちたい。その結果、本末転倒というべきことが起こります。すなわち、神がすべてをお創りになったことが無視され、偽りとされる一方、神がお創りになったものが神のように崇められ、追い求められるのです。その悲しむべき、痛ましい結果は、本来祝福であるはずのものが転落して、呪われたものになるという警告を、私たちは受けているのではないでしょうか。

神を正しく認める第一歩は、世界の造られたものの中にではなく上に、神を見ることであり、神と神のお創りになったものをはっきりと区別することに始まります。そして私たちの能力を過信して、自分の限られた力によって神を測るようなことをしないこと、また私たちの感覚によって神を心に描くことをしないことが肝心であります。

神は、わたしたちが礼拝のために集まり、神の民としてキリストの体として目に見える形をとることを喜ばれます。しかし神御自身、神殿に縛られているはずがない方であります。と同時に神を礼拝する私たちに対しても、目に見える特定の場所に縛り付けたり、特定の形に縛り付けたりなさることはお考えにならないのであります。むしろ重要なのは、御自分の民を救うために、御自分のところまで引き上げるために神が何をなさったかを知ることです。神はご自分の民を御自分のところまで引き上げるために、救うために、むしろわたしたちのところにお降りになられてくださった。わたしたちは御子イエス・キリストによって、神がこのようなお方であることを教えられたのです。

今日は、なぜ神さまを知ることが最も大切なのですか、という問いを学びました。その答は、私たちの命は神さまによって与えられたものだからということです。命の源を知ることによって、わたしたちの命がどのようなものであるか、わたしたちに思い及ばなかったほど、尊く大切なものであることを教えられました。祈ります。

 

御在天の主なる父なる神さま

あなたの尊い御名を賛美します。私たちは本日も主の日の礼拝に招かれ、恵みに満ちたあなたの御心を教えられました。私たちは右も左もわきまえず、たださまようばかりの者でありましたが、あなたはキリストの贖いの十字架によって教会を建て、信じる者を救いに結んでくださいました。今日まで教会が受け継いで来た信仰の告白を、御言葉を通して今も後の世にも、私たちに知らせてくださることを感謝します。

今年は宗教改革から500年という時を迎えて、全世界が教会建設の志を新たにしていると思います。どうか激動の時代に生きる世界の教会と共に、日本の諸教会も奮い立って福音を宣べ伝えるために、聖霊の主よ、教会の上に降ってください。東日本連合長老会を通して、私たちは主の交わりによって励まし合い、助け合って行く者となりますように。小さな群れ、力弱い者たちの上に主の慈しみ、主の御力が注がれることを信じます。今、苦しんでいる者を特に顧みてください。また遠くにいて礼拝を守れない方々を慰めてください。この感謝と願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

神とはどなたか

聖書:出エジプト記3章11-15節, マタイによる福音書6章25-34節

 成宗教会は、8月の末に夏休み一日教会学校を開きました。今年は、教会は全く初めてという方々がお子さんを連れて参加され、大変にぎやかでした。そして私たちは、その人々に初めてのキリスト教に出会っていただく、という喜ばしい体験をしたのです。ペトロの手紙という名前の文書がありますが、その中にこういう勧めの言葉があります。(ペトロの手紙一、3章15節)「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」私たちはどうでしょうか。「キリスト教って何?」とか、「どういう宗教?」とか、聞かれた時、私たちはどう答えたら良いのでしょうか。

そこで、私たちは聖書の御言葉によって私たちの信仰について学びたいと思います。私たちの信仰と言ったのは、私たちが個々人で思い思いに信じている信仰ではありません。「わたしの信仰はこうだ」とか、「あの人の信仰はああだ」とか、ユニークな考えを持っていることではありません。私たちの信仰というのは、主イエス・キリストの弟子たち、使徒たちによって教会の伝道が開始された時以来、代々受け継いで来た信仰の内容を意味します。皆さんの中には洗礼準備や信仰告白の準備をするときに、『ハイデルベルク信仰問答』によって教えられたという方々がおられると思います。それは、宗教改革の時代に編纂されたものですが、教会がキリストの体の共同体を建てるために、何を信じて来たか、ということを教えるものなのです。それは、カテキズム(信仰問答)という形式を取ります。すなわち、毎週ひとつの問と答えを学ぶことによって、教会の信仰、私たちの信仰の共通の土台について学んでいくのです。そして、私たちがキリスト教信仰を持つということは、教会の受け継いできた信仰を知り、その同じ信仰を自分も告白し、洗礼を受けて同じ信仰共同体である教会の一員となる、ということに他なりません。

そういうわけで、本日は第一のカテキズム問を取り上げます。それは「わたしたちが生きるために最も大切なことは何ですか」という問いです。もしこの問を教会の外で聞いてみたら、いろいろな答が返って来るでしょう。家族が大切とか、友達とか、仕事とかいう答が返って来るかもしれません。しかし、家族がある人もない人も悩む。友達がある人もない人も悩む。仕事がある人もない人も、悩みは尽きません。今日の聖書、マタイ福音書からキリストの言葉を聞きましょう。

25節。「だから,言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと,また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり,体は衣服よりも大切ではないか。」経済的に貧しい人々にとっては衣食住の問題は切実なものです。家族に何とか十分な食事を食べさせるために、着るものを与えるために、必死で働かなければなりません。住まいはもっと深刻で家賃が払えなければ住むこともできないのです。では主イエスは生活のための労苦を、心遣いを一切してはならないと言われたのでしょうか。そんなはずはありません。私たちの多くは、多少の差はあれ、皆不足しているものがあり、不自由なところがあり、それを何とか補おうと、改善しようと、心を用いるのであります。まして家族のためであり、友人のためであるならば、補い合うために気を遣い、心遣いをするのはむしろ喜ばしいことではないでしょうか。

しかし、ではゆとりのある人々は思い悩むことがないのか、といえば、決してそうではないでしょう。それが問題なのです。衣食住に限らず、自分が手に入れたいものがある。それをどうやって自分の思いどおりにするか、求め出したらその願望、欲望はとどまるところがないのです。そこに多くの心配が生れます。思い煩いが生れます。そして、自分のことだけしか考えなくても済む立場の人は、実際にはほとんどいないので、大部分の人々に心配事は尽きません。

自分が手に入れたいもの、というと自分勝手なように聞こえますが、そうでないことも沢山あります。安全や安心な社会を守る務めの人もそうです。健康や衛生を守る務めの人もそうです。出来る限りのことを自分の力でしよう、と努力します。しかし、自分の力しか頼ることができないなら。どんなに自信のある人々でも、どんなに万全を期す能力のある人でも、最後は思い煩いに押しつぶされてしまわないでしょうか。

私たちが生きるために一番大切なものが、家族だとしたら、友人だとしたら、あるいは仕事だとしたら、私たちは一番大切なものを守るために、思い悩み、思い煩いに押しつぶされてしまうのではないでしょうか。まして、世の多くの人々の本音が、実は生きるために一番必要なものはお金であるというなら、それを守るためには家族も友人も何もかも敵に見えるほどの思い煩いに取りつかれることでしょう。

どうやら、生きるために一番必要なものと思っている人々も仕事もお金も、一番必要なものではない。これさえあれば幸せに生きられるというものではないことが分かります。イエス様は「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切」と仰いました。そしてこの命はどこから来たのか。この体はだれが与えられたのか、と問われるのです。私たちははっきりと答えられるでしょうか。この命は神が造られたもの。この体は神が与えてくださったものと。これが教会の信仰です。

主は言われました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、借り入れもせず,倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」主は天の父と仰って、神を私たちに紹介して下さいました。神とはどなたか?神は私たちを造られた方。空も鳥もすべてのものをお造りになった方です。そしてキリストを世に遣わして、神の言葉によって、私たちに御自身をお示しになりました。神は鳥も花も小さな生き物も、ご自分のお造りになったすべてを養ってくださる、と主は言われます。神は造られたものを愛し、慈しんでくださる。ご自分の造られたものが生きるために何を必要としているか神は御存じなのだ、と主は教えてくださいました。

一方、異邦人は何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、と求めて思い煩うと主は言われます。なぜなら異邦人は、造り主である神を知らないからです。彼らは神がどんな方であるか知らないのです。全然神はいないと思ってはいないとしても、造り主が造られたものを愛し、慈しんでくださるとは夢にも思わない。造りっ放しで放置して、「後は自己責任。自分で何とかしなさい」ということだと思うか、あるいは「神は天で昼寝をしているのだ」と思う。さあ、そういう考えでは、いても立ってもいられないでしょう。

それでは、もう一度、最初の問いに戻りましょう。それは、「わたしたちが生きるために最も大切なことは何ですか」という問いです。教会の信仰は、神は天地を造られて、すべてを愛し、養い導いておられる方であると信じます。この信仰を受け入れる時、私たちは初めて極端な思い煩いに走ることから解放されるのではないでしょうか。この私たちを愛してくださる神は、私たちに必要なものをご存知です。また人間を愛しておられるけれども鳥や花はどうでもよいと放置される方でもないのです。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草も、ユーカリのように何百年の樹齢を保つ植物も、その命を美しく装ってくださいます。

このことを教えてくださり、すべての思い煩いから自由にしてくださるためにキリストを地上に遣わしてくださった神は、私たちに良くしてくださらないはずがありましょうか。生きるために一番大切なことは何でしょうか。それは神を知ることであります。神とはどなたであるかを知ることであります。神の愛を知ることであります。この方を知って、この方を信頼するかどうか、ここに私たちの生きるか死ぬかがかかっているのです。

私たちは日々多くの心配事に襲われると言っても過言ではありません。私たちはこの体をもって生きているのですから、日々物理的な必要を満たして生きていきます。体に限界があり、若い時は日々成長するように、年を取れば日々衰えることは免れません。しかし、その限界の中で神はわたしたちを活かすことを良しとされました。私が母から教えられた植物があります。ミセバヤという名前の植物ですが、新芽の時から美しく、花も美しく、紅葉も美しく、枯れても美しい。私たちは、多くの試練に遭ってどうしたらよいか途方に暮れることがあっても、キリストによって天の父を知り、この方に信頼する人生を生きましょう。日々選び取って生きましょう。

「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」という主の御言葉は、だから何もしなくてよいということではありません。怠惰に安閑としていても養っていただけるということでは決してないのです。今日読んでいただいた旧約聖書出エジプト記は、モーセが神の命令に従ってに帰って行くときに、主から与えられた言葉です。モーセは神の与えられた使命を行う自信が全くありません。彼は思い煩いで押しつぶされそうになって、できることなら、この使命から逃れたいと思うのでした。しかし、神はモーセに言われました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

神はわたしたちに生きる使命をお与えになって、そのまま放置なさる方ではありません。必ずあなたと共にいる、と励まされるのです。だから大船に乗ったつもりで何もしないでいればよいというのではありません。私たちは与えられた知恵と力を用いて常に最善のことを語り、行う事を目指すべきであります。何よりもまず、私たちはこの神を知ることを求めましょう。マタイ6章33節。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」

神の国と神の義、それは「神はどなたであるか?」という問いと切り離して考えることができません。それは、神はわたしたちを造られた方、慈しみ深く守られる方であると信じることから始まります。私たちの必要を満たしてくださる神を仰ぎ求め、他のものに目をそらさない者はだれでも、衣食住についての心遣いは適度にしか持たないでも済むことでしょう。しかし、その反対に必要なすべてを満たしてくださる方に目を注がないで、あれこれと思い煩い、他に助けを求めて駈けずり回るような生き方は偶像礼拝に他なりません。たとえひとたび神の国に招かれた者でも、そのような状態に陥ったならば、その惨めさは測りしれないでしょう。しかし、申命記の御言葉をお聞きください。4:29「しかしあなたたちは、その所からあなたの神、主を尋ね求めなければならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」287下。

成宗教会に永くとどまって、神に従う者として証しをしてくださる方々がおられることは、何よりも力強い励ましであり、教会の誇りであることを思います。その方々は神の国と神の義を求めることを知っておられ、「神とはどなたか」を知ることが何よりも大切であることを証ししておられるからです。先週、私は100歳になられるF姉をお訪ねし、聖餐式を守りました。礼拝に出席することができなくなっておられるF姉は聖餐を受けられることを何よりも喜び、待ち望んでおられ、「罪深い者だから聖餐を受けなければなりません」と言われました。社会的に見れば、また信仰者としても本当に立派な方ですが、この方がこのように仰った時、私は、この方が何より望んでおられることはキリストの罪の赦しと永遠の命に結ばれることなのだと知らされたのでした。教会の信仰は、生きるために一番大切なことは、神を知ることであると告白します。祈ります。

 

恵み深き天の父よ、

本日もまた私たちに礼拝を与えてくださり、罪の赦しの御言葉を聴くことができました。深く感謝いたします。

私たちは礼拝のみ言葉をとおして、この二千年の教会の歴史に受け継がれた信仰を学ぶことを始めたいと思います。どうか、力弱い私たちを励ましてみ言葉を豊かに聴くことができますようにしてください。そして主の体に教会に連なり、この教会を建てて行くことができますよう、御心を示し、道を開いてください。

東日本連合長老会に加盟して、歩み始めてから、多くの学び、教えを受けましたことを感謝します。全国連合長老会、また改革長老教会協議会の活動を通して、教会を形成するために小さな教会をも共に歩ませていただくことを感謝します。人口減少社会に転じようとする今、地方の教会の抱える困難は、私たちの困難をはるかに超えるものではないかと心配します。どうぞ、同じ信仰に立つすべての教会、教派を用いてくださる主が、この社会を憐れみ、慈しんで福音を伝え続けることができますよう、道を開いてください。

あなたを知り、あなたの御心を尋ね求める者に、主の憐れみは尽きないことを信じます。どうか、この群れに、従う心を与え、すべての思い煩いを超えて、与えられた使命を果たすために、私たちすべての弱い者、貧しい者、主に頼る者を活かし用いてください。

教会学校、音楽会の行事を祝していただき感謝です。10月にはバザーの行事を予定しております。東日本の教会修養会、婦人会の委員会なども予定されています。ピアノ・オルガン教室も守り導かれて感謝です。どうぞ、私たちを励まして健康を支えて下さり、主の恵みをたたえる活動として私たちが奉仕することができるよう、お導きください。

礼拝に参加できないでいる方々も主に結ばれて、あなたの恵み深さを証しする生活ができますよう。疲れている方々、悩みにある方々、病気治療中の方々を顧みてください。カンボジアから帰国された今村宣教師ご夫妻に、主の備えられた休みが与えられますように。また、仕事で旅をする方々を顧みてください。

この感謝、願い、我らの尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2017年9月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

並木邦夫先生のお話

(これは7月9日にお話しいただいたものです。)

「すべて神さまのために」

並木 邦夫

  皆さんは「自由」という言葉を知っていますか。 簡単なようでとっても難しいですね。

「何でもできる。すべてのことが許されている。何をしても大丈夫。」というように答えると思います。今、読んで頂いた聖書の箇所はとても難しいのですが、最初に「すべてのことが益になるわけではない。」と書いてあります。この箇所はパウロがコリントの教会にあてた手紙の一部ですが、当時のコリントの教会の人々にはいろいろな人がいました。既に信仰を持っている人も居れば、そうでない人も居り、「いろいろなことが、すべて許されている」ような状態でした。でも、本当にそれが良いことか、良く考えてみなければなりませんね。神さまは私たちを自由なものとしてお造りに成って下さいましたが、その自由をどのように使うかことができるでしょうか。

ぜひ、神さまが喜ばれるように使いたいと思います。

それでは、なぜ神さまに喜んで頂きたいのでしょうか。それは神さまが私たちに大きなプレゼントを下さったからです。クリスマスに神さまは私たちにイエス様をお送りになり、イエス様は私たちの罪を背負って十字架で死なれました。そして三日目に甦られましたが、神さまはそうして私たちの罪を赦して下さいました。そのように私たちを大切にして下さる神さまですので、私たちは神さまに喜ばれるようにしたいと思うのです。

ここで、ダビデの話も思い出されます。紀元前10世紀のイスラエルではダビデが軍隊をつくり、周囲の部族を統一して王国をつくります。すごい勢いだったのですが、でもダビデは自分を選んで王として下さったのは神さまであることを良く知っていました。ですから、会衆の前で「私たちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光煇、威光、栄光は、主よ、あなたのもの」と言っています。こうした王様でも謙虚に神さまのおかげです、神さまのため、と言っているのです。

これまで、私たちは主の祈りを学んできました。神さまのお名前があがめられますように、神さまの国が来ますように、神さまが思っていることがこの地でもなされますように、毎日の食べ物が与えられますように、罪が許されますように、悪から救い出して下さるようにと神さまにお祈りしています、こうした、お祈りを神さまは聞いて下さるでしょうか?きっと聞いて下さるという思いを込めて、最後に「国と力と栄とは限りなくなんじのものなればなり」と祈ります。

主の祈りは聖書の中に2か所、イエス様はお祈りする時にはこのように祈りなさいというお話が出てきますが、この最後の言葉は出てきません。教会に連なる人々は2千年前からずっとこのお祈りをしてきましたが、段々とこの最後の言葉が加わって来たと言われています。

私たちは自由を与えられていますが、その自由を与えて下さった神さまのために使う、この「国と力と栄とは限りなくなんじのものなればなり」という言葉を、紀元前10世紀のあのダビデが祈ったのと同じようにお祈りできるということは、とても素晴らしいことと思います。

9月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。

  • お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

9月 3日 (日)   マルコ 1:16-20      お話の担当…  並木せつ子

10日(日)  マルコ2:1-12               並木せつ子

17日(日)  マルコ7:24-30           勝田令子

24日(日)  ルカ18:9-14            興津晴枝

                                                                  

教会・教会学校からお知らせ・お祈り

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

(新約聖書、コロサイ人への手紙2章3節)

教会・教会学校からお知らせ・お祈り

  • 長い夏休み、皆さんいかがお過ごしでしたか。成宗教会学校では、8月27 日(日)の午後、「夏休み一日教会学校」を開きました。参加者は生徒12人、先生、保護者、奉仕の長老を合わせて25名。今年は初めて教会学校に参加した生徒さんも多く、礼拝でイエス様についてお話を聞くのもお祈りも初めてだったと思います。そして今年の活動は絞り染めをしました。皆さんとても一生けんめい力を込めて作りました。布を染めたりで、洗ったり、乾かしたりで、忙しい間に魚つりゲームもしました。美味しいカレー、シフォンケーキと西瓜も楽しくいただきました。最後に素敵に面白い作品ができて、皆さん良い思い出になったことでしょう。奉仕してくださった先生、長老の方々にも感謝します。
  • 神さまの愛を信じて従うならば、冒険に満ちた私たちの日々に助けが与えられます。新しい学期も、頑張ってイエスさまを通して、神さまについて学びましょう。

9月の御言葉

「イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」マルコによる福音書1章17節

救いの完成をめざして

聖書:エレミヤ書1章7-10節, コリントの信徒への手紙二 13章6-13節

 コリントの信徒への手紙を本日で、読み終わろうとしています。この手紙の最初から最後まで、厳しい叱責が並べられていました。聞く私たちにとっては、第一に信徒、教会員にとって耳の痛い言葉であり、事がらでありました。一体、教会の一部の人々に過ぎないとは言うけれども、ある特定の牧師だけを持ち上げたり、反対に特定の牧師をこき下ろしたりすることがあるのだろうか。また、人々の顰蹙(ひんしゅく)を買うような不道徳なことを平気でする人が教会の中に居るのだろうか。しかし、これは遠い昔の、わたしたちとかかわりのない教会の話ではないのです。

主イエスが宣べ伝えて下さった福音によって救われた人びと。主イエスが御自分の血をもって贖い取ってくださった人々。この人々を御自分の体として御自分に結び付けてくださったのに、この手紙で述べられているようなことが実際に起こっていた。主の体の教会はどうなっているのか。主の体の教会といわれているだけで、実際は主と切り離されてしまっているのではないか。切り離されてしまっていては、主の体とはとても言えない。その人々が救われているとはとても言えないのです。

だからこそ、パウロのこれらの厳しい叱責が続いているのです。教会を建てるために。パウロは何のために労苦して来たのか。すべては主の体に結ぶため、主の救いに結ばれるためです。彼は心を低くして伝道しました。人と比較されることも気にしませんでした。風采が上がらない、話はつまらない、中身もそのとおりの人物だろう。そんなこと言われても、いちいち気にかけていたら、伝道などできるはずがない。パウロはただただ主イエスに従うつもりで、命がけの伝道をしてきました。何の後悔もなかったでしょう。

しかし、彼自身の栄誉、栄光を全く考えない姿勢は、教会の役に立ったでしょうか。彼が侮られ、軽視された結果は、彼自身がまるで見捨てられた者のように見なされたのです。そして彼を侮り、軽視する人々が担ぎ上げた者たちが、教会の中で栄誉、栄光を獲得したのではなかったでしょうか。一体そのような者たちが支配的である教会は、教会といえるのでしょうか。前回読みました所で、パウロは教会の人々に問うのです。5節。「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが……。」

自分の中に、自分たちの中に、つまり教会の中にキリストがおられる。そのことが分かるならば、わたしたちは救われた者なのです。そうでなければ救われない、失格者だということになります。そして自分たちの内にキリストがおられると知る時には、パウロの教えがキリストを指し示していることも分かるでしょう。たとえみすぼらしく見えても、つまらなく聞こえても、使徒の教えに救いがあると分かってほしい、と彼は切に願います。

パウロがこのように説得しているのは自分が失格者のように見られたくないためではない。そうではなくて、あなたがたが悪を行わないで善を行うために、説得しているのです。当然ではないでしょうか。キリストの体である教会が、自堕落で、自己中心的な人々に占拠されているとは、聞くのも恥ずかしい振る舞いで平然としているとは・・・。パウロはローマの信徒への手紙でこう述べています。ローマ5:10「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」279下。わたしたちの救いのために命を捨ててくださるほど、わたしたちを愛してくださった主の御名前をもってクリスチャンと呼ばれている教会の中に、善ではなく悪が行われているとしたら、そして、教会の人々がそれに気が付かないでいるとしたら、あるいは見て見ぬふりで放置しているとしたら、一体わたしたちは主に対して、天の父に対して、どのような顔向けができるというのでしょうか。実に恐ろしいことではないでしょうか。

パウロは重ねて申します。わたしたちがどう見えるか、どう思われるかは問題ではない。あなたがたが善を行う、わたしたちはそれだけを求めています。なぜなら「わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできる」からです。だからこそ、パウロは、神が自分に与えてくださった力以外のものは求めないし、望まないのです。それは、ただただ真理に仕えるためであります。真理とはイエス・キリストによって証しされた救いであります。またヨハネ福音書で、主イエスは、「わたしは道である。真理である。命である」と仰いました。

それに対して偽者の使徒の態度はどういうことが考えられるでしょうか。偽者は主イエスにお仕えしているように見せかけながら、ひとたび権威や力を手に入れると、その力を他の人々や、教会のために用いるような心がけは全く持っていないのであります。だから彼らはただひたすら、自分の利益のために権力を用いて、欲望を拡大することになるでしょう。これまで、コリントの信徒への手紙は教会の信徒に対して厳しく信仰を問うていると言わざるを得ないのですが、この手紙は同様に、教会の牧者、説教者、指導者たちにとっても厳しく問うているのです。もし、あなたが真理のために、イエス・キリストの福音のために戦い、労苦する者であるならば、たとえ教会で、人間的な考えから蔑まれ、見捨てられた者のように見なされることがあっても、それによって神の栄光や、教会の建徳、聖なる教えの権威が損なわない限り、心配したり、失望したりする必要はないのです。

これは教会の牧師の持つべき力の限界を示していると思います。牧師は真理に仕える者でなければならないのですから、自分の栄誉のためではなく、イエス・キリストの栄誉のために戦うものでなければなりません。ところが実際には、自分の名誉が傷つけられることに憤然となる一方、キリストの名誉、お名前が貶められても、平然としている、という牧師、長老をはじめとする教会の指導者に唖然とさせられることがあるのではないでしょうか。私たち自身も、真理に逆らって自分の思いや、自分たちの願望を正しいと思いこんだ結果、教会を建てることが困難になることが多いのではないか、と反省する必要があります。

パウロは祈っています。9節。「わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています」と。パウロは教会の人々を愛しています。そして自分が伝道者として真理に従うことだけを目指しているのですから、自分は弱くても、たとえ見捨てられても、教会の人々が神の力に満たされて強くなれば、それを喜ぶというのです。教会の人々が強くなること、それは完全という言葉で表現されています。完全とは、キリストの体としての完全です。体は部分から成り立っています。ある人は目に例えられ、ある人は手に、足に例えられるような部分が、全体としてキリストの体を構成しています。

完全というと、わたしたちは何をイメージするでしょうか。完全な勝利とか、100点満点とかのイメージでしょうか。教会はキリストの体を望み見ております。教会の完全さというのは、それを構成するすべての肢体の適切な調和と健全さのことに他なりません。体の中に一つでも病んでいる部分があれは、体全体として苦しみを、痛みを感じます。それでは、主の体の教会は完全からはほど遠いことになるでしょう。

体の一部の不調、病を放置しないで、欠けた部分を補い、全体としての完全さを守らなければならないと、パウロは考えました。このような心遣いがあったからこそ、パウロは実際にコリントへ行った時に、きつい激しい手段を取らないで済むように、予め予防策を取っています。10節。「遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。」教会を壊すためではなく造り上げるために。すべての労苦、すべての権威が用いられる。エレミヤが預言者の召命を受けた場面を本日は読んでいただきました。「主はわたしに言われた。『見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。』」

救いが完成されるためには、傲慢が壊されなければなりません。自己中心が滅ぼされなければなりません。神に背くすべての罪が滅ぼされなければなりません。救いの共同体にもはや個人個人の独り勝ちはありえません。キリストのみが、わたしたちの罪と死に打ち勝った唯一の勝利者でありますから。11節、手紙の終わりに近く、彼はこれまでの厳しい態度をやわらげて、さようならの挨拶をしています。「終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい(全き者となりなさい…口語訳)。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます」と。

パウロはずっとコリントの人々に厳しくとがめて来たので、最後まで彼らの心が辱められて苦しんだままにして手紙を終わりたくなかった様です。彼は彼らを慰めたいと思いました。パウロの愛を感じてこそ、コリントの人々は彼の叱責を心静かに受け止めることができたのではないでしょうか。そしてパウロは、本当は一部の人々の悪行なのですが、厳しい咎めを教会全体に教えました。それは、教会がキリストの体に連なる者として完全なものとなるためであったのです。

そして励まし合うこと。心を一つにすること。平和を保つこと。すなわち、互いに温かい心をもって心の結びつきを強めるように勧めています。これらのことを守るならば、神はわたしたちと共にいらしてくださるに違いありません。神はわたしたちに平和と慈愛を勧め給う方です。神御自身が、これらを愛し、これらを造り出し給うたからであります。だとすれば、反対に言い争いをしている者は皆、神から遠ざかったものであり、神との間に親しい交わりを持たないということになるのではないでしょうか。さらに言うならば、不和と争いがあるところには、確かに悪魔が君臨しているとも言えます。そう考えると、わたしたちは本当に日々、悔い改めて、主にしっかりと結ばれていることこそを求めるべきではないいでしょうか。パウロは祈りをもってこの手紙を結びます。

13節は、礼拝の最後の祝祷として用いられている言葉です。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」この祈りの三つの部分に私たちの救いの枠組みのすべてがあるのです。最初にキリストの恵みを祈り求めます。キリストの恵みとは、罪の贖いのすべての恩恵を意味するのです。

そして神の愛が、教会に祈られています。キリストの恵みの因は、実は神の慈愛にあるのです。ヨハネ3:16にはこのように語られています。「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。」このように、神はキリストの恵みによって、わたしたちを御自身の子としてくださったのであり、御自身の愛をわたしたちに及ぼしてくださいました。

そして三番目に聖霊の交わりが付け加えられました。わたしたちがキリストとそのすべての富を所有することができるようになるのは、全く聖霊の導きに他なりません。しかし、聖霊の賜物はいろいろあり、神は各人に別々に関係なく、バラバラに御霊の賜物をお与えになるのではありません。教会全体の益となるように与えられるのです。キリストの体の各部分である私たちが、互いに交わりを保つことによって、主に在る一致を保つことができるでしょう。決して個々人がバラバラに救われるのではないことは、個人主義の時代を生きて来た私たちが、いつも心に留め、悔い改めなければならないことではないでしょうか。救いの完成を目指すのは、キリストの体の教会に結ばれている信仰者なのです。祈ります。

 

主なる父なる神さま、

本日の礼拝を感謝し、御名をほめたたえます。私たちはコリントの信徒への手紙、二を通してあなたの御旨を伺って参りました。使徒の、教会を思う愛が、教会の不正と戦っていることを思い、主の教会を建てる戦いを考えさせられました。

主よ、わたしたちの教会にも聖霊を注いでください。御言葉によって正しく整えられ、悔い改めに招かれ、真に主の体にふさわしい者と造り変えられますように、切にお乗り升。

あなたの御心を尋ね求め、従い行く教会を、ここに、この地にも立ててください。連合長老会の中で、日本基督教団の中で、また全国全世界の教会と共に、しっかりと伝道に励む教会となりますように。昨日は「子どもと楽しむ音楽会」を主宰することができ、真に感謝です。あなたは多くの人々をお招きくださいました。あなたの恵み深さ、キリストの中に隠された計り知れない宝の恵みを世の人々にお知らせください。そのためにどうぞ教会を豊かにお用いください。教会に来ることが困難な信徒の方々も、その生活の場で職場で教会を思い、福音を証しする生活が与えられますよう、わたしたちは主に在って一つ。心から励まし合い、労わり合い、主の体に結ばれて、健やかさにおいて完全なものとしてください。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

エレミヤ書1章

7  しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。

8  彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と主は言われた。

9  主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける。

10 見よ、今日、あなたに諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために。」

コリントの信徒への手紙二13章

6  わたしたちが失格者でないことを、あなたがたが知るようにと願っています。

  • 口語訳・・・しかしわたしは、自分たち(=ヒューメイス)が見捨てられた者ではないことを、知っていてもらいたい。
  • I hope you will find out that we have not failed.
  • パウロはひとたびコリント教会が彼を見捨てることがないとの確信をもっていたけれども。
  • 願っている・・・この議論の激しさを和らげる。

7  わたしたちは、あなたがたがどんな悪をも行わないようにと、神に祈っています。それはわたしたちが、適格者と見なされたいからではなく、たとえ失格者と見えようとも、あなたがたが善を行うためなのです。

  • 口語訳・・・わたしたちは、あなたがたがどんな悪をも行わないようにと、神に祈る。それは、自分たちが本当の者であることを見せるためではなく、たといわたしたちが見捨てられた者のようになっても、あなたがたに良い行いをしてもらいたいためである。
  • But we pray to God that you may not do anything wrong — not that we appear to have the test, but that you may do what is right, though we may seem to have failed.
  • ファノーメン・・・ファイノーの接続法。見える。輝く。
  • 彼は再び、自分は自分一個の誉れに固執している者ではなく、ただ彼らの益、救いの御を求めている者である、と確言する。
  • わたしは、自分自身のことにも、人々が当然受けて良い名声についても頓着していない。わたしが心配していることは、ただあなたがたが神を辱めるようなことはないか、という点である。
  • 彼らが彼の教えの身を全く失ってしまっているとしたら、とんでもないことである。
  • 見捨てられた者・・・人間的な見地から言っている。人間はだれにもまして誉れを受けるに値する人をもしばしば捨て去ってしまうことが多い。
  • 牧者たる者は、自分自身のことは全く顧みることなく、ただ自分の教会の徳を高めることのみに熱心になるべきである。
  • 自分の評判をよくすることに努める・・・全体の益にとって有用であると見える場合のみそうする。その必要がなければ自分の名声などには目もくれない覚悟が出来ていなければならない。

8  わたしたちは、何事も真理に逆らってはできませんが、真理のためならばできます。

  • 逆らって・・・カタ=according to~, against, 真理に逆らって、 ヒュペール=for the sake of ~
  • カルヴァン訳「なぜなら、わたしたちは、真理に逆らっては、何をする力もなく、真理にしたがえば力がある。
  • パウロ・・・私は、神が自分に与えてくださった力以外の者は求めないし、望まない。それは真理に仕えるためである。
  • 偽使徒・・・一旦力を持つとその有様は皆同じである。彼らはその力を良いことに用いようという心遣いはまるでない。
  • だから真理のために戦い、労する人は憂いに沈むことがないことを明示しようとしている。
  • たとえ人間の考えによって蔑まれ、見捨てられた者のように見なされることがあっても、それによって神の栄光や、教会の建徳、聖なる教えの権威を損なうことがない限り、憂える必要はない。
  • これは教会の牧師の持つべき力の限界を示している。牧師は真理に仕える者でなければならない。
  • 次の言葉(ルカ10:16「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」125下。)を口実にして、わがまま勝手、したい放題のことをする者は厳しい裁きを受けるだろう。すなわち、教会において支配権を持つほどの人(教会の牧師、長老)は、真理に仕える人でなければならない。
  • 私は、神が自分に与えてくださった力以外の者は求めないし、望まない。それは真理に仕えるためである。
  • 御自分がこの時間の世界に来られた目的・・・真理について証しする。
  • 真理に属する人は皆、わたしの声を聞く・・・心の耳で聞く、すなわち、キリストの声に従う=キリストを信じる。
  • 真理について証しする・・・明らかに御自分について証しをされるのである。
  • わたしは真理である(14:6)
  • ローマ8:28「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。
  • その御計画はお召しになる方の計画であって、召された者の計画ではない。
  • すべてのものは真理に属する・・・真理である方が、すべてのものを造るのであるから、わたしたちがその方の中に造られた本性を考えるならば、真理に属さないものがだれかいるだろうか。
  • 真理に従うゆえに真理に属するのではなく、真理に属するゆえに真理に従うのである。(アウグスチヌス。)
  • 真理に属する・・・それは真理から贈られた賜物。わたしたちがキリストを信じるのは、キリストの賜物以外の何ものでもない。
  • 真理とは何か・・・ピラトはこの問を放ったけれども、答を聞くためではなかった。
  • アレーイア・・・真実。本当のこと。真理。/ 信実、誠実、まっすぐであること。ヨハネ福音書の真理とは、神の真実がキリストの中に啓示されていることを意味する。

9  わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っています。

  • カタルティゾー・・・strive for perfection,
  • カタルティシス・・・being made complete
  • カルヴァン訳「(だからgar…結果を表す)わたしたちは(もちろん)、自分は弱くても、あなたがたが強ければ、それを喜ぶ。そのこと、すなわち、あなたがたの完全を特に願っているくらいである。」
  • パウロは、「自分はかれらへの愛ゆえに、彼らの益のために、見捨てられた者のように見なされても厭わない」と言ったことの第二の理由。
  • 自分が弱くても・・・弱さ、脆さは軽んじられることを意味する。しかし、神の力と恵みに満たされれば、そのときは強くなる、と彼は言う。
  • 完全・・・すべての肢体の適切な調和とその健全さのことを言う。良い医者は個々の病気を癒すときにも、どこかの部分が損傷したりすることのないように注意する。この完全さを守り抜こうとする心遣いがあったからこそ、実際に行った時に、きつい激しい手段を取らないで済むように、予め予防策を取っているのだと。

10 遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威によって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです。

  • カサイレシス・・・destruction
  • パウロは自分に与えられている権威を、教会の中にある不徳を罰するためではなく、彼らの徳を高めるために用いたいと願っている。罰よりも幸いのために権威を用いたい。なぜならこれこそが目標であったから。
  • Ⅱコリ10:8「あなたがたを打ち倒すためではなく、造り上げるために主がわたしたちに授けてくださった権威について、わたしがいささか誇り過ぎたとしても、恥にはならないでしょう。」336下。福音からあなたがたに益がもたらされる。だから福音を尊ぶべきである。パウロの権威は福音の権威なのだ。
  • ローマ1:16「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」273下。
  • Ⅱコリ2:15-16「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。」327下。

11 終わりに、兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい(全き者となりなさい)。励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。

  • 最後に彼はこの手紙全体にとって来た厳格な態度を和らげる。
  • Finally, brothers and sisters, farewell. Put things in order, listen to my appeal, agree with one another, live in peace; and the God of love and peace will be with you.
  • 喜びなさい・・・挨拶。さようならであり、「こんにちわ」にも相当する。
  • 彼らの心が辱められて苦しんだままにしておきたくなかった。彼は彼らを慰めたいと思ったからである。
  • パウロの愛を感じてこそ、コリントの人々は彼の叱責を心静かに受け止めることができたのである。
  • 彼はコリントの一部の連中に向かって説きたかったが、教会全体に教える、教会が全きものとなるためである。
  • こころを一つにすること・・・思いの一致
  • 平和に過ごすこと・・・温かい心、心の結びつき
  • これらを保つならば、神がわたしたちと共にいますであろう。
  • 愛と平和の神・・・神はわたしたちに平和と慈愛を進め給う。これらを愛し、これらを造り出し給うたからである。言い争いをしている者は皆、神から遠ざかったものであり、神との間に親しい交わりを持たない者である。
  • 不和と争いがあるところには、確かに悪魔が君臨しているのだからである。
  • Ⅱコリ6:14「あなたがたは、信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません。正義と不法とにどんな関わりがありますか。光と闇とにどんなつながりがありますか。」332上。

12 聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。

  • アスパゾマイ・・・挨拶する。
  • フィレーマ・・・キス。カルヴァンはこの解説をⅠコリ16:20、ローマ16:16でしている。

13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。

  • 彼は祈りを以て手紙を結ぶ。
  • この祈りの三つの部分に私たちの救いの枠組みのすべてがある。
  • キリストの恵み・・・贖いのすべての恩恵を意味する。
  • 実は神の慈愛こそ、この恵みの原因である。
  • なぜ、キリストが先になっているのか、という問い。
  • ローマ5:10「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」279下。
  • しかし、キリストによって和解を受ける以前は神と私たちとの間には敵対関係があったことを告げている。
  • ヨハネ3:16「神はその独り子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。」
  • 神はキリストの恵みによって、わたしたちを御自身の子としてくださったのであり、御自身の愛をわたしたちに及ぼしてくださった。

聖霊の交わりが付け加えられた・・・聖霊の導きによってのみ、わたしたちはキリストとそのすべての富を所有することができるようになるのだから。しかし、賜物はいろいろあり、神は各人に別々に関係なく、バラバラに御霊を与え給うのではない。教会全体の益となるように与えられる。キリストの体の各部分が互いに交わり合うことによって、善き一致を保つことができる。