束縛を解かれる

9月の説教

説教箇所 ルカによる福音書第13章10-17節

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

 

「この女は、アブラハムの娘なのに、18年もの間、サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(16節)

本日の聖書日課では、新約聖書の箇所としてルカによる福音書13章10節以下が与えられています。これは、ルカによる福音書独自の記事であり、イエス様が安息日に、腰の曲がった女性を癒したことが記されております。

安息日にイエス様が、会堂、ユダヤ教のシナゴーグで教えておられた時のことでした。そこに18年間も、病の霊に取りつかれている女性がいたと聖書には記されております。これは「弱さの霊」とも訳すことができる言葉だそうです。この女性が具体的に何の病気であったのか、その病名を特定することは困難ですし、またあまり意味のあることではないでしょう。

大切なのは、その病気が、弱さの霊が原因であり、また16節にも、「この女はアブラハムの娘なのに、18年間もの間サタンに縛られていたのだ」と記されていますように、霊的な力によるものであったということです。この女性は、そのような霊的な力によって苦しめられ、18年間もの長い間、それに縛られていたのでした。

この女性を見た主イエスは、女性を呼び寄せ、その病をいやされました。それは真に奇跡的な癒しの業でした。イエス様の癒しの物語を読むとき、私たちは、ともするとその奇跡としか言いようのない癒しの御業に注目しがちです。しかし、他の福音書とも共通することですが、ルカによる福音書では、そのような奇跡そのものよりも、むしろ、その奇跡を通して、イエス様が語られた教えに注目するように、読む者をうながしています。今日の聖書箇所でも、それは言えます。この不思議な癒しを通して、イエス様は、安息日とはいかにあるべきか、安息日の本当の意味とは何かということを教えてくださっているのです。

そのことは、その直後の14節以下で、ただちに会堂長と安息日の規定に関する議論が展開されていることにも表れています。シナゴーグでは、しばしば安息日というものが、どうあるべきか、安息日の過ごし方について話されることがあったようです。そして、会堂長、つまりシナゴーグの責任者であれば、安息日の規定についても詳しかったのでしょう。

安息日には、あらゆる労働をやめ、休まなければならないというのは、ユダヤ教の基本的な教えです。これは、当時だけでなく、今でもイスラエルでは厳格に守られています。昨年の夏にイスラエルに行ったとき、私も、それを始めて経験しました。ユダヤ教の安息日は、金曜日の日没から始まって、土曜の日没まで続きますが、この金曜日の夕方になると、ユダヤ教徒の店は、軒並みしまってしまいます。そして、静まり返った町の中で開いているのは、ユダヤ教徒以外の人のお店だけになってしまいます。私たちも、夕方には観光客向けの中華料理のお店に入った思い出があります。

このようにユダヤ教の規定では、安息日には緊急性のあること以外は、働いてはいけないとされています。そのため、イエス様が、安息日に癒したことに腹を立てた会堂長は、群衆に向かって、14節にあるような言葉を語ったのです。「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」(14節)

この会堂長の判断は、ユダヤ教の規定に適ったものでした。ユダヤ教の安息日規定にも、例外はあって、緊急の病であれば、安息日にも治療することは許されていました。しかし、この女性は、18年間ずっとこの状態であったわけですから、緊急性は低い、だから、安息日以外の日に治してもらうべきだ。こう会堂長は主張したのです。そして、このような会堂長の主張は、ユダヤ教の規定に従えば、真にもっともな判断でした。しかし、それに対して、イエス様は、安息日の本質、安息日の本来の意味は一体何なのかということを示されます。

会堂長たちが厳格に守っていた安息日の規定は、確かに旧約聖書の律法、つまり神の言葉から出たものです。しかし、神様が、安息日を定められたのは、一体何のためであるのか。それは、細かな規則によって、人を縛り付けるためのものでしょうか。何もしないということを強制するためのものでしょうか。

安息日の本来の意味は、全く逆のものです。安息日とは、本来、神様が与えてくださった解放の日です。神様の恵みに生かされる日です。主イエスは、それを、反対者たちの矛盾を突きながらお示しになりました。15―16節には、「しかし、主は彼らに答えていわれた。『偽善者たちよ、あなたたちは誰でも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、18年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』」と記されています。

ここでは、「縛られている」ことと「解放される」ことの対比がなされています。イエス様に反対した人たちは、自分の家畜を安息日に世話することは忘れませんでした。そうしなければ、暑さの中で、家畜が水も飲めず、食べ物も食べられず死んでしまうからです。そのように、彼らは、自分たちの家畜が、たった一日であっても、縛り付けられたままにしておくことはしません。ところが、同じアブラハムの娘、同胞である女性が、18年間も、病に縛り付けられている状況は、全く放置していたのです。そして、「安息日以外の日に、また癒しにもらいに来たらいいではないか」と言うのです。つまり、彼らは、自分の家畜を大切にすることは知っているのに、自分の同胞を大切にすることには、徹底的に無関心であるということです。主イエスは、その矛盾を指摘されました。

そして、その女性が、18年間も苦しんできたのだから、その束縛から一日も早く解放してあげるべきではないかと言われたのです。

新共同訳聖書では、「安息日であっても、束縛から解いてやるべきではないか」と訳されていますが、この言葉は、「安息日だからこそ、束縛を解いてやるべきではないか」とも訳することができるようです。そのように理解する方が、安息日と束縛からの解放の間により強い結び付きが生まれます。

そもそも安息日というのは、本来、解放の日です。ただ仕事を休むというだけではなく、束縛されている者、苦しんでいる者が、神の愛によって解放され、救われる日です。

イエス様のお言葉を聴いて、反対者たちは恥じ入り、一方、群衆は、イエス様の行いを見て喜んだと記されています。それは、イエス様の言葉が正しいものとされたことを意味しています。主イエスの教えを通して、自分たちの犯している矛盾や過ちを突きつけられたことを示しています。

今日の聖書の箇所は、私たちに安息日の本当の意味を教えてくれます。そして、この箇所は、同時に、一つの問を私たちに突きつけるものでもあります。その問いとは、束縛されていたもの、歪んでいたものは、その女性だけだったのだろうかという問いです。確かに、イエス様によって癒され、18年間の束縛から解放されたのは一人の女性でした。しかし、会堂長たちもまた、束縛され、歪んでいたことが、聖書には表れています。彼らは、安息日の規定という複雑怪奇な教えに束縛され、その本来の意味、つまり神による解放という本当に大切なことを見失っていました。その結果、本来は神様が良いものとして与えてくださった安息日そのものを歪めてしまったのです。

しかし、これは何も、彼らだけに限ったことではありません。私たちは、ともすれば何かに囚われて、本来の意味を見失ってしまうことがあります。ありがちな例え話ですが、例えば、子どもにベッドを与えたとします。ベッドは、本来、人に安眠を与えてくれる良いものです。ところが、子どもはどんどん大きく成長していきます。そして、ついにベッドからはみ出るぐらい大きくなりました。その時、まともな判断であれば、新しい、子どもの背丈にあったベッドを買い与えるということになるでしょう。しかし、そのベッドに囚われてしまった親は、逆に、ベッドに合わせて子どもの足を切り落とすのです。

もちろん、これはあくまでたとえ話であって、その愚かさを笑うことはたやすいことです。しかし、実際には、私たちは、さまざまなことに縛られて、同じような過ちをしていることに気づかされることがあります。むしろ、この世界で起きる問題の多くは、わたしたちが何かに囚われて、本質を見失った結果と言っても良いかもしれません。そして、何かに囚われる時、本来良いもの、良い意図をもって始まったことであっても、形骸化し、腐敗し、歪められていくことになります。

この私たちの持つ歪み、それを聖書では人間の罪であると語っています。聖書が語る罪というのは、単に悪いことをするという意味ではありません。聖書における罪とは、私たちが、神様から離れていることであり、そして神様から離れているがゆえに、まっすぐ、正しく生きることができず、歪んだ生き方しかできないことを指します。

今日の話でも、それは表れていました。安息日は、まぎれもなく神様が定めてくださったものであり、本来、とても良いものです。しかし、人間が持つ罪ゆえに、その本来、良いものである安息日もまた歪められてしまうのです。その結果、安息日は、安息の日ではなく、人を束縛する日となってしまうのです。

そのような束縛から、私たちを解放してくださるのは、ただ主イエス・キリストしかいません。今日の聖書箇所で、腰のまがった女性をいやしてくださったように、私たちを罪から解放し、真の自由を示してくださるのは、主イエスのほかにいません。

安息日に、主イエスによって癒された女性は、腰がまっすぐになり、神を賛美したと、聖書には記されています。また、その主イエスの行いを見た群衆は、喜んだとあります。これこそが、安息日の本来の姿です。主によって罪の束縛を解かれた者が、賛美し、喜ぶ、これこそが本当の安息の日なのです。

私たちもまた、毎週日曜日に主日礼拝、つまり安息の日を守っています。こうして、主の日に集められ、主を賛美し、主を喜んでいます。もし主が、私たちを礼拝へと招き寄せてくださらなかったならば、長年にわたって束縛されていた女性のように、私たちも今もなお罪に縛られていたでしょう。まっすぐに立つことができず、苦しめられていたでしょう。しかし、主は、この女性と同じように、私たちをも招き寄せ、手を置いて癒してくださいました。主の安息の日に、主の御言葉を通して、私たちも罪から解き放たれ、自由にされるのです。

この主イエスが回復してくださった安息日の本来の意味を心に留めましょう。そして、私たちも、主によって解放されたことを賛美し、また喜びたいと思います。

祈りましょう。

2019年9月号

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

焦凝先生のお話

(7月21日の礼拝で話されたものです。)

聖書:ルカによる福音書12:13-21

 今までは十戒を教会学校で皆さんと勉強してきました。今日は最後の箇所、第十戒を勉強します。
十戒は人間のために神様からモーセに授かった戒めです。しかし、私たち罪のある人間にとっては、これらの戒めを守ることが難しいことです。でも、神さまは私達が恵みの内に生きてほしいから、その故に神さまは私たちに神様の戒めを守ってほしいということです。
しかし、この最後の戒めでも私たちにとっては、どれだけ難しいことなのか、焦先生もよくわかります。「他人の物や財産を欲しがってはいけない。」。ここでいう財産は、低学年の子どもにとっては、あまり持っていないから関係がないと思うかもしれませんが、私たちの持っているおもちゃについて考えるとわかるかもしれません。
焦先生がまだ1、2年生のころトランスフォーマ―という遊びが大流行していました。アニメと共に、トランスフォーマーのおもちゃがBANDAIという日本のメーカーで作られました。しかし、当時は日本で製造したものが中国に輸入されると値段が高くなります。誕生日のプレゼントはいつもトランスフォーマーで、学校のテストでいい成績が取れたら、ご褒美ももちろんトランスフォーマーでした。どれも模倣品つまり偽物でした。一人の友達のお父さんがアメリカから出張帰りで、友達に当時最も人気のあるコンボというキャラクターのおもちゃを買ってきました。その友達は家に来る友達に触って欲しくなくて、箱入れの状態で高いタンスの上に置いていたことをはっきり記憶しています。その時の焦先生はきっととっても欲しがったでしょう。

皆さんもこの気持ちはあったでしょうか。実はいっぱい持っているけど、むしろいっぱい持っていたけど、どうしても他のだれかが持っているものがいい、その人が持ったものが欲しい。この気持ちは貪欲といいます。十戒の最後で皆さんに警告するものはつまり貪欲についてです。

皆さんが、学年が上がって来ることによって、小遣いも親から配られます。小遣いをたくさんもらっているお友達が羨ましいでしょうか。もらっているけど足りないと思ったときから、今日の聖書で出てくる遺産を分けるとおおきなくらを作ってすぐ死んだお金持ちと変わらないことになります。つまり貪欲のひとです。

小遣いに関して、定額のおうちか、家事手伝い分で支給するおうちがあるででしょうか?みなさんは小遣いを自分のもの、あるいは親のものと思っているでしょうか?小遣いは私達の金銭感覚を養うためのものと考えている親が多いと思います。しかし、私達がてっきり自分のものだと思ってしまうことが多いのではないでしょうか。

この世の中の財産は神さまが私達に与えたものですが、私達は私たちの財産は自分の能力や努力で出来たものと思ってしまうことが多いのではないでしょうか。一番大事にしないといけないことは、神さまから私達が豊かにいただいていることを認めること、恵みの大切さを意識することです。つまり神さまのご存在と私たちに多く与えてくださることを認めることです。
ここにいる皆さんはいずれ大人になると思います。その時にお給料をもらう優秀なサラリーマンになるかもしれません。また経営者になってお金持ちになるかもしれません。そうなったときに、今日の説教の貪欲についての教えを忘れないでほしいです。私たちがもっているお給料、資産や不動産はどんなに少なくても多くても、神さまからいただいていることを忘れないでほしいです。
私たちの人生は色々あると思います。多くもらう時もあり、貧しいときもあります。どんな時でも貪欲に陥らずに、神さまから恵みをもらっていることを忘れずに感謝することが今日の教えです。

9月の御言葉

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものを御存じなのだ。」

マタイによる福音書6章8節

9月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

★ お話の聖書箇所と担当の先生

聖書 お話
9月 1日(日) 詩編116:12~19 藤野美樹 先生
   8日(日) サムエル記上 3:1~18 山口智代子 先生
  15日(日) サムエル記上1:10~28 藤野雄大 先生
  22日(日) マタイ6:5~13 興津晴枝 先生
  29日(日) イザヤ書63:16 藤野美樹 先生

成宗教会学校からお知らせ

みなさん、夏休みは楽しく過ごせましたか。教会学校の礼拝も9月からまた始まっています。礼拝時間は9時15分からです。小さいお子様から高校生まで、ぜひいらしてください。