祈りの格闘

聖書:創世記32章23-33節, ヨハネの手紙一 5章13-15節

 年の初めと言えば、普段はお祈りのことが全く話題にならない世の中でも、元朝参りから始まるお祈りに関心が集まる季節です。それにしても何気なくテレビを見ていると、マスコミは神社、仏閣の様子を映して一生懸命宣伝をしているように見えますが、このことも海外から観光客を呼ぶために貢献しているのでしょうか。あまりにも多くの人々があちらを拝み、こちらを拝んでいるのを見ているので、わたしたちはそういう様子にとても慣れてしまっております。日本の教会は平日だれでも自由に出入りできるように玄関を開放しているところは少ないと思いますが、教会の北側にあるお地蔵さんを拝むために立ち止っている人々を時々見ますので、教会も戸を開けておくと祈るために来る人がいるかもしれません。

しかし、このように神仏と称するものを何でもかでも拝む人々の祈りと、教会の祈りは全く違うのですが、わたしたち自身、その違いをどこまではっきりと意識しているでしょうか。わたしたちは思うのではないでしょうか。「家内安全とか、無病息災とか、わたしたちも願っているではないか。祈っているではないか。祈る気持ちはだれも一緒ではないか」と。そう思うのは、祈ることについて考えるときに、わたしたちは、まず祈りの内容から考え始めるからです。

本日の信仰問答は「祈るときに大切なことは何か」についてです。み言葉に聴きましょう。わたしたちが祈るときに何よりも大切にしていることは、祈りを聞いてくださる相手です。すなわち祈りを聞いてくださるのは真の神さまだけである、ということなのです。祈ること自体、相手が誰でもいいから四方八方頭を下げるという、まるで選挙の立候補者みたいなことをするのではありません。そうではなく、本当に祈りを聞いておられる方に祈るのです。真の神さまがおられる。そして良いものを与えてくださるのは真の神さまだけだと信じて祈ります。

そうすると、わたしたちにとって良いものが何か、それを本当にご存じなのも神さまだけ、と信じていることになりますから、わたしたちの祈りは、自分の願いを祈るだけでなく、それと同時に神さまにすべてをお委ねして行くことになります。わたしの願いはこれこれだけれども、すべてを御存じの神さまはきっと最良のことをしてくださる、と信じることができる。真にこれよりも平安なことはありません。

けれども、わたしたちの人生には、大きな試練に見舞われることがあります。自分の身に起こること。またそればかりでなく、それまであるのが当たり前であったものが突如、無くなってしまう、あるいは変ってしまうということは、わたしたちを危機的な状況に陥れます。その時、「わたしの願いはこれこれだけれども、神さま、どうぞ御心のままになさってください」と祈ることが、果たしてできるでしょうか。

今日、私たちは創世記32章を読んでいます。これは、アブラハムの子、イサクの子、ヤコブの物語で、ヨルダン川のヤボクの渡し場を渡ろうとしたときの不思議な出来事が描かれています。ヤコブは家族と共に旅をして、故郷の兄エサウとの再会を目指していました。彼は若い時、兄エサウの怒りから逃れるために故郷を去り、伯父の家で働く者となりましたが、この伯父も狡猾、また冷酷な人で、ここも平安な居場所はありませんでした。彼は厳しい仕打ちを受け、耐え忍んで20年、ついに故郷に帰る決心をしました。しかし、故郷の兄はそれを知ってヤコブに会いに出て来るというのです。

ヤコブはその夜、家族と召使いと家畜や持ち物すべてを川の向こうに渡らせ、自分は独り残りました。すると何者かが来て夜明けまでヤコブと格闘したというのです。ヤコブのこの目に見える格闘こそ、教会の人々が日々経験している祈りを象徴しているのではないでしょうか。なぜなら、私たちの試練の時も、私たちは正に神さまと格闘しなければならないからです。しかし、一体だれが神さまに逆らって立つことができるでしょうか。神さまと競争しようとすること自体傲慢で無謀なことではないでしょうか。

しかし、驚くべきことですが、また感謝なことですが、神さまは私たちがこのようにご自分に立ち向かって来ることを喜んでおられるのです。だからこそ、見えない方が、従って、立ち向かおうにも、立ち向かうことなどできない方が、こうして見える姿、(夜の暗闇の中でしたが)人のような姿でヤコブと格闘するために現れたのです。わたしたちはこのように神さまの力によらなければ、助けによらなければ、神さまと戦うことなど決してできないのです。神さまはこの戦いへとわたしたちに挑戦し給うのです。「さあ、かかって来なさい」と無言で挑戦してくださるのです。そして、それと同時に、神さまはわたしたちが抵抗して戦う手段を私たちに備えてくださるのです。これは不思議な戦いです。神さまはわたしたちと戦うと同時に、わたしたちのために戦ってくださるからです。

これが祈りの格闘です。要するに神さまは、わたしたちと片方の手で戦いながら、その間に、もう片方の手でわたしたちを守ってくださるというやり方で格闘を行ってくださいます。神さまは、いわば左の手ではわたしたちに敵対して戦い、右の手でわたしたちに味方して戦ってくださり、その結果は、わたしたちがしっかりした力を与えられて試練を克服できるようにしてくださるのであります。このような祈り。このような祈りを神さまは聞いてくださるのではないでしょうか。

32章26節。「ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。」ここにヤコブの勝利が描かれています。しかし、この勝利は彼に傷を負わせずには、得られなかった勝利でし。前にお話したように、ヤコブと戦うために天使の姿で現れているのは、創世記がわたしたちに理解させるために人間的な表現を取っているからです。そうでなければ人間が神さまと格闘するということは表現できないからです。こうしてヤコブは闘いに勝利したのですが、天使は彼の腿を打ったので彼は生涯足が不自由になりました。しかし、この不自由さは彼の信仰の勝利のしるしとなりました。そして、このしるしによってすべての信仰者は自分の受ける試練において祈り、勝利を得ることができることが明らかになったのです。

祈りが聞かれるということの奥の深さを思うことができるならば幸いです。私たちは祈りの格闘をし、勝利を得るならば、その喜びはどのようなものでしょうか。しかし、喜びのあまり得意になって、有頂天になって神さまを忘れるようなものでしょうか。それはちがうでしょう。神の力は私たちの弱さにおいて完全なものとなります。というのは、本当に救われた者の喜びは、同時に私たちを謙虚にさせるものですから。27節です。

「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」ヤコブは祝福を求めました。私たちは礼拝の最後に牧師の祝祷を受けますが、本当に私たちを祝福するのは、神さまだけにあるご性質なのであります。この神さまのご性質を職務としていただいているので、牧師は神の言葉を説教し、また人々を祝福することができるのですし、そうしなければなりません。私たちはこのことから教えられることがあります。それは、あれやこれやの具体的なことを祈ることはもちろん良いのですが、何よりも祈らなければならないことは、神さまの祝福、すなわち聖なる、神さまだけがお与えになることができる恵みをいつも求めることなのです。それは、具体的なあれこれの願い事、無病息災など祈って、それが叶えられた途端に、神さまから遠ざかり、眠りこけたような人生を送るよりもはるかに価値あることではないでしょうか。

祈りの格闘にご臨在される神さまを、聖書はヤコブの物語に証しします。わたしたちは神がご臨在されることを感得しない限り、得意になって自分に満足しているものです。そしてこのことは、人間が地上のことに傾倒している時、愚かにも自分を誇っている空想の命にすぎないのです。新約聖書、ヨハネの手紙一5章13節は語ります。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」教会はもちろんまだ福音を知らない人々に伝道をしているのですが、決してそればかりではありません。既に信仰を告白し、洗礼を受けて教会に連なっている人々にも、教えを広め続けているのです。なぜなら、わたしたちの信仰は日々成長して行かなければならないからです。一層堅固で確実な信仰を持って、永遠の命に確実に与ることをわたしたちは目指しています。

そのためにヨハネの手紙が勧め、戒めたことは、このことです。キリストの他に永遠の命を求めてはならない。力を尽くしてキリストの恩恵をたたえ、讃美し、彼らがこの恩恵に心満たされて、もはやそれ以外の何も欲しないように。ここでわたしたちはカテキズムの今日の問に立ち帰りましょう。問54 「祈るときに大切なことは何ですか。」そして、その答は「神さまだけが最も良いものを与えてくださることを信じて感謝し、熱心に求めることです。」教会はイエス・キリストによって神さまの真実のお姿、ご性質を知らされました。イエスさまによって永遠の命をいただく希望を信じたのです。ですから、「あちらを信じれば良いものがもらえるかもしれない」「いや、こちらにもお願いすればもらえるかもしれない」という祈りでは決してない、ということです。

また、真の神さまならわたしたちの願いを皆叶えてくださると思うことも正しくありません。ヨハネ一、5章14節。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うならば、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。」なぜなら、私たちは本当に自分に何が幸いなのか、良いことなのかを理解していないのですが、神さまは最も良いことを知っておられ、私たちが信頼するならば、それを実行に移してくださる方だからです。ヨハネの手紙は神さまに対する確信について、それがどこにあるかを教えるのです。確信は、キリストを信じて大胆に祈り求めれば与えられるのだと。

イエスさまは言われました。「わたしは道であり、真理であり、命である」と(ヨハネ14章6節)。真にイエス・キリストこそは信仰の本来の目的です。ですから、イエスさまのお名前を通して、祈ることを実践することこそ、わたしたちの信仰の訓練であり、また試練でもあるのです。祈りが聞かれるということは、本当に信頼して大胆に祈るのでなければ、実感することができないからです。そして、イエスさまによって伝えられた天の父の御心を日々深く知るように努めることがなければ、本当に父、御子、聖霊の神さまを信頼することはできないのです。真に不信仰な世に在って、わたしたち自身も確信に乏しい信者であっても、それでも世界中に教会が建てられ、み言葉が伝えられ、祈りがささげられている現実を見る時、神さまの憐れみと忍耐が、どんなに世界を覆っているかを思わずにはいられません。

私自身は戦争のない真に豊かな時代を70年生きましたが、それでも人々が老いと病と死に苦しんでいる有様を見、ここに神さまの悲しみと救いの熱意を感じて献身しました。自分自身50年生きて後の献身でしたので、ほどなく高齢者の列に加えられました。教会は今、目の前にいるわたしたちで成り立っているように見えるのは無理もないことですが、実は過去の信者の信仰の恵みが祝福されているからこそ、後に続いて行くものです。それぞれの時代にそれぞれの信者に多くの試練があったでしょう。しかし、共に祈った所に教会が残りました。祈りの格闘があった所に、大胆に祈るところに信仰の確信が与えられました。

今、成宗教会は後任の先生方をお迎えしようとしています。同じ信仰告白によって立ち、同じみ言葉の説教によって聖礼典によって教会を建設しようという志を以てお出でになります。お若い教師の方々をお迎えするために、祈りをもって、感謝を捧げて、備えましょう。主が私たちの必要を満たしてくださることを信じて。祈ります。

 

主なる父なる神さま

御名をほめたたえます。本日は祈りについて学びを進めることができ、感謝です。成宗教会に祈りがあり、あなたの憐れみと恵みがありましたので、教会はこの地に立ち続けることができました。多くの人々がここで洗礼を受け、礼拝を守りました。今、教会は東日本連合長老会の一員となって共に学び、教えを受けていますことを感謝します。また8代目の私の退任の後、新年度には新任の教師の先生方を迎えようとしております。藤野雄大先生、美樹先生のご健康とご準備の上にあなたの恵みが豊かにございますように。

また、どうかこの時に私たちを励まし、あなたに感謝を捧げる者とならせてください。高齢の教会員が礼拝に足を運べなくなって改めて、礼拝に心を向けて祈っておられます。どうかすべての教会員が忙しい生活の中で礼拝を守り、み言葉を聴くことを何よりも大切なこととすることができますように。日曜日に休めない仕事の方が増える中でも、神さま、み言葉なるキリストに従うために、すべての教会員がこの志を持ち、そのために祈りを篤くすることができますように、助けてください。そのことによって、主よ、何よりも礼拝を大切にすることによって私たちが次の時代の先生をお迎えすることができますように道を開いてください。

教会長老会の働きを感謝します。教会記念誌編集の歩み、また会堂の整理整頓の歩みが導かれ真に感謝です。どうか長老の方々の健康が守られ、ご家庭が整えられますように。新しい先生方と心を合わせて奉仕する長老、信徒となりますように励まし、また新たに起こしてください。寒さの厳しい季節ですが、教会に連なる兄姉、求道者の方々の健康と生活が守られますように。

すべてのことを感謝し、御心のままに導かれるようにと祈りつつ、この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって御前にお献げします。アーメン。

主は熱情の神である

聖書:出エジプト記204-6節, ヨハネの手紙一51821

 成宗教会は、礼拝の中で教会の信仰について学びを進めています。それは古くからカテキズム信仰問答によって行われて来た学びです。それは使徒信条と 十戒 と主の祈りを学ぶことによってなされて来ました。本日は十戒の第二の戒めについて学びます。十戒はモーセが神さまから受け取って、神さまの民、イスラエルに教えたもので、出エジプト記20章に書かれています。

本日はカテキズム42。十戒のうちの第二の戒めです。それは出エジプト記20章4節に「あなたはいかなる像も造ってはならない」と命じられているとおりです。更に強調されています。「上は天に在り、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」と。本当に不思議に思うのですが、世界中どこでも、いろいろな像が造られ、神々として拝まれています。昔から、像には神々の霊が宿ると考えられていたようです。人間は神の姿を心に思い描き、自分の知恵と力でこんな姿、あんな姿と造りたかったのでしょう。しかし、下手な人が造った偶像では誰も関心しない。有り難くも思わないのに、上手な人が造ると芸術作品と同じで大変人目を引きます。素晴らしい作品であると思う。それだけなら、良いのでしょうが、そこに神の霊が宿っているということになると、造った人が褒められるばかりでなく、偶像そのものが神のように礼拝されるのです。

これほどおかしなことはないと思うのですが、おかしいと思わない人々も多いのです。聖書は、神は天地を創造され、万物を御支配されていると教えます。神が万物を創造された。人間も神の作品です。それなのに、その人間が神を造り出している。こんな真逆なことをしておかしいとは思わない。それはなぜでしょうか。神の像を造ることには目的がありました。像を造ってそこに神さまの霊を閉じ込めたいのです。どこそこの神殿に行けばいつでも神がそこにいるという訳です。神をその像に閉じ込めて、人間の思いどおりに操りたいからなのです。

人々の願いは、豊かな実りを求めることであったでしょう。作物が沢山取れますように。家畜が沢山増えますように。家族が与えられ、子宝に恵まれ、家が栄えますようにという願いは誰しも持っているのです。イスラエルの人々の周りにはそういう人々の願いに応えてくれそうな神々が沢山礼拝されていました。人々の願いに奉仕してくれる偶像を彼らは求めていたのです。神という名で呼ばれながら、実は人間の要求に応えるために造り出された偶像は、人間の作品そのものです。

偶像は人間の作品。それに対して聖書はこう語ります。わたしたちは神の作品であると。わたしたちをお造りになった神さまは、人間の手の業の中に閉じ込められるような方では決してありません。人間の支配を受けるような方では決してないのです。昔、アブラハムという人も偶像を拝む人々の世界に住んでいました。ところが主なる神さまはアブラハムに呼びかけられました。創世記12章です。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民西、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたに依って祝福に入る。」

アブラハムは住み慣れた偶像だらけの土地を離れて、神さまに従うように命じられました。祝福の約束はいただきましたが、祝福の内容は分かりませんでした。具体的にどこに行くのかも分かりませんでした。しかし、アブラハムは約束してくださる神さまを信じて従って行ったのでした。400年もの年月が流れて、アブラハムの子孫、イスラエルはエジプトにいました。不思議な神さまの導きによってひどく困ったときもありましたし、大変繁栄したときもありました。しかし、この時はイスラエルの人々はエジプトの奴隷でした。ひどく虐待され、彼らの叫び声が神さまに届いた時、神さまはモーセを指導者としてお立てになり、奇跡的に人々を救ってくださったのです。

この時以来、イスラエルの人々は真の神さまはどのような方かを知らされたのです。「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天に在り、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない」と偶像を禁止される神さまは、更に御自分を次のように紹介されたのです。「あなたはそれに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」これこそ、真の神さまの自己紹介であります。

真の神さまのご性質(姿は見えないのですが、そのお姿と言っても良いと思います)、そのお姿は、偶像とは全く違う、かけ離れたものでしょうか。「熱情の神」と言われる方。口語訳聖書は、これを「嫉む神」と訳しています。嫉むほどに御自分の民を愛する神さまであるということです。しかし、神さまの愛を人間の愛情と比べるのは限界がありますし、畏れ多いことであります。激しく愛するけれども、熱が冷めたら、あとは捨てて顧みないという愛ではありません。むしろ激しく愛するあまり、その愛に応えない人間に激しい怒りを表す愛と言う方が真実に近いと思います。それは神の愛に応えない人間の行動の結果を見れば分かります。神に背く行為、背信行為は、神の忌み嫌う不正であり、欺瞞であり、偽善という実を結ぶからです。

真の神さまは天地万物をお造りになり、わたしたちに必要なものを豊かに満たしてくださることがお出来になります。それにも拘わらず、人々が偶像を拝むことは、神から豊かにいただいたものを、偶像に御礼を述べていることになります。まるで偶像が豊かにくださったと信じているかのように。神さまをほめたたえずに、自分の手で造った偶像をほめたたえるという不正、欺瞞が平然と行われているのです。偶像礼拝について、アウグスティヌスもこう指摘します。「像が聞き上げてくれると思うか、ないしは願いを適えてくれると期待するかでなければ、だれもこのように像を見つめて祈ったり拝んだりはしない。」

神さまが人間をこんなにも愛し、すべての善いもので満たしておられるのに、人間は神さまを無視して、神さまでないものにひれ伏しているとしたら、どうでしょうか。神さまにならば恥ずかしくてお願いできないような身勝手なお願いを、偶像にしているとしたら。「私だけ豊かになりますように。わたしのほしいもの、ものだけでなく人も手に入りますように」と偶像にひれ伏しているとしたら。その結果はひどいものです。自己中心と自己中心がぶつかり合って争いは絶えない。弱い者、良心的な者は踏みにじられて捨てられて行く。神さまの熱烈な愛は怒りに変らないでしょうか。

それでも人間は自分の偶像を諦めません。そして神さまにはそんなに熱烈に愛されない方が良い。わたしのことは放っておいてほしい。わたしはどこで何をしようと気にしないでくださいと言う。真の神さまから熱愛されたくない人間の気持ちは、だれもが何となく理解できるのではないでしょうか。先週の北海道の震災。美しい山々がまるで巨大な熊の爪でえぐられたように地肌がむき出しになって、裾野の人々の家が土砂の下敷きになって、信じられない光景でした。広島の7月の豪雨災害、大阪の災害と次々と起こって、わたしたちは頭が真っ白になるより他はありません。

しかし、このような大惨事の時も慰められることが一つあります。それは無残ながれきや土砂の山に遠くから小さな豆粒のように見える救助隊の人々の姿。あんなに恐ろしいところにも暑さにも、いつまた襲って来るかもしれない激しい地震の危険にも、あきらめない。止めないで救助しようとする人々の姿を見ます。何日も経って、何十日も経っても、もう生きては見つからないだろうと思っても、止めないで捜している。その人々の姿に、私たちは救いを見ないでしょうか。慰めを受けないでしょうか。

人の命の大切さを思うのが当然だとする社会が、まだここにある。もう生きていないとしても、遺体になっても、見つけ出そうとするのは、人が人として生きるために、大切な根本的なことを、わたしたちが共有しているからではないでしょうか。それこそは神さまが熱情の神である、と宣言されている人間に対する愛に他なりません。何ものにも代えられないから放っておけない。とことん捜し求めて、失われた人を見い出そうとする。それは、わたしたちが神さまの尊さをいただいている人間だからではないでしょうか。

失われた人間を見出そうとする神さまの情熱は、独り子イエスさまを世に遣わしてくださいました。本日はヨハネの手紙一5章を読みました。ヨハネはこう言います。「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません。」本当に神から生まれた者は、御子イエス・キリストお一人だけです。しかし、わたしたちはイエスさまを信じて、イエスさまの死に与りました。すなわち、わたしたちの罪のために十字架で死んでくださったイエスさまと共に、わたしたちも罪に死んで、イエスさまの命に結ばれ、新しく神の子とされたのです。このことを、ヨハネの手紙は「神から生まれた者」と呼んでいるのです。

しかし、「神から生まれた者は、罪を犯さない」と言われると、どうもそうは思われないのではないでしょうか。わたしたちは生きている限り、相変わらず間違いも多く、人を傷つけたり、傷ついたり、本当に日々悔い改めを必要とする者です。しかし、ヨハネが言っている「すべて神から生まれた者は罪を犯しません」ということはそういうことではありません。ヨハネが言いたいのは、神さまの恩恵を失わない人は決して罪を犯さないということなのです。自分の力で罪を犯さないということは、だれも決してできないので、わたしたちは神さまを畏れてその恵みの中に身を委ねます。そうすると神さまをいつも畏れている者は、悪魔的なものに身を任せるほどに惑わされることがないように自分を制するようにさせられます。神さまの恵みによって罪を犯さないのです。

悪い者は手を触れることができないというのは、致命的な傷を意味しています。神の子は信仰の盾によってサタンのあらゆる襲撃を退け、心臓に達する傷を受けることはないので、神の子においてはその霊的生命は消え失せることがないのです。たとえ信仰者が肉の弱さそのものによって罪を犯したとしても、その人は罪の重荷の下で呻き、自分に嫌悪を抱いても、自分を追い求めて救ってくださる神を畏れることを止めることはありません。

19節「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。」世という表現は全世界を意味しているのではありません。ただ人間がサタンの支配下に陥りやすいということなのです。このような世に在って、神さまに従って生きる者とされるために招かれて神の子とされることは、本当に光栄なことであります。この栄誉は、ただただ神さまの恵みを信じる信仰の生活によって証しされることができるだけです。

20節。「わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です。」わたしたちはイエスさまによって真の神、真実な方を知ることができました。イエスさまに結ばれて、神の子として神の内に生きる者とされました。わたしたちが罪を犯さないのは、イエスさまがわたしたちのために今も後も祈っておられる執り成しの恵みによるものです。この恵みにしっかりと頼る者は偶像を避けることができ、イエス・キリストの名によって真の神のみを知り、礼拝する者となることができます。

今日のカテキズム問42は十戒のうちの第二の戒めです。答は「あなたはいかなる像も造ってはならない」です。神さまは、人が造り出すいかなるものも、神としてあがめることを禁じておられます。祈ります。

 

天の父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。わたしたちは一週間の生活を守られ、導かれ、御許に集められました。この幸いを感謝いたします。

あなたは真に熱情の神であると教えられました。わたしたちを愛して、その罪から救うために独り子であるイエス・キリストを惜しまず、世に遣わしてくださり、その熱情をお示しくださいました。わたしたちは、そのことを学びました。この身をもって生活を以て、あなたこそ真の神でいらっしゃることを証しするために、偶像を慕い求める罪の誘惑からわたしたちを救い出してください。

先週は西にも北にも、災害が起こり、人名が失われ、人々が悲しみに暮れ、途方に暮れています。このような時にも、わたしたちは教会で「子どもと楽しむ音楽会」を開くことができました。多くの人々が集められましたことを感謝します。このような善き活動を通して、人々が教会に出会い、励ましを受けて、どんな困難にも立ち上がって行くことができますように。わたしたちはすべての善いものがあなたから豊かに与えられることを信じて参ります。

弱い者が強くされ、病の者が健康にされ、罪深い者が皆、イエスさまの犠牲の死によって罪赦され、わたしたち皆が悔い改めて、あなたに感謝を捧げる者となりますように。そして地上の生涯の終わりが近づいたならば、主に結ばれて御国に招かれていることを確信してあなたを待ち望む者とならせてください。地上にある成宗教会が、どうか福音のために用いられますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

独り子によって

聖書:イザヤ50章4-11節, ヨハネの手紙一、4章7-16節

新年度がスタートしています。幼い子は幼稚園、保育園に入り、小学生にも中学生にも入学と進級の季節であります。それぞれが親子で新しい目標をもってスタートしていることでしょう。社会人となる若い人々にとってはどのような春が巡っているのでしょうか。厳しい競争を勝ち抜いて希望する仕事や地位を得るという目標がスタートしている人々もいるでしょう。しかし、一方、わたしたちは社会の今を支える役割を果たしている人々を見る時、非常に苦労しても報われない姿を見ることがあります。またその反対に、高い目標を掲げて刻苦勉励した結果、高い地位を得、名を揚げた結果は、目標を失い、転落の道をたどる人々もいて、そのあまりに情けない姿を見て驚くことも多いのです。

しかし、本当はわたしたちには、年齢に関わりなく、幼子から老人に至るまで目標があるのです。それは幼稚園から小学校へという目標がある子供にも、学業を終えて仕事を選ぶという目標がある青年にも、結婚や子育てという目標がある壮年にも、そして、仕事をリタイアして年金生活者となる高齢の世代にも、共通の同じ目標です。それは神を知ることであります。カテキズム、信仰問答の最初の問でありました。つまり、教会が代々にわたって信じ告白して来た神とは、どのようなお方であるかを知ることこそ、わたしたちすべての人間に共通の目的であります。目的(ギリシャ語ではテロス、英語ではエンド)という言葉そのものが、ゴール、最後を表しているのであって、わたしたちは、このゴール、すなわち最後を目指して走るのですから、今歩き始めた幼子でも、いよいよゴールが近づいている高齢者でも、わたしたちは皆、共通の終わりを目指していることには、全く変わりがないのです。

わたしたちの教会は小さな群れですが、うれしいことに、教会学校には毎週、にぎやかな生徒さんたちの声が聞こえます。そして近年は、生徒さんと一緒に親御さんも礼拝を守って、活動時間も親子一緒に参加する方々がいるようになりました。たくさんの子供がひしめいていた時代とは違って、若い世代は少数者になって来ました。このような時代に生きる若い人々に、教会は伝えたいと思います。神様はどのようなお方であるかを、しっかりと正しく伝える教会になりたいと思います。

さて、今日の聖書、ヨハネの手紙一において、神様について、次のように紹介されています。4章7節、8節。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」神とはどのようなお方でしょうか。それに対する答は、「神は愛である」というのです。だから、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう」と勧めています。

つまり、神のご性質は人間を愛することだというのです。そうであるならば、神を知れば知るほど、神の愛がわたしたちの内に神を愛する愛を生み出すことになるでしょう。反対に言えば、わたしたちの内にもし愛が見い出されないとすれば、わたしたちはまだまだ神とはどういうお方かを知らないということになります。「愛することのない者は神を知りません」と聖書ははっきりと述べているからです。すなわち、神様がわたしたちを愛してくださることは分かったけれども、わたしには神様を愛する気持ちが湧きませんということにはならない。そして、神様がわたしを愛してくださることは分かったけれども、わたしには隣人を愛する気持ちが湧きません、ということにもならないのです。

神を知る知識が増し加われば加わるほど、神を愛さずにはいられない。神を知る知識が増し加われば加わるほど、隣人を愛さずにはいられなくなるというのです。こう言われると、本当に自分を振り返って、わたしたちは本当に神が愛であることを知っているとは言えないと思わずにはいられません。少なくともわたしたちは隣人を愛することにおいて、いつも足りなかった。また、今も足りない者であることを思わずにはいられません。それどころか、わたしたちは自分自身でさえ、本当の意味で愛することができていないのではないでしょうか。隣人どころか、自分に対してさえ、最善のことをしているだろうか。自分を酷使したり、自分をいい加減に扱ったりしてはいないだろうか。自分を見捨ててしまうようなことがなかったか、と反省させられることも少なくないのではないでしょうか。

そのように、隣人を愛するどころか、自分さえも粗末に扱い、真心を尽くすことができないのは、最も深刻な問題を抱えているからではないでしょうか。それは、わたしたちは、神様が自分を愛してくださることを信じることが本当に出来ていないからです。また、ある時は信じられても、何か状況が変わって、思いがけない困難、苦難が起こるとすぐに不安になってしまう。神様はわたしをお忘れなのではないだろうか、とか、神様は本当に最良のことをしてくださるのだろうか、と疑ってしまうのではないでしょうか。

このようなグラグラした信仰者であるわたしたちに御言葉は語ります。神の愛の証しはこれである、と。9節。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」わたしたちは洗礼を受け、教会に入れられ、神の子と呼ばれます。しかし、わたしたちは生まれながらの神の子ではありません。本当に初めから神の子であられたのは、イエス・キリスト。この方お一人です。神様はわたしたちを愛しておられたので、わたしたちが生きる者となるために、御自分の独り子を世にお遣わしくださいました。愛する独り子であるイエス様を、わたしたちの救いのためにくださったのです。

それは、わたしたちが神さまを愛して従順な者だったので、「よし、それなら救ってあげよう」ということだったのではありません。ヨハネの手紙ははっきりと申します。10節。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」つまり、わたしたちは神を愛していなかった。それなのに、神はわたしたちを愛してくださったということです。愛していなかったということは、わたしたちは神に敵対する者であったということです。「神様なんか・・・と思っていた」か、あるいは神様を無視していた、ということです。そうであるのに、神はわたしたちに御子を賜ったのであります。

自然神学というものがあります。自然界を見る。するとその美しさ、その秩序によって、被造物、中でも人間がどれだけ神に愛されているかということを推察することができるというものです。しかし、神の驚くべき愛は御子において現わされました。ローマの信徒への手紙でも、次のように言われています。5章6節「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。」279下。

わたしたちの目から見れば、より良い人、より正しい人がいます。また上に立つ人々に良く思われようと、お追従を言い、自分をよく見せようと鋭意奮闘する人もいます。しかし、神様はそういう人にも気を許すことも騙されることもありません。神様は人間のこうした愛情にも、あるいは偽善にも心惹かれることも動かされることもありません。ただ、御自分のご好意からその人を愛しておられるのです。それに対してわたしたちの心はしばしば神様から離れ、自分の力によっては、決してわき目も振らずに神様を愛し続けることはできないのです。

このことから教えられる重要なことは、神の愛は無償で、恵みによって注がれるということです。わたしたちは何か資格がある、値打ちがあるから、救われるのではありません。わたしたちは弱い者、神に背く罪人であって、神様に罪を赦していただかなければ、救いに入れられることはできません。本当にこのことを疎かにしては、あるいは無視したり、棚上げして考えないでままでは、わたしたちは目標、目的である終わりを迎えることはできないのではないでしょうか。子供たちが、受験の目標を達成することはできるかもしれません。あるいは若い人々が人生途上の具体的な目標を達成することはできるかもしれません。しかし、最後の目標、目的地を目指して行くことこそ、わたしたちに大切なことです。

教会は救いの目標を高く掲げて、福音を宣べ伝えます。わたしたちの生きる目的は神を知ることであると。そして神は愛であると告げ知らせます。この知識を本当に知るならば、わたしたちは、新たに造り変えられるのです。これは洗礼を受けたから一度に変えられるというのではありません。神は愛であるという知識を福音の言葉によって日々聞くことによって変えられて行くのです。どのように変えられるのかを申しましょう。それはもちろん、神に倣う者と変えられる。すなわち、神がわたしたちを愛されたのだから、わたしたちも互いに愛し合うように変えられることです。

ヨハネの手紙は更に勧めます。12節。「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」わたしたちは日々の生活に大変な目標を与えられていることが分かります。これは受験勉強のような目標ではありません。世は超高齢化社会です。年を取り、今まで出来ていたことができなくなって行く。若い時なら、互いに愛し合うということは、何か奉仕活動に加わることだ、と解釈して頑張った人々もいたことでしょう。それはそれで大変幸いなことだったと思います。しかし、何もできないと感じても、まだまだ生きなければならない年月があります。否、むしろ、生きなさい、と命じられているのです。わたしたちはどうしたらよいのでしょうか。

しかし、ここにこそ、神がご自身を証しされる命があるのです。13節。「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。」わたしたちは神の愛をどこに見るでしょうか。教会は神の愛を、独り子であるキリストを世にお遣わしになったことに見るのです。この方によってわたしたちの罪が贖われ、清められ、罪赦された者として神の御前に出ることができるようにしてくださった。ここにこそ、神の愛が現れたのです。自分の罪を悔い改め、救いを求める者は、イエス・キリストによって知られるようになった神を愛し、慕い求めるでしょう。そしてその人には聖霊が来てくださり、とどまってくださるのです。

隣人を愛することが十分でないと、わたしたちはまだまだ嘆いているかもしれません。しかし神様は聖霊によって、わたしたちを造り変えて、隣人を愛するようにしてくださいます。愛こそが、聖霊の結ぶ実であります。聖霊によらなければ、わたしたちは隣人を真の純粋な愛で愛することはできません。神は聖霊によってわたしたちの内にいまし給うのですから、わたしたちは若い者も、老いた者もこの希望、互いに愛し合う者となる、という希望の道の途上に生かされているのです。

この希望は大きな、ほとんど限りない希望です。「神がわたしたちを愛されたように、わたしたちも互いに愛し合う」という目標よりも大きな目標が一体あるのでしょうか。神の偉大さ、神の輝かしさ、神の美しさは何によって明らかにされたでしょうか。空に輝く星でしょうか、オーロラでしょうか。この頃の最先端の映像。目を奪い、息をのむような美しい壮大な自然の映像でしょうか。神の偉大さは、その輝き、その美しさは、貧しく弱い罪人のために命を捨てて、罪の縄目を断ち切ってくださった神の独り子、イエス・キリストに明らかにされた。これが教会の信仰です。15節。「イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。」祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神様

御名をほめたたえます。春の嵐が吹き荒れる日も、わたしたちに主の日を覚えさせ、御許に

を守るために集めてくださいましたことを感謝します。

本日は独り子を世に遣わしてくださったあなたの愛について学びました。わたしたちは御子によってわたしたちの罪が皆赦され、地上の生活を恐れなく歩むことができます。あなたが必ず助けてくださると信じ、ひたすらより頼みます。また地上を去る時もあなたの恵みによって安らかに感謝して守られますように祈ります。地上にある間、地上の教会の一員として、あなたを信頼し、あなたに従って参ります。どうか、わたしたちの拙い生活の中で、目だって良い業をすることもままならない生活の中で、しかし聖霊の神様の愛に溢れるお働きによって、わたしたちを満たしてください。

わたしたち自身の健康が守られ、今日、このように礼拝を守ることができました。しかし、わたしたちの群れの中に、また東日本の諸教会の中に、ご高齢のため、ご病気のため、礼拝に来られない困難な日々を送っている多くの方々を思います。どうぞ、あなたがみ言葉に与るために道を開いてください。また、わたしたちの家族に多くの困難があります。主よ、聖霊のお働きによってわたしたちが乏しい時にも助け合って主のご栄光を表す者とならせてください。主は罪の赦しのために苦しんでくださいました。わたしたちも何より、主に倣って互いにその罪を赦し合う者となりますように。聖霊の助けを常に祈り求めます。

来週は2018年度の教会総会が行われます。主よ、どうかこの総会に多くの教会員が覚えて出席できますように。そして、御心に従ってすべてのことが行われますように。上程されている議案を顧みてください。そして長老選挙が正しく行われ、この教会の長老会が真に主の御支配の下に整えられますように。

この感謝と願いとを我らの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。