十戒について

聖書:出エジプト20117節, ローマの信徒への手紙1014

 教会は福音を宣べ伝えるために、神さまが建ててくださっています。イエス・キリストは、神の言葉と言われます。教会は礼拝の説教において、神さまとはどなたであるか。そしてイエスさまがどなたであるかをお知らせします。それは、聞くわたしたちが神の言葉を信じて生きる者とされるためです。

教会は聖書によって神の言葉を宣べ伝えるのですが、聖書は御覧のとおり、大きな書物で、66巻の文書から成っています。クリスチャンになる前にこれを隅々まで読んで、頭に入ったという人は、多くはないと思います。それどころか、本当に少数と思います。もし、そうしなければ洗礼を受けることはできない、という掟になっていたとしたら、この2千年経った今、20数億ものクリスチャンは生まれなかったでしょう。宗教改革がヨーロッパで起こったのは16世紀ですが、その時代、字を読める人の数は少なくて、その上、聖書も個々人で持つなどということは考えられませんでした。

そこで信仰の教育はどのようになされたのでしょう。人々は使徒信条と、主の祈り、そして 十戒 によって信仰教育を受けました。この三つが三要文と呼ばれています。今、成宗教会では、全国連合長老会の発行している「新・明解カテキズム(信仰問答)」によって、教会の信仰を学んでいますが、それは、三要文を学ぶということです。

さて、わたしたちはちょうど去年の9月から礼拝で使徒信条について学んで参りました。先週、永遠の命を信ずということの意味を知ることができました。「永遠の命を信じます」とはどういうことか。その答をわたしたちは学びました。それは、「わたしたちの命は死で終わるのではなく、永遠にイエスさまと結ばれ、神様と共に生きるものだ」と信じることです。この信仰が、使徒信条の最後の告白になっています。最後にして、最も重要な生きる目標が示されている訳です。

わたしたちは今、少子高齢化社会を生きています。そしてこの社会の傾向、潮流は急に変るということは考えられず、あと何十年も続くと思われます。それはたくさんの高齢者が死を迎える一方、若い人々の数は少ないので、日本人だけを考えれば、人口の減少が続く社会です。人の一生を考えれば、高齢になって地上を去るということはごく当たり前なのですが、大勢の人が少数の人を見送るのではなく、大勢の人が世を去って、少数の人が残されるという社会現象は、決して当たり前ではなく、深刻だと受け止めています。しかし、深刻なのは、地上を去る人々ではなく、あとに残される人々ではないでしょうか。

教会は主イエスさまのご命令に従って、福音を宣べ伝えて来ました。神さまから与えられたこの務めを十分に誠実に果たしたならば、世を去ることは平安そのものです。教会は永遠の命を信じると告白しているのですから。わたしたちの人生は、真に至らない罪にまみれたものであっても、最後の最後まで主の憐れみを信じ、主の救いを信じて歩み通すことが大切です。こんな者でも愛してくださる神さまがおられることを信じて、イエスさまに結ばれて年を取ったなら、これほど恵まれた生涯はありません。地上を生きている今も、既にイエスさまと結ばれ、神さまの永遠の命を生き始めているのですから。

しかし、教会にいるわたしたちには、深刻に思うべきことがありましょう。そうでなければなりません。なぜなら、大勢の中高年が地上を去った後に、残される人々の数がたとえ少なくなっていくとしても(そうでなくなる時が来ることを、わたしたちはもちろん希望しなければなりませんが)、その残される人々にも福音が宣べ伝えられなければならないからです。教会が地上に立っているのは、人々が神さまを信頼して地上の生活を神に従って生きるためなのですから。

初めに結論を述べたようになったかもしれませんが、今日からわたしたちは十戒について学ぼうとしております。御言葉に聴きましょう。出エジプト記20章2節。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」神さまがモーセを通して人々に与えた十戒、10の戒めは、聖書の今日読んでいただいて出エジプト記20章と、申命記5章の二か所に記されています。来週から3節から17節までを順に学んで行きたいと思いますが、2節は十戒の前文に当たる部分で、大変重要な意味を持っています。

「わたしは主」であると宣言される神さまは、万物の主であります。すなわち天地万物を創造された主なる神である、と名乗りを上げておられます。そして、その神さまはあなたに向かって言われます。わたしはあなたの神であると。では、あなたと呼ばれた人々はどういう人々でしたでしょうか。それは出エジプトの民です。神さまはあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である、と宣言なさいました。

十戒という昔の映画を覚えている方もいらっしゃると思います。その頃教会もイエスさまも知らなかった私でも覚えている映画です。チャールトン・ヘストンのモーセに率いられた民は、葦の海の手前でエジプトの軍勢に追いつかれ、もう絶体絶命というその時、奇跡が起こりました。神さまは、紅海の水を真っ二つに分け、海の道を開いてくださいました。CGも何もない時代のあれだけの奇跡の場面をどうやって撮ったのか、ということが大変衝撃的で、長く人々の印象に残った映画だったと思います。

しかし、これは映画ではなく、聖書が語る言葉であります。わたしたちの命の危機、滅びの瞬間に、御手を伸ばして捕え、救ってくださる神さま。無から有を呼び出し、死を命に変えてくださる神さまが、同時にわたしたちの生きるこの歴史に働きかけて、イスラエルを救い出してくださる方であることが明らかになった瞬間です。この方こそ、真の神なのではないでしょうか。神さまに与えられた十戒は、神さまの救いに応えるために人々に与えられたものです。

救いとは、奴隷の家から解放されることであります。奴隷の状態とは、だれかに支配されている。何かに支配されているということです。人は誰にも支配されたくないと思っています。しかし実際には誰かに、また何かに支配されている。そして支配されていることにさえ気づいていないかもしれません。イスラエルの人々はその支配の苛酷さに苦しんで、叫び声を上げた。その声を神さまが聞いてくださったのでした。

奴隷の家から解放されるためには、自分の苦しみに気づかなければなりません。息苦しいけれども、死にそうだけれども気づかない人々は多いのです。自分は救われる必要があると、そして救われたいと願い求めることが必要です。自分を支配しているものが何かに気づかなければなりません。自分を支配している罪を知って、悔い改めたいと心から願うことが必要なのです。イスラエルの人々の救いの物語は、文字通り、救われるための格闘でありましたが、彼らが自分の力でしたことはほとんど何もありませんでした。彼らにはただただモーセに従って行くこと、神さまを信じることだけが求められました。そして神が自ら勝利してくださったので、彼らは自由にされたのでした。

もしわたしたちが、そのようにして解放されたなら、その神さまに何と言って応えたらよいでしょうか。どんな御礼ができるでしょうか。ただただ神さまのお与えくださる戒めを守って生きること。そのことによって応えるしかないのです。十戒はそのようにしてイスラエルの人々に与えられました。

ところで、このようにして救われたイスラエルの人々は、特別な人々だったでしょうか。いいえ、むしろ普通の人だったでしょう。むしろ、弱い、力のない人々だったけれども、主なる神さまは彼らを愛して、ご自分のものとしてくださいました。教会に来てイエスさまと結ばれる人々も同じです。神さまの秘密の選びによって招かれているので、だれも人間的な評価によって、神さまの選びを考えることはできません。ただ恵みによって選ばれたことを感謝して十戒をいただくのです。

ところが新約聖書ローマの信徒への手紙10章を見ますと、十戒(ここでは律法と言われています)を与えられた人々の中には、自分を誇る人々がいました。十戒を守れる人は偉い人、立派な人。守れない人は罪人と評価し、できる人は自分の正しさを主張しました。1~3節。「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証ししますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」

人が自分の正しさ(義)を主張するために、神さまは律法(十戒)を与えられたのでしょうか。全くそうではありません。自分が正しいという人も、実は神さまの前では罪人に過ぎないからです。十戒の目的は、人が自分の罪に気がつき、本当に正しい方は神さまだけだと悟ることにあるのです。4節。「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」神さまの正しさは、イエスさまの中に表されました。すなわち、神の子イエスさまは御自分の正しさを誇るために世に来られたのではありません。その全く逆に、正しくありたいと願いながら正しくなれない人間の罪を御自分に引き受け、ご自分の本来持っておられた正しさをわたしたちに与えてくださるために、世に来られたのです。

ですから、ここに主張されているとおり、律法の目標はイエス・キリストであります。十戒をいただいたイスラエルは何とか守ろうとして熱心に務めました。そして中には守ることができたと得意になり、守れない人々を罪人として軽蔑する者もいました。また、十戒を与えられた自分たちの民族は特別優れているからだ、と異邦人を軽蔑する人々もいました。しかし、律法の目標は、律法を完全に守ることができない自分に気がつき、自分の罪を悔い改めて、神さまの恵みにより頼むことなのです。

新約聖書の時代を生きるわたしたちはイエスさまに出会い、この方に表された神さまの深い慈しみを信じる者とされました。教会はイエス・キリストの罪の赦しに結ばれた者として、改めて感謝の内に、父なる神さまより十戒をいただくのです。主に従う者とされたので、依然として罪人ではありますが、絶えざる感謝と悔い改めの思いをもって、新たに十戒の言葉をいただきたいと願います。

今日の学びはカテキズム問39です。「十戒とは何ですか。」答は「十戒は、神さまに救われたわたしたちが、御心に従って生きるために与えられた律法です。」祈りましょう。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。一週間の歩みをお守りいただき、再び礼拝の場に集められましたことを感謝いたします。先週まで約一年にわたって学んで参りました使徒信条の学びを終え、本日から、十戒について新たに学び始めました。どうか、この学びによってみ言葉の力が聖霊によって豊かに発揮され、それぞれの魂が救いの主に向かって成長できますように道を開いてください。

わたしたちの中には、高齢のゆえの困難や病気と日々向き合っている方々が多くいますが、どうかその一人一人のご生活において、主イエスさまと結ばれた豊かさ、救いの御業を現わしてください。特に病院や施設で暮らす方々をあなたの恵みで覆って日々の困難に勇気を以て立ち向かわせてください。また、若い世代、働く世代の方々の困難を顧みてください。皆さんが非常に忙しく、この社会の多くの悩みを抱えていると思います。どうか、あなたの救いを信じ、いつも祈り求める者となりますように。

先週は教会学校との合同礼拝を祝してくださり、ありがとうございました。また一日夏期学校をも豊かにお守りくださり感謝です。来週から始まる教会学校の二学期をお守りください。良い学びと交わりの時が与えられ、成人の礼拝と共に、信仰を告白する者が起こされますように。また来週は9月聖餐礼拝を守ります。どうか聖餐に向かって真の悔い改めで心を清め、整えてください。また、9月8日(土)に近づきました「子どもと楽しむ音楽会」に向けて祈ります。どうか、地域に開かれた教会の務めとして、この行事を祝福してください。

すべての日常の務めの中に、主の聖霊のお働きによって備えられる、来年度の新しい教師の人事が整えられますようお祈り申し上げます。

主イエス・キリストの御名によって、御前に祈ります。アーメン。

天から降って来たパン

聖書:出エジプト記161215節, ヨハネによる福音書653-58

 今日、わたしたちは聖書を二か所読みました。一つは旧約聖書です。その昔、神さまの約束を信じて旅をしている人々がいました。ところがそれはとても辛い荒れ野の旅でした。人々は「食べる物がない!と、文句を言いました。すると神さまは人々に夕べには肉を、朝にはパンを与えてくださいました。でも肉屋さんがあったわけでもパン屋さんがあったのでもないのです。神さまがくださったのは、天から大地に降りた霜のようなものでした。食べてみると、その味は蜜の入ったウェファスのようでした。これこそが、神さまが人々に食べ物として与えてくださったパンなのでした。

そして今わたしたちもう一つ新約聖書を読みましたが、それはイエスさまがお話になった言葉です。53節で、イエスさまはおっしゃいました。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。」聞いた人はびっくりしたことでしょう。これは何のことだろう!次にイエスさまは言われました。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」と。今度は、少しだけ分かったでしょうか。これは普通の食べ物の話ではないのだと。そうです。これは、永遠の命の食べ物の話です。イエスさまは、ご自分のことを指して、「わたしは永遠の命のための食べ物である」とおっしゃいました。

わたしたちは毎日食べ物をちゃんと食べなければなりません。美味しいものを食べたい。でも栄養のあるものを食べなければなりません。「好き嫌いしないでいろいろなものを食べましょう。そして大きくなりましょう。心も体も元気に生きましょう」と言ってわたしたちは努力しますね。食べ物はありがたいものです。その食べ物がない時に、そしてお店屋さんもない時に、神さまは天からマナを降らせてくださいました。そのことも本当にありがたいですね。みんな神さまの恵みです。

でもイエスさまはおっしゃいました。58節です。「わたしは天から降って来たパンである。あなたがたの先祖の人々は昔、マナを食べたのに死んでしまった。そのようなものとわたしは違う」と仰ったのです。違うって、どこが違うのでしょう?イエスさまはこのように言われます。「わたしのパンを食べる者は永遠に生きる」と。

イエスさまは天から降って来ました。わたしたちにイエスさまのパンを食べさせるために来てくださったのです。神さまが、わたしたちにこのパンを食べさせて、永遠の命を与えたいと思われて、イエスさまをわたしたちのところに遣わされたからです。

それでは、どうして神さまはわたしたちに永遠の命をくださろうと思われるのでしょう?それは、神さまがわたしたちを愛しておられるからです。どんなわたしたちでしょうか。神さまは優等生の人を愛しておられるのでしょうか。立派な人のことだけを神様は愛しておられるのでしょうか。いいえ、そうではありません。神さまはだれにでも永遠の命をくださるのです。そのために、神さまはイエスさまをこの世界に遣わされました。イエスさまを信じる人々ならだれにでもくださるのです。このことから、神さまがどんなにわたしたちを愛しておられるかが分かります。

イエスさまを信じた人は、イエスさまの与えてくださる御言葉のパンを一生懸命いただきます。また洗礼を受けて聖餐式に参加します。そしてイエスさまと結ばれて生きる生活を続けます。それは、神さまの永遠の命に結ばれる生活です。わたしたちは今礼拝で使徒信条を学んでいます。今日はカテキズムの問38というところでした。その問はこういう問いです。「永遠の命を信じます」とはどういうことでしょうか。そして、その答をわたしたちは知りました。「永遠の命を信じる」ということは、「わたしたちの命は死で終わるのではなく、永遠にイエスさまと結ばれ、神様と共に生きるものだ」と信じることです。

今日は、成宗教会で初めての試みですが、大人の礼拝と教会学校の礼拝を合同でささげました。教会学校の皆さんはお昼から善福寺川緑地公園に出かけてBBQを行います。みんなで楽しく食事をする中で、わたしたちは神さまの国で開かれる盛大な宴会を想像したいと思います。イエスさまと結ばれたいと思う人は、実はイエスさまを通して、神さまとの交わりの中に招かれているのです。それでは祈ります。

 

御在天の父なる神さま

今日の成宗教会の合同礼拝を祝してくださり、わたしたちを御前に集めてくださったことを感謝します。永遠の命を与えるためにあなたはイエスさまをわたしたちの世界にお遣わしになりました。わたしたちは毎日一生懸命食事を美味しくいただいて、あなたの助けによって成長したいと思います。それだけでなく、どうか神さま、あなたに向かって成長することができますように。イエスさまを信じて永遠の命をいただきたいという願いを皆さんに起こしてください。そしてイエスさまとの交わり、父なる神さまとの交わりに喜び迎えてください。

どうか、今日お昼から開かれようとしている夏期学校の行事を守り導き、怪我なく楽しいものとしてください。あなたの内にある喜びがわたしたちにも与えられますように。

また、どうか今日、礼拝を覚えながら、来ることができなかった皆さんを深く顧みて、慰めをお与えください。これらの方々の祈りを聴き上げてください。また夏休みも終わりに近づいていますが、どうか若い方々の健康と生活が秋に向かって整えられますように。また教会のバザーに向けての活動、「子どもと楽しむ音楽会」などのために、良い準備ができますように。最後になりましたが、今病気やご高齢の困難と闘っている方々、また様々な悩みにある方々を顧みて、荒れ野に道を開いてください。

この感謝と願い、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

死は勝利にのみ込まれた

聖書:イザヤ2579節, コリントの信徒への手紙一155058

 私たちの国にはお盆という習慣があって、これは仏教の慣わしと思っていましたが、外国から伝来した元々の仏教の教えや習慣ではなく、実は先祖を崇拝する日本古来の伝統なのだそうです。この季節はそういうわけで、死んだ家族のことを思うことと、日本が太平洋戦争に敗れた終戦の年を思うこととを両方思い起こす時になっております。罪もない多くの人々が戦争によって命を失ったのですが、人間は、「どうしてあの人々は死んだのか」ということを考えます。この戦争を起こしたのは誰だと問うのです。すると、自分たちばかりが責められることを避けたいものですから、他に理由を探したくなるのです。たとえば、部下だった人は上司が悪いと言うのです。上司は更に上に立つ人が悪いと言います。例えば原爆投下の話で言えば、原爆を落としたのは、そうしないと日本が戦争をやめなかったからだと主張も出て来ます。このように、人はどうしても「自分は悪くない」と考えたいようです。しかし聖書の教えは一貫しています。

ローマの信徒への手紙に、このように言われているのです。3章23節。277頁下。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、(24節)ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」私は成宗教会に務めを与えられまして17年目になります。振り返ってみる時に、もし自分のして来た働きということを判断の基準にして考えるならば、本当に良い結果は、良い働きをしたからだということになり、良くない結果は、良い働きをしなかったからだということになります。

すると、振り返って満足するどころか、考えれば考えるほど、自分の働きの乏しさが思わされるばかりになるでしょう。17年もここにいたのだから、もっとああすればよかった。こうするべきではなかったということが沢山あります。どんどん反省して行ったら、退任を控えた教師である私としては、落ち込むばかりではないでしょうか。いやいや、ここで落ち込んではいけない。そこで、自分は悪くなかったと思いたいために、働きの乏しさをこの時代のせいにするのでしょうか。それとも、他人のせいにするのでしょうか。

しかし、結論を言うならば、全くそうはならないのです。なぜなら成宗教会にいる私たちは、ここで礼拝をし、ここでいただく福音によって主の教会に結ばれているからです。主に結ばれているわたしたちは、罪の赦しに結ばれているということなのですから。過去を振り返ってみると、心痛むことがありました。悔やまれることがありました。その度にだれが悪いのか、と教会の中で問いたくなることもあったと思います。しかし、わたしたちには教会の告白があります。これをもって代々の教会が建てられて来た信仰告白です。前回私たちは、使徒信条で告白している「罪の赦しを信じる」ということはどういうことかを学びました。

わたしたちはどう生きるべきかを神さまから教えられています。律法によって教えられているのです。律法とは、一つには神に対する戒めであり、もう一つは隣人に対する戒めであります。私たちは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と教えられています。また私たちは、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられています。しかし、律法を知っていながら、律法を守ることができない者であります。このような律法を神さまからいただいているからこそ、私たちは、それを守っているとは決して言えない自分を知っているのです。

キリストは律法を守ろうとして守ることのできない罪人のために死んでくださいました。それは罪人の代わりにその罪の罰を受けてくださって、私たちを罪から解放してくださるためだったのです。そして、キリストは復活されました。このことは、キリストの身代わりの死を神さまが受け入れてくださったことを証ししています。教会は、わたしたちのために死んで復活してくださったキリストを信じ、キリストに結ばれて終わりの日に復活する約束を受けた者の群れです。

さて本日は、使徒信条が告白する「からだの甦りを信じる」ことについて学びます。体と言いますと、当然のことながら私たちは、この自分の肉体を思います。今は写真やビデオやいろいろな記録手段によって自分の姿形がいつまでも残る時代です。幼子だった時のあどけない姿や若い頃の写真。その一方で同じ人とは思われない年取った自分等々。この同じ体が、人の姿がどんどん変わって行くことを考えれば、このままで、この姿かたちのままで、天国に入れられるということはあり得ないだろうと思うのです。

「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」と聖書に言われます。肉と血とは、この地上の生活を生きる体です。それは年老いてやがては朽ちて行くより他はありません。聖書の時代の人々はすべての人々は死んで葬られるが、終わりの日に復活させられる。そして裁きを受けなければならないと信じていました。イエスさまもヨハネ福音書でこう教えておられます。ヨハネ5章28-29節です。172-3頁。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」

だからこそ、主イエスさまは別のところで、こう命じられました。マタイ10:28です。18下「人々を恐れてはならない。(中略)体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

イエスさまが「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われた、本当に恐れるべきお方とはどなたでしょう。その方こそ、真の造り主であり、イエス・キリストの父である神さまです。人間を愛して止まない方、しかし、同時に罪を憎んで止まないその方です。その方の御心、その愛こそが、イエスさまを世の罪を贖う救い主として世にお遣わしになりました。

聖書はこのことを伝えているのです。つまり、イエス・キリストの罪の赦しに結ばれている者は、罪の赦しを約束されている。これが福音です。今日の聖書15章51節でパウロが告げている神秘とはこのことではないでしょうか。終わりの日に、「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられる」というのです。52節です。「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちないものとされ、わたしたちは変えられます。」終わりの日に一瞬のうちに起こることを、ラッパという表現でパウロは伝えました。すなわち、軍隊の隊長がラッパの音とともに兵隊を集めるように、主はわたしたち生きて地上にいる者と共に、眠りについている者(すなわち死んだ者たち)を復活させ、世界の隅々から集められるのです。

この言葉が語られた当時は福音が伝えられた世界は限られた地域でした。そして使徒パウロたちも、イエス・キリストが来られる終わりの日は近いと緊張していたようです。しかし、今や福音は、一つの民族だけでなく、全世界の人々に宣べ伝えられています。ですから、終わりの日にはすべての人が呼び集められ、神の裁きの御座に出頭しなけばならないでしょう。生きている者も集められるばかりでなく、死者も墓から出て来るよう呼びかけられるでしょう。更に、乾いた骨とほこりにも命じて、再び初めの形と霊とを取らせ、人皆が生き返らせられて、キリストの面前に直ちに出頭しなければならない時が来るというのですから。それは、正に天地を揺るがす大音響となるでありましょう。

しかし51節で「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられる」というのは、呼び集められるすべての人のことではありません。それでは、「わたしたち」とは誰のことでしょうか。それはキリスト・イエスに結ばれている人のことです。その他の人々について語られているのではありません。52節。なぜなら、「ラッパが鳴ると、復活して朽ちない者とされ、変えられる」というわたしたちは、朽ちるからだのままでは、神さまの前に出ることができない者ですが、キリストに結ばれているので、神さまの御前に立つことができる者に変えていただけるということなのです。

53節。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」と言われているのは、朽ちるからだのままでは、神さまの前に出ることができない者が、朽ちないもの、死なないものを着て、神さまの御前に立つことができるということです。朽ちないもの、死なないものとは何でしょうか。それは、イエス・キリストの義、すなわちキリストの義しさであります。このお方は真に神の子であり、同時に人の子としてわたしたちと同じ肉体を持って生きてくださいましたが、神さまに忠実にその使命を果たされた方です。パウロはこのようにキリストの義しさを朽ちない衣という言葉によって表しました。わたしたちはキリストの義しさを衣のように自分の上に着て、罪赦され、義しい者とされるでしょう。

イエスさまは人間の罪を負って十字架に死なれました。私たちの死を苦しまれ、わたしたちの下るべき陰府に下ってくださいました。そして死に勝利されました。神さまがキリストの贖いを義と認められたからです。死は勝利にのみ込まれた、という表現は、今日読まれた旧約イザヤ25章8節からの引用だと言われています。そこには、のみ込むという言葉ではなく、「死を永久に滅ぼしてくださる」という表現がなされています。それは全滅させる、絶滅させるという意味なのです。

死よ、お前のとげはどこにあるのかと、歌われているのは、キリストの勝利をほめたたえるためです。死のとげは罪であり、罪の力は律法であります。しかし、人々は考えるかもしれません。「律法がなければ、罪もなかったのではないか。悪いのは律法があることではないか」と。しかし、それでは、「神を愛しなさい」と、言われなければよかったのでしょうか。また、「隣人を愛しなさいと、言われなければよかったのでしょうか。そんなことはあり得ません。それではまるで、何も知らずに泣きわめいている赤ん坊が、何も知らないまま大人になって、傍若無人にふるまい、人が傷つこうが気付けられようが、一切自分が悪いとは思わなくて一生が終わった方が良い、と言っているようなものです。愛そうとするからこそ、多くの失敗、過ちに気づき、悲しみも苦しみも経験することをわたしたちは知っているのです。

わたしたちは自分の罪を知る者だからこそ、キリストに出会うことができました。だからこそ、悔い改めへの招きに従う者となりました。だからこそ主イエス・キリストに結ばれて、終わりの日に復活にキリストの義しさに結ばれて、罪に勝利することができます。使徒信条で告白している「からだのよみがえりを信じる」とは、この希望をいただいて、今与えられている地上の命を大切に生きることです。どんなに悩み多い日々であり、どんなに心に責められることの多い人生であっても、わたしたちは死にのみ込まれることは決してないのです。主イエス・キリストが死の勝利してくださったのですから。この確信に生きましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を賛美します。厳しい暑さの中、八月第二の主の日の礼拝に、わたしたちを呼び集めてくださり、わたしたちは恵みの御言葉をいただきました。足りない者、罪深い者を慈しみ、励まして、キリストの恵みに結んでくださいました。過ぎし日々の歩みを思い感謝に堪えません。

わたしたちの教会に与えられて来た恵みを思い感謝いたします。78年の歴史を歩み、この地域とこの時代に在って福音を宣べ伝える貴い務めをいただきました。私は8代目の教師として遣わされましたが、本当に至らないことが多かったにもかかわらず、教会に忍耐を与えて下さり、共に助け合う教会に育ててくださったことを感謝します。あなたが聖霊の助けによっていつも共にいらして、支え導いてくださったことを思います。

わたしたちの群れは、来年度新しい教師を迎えようとしています。福音を宣べ伝えるためにこれまで用いて下さった事を感謝し、これからもこの教会を生かし用いてくださいますように祈ります。成宗教会は太平洋戦争が起こる前に伝道を開始しました。戦争中の迫害と困窮の中、あなたは牧師とわずかな信徒を励まし忍耐させてくださったからこそ、教会は残されたことを思います。今はその時代を知る人々はほんのわずかになりましたが、困難を共に忍んでくださった主がここにおられたことを感謝します。どうか、これから迎えようとしている新たな試練の時代にこそ、これまでにいただいて来た恵みを振り返って勇気と知恵とを与えられますように。

小さな群れよ、恐れるな、御国をくださることは父の御心である、と御言葉によって励ましてくださる主に感謝します。どうか、高齢の会員を励まし、信仰を強くし、後の世代のために祈りの務めを果たすものとならせてください。どうか若い世代、勤労世代の会員を励まし、求道者の方々と共に、家族とともに、御言葉によって道が開かれることを信じる者とならせてください。

来週は教会学校の行事に合わせて合同の礼拝を捧げます。どうか、心を合わせて主を礼拝し、主を喜び、御言葉に養われますよう、お導きください。午後の教会学校の活動を祝してください。また、9月の音楽会、10月のバザーに向けての準備を導いてください。今日の長老会にあなたが共にいらして、御心をなしてください。すべてを御手に委ね、感謝して、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

何を誇りとして生きているか

説教:大塚啓子牧師(目黒原町教会)

聖書:ローマの信徒への手紙5章1節-11節, エレミヤ書9章22節-23節

今日の御言葉は、私たちが何を誇りとして生きているかを問いかけています。ローマの信徒への手紙を書いたパウロはこう語ります。5:2-3「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」ここでパウロは、「神の栄光にあずかる希望」と「苦難」を誇りとしていると語ります。神の栄光にあずかる希望、それは終わりの日に、キリストが復活されたように復活し、永遠の命を与えられるとの希望です。そして苦難とは、キリストに従って生きる自分に襲いかかるさまざまな苦難です。例えば、パウロが今牢獄に捕らわれているということ。また体に与えられたトゲ。精神的には、使命をまだ果たし終えていないのにどうすることもできないことへの焦りや苛立ち。しかしその苦難をも誇りとすると語ります。そして、今日の御言葉の最後でも、「それだけではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています」と告げます。徹底して神を誇りとする。神のために受ける苦難も、神の栄光にあずかる希望があるから、誇りとする。何よりも、神を大事にして生きると告げています。

この言葉の背後には、かつてのパウロの姿があります。パウロはもともと、律法を厳格に守るファリサイ派に属していました。ですから、律法を厳格に守って生きる、その生き方が正しい生き方であり、律法を守る自分を誇りとしていました。しかし、イエス・キリストと出会うことで、パウロは変わりました。律法を本当には守ることのできない自分の姿を知らされ、罪の深さを知らされ、しかしその罪を命をもって赦してくださったイエス・キリストを知らされました。パウロ自身は、選ばれたイスラエル人、ベニヤミン族の出身、非の打ち所がないほど完璧に律法の遵守をしていた人です。それらはパウロにとって社会的に有利に働く要素でしたが、それをパウロは損失と見なすようになった。主イエス・キリストを知るあまりのすばらしさに、それ以外のことはすべて塵あくたと見なし、今は何とかして死者からの復活に達したいとフィリピの信徒への手紙で語っています。またコリントの信徒への手紙一では、月足らずで生まれたようなわたしにも復活した主は現れてくださり、救いに招き入れてくださった。教会の迫害者であり、何の値打ちのないわたしをも神は恵み、救ってくださったと感謝をもって語っています。この原体験があるから、「わたしは神を誇りとする」とパウロは繰り返し述べます。

そして、キリストによって救われたパウロは、徹底して「神の栄光にあずかる希望」によって生きます。苦難の中に置かれたパウロ。肉体的な苦しみだけでなく、精神的な苦しみも大きいものでした。異邦人に福音を宣べ伝える使命を与えられているのに、獄に捕らわれている現実。今までエルサレム教会と異邦人教会の和解のために苦労してきたけれども、一向に改善しない現実。しかしその「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」ということを知っているから、パウロは歩みを止めませんでした。キリストのための苦しみは無駄になることはなく、それは栄光に与る希望につながっている。キリストの苦しみにあずかることで、キリストの復活の姿にもあやかることができる。そのような確信を与えられていたので、パウロは諦めずに自分の使命を果たそうとします。

私たちも、パウロと同じように、復活の主によって救われました。「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」神は罪深い私たちを愛し、独り子イエス・キリストを十字架につけ、私たちの罪を贖われました。御自分の御子を犠牲にしてでも、私たちを救おうとされる神の愛が、十字架で、また今日の聖餐ではっきりと示されています。そしてこの深い愛は、絶えず聖霊によって、私たちの心に注がれています。礼拝を通して、御言葉と聖礼典を通して、神の愛がいつも心に注がれます。また日々の生活の中でも、聖霊と共に祈るとき、神との交わりが与えられ、神の愛が注がれます。イエス・キリストの救いは完全な救いです。もともと罪を犯し、神の敵であった時でさえ、神は御子の血によって私たちと和解されました。まして、和解された今は、キリストの血によって救われるのは尚更のことです。神は私たちに神の栄光にあずかる希望を与えられましたが、この希望は欺くことのない確かな希望です。どんなに拙い歩みであったとしても、神は私たちを神の栄光にあずからせくださいます。この希望が、私たちの生きる力となります。パウロが苦難の中でも自分の使命に生きたように、私たちも、教会も、苦難の中でも使命に生きることができます。キリストのための苦しみは、キリストの栄光につながります。教会がいろいろな課題や困難の中でも、伝道の業を果たしていく。毎週心からの礼拝をささげ、そして救われたことを喜び、感謝して生きる時、この地に神の栄光が表されます。また、神の愛の深さ、キリストによる救いのすばらしさ、キリストを誇りとして生きる私たちの姿が、キリストを指し示すものとなります。今、改めて自分が何を誇りとして生きているかを問いかけてみたいと思います。

預言者エレミヤもこう呼びかけます。9:22以下「主は言われる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」人間は、自分の知恵や力を誇ります。たいしたことのない知恵や力であっても、気づかない内に頼りにしている。そういう自分の姿があります。しかし、一番大切なのは、目覚めて主を知ることです。主なる神は、この天地を造られ、また私たち人間を造られました。この世界は神の御手の内にあり、歴史も神の支配の中を動いています。圧倒的な神という方がおられることを知ることが、生きる上で私たちに正しい姿勢を与えます。神を知ることで、人間の無力さやはかなさを知ることができます。それは、どんな人も欠けのある弱い器であり、完全な人なんていないということです。人の間に優劣の差はなく、すべての人が神の前には不完全で、でも神に深く愛されています。教会も同じで、大きい教会、小さい教会があり、力の差があるように思えますが、神の前には同じ罪人の集まりです。しかしキリストによって罪を赦され、聖なる者とされた聖なる公同の教会です。神はこの地に立てられた一つ一つの教会を愛し、いつも聖霊を送り、神を、イエス・キリストを知ることができるようにしてくださっています。ですから、私たちは諦めることなく、キリストの救いを宣べ伝え続けることができます。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を」生みます。神のための苦しみは、決して無駄になることはなく、むしろ私たちにさらなる希望を与えてくださいます。神の栄光にあずかる希望は、確かなものです。神は私たちを用いて神の栄光をこの地域に現わされます。どんなに拙い歩みでも、キリストを信じて歩き続けるとき、それがキリストを証しする生き方となります。イエス・キリストを信じて生きる生き方は、本当に確かな生き方です。異常な気象が続き、世界が歪んでいる。情勢も不安定な現実の中でも、キリストにより頼み、キリストを誇りとして生きる生き方は、確かで安定した生き方となります。天地を、また私たちを造られ、支配されている主と共に生きる時、私たちはこの世界で一番確かなものと一緒に生きているからです。そして主は、いつも私たちに神の愛を示し、私たちを守り、天の神のもとへと導いてくださいます。この主が私たちと共におられますので、私たちは安心して生きることができます。私たちは何よりも、神を知ることを求めていきたいと思います。必要なものが満たされるようにと祈ることも必要ですが、「まず、神の国と義を求めなさい」と言われるように、神を知ることをまず求めたいと思います。そして神の恵みにより、キリストの救いにあずかったことを喜び、感謝しながら、これからもキリスト者として歩んでいきたいと思います。

2018年8月号

日本キリスト教団成宗教会

牧師・校長  並木せつ子

このお便りは、なりむね教会からのメッセージです。キリスト教会は神様の愛について学び、伝えます。子供さんも大人の方も、読んでいただければ幸いです。

「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています。」

新約聖書、コロサイ2章3節

並木せつ子先生のお話

(これは今年6月10日の礼拝で話されたものです。)

聖書: マルコ1章21-28節

「イエスさまの三つのお働き」

並木せつ子

 イエスさまが地上に来てくださったのは、神様から与えられたお仕事があったからです。

今日のお話はイエスさまが汚れた霊に取りつかれた人から、その霊を追い出したというお話ですが、この中で、イエスさまは御自分に三つの働き(お仕事)が与えられていることを、人々にお示しになりました。

その一つは、イエスさまが安息日に会堂で教えられたことです。私たちが日曜日教会に集まって、神さまの教えを聞いているように、イエスさまは聖書の言葉から、神さまのお心を皆さんに知らせたのです。これが預言者の働きです。

するとみんなが静かに聞いていたとき、汚れた霊にとりつかれた男が騒ぎ始めたのでした。その男はそこにいた人々の目には変な人だとか、怖い人としか見えなかったでしょう。でも、イエスさまはその人の本当の気持ちと、その人の言っていること、していることが違うと分かってくださいました。彼が悪霊にとりつかれていたことも。彼の本当の気持ちは、悪霊に出て行ってほしいのだ、とイエスさまには分かったので、彼の本当の願いの通りにして上げました。「悪霊よ、この人から出て行け」と言って追い出しました。その人がしたくてもできなかったことを、その人に代わってして上げたのです。これは祭司の務めです。人のために代わってして上げる働きです。

でも、わたしたちにはできないことですね。なぜなら相手は汚れた霊で人間より強いのですから。出て行けと言ったって出て行くはずがありません。でもイエスさまにはお出来になります。イエスさまは神の権威をお持ちなので悪魔もイエスさまには勝てないのです。この働きは王の働きです。

イエスさまはこの三つの働きをもって地上に来てくださいました。そして神さまの本当のお心を人々に伝えました。神さまは罪の奴隷になっている(悪霊にとりつかれている人はその一番目立つ例です)人間の本当の苦しみを分かってくださり、身代わりになって罪を引き受けて十字架の死を耐え忍んでくださいました。神はイエスさまを死から復活させて神の権威をお与えくださいました。わたしたちもイエスさまを信じるならば、イエスさまの三つの働き

によって救われるのです。イエスさまは、十字架に死なれましたが、復活され、信じる人を罪から解放してくださいました。今も天に在ってこの働きをしてくださっているのです。

9月の御言葉

「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」

創世記15章6節

9月の教会学校礼拝

(毎週日曜日、朝9時15分~9時45分)

  • 神様に感謝して祈り、歌います。イエスさまのお話、聖書について学びます。
  • ◎ お話の聖書箇所と担当の先生は次のとおりです。

9月2日(日)  創世記3:1-10            お話の担当…並木せつ子

9日(日) 創世記4:1-7               並木せつ子

16日(日) 創世記9:9:17             勝田令子

23日(日) 創世記11:1-9             興津晴枝

30日(日) 創世記15:1-7              山口智代子


成宗教会学校からお知らせ

  • 成宗教会学校は礼拝と聖書の学びが中心です・・・イエス様が全世界に知らせてくださった神様はどのようなお方でしょうか。このことを学ぶことは大きな利益となります。
  • 礼拝の後の活動もあります。全体で1時間程度。10時半にはキチンと終わります。
  • 教会学校は、幼児(初めは保護者とご一緒に)から高校生、大人の方でも参加できます。親子でもご参加ください。また、中学生以上の方には、10時半~11時半のからの礼拝もお勧めしています。
  • 成宗教会学校の夏休み・・・8月一か月は9時15分から10時15分までの教会学校はありません。この機会に10時半からの礼拝に参加してみて下さい。どなたでもイエスさまは招いておられます。
  • 8月19日(日)夏休み一日教会学校・・・この日は10時半からの合同礼拝から始まります

Ⅰ 大人との合同礼拝・・・10時半~11時20分(いつもより短めです。どなたも遅刻しないように心掛けてください。) 教会ガレージで持ち物準備。出発は11時50分。

Ⅱ 善福寺川緑地公園でバーベキュー・・・12時半~15時

Ⅲ 教会に戻っておやつタイム、お祈り、解散・・・15時半~16時半

  • 詳しい案内を差し上げています。郵送もしています。申込み締切は7月29日(日)