キリストは謙(へりくだ)って人となられた

聖書:イザヤ45章22-24節, フィリピの信徒への手紙2章6-11節

 今年もクリスマスを待ち望む待降節が始まりました。「神はその独り子を世にお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためである。」これはヨハネ福音書3章16節の御言葉です。神の愛は、イエス・キリストにおいて世に表されました。神はキリストを世にお遣わしになり、神の御心を私たちにお知らせくださいました。そこでようやく私たちは自分の罪について考えることができるようになりました。すなわち、私たちは神に祝福されて神の形に造られたのに、神を求めることなく、神を離れ、神に背いて生きていたことに気付かされるのです。イエス・キリストはこのような人間、すべての罪人のために神の御前に身代わりとなって犠牲を捧げ、私たちの罪の執り成しをするために、地上に来てくださいました。

キリストは人間となられたので、私たちの目には人間としてしか見えなかったと思います。クリスマスの物語によれば、イエスさまの両親となるヨセフもマリアも平凡な貧しい人々で、生まれた赤ちゃんのイエスさまも、本当に貧しく無力な幼子にしか見えなかったことでしょう。それでは、人の目には人間としてしか見えないイエスさまは、本当にただ人間に過ぎなかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。今日読まれたフィリピの信徒への手紙は、キリストが天から降って人となられたことを証ししています。この手紙を書いた使徒パウロは、フィリピ教会の信徒たちに、謙遜を身をもって実践するように勧めました。今日の少し前、2章3節、4節を読みます。「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」

そしてこのような謙遜の例の最も優れたものとして、パウロはキリストの証しを指し示すのです。「キリストは、神の身分(形=フォーム)でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」神の身分というのは、神の形という意味です。神の尊厳をもっておられるということです。キリストは本来、神の身分、神の形であられました。イザヤ書45章で、主なる神は次のように断言しておられます。今日読んでいただいた45章22節。「地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。」ですから、神以外のだれも神の身分であるはずがないので、キリストは本来神と等しい方であります。そうでなければ、神から身分を奪い取ったことになってしまうからです。

本来神の身分であられたキリストは、その輝きをもって、地上に来てくださっても当然なのであります。私たちは神の形を表すもの、というのは何かが分らなくても、例えば、王の身分を表すものは何か、ということはよく分かるでしょう。王を表す形は、王冠とか、笏とか、また王の座る玉座であり、それによって、その人が王であることが分かるのであります。しかし、キリストはその身分、形や尊厳を捨てて、世に来てくださいました。「捨てて」というのは違うかもしれません。とにかく肉の姿を取られたとき、神の形の尊厳はその人間の姿のうちに隠されたのです。ですから人の目には普通の人と変るところは見えませんでした。

では、イエス・キリストはなぜそのようになさったのでしょうか。そこに神の愛が表さています。キリストが自分を無にされたのは、一重に人間の救いのためであったのです。キリストは外見では神と等しいものとしての形を現さず、また、人々の前では目に見えて現れるべき神の形があからさまには見えなかったのですが、それでも、神はわたしたちにご自分をお示しになりました。なぜなら、神のご性質は何よりもその恵み深さにおいて知られるからです。キリストは貧しい世にあって、貧しい人々に福音をお語りになり、恵みの言葉と共に、人の知恵と力では助けることのできない病気を癒し、悪霊の力から人々を自由にして下さいました。このようにご自分の本来持っておられる輝かしいお姿を捨て、御自分を無に等しい者にして世に来てくださったからこそ、私たちの空しい人生に光が輝いたのです。神に従う者、神の僕としていらしてくださった、その目的は、人間の救いのために仕える僕となることでした。

神と人に仕える僕となられたキリストは、世に降って来られたこと自体、すでに大きな謙遜を示されました。しかしそればかりではありません。キリストは本来、神と等しいもの、不滅のご存在であったのです。そればかりでなく、神と等しいからには命をも、死をも御支配なさる主でもあられるのです。それなのに、キリストは十字架の死を耐え忍ぶまで、従順でした。そこまで、父なる神に従順の限りを尽くされました。キリストはいわば極限の無となられたのです。このようにキリストは死んで、人間の目から見て屈辱であったばかりでなく、神の呪いとなられました。これは確かに私たちの想像を絶する謙遜の手本であります。

私の記憶では半世紀も前の時代までは、謙遜とか、謙譲とかいうことが高い徳目の一つとされていたと思います。その証拠には、男の人の名前にも謙さんとか譲さんという名前の人がよくいました。しかし、人間社会全体で考えるならば、へりくだる、自分を低くする、ということが勧められているにも拘わらず、人々は人より低くされることを嫌うのが常であります。絶えず人と見比べ、自分の方が本当は上だと思う。そして、人前で自分を人よりも大きく優れたもののように見せることに心血を注ぐようなことが起こっているのであります。

しかし、聖書はここに証ししています。人間の心が非常に嫌う無や謙遜は、キリストに在っては、極めて望ましいことであることを。なぜなら、キリストは非常に卑しむべき状態から、最高の高さに引き上げられたからであります。2章9節。「このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」だれでもキリストの福音を聞き、キリストに従って自分を低くする者は、キリストと共に高められるのです。聖書はこのようにしてキリストの死の中に、神の純粋な恵みを見るようにと、私たちを招いておられます。キリストの死によって私たちがどのような利益を恵みとして受けたことかを知らせるのです。私たちの救いがたい現実に、キリストは御自分を忘れて私たちの救いのために御自分とその命を捧げてくださいました。その計り知れない愛を見上げましょう。その愛を味わい、愛について考え、知る者となりますように。

キリストは謙って人となられました。私たちはこれによって贖われ、神と和解し、神の形を回復していただき、不信仰の罪が清められ、神の永遠の命に至る門が開かれたのですから。神はキリストに「あらゆる名にまさる名を与えられた」と述べられています。名はその持ち主の尊厳を表します。キリストは地上のすべての人々の救いのために執り成す務めを果たされます。すなわち、私たちはイエス・キリストのお名前によって祈ることが許されるばかりでなく、求められているのです。神はこの名によって福音が宣べ伝えられ、真の礼拝が全世界にわたって捧げられることを求めておられます。

「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」また、今日読まれたイザヤ書45章にもこう告げられています。23-24節。「わたしは自分にかけて誓う。わたしの口から恵みの言葉が出されたならば、その言葉は決して取り消されない。わたしの前に、すべての膝はかがみ、すべての舌は誓いを立て、恵みの御業と力は主にある、とわたしに言う。」これは公の礼拝での信仰の告白を表しています。真の神は御自身の名を決して他のものには与えられません。従って、この方から遣わされ、真の人となられたイエス・キリストも、真の神であられるのです。教会が受け継いで来た信仰は父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神の三つの名で呼ばれる一人なる神、三位一体の神に対する信仰です。

2017年は、1517年に開始されたルターの宗教改革に象徴される宗教改革運動から500周年ということを謳って多くの記念行事が超教派で行われて来ました。宗教と名を付けられたものについて一般的に寛容な社会が進んできたのですが、一方では、世界に非常に過激な宗教弾圧があります。その中で真の神を尋ね求める私たちは、真の救いが全世界の人々に告げ知らせられることを願うものです。神の御心を尋ね求め、その計り知れない愛を見い出す者は、数多くないというのは、イエス・キリストのお言葉であります(マタイ7:13-14)。そして、宗教改革者自身の言葉でもあります。私たちはクリスチャン人口が少ないことを嘆くことよりも、しなければならないことがあります。それは、まず自分が真心を込めてイエス・キリストによっていただいた福音を信じ、公に信仰を告白して、神の栄光を表す者とさせていただけるよう、自分のために、また教会に連なるすべての者のために祈ることではないでしょうか。

地上で教会につながっていることは、本当にありがたいことです。現実に主の助け、聖霊の導きを悟ること、感謝することができるのは、この現実に地上に建っている教会を通してであるからです。先日も他教会員の方と電話で話し合いました。最近、ガンの末期でホスピスで過ごされていた御夫君が地上の生涯を終えられたとのこと。介護の日々を主が守ってくださり、最期まで安らかであったことを伺い、主に感謝しました。いつも真の神を信頼し、この神のみに祈り、わき目もふらず一心に助けを求め、感謝と賛美を捧げることを忘れない。このことこそは、神の喜ばれることであり、神は御自分だけを見上げ、偶像のようなものを一切求めない人を、決してお見捨てにならないことを、互いに確認して私はその方と喜び合いました。

教会はこのような証しを受け、また他に与えて生きています。目に見えて礼拝を守る人々が多く集まることは、どの教会の願いでもありますが、一方、目に見えて教会に足を運ぶことのできない人々は日毎に多くなっております。その結果、私たちの目には隠されてしまうことが多くなるのですが、それは主の恵みから遠ざかることでは決してないのです。神はわたしたちの思いをはるかに超える方。思いをはるかに超えて、その愛をお示しになられる方であることをわたしたちは知らされています。

礼拝を守れる時には礼拝から離れてしまうことがある私たち。そして礼拝を守りたくても守れないことがある私たちです。主はこの両方をご存じです。そして今、一番弱さを感じている人々の叫びを聞いてくださっている。その時に真の神を、イエス・キリストの謙りに表された真の神を信じて、この方のみを真心から呼び求める人々に、神は応えてくださいます。しかし、だれがこの神を呼び求めるでしょう。若い時に、元気な時に、福音を聞いたからこそできるのです。この神の愛を知ることができたからこそ、神に心を向けることができるのです。使徒パウロが次のように述べるとおりです。ローマの信徒への手紙10章14節。(288)「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。」だからこそ、この福音を誰もが聞くことができるために、教会を建てて参りましょう。祈ります。

 

教会の主イエス・キリストの父なる神さま

待降節の礼拝を感謝し、尊き御名を賛美します。あなたは私たちの祈りを聞き給い、あなたに背いている生活を打ち破り、悔い改めの道を日々開いてくださいました。今日の御言葉を聴き、改めてあなたの御子イエス・キリストの御業を思い感謝をささげます。私たちは主の犠牲によって救われ、御前に立つ者とされました。どうか謙って主の心を心とし、主の愛と栄光を表す者になるように、私たちを作り変えてください。私たちの狭い心、低い望みを変えられて、あなたの愛を証しする者となりますように。

クリスマスに向かう今週の歩みを整え、備えさせてください。心からの感謝をささげることができるように。どうか主の愛がこの教会において証しされ、東日本の地域教会と共に主の体を形成するために心を一つにすることが出来ますように。また地方で孤立と困難のうちにある教会を特に覚えます。主の聖霊の助けが豊かにございますように。

私たちの教会のうちにある困難はもちろん、教会の家族、職場、学校の中にある様々な労苦を覚えます。この社会の隅々にまで、恵みの主の御支配を祈り願います。

今日の教会学校から今に至るまで、このように豊かな恵みを感謝いたします。成宗教会長老会、ナオミ会の働に祝福をお与えください。クリスマスの行事をはじめ、すべての教会の計画が、新しい時代の福音伝道に向けて整えられますように。

この感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。