復活節第2主日礼拝 (2021年4月11日午前10時30分 № 3748)

司会:勝田令子
奏楽:矢田部祐子
前奏 新型コロナウィルス感染症流行拡大防止のためにYoutubeライブ配信です
招詞
讃美 152
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 1311節(交読詩編p.150 [赤司会・黒一同]
祈祷
讃美 352
聖書 イザヤ書 65章3-5節 (旧約 p.1,167)
マルコによる福音書 5章1-20節 (新約 p.69)
説教
「墓場からの生還」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 380
献金 547 原田 史子
頌栄 543番
祝祷
後奏
受付:横手仁美

キリストの復活

イースターCS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌147番
讃美歌151番
讃美歌148番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 12章1-6節 (旧約聖書1,079ページ)

◆救いの感謝
12:1 その日には、あなたは言うであろう。「主よ、わたしはあなたに感謝します。あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが/その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。
12:2 見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して、恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌/わたしの救いとなってくださった。」
12:3 あなたたちは喜びのうちに/救いの泉から水を汲む。
12:4 その日には、あなたたちは言うであろう。「主に感謝し、御名を呼べ。諸国の民に御業を示し/気高い御名を告げ知らせよ。
12:5 主にほめ歌をうたえ。主は威厳を示された。全世界にその御業を示せ。
12:6 シオンに住む者よ/叫び声をあげ、喜び歌え。イスラエルの聖なる方は/あなたたちのただ中にいます大いなる方。」

新約聖書:マタイによる福音書 28章1-10節 (新約聖書59ページ)

◆復活する
28:1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。
28:2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。
28:3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。
28:4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。
28:5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、
28:6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。
28:7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
28:8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。
28:9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
28:10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

《説教》『キリストの復活』

今日はイースターです。主イエスが私たちの罪のために十字架に架かって死なれて3日目によみがえられた、復活されたことをお祝いする『復活祭』です。それを英語でイースターと言います。皆様と共におめでとうとお祝い致しましょう。

さて、今日は先ほどお読みした聖書箇所から主イエスの「復活」について考えてみたいと思います。そのためにマタイ福音書を少し前まで遡って、主イエスのご受難、十字架の経過を少し振り返って見たいと思います。

26章で主イエスは最後の晩餐を終られて、弟子たちを連れてゲッセマネへ行き、父なる神様に血の滲む祈りを捧げられました。すると、裏切りのユダに先導されたユダヤ宗教指導者の差し向けた兵士や大勢の群衆に主イエスは捕まえられました。そして、ユダヤ教の大祭司カイアファのもとで尋問を受け、続いて、ローマ帝国の総督ピラトから裁判を受けられたことが書かれています。そして、総督ピラトによる裁判が行われ、主イエスに何の罪をも見いだせなかったものの、ユダヤ群衆から異常な圧力を受け主イエスに死刑の判決を下します。そして主イエスは十字架につけられ、直前の鞭打ちの苦しみや痛みも相まって6時間ほどの短い時間で息を引き取られました。その主イエスの亡骸をアリマタヤのヨセフが引き取り、自分のために準備した新しい墓にご遺体を葬り大きな石で墓の入口を塞ぎました。そして、過越祭の終わった三日目の朝に、マグダラのマリアが、その主イエスの墓に行ったところが、今日の主イエスのご復活の聖書箇所です。

因みに、新約聖書の中には主イエスが様々な奇蹟を行われる記事があります。特に主イエスが死んだ人を生き返らせる奇蹟物語は有名で、皆さんもよくご存知ではないでしょうか。なかでも、ルカ福音書7章の「ナインのやもめの息子のよみがえり」、マルコ福音書5章の「会堂長ヤイロの娘のよみがえり」、そして、ヨハネ福音書11章の「ラザロのよみがえり」の3つの死からのよみがえり、奇蹟物語がよく知られています。これらは、主イエスが死人を生き返らせた奇蹟物語ですが、これら蘇り・生き返る物語は今日の主イエスご自身の「復活」とは全く意味が違います。

マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書は、それぞれ特徴があります。例えば、主イエスがお生まれになった降誕記事であるクリスマス物語を省略するマルコ福音書や“ロゴスは肉となってわたしたちの間に宿られた”と抽象的な表し方をするヨハネ福音書がありますが、この主イエスの「復活記事」を省略する福音書はありません。四福音書すべてが必ず主イエスの復活記事を書いていることからも、聖書にとって主イエスの「復活」が極めて重要な物語であると理解できます。主イエスの復活こそが、キリスト教の中心テーマであり、最も大切な主イエスによる救いへと繋がっているのです。

四福音書すべてに記されている主イエスの復活記事は通常2つの形に分類されます。主イエスのご遺体が墓の中にはないことを記し、間接的に主イエスの復活を物語る「空の墓物語」がまず一つの形です。そして、もう一つは復活の主イエスが弟子たちに御姿を現されたことを記す、顕微鏡の「顕」に現われると書く「顕現物語」が二つ目です。

1節の「週の初めの日」とは、金曜日に十字架で死なれ葬られた主イエス復活の日のことで日曜日です。この日曜日の朝に主イエスの墓を訪れた者として、マタイ・マルコ・ルカ3つの共観福音書が複数の女性たちの名前を挙げています。ここで「もう一人のマリア」とは、間違いなく主イエスの母マリアと考えられていますが、何故「イエスの母マリア」とせずに「もう一人のマリア」とマルコが書いているのか意図は不明です。このマタイ福音書では婦人たちが墓へ行った理由は記されていませんが、他の共観福音書によると、それは過越祭の前の十字架刑のために急いで葬られた主イエスの未完成に終った葬りを完成させるためであったと思われます(マコ16:1)。

マグダラのマリアは、2節にあるように、天から下ってきた天使に「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」と主イエスの復活とガリラヤでの再会の約束まで告げられ、そのことを弟子たちに告げ知らせる様に命じられました。

主イエスの復活の様子は、四福音書それぞれの記事によれば、先ず空の墓が発見され、主イエスの亡骸がなくなっていたこと、その次には天使による御告げ、これは天の上から行われたことであるとの知らせであり、最後に復活の主イエスの顕現、つまり人々の目に見えるお姿でマグダラのマリアだけでなく弟子たちを始め多くの人々に姿を現されたということでした。

天使の言うことを畏れながらも喜んで聞いたマリアが、このことを弟子たちに知らせようと墓から走り出すと、何と死なれた筈の主イエスが、行く手に立って「おはよう」と声をかけて来られました。

マグダラのマリアは、ルカ福音書8章から登場して主イエスのガリラヤからの宣教の早い時期から付き従って旅をするようになりました。主イエスのことを最も慕う女性の一人でした。主イエスが十字架で処刑され、弟子たちも逃げ去っていった中で、主イエスが息を引き取られる最後まで見届けました。そして、日曜日の朝早く、押え切れない気持で、墓へ行ったのです。

神様を信じる信仰には、“サル型”と“ネコ型”があると言われています。サルは自分の子供を運ぶ時、子ザルを母ザルのお腹にしっかりとしがみつかせます。母ザルが自分の手で子ザルを抱えることはありません。子ザルは掴んでいる手を離したら終わりです。従って、サルの子供は必死で母ザルにすがりつくことになります。一方、ネコの子供は移動する時、母ネコが子ネコをくわえて運びます。子ネコはすがりつこうにも四つ足ともブランブランです。力を抜いて、お母さんにお任せなのです。信仰は、サルの子のように自分の力でしがみつく信仰と、ネコの子のように、お任せしてしまう、お委ねする信仰とがあると言えます。私たちの信仰は、自分の力で必死にすがりつくような信仰ではなく、神様を信頼し切って、安心して自分のすべてを神様にお委ねできるような信仰へ変えられなければならないのです。

自分からすがりつく信仰は頑張らなければならない信仰です。一生懸命努力しなければならない信仰です。それは疲れます。いつも自分の方からすがりついていなければならない。自分が手を離したら終わりです。信仰のために自分が、頑張らなければならない。善い行いや努力をしていないと、神様に愛してもらえない、見捨てられてしまうのではないだろうか。そんな不安が心の中に大きな場所を占めます。その結果、自分は神様に愛されていないのではないだろうか、見捨てられてしまうのではないだろうか、と不安になっていないでしょうか。教会での奉仕や良い行いが充分にできれば安心します。しかし、教会奉仕や自助努力が足りないと思うと落ち込んだりしてしまうのではないでしょうか。

頑張らないと神様に愛されない人生になっていないでしょうか。もちろん、何事に対しても努力するのは極めて大切です。しかし、努力の結果で、神様が私たちを愛されるのか、愛されないのかが決まるのではありません。神様の愛とは、そんなものではないのです。

あなたは愛されている存在だ。聖書は、私たちに、そのように語りかけます。たとえ善い行いができなくても、何もできなくても、結果が出せなくても、神様はあなたを一方的に愛してくださっている。その手で、しっかりと掴んでいてくださる。だから、私たちは、“良い子でいなければ”と力む力を抜いて、“神様、感謝します。こんな私ですが、よろしくお願いします”と、神様を信頼し、お任せする。お委ねする。そこに安心が生まれます。喜びが生まれます。

そんな人生の安心と喜びに気づかせるために、復活した主イエスは、マリアに「おはよう」と声をかけられたに違いありません。「イエス様はどこ?」「幸せはどこ?」「救いはどこ?」と、必死に願い求めているマリアに声をかけられました。

マタイ福音書での主イエスの本当の栄光とは十字架で私たちの罪のために死なれたことだけではなく、十字架で死なれても復活されて、天に上げられ、天に存在されていることです。

「復活」とは一度死んだ者が再び息を吹き返すという現象、「生き返り」や「蘇生」とは全く違います。「復活」とは主イエスが初めてなさった特別な御業なのです。この世には復活を認めない人たちも沢山います。クリスチャンを名乗る人の中にさえ復活を認めない人たちもいるのです。

復活を認めない人たちが主イエスの墓が空であった理由を大きく分けて二つ挙げています。まずその第一は、主イエスの親しい者たちが運び去ったというもの。第二は、主イエスの敵が盗んだというもの。いずれも問題があります。第一の説は、弟子たちはこの時復活をはっきりと信じていなかったし、ユダヤ人を恐れて隠れていたうえ、墓は数人の番兵が番をしており、たとえ亡骸を墓から運び出そうとしても難しかったでしょう。第二の「敵が盗んだ」はそうしなければならない動機が見当たりません。何より、弟子たちが主の復活の宣教を開始した時、主のからだを敵が提示して反論することができなかったことでも分かります。これだけでも主イエスの復活が確認されるんではないでしょうか。逆に復活の裏付けとなるのは、四福音書とⅠコリ15章に記されている主イエスの合計10回に上る顕現物語ではないでしょうか。それら一つ一つの記事は、それぞれが独立して多様性を持っています。後になって調和させたとは考えられません。主イエスが復活されたという主要な点においてはすべての記事が一致しています。

また多くの人々に復活の主イエスが現れた状況や、主イエスの十字架を見て逃げ去ってしまった弟子たちが復活の主イエスに出会って大きな変化が起きたことは否定できません。何が弟子たちを逃げ隠れする者から殉教を恐れず大胆に福音を語る者に変えたのでしょう。弟子たちに勇気と確信を与え、伝道者とさせたのは復活の主イエスに出会ったからに他ならないのです。また、それまでは、ユダヤ人として土曜日の安息日を守っていた弟子たちが、なぜ土曜日に代えて日曜日の主の日を守り、また聖餐を祝うようになったのか、そして1節にあるようにこの日が「週の初めの日」になったのか。これらはみな、キリストの復活によってなされたものと考えるべきです。洗礼“バプテスマ”は、キリストと共に葬られ、よみがえったことのしるしです。この主イエスの復活は神様の御業であり、キリスト信仰の基礎なのです。

そして、主イエスがなされたこの復活は私たちにも将来起きる、終末の時にすべての人々に起きる。その終末の時には、生きている人々だけでなく、死んだ人々も復活すると新約聖書は語っているのです。

復活した身体がどんなものなのかについては、聖書では詳しくは語られていません。しかし、主イエスの復活が私たちの救いと密接に結びついていることは、ローマの信徒への手紙4章25節にある様に「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。」という言葉からも明確に分かります。

私たちの罪を贖うために十字架で死なれた主イエスは復活されて、今も私たちが義とされるため、私たちを罪から救うために生きて働いておられるのです。

復活を信じることは、主イエスを信じる信仰、キリスト教信仰の中心なのです。神様の恵みである主イエスの復活なくしてキリスト教信仰はないのです。この主イエスの復活を信じるか、信じないかでキリスト教信仰が大きく変わると言えます。この復活信仰は、私たちが努力して身に着け、己の知識とするものではないのです。マグダラのマリアが復活の主イエスに出会ったように、主イエスから一方的に与えられる愛によるのです。私たちが主イエスの呼び掛けに応える時に与えられる一方的な信仰の恵みなのです。

最後にヨハネによる福音書20章27節、新約聖書210ページをお読みします。「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』」

復活の主イエスは疑い深い弟子のトマスだけでなく、私たちみんなに『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛けているのです。疑うトマスにも優しく呼び掛けられる復活の主イエスは、今も生きて私たちを愛して『信じない者ではなく、信じる者になりなさい』と呼び掛け続けられているのです。

深く信じる信仰を与えられ、「祈りの家」としての教会に仕え続けることができますよう。

お祈りを致します。

イースター(復活日) CS合同礼拝 (2021年4月4日 № 3747)

受付:興津晴枝
司会:齋藤 正
奏楽:吾妻愛子
前奏
招詞
讃美 147
主の祈り (ファイル表紙)
使徒信条 (ファイル表紙)
交読詩編 13078節(交読詩編p.149 [赤司会・黒一同]
祈祷
讃美 500
聖書 イザヤ書 1216 (旧約 p.1,079)
マタイによる福音書 28章1-10節 (新約 p.59)
説教
「キリストの復活」
成宗教会 牧師 齋藤 正
讃美 148
聖餐式
献金 547 齊藤 紀
頌栄 543番
祝祷
後奏