福音に生きる

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌68番
讃美歌500番
讃美歌517番

《聖書箇所》

旧約聖書: サムエル記 下 22篇29節 (旧約聖書519ページ)

22:29 主よ、あなたはわたしのともし火
主はわたしの闇を照らしてくださる。

新約聖書: マルコによる福音書 4章21~25節 (新約聖書67ページ)

◆「ともし火」と「秤」のたとえ

4:21 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。
4:22 隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:24 また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。
4:25 持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

《説教》『福音に生きる』

本日は新型コロナウィルス感染症の「緊急事態宣言」が終了することを祈っての長老会メンバーでの主日礼拝です。ご一緒に連続して読んで参りましたマルコによる福音書の本日の4章には、主イエスがお語りになったいくつかの譬え話が並べられています。先々週2月21日には、「種を蒔く人のたとえ」とその説明、そして、譬え話を用いて語ることの意味あるいは目的が「みことばの実り」と題して語られました。そこで、主イエスは譬え話によって「神の国の秘密」をお語りになりました。神の国とは、神様のご支配という意味です。主イエスは1章15節で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って伝道を始められました。主イエスがこの世に来られたことによって、神の国、神様のご支配が今や実現しようとしている、それは言い換えれば救いが実現しようとしている、ということです。しかしその神の国の福音は、同時に「秘密」でもあります。「秘密」というのは「隠されていること」ということです。神様のご支配の実現という救いは、隠されており、誰の目にもはっきりと見えるものにはなっていないのです。「神の国は近づいた」という主イエスのお言葉はそのことを言い表しています。神の国は、近づいているけれどもまだ完全とはなっていないのです。ですから、神の国の福音とは「信じること」しかないものなのです。その神の国の秘密を、身近で具体的な事柄を用いて、体験させ、信じさせてくれるのが、主イエスの語られた譬え話なのです。ですからそれは神の国についての説明ではなくて、ある意味「謎掛け」のような話です。隠された神の国が謎掛けによって示されているのです。譬え話を読む私たちは、その謎を解かなければなりません。本日の箇所に語られている譬え話も、謎のような話です。その謎をご一緒に解いていきましょう。

始めの21節で、主イエスは、「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」と言われました。この「ともし火」をろうそくの火と考えてしまうとイメージが掴み難くなります。このともし火は、水指しのようなものに油を入れ、芯を油に浸して火を灯すランプ、アラジンのランプのようなものと言ったら分かり易いでしょう。それなら、升の下や寝台の下にも置けないことはないわけです。しかしランプをそんな所に置くために持って来る者はいません。ランプは燭台の上など高い所、よく見える所に置いて、光が部屋中を照らすようにするものです。これはまことに尤もな話ですが、これがどのような意味で神の国の秘密を語っているのでしょうか。

続く22節の、「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない」という言葉は、主イエスの教えと言うよりも、当時一般に語られていた諺だろうと思われます。この言葉は、「悪事はいつまでも隠しておけるものではなく、必ず露見する」と言い換えると皆様なるほどと納得されるのではないでしょうか。私たちには誰にでも、自分の心の中に秘め、隠している罪があります。人に知られたくない、知られてはならないと思っている罪、それは人間の目からは死ぬまで隠しおおせるかもしれません。しかし私たちは最後に、神様の前に立たなければならないのです。人間の目はごまかすことができても、神様は、私たちの心の中の秘めた思いまで全てご存知です。神様の裁きの前では、隠していることが全て明るみに出されるのです。神様を信じて生きるとは、この様に、自分の隠しているどんなことも全て知っておられ、それを裁かれる神様がおられることを覚えて生きることです。22節の言葉は、この様に理解されることが多いでしょう。そのこと自体は信仰における大事な教えですが、しかしここで語っているのはそういうことだけではありません。主イエスは確かに当時の諺を用いておられますが、それを、ともし火のたとえと結びつけることによって、全く新しい意味を込めておられるのです。

この譬えは、燭台の上に置かれ、あらわにされるべきともし火が、升の下や寝台の下に置かれて隠され、その光が多くの人に見えなくなっているという現実を語られているのです。神の国が隠されている、という現実です。神の国、神様のご支配、救いは、主イエス・キリストがこの世に来られたことによって決定的に近づき、実現しようとしているのです。しかし主イエスは、誰が見てもこの方こそ神様の独り子であり、救い主、まことの王であられると分かるようなお姿でこの世に来られたのではありませんでした。ベツレヘムの馬小屋で生まれ、ナザレの村の大工の子として育って来られた主イエスは、人の目を引く王族の様な立派な姿ではなかったのです。だからその主イエスが神の国の福音を宣べ伝え始め、癒しの奇跡などを行うようになったのを見て、身内の者たちは「気が変になった」と思ったのです。主イエスが神様の独り子であり、救い主であられることは、隠されていたのです。主イエスによって到来している神の国というともし火は、升の下、寝台の下に置かれ、隠されていたのです。今は隠されていて、誰の目にも明かにはなっていないけれども、いつかそれがあらわになり、公になり、全ての人々が主イエス・キリストにおける神の国のともし火に照らされる時が来るのです。22節はその約束を語っています。ともし火のたとえは、主イエスによって到来した神の国、救いは今は隠されているけれども、将来必ずあらわになる、その時を信じて、希望を持って待ち望みつつ、今のこの時の、神の国が隠されている現実の中を、忍耐しつつ歩むようにと教えているのです。

主イエスによってもたらされた神の国のともし火は隠されている、そのことが最もはっきりと現れているのが、主イエスの十字架の死です。升の下に置かれたともし火がじきに消えてしまうように、主イエスの光は人間の罪の力によってかき消されてしまったのです。しかし、父なる神様は、その主イエスを復活させて下さり、もはや死ぬことのない永遠の命に生きるともし火を新たにともして下さいました。そのともし火のもとに集められ、それによって照らされている群れが教会です。しかしながら、このともし火も、誰の目にも明らかに見えているものではありません。教会はいつの時代にも、このともし火を見ることができない、見ようとしない、多数の人々に取り囲まれています。福音書が書かれた初代の教会も、今日の私たちも同じです。主イエス・キリストこそ神の子、救い主であられ、主イエスの十字架と復活により、神様のご支配が、私たちの救いが実現しているということは、信仰によってのみ知ることが出来るのです。

神様のみ言葉を、聞く耳をもって聞くことが、ともし火を見つめて生きるためには必要です。主イエスはさらに24節で、「み言葉を聞く」ことに関する教えを語られました。「何を聞いているかに注意しなさい」とあります。み言葉を、ただ漫然と聞くのではなく、注意深く聞くことが求められています。しかしそれは、居眠りをせずに、一言も聞き漏らさないように、というだけのことではありません。ここに、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ」るとあります。み言葉を聞くことが、ある秤をもって何かを量ることに譬えられているのです。私たちは、およそ人の話を聞く時に、いつもそれを自分の秤で量っていると言えるでしょう。自分の秤で量って、これは価値があると思うと、その話を一生懸命に聞くのです。逆に、自分の秤に照らして、これはあまり価値がない、と思うと、心に止めずに聞き流すのです。現代は、膨大な量の情報が洪水のように溢れている時代です。その中で、情報を選択して、聞くべき言葉と聞かなくてもよい言葉とをしっかり見分けることは必要です。そのための秤を自分の中に持っていないと、情報の洪水に押し流されてしまいます。しかしそれは同時に、自分がどのような秤によって情報を量っているかが問われているということでもあります。秤が不適切だと、必要な情報を見逃し、役に立たない情報に振り回されてしまうことも起るのです。そのように、世の中の情報を量る秤は大切です。ここで、私たちにとって本当に大切なのは、神のみ言葉を聞く時に、どのような秤を持っているかです。神のみ言葉を聞く時には、この世の情報を量るのとは違う秤が必要です。私たちが自分の考えによってみ言葉の価値を判断してこれは必要だとかこれはいらないなどと判定するのではなくて、神様が与えて下さる恵みのみ言葉をできればすべて汲み取っていくことができるような、大きな秤が必要なのです。「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ」というのはそういうことを語っています。重さを量る秤は、嵩を量る升に置き換えられます、例えば、お米を沢山量れるような大きな升を持っていれば、そこにみ言葉の恵みが豊かに大量に注がれるのです。そして「更にたくさん与えられる」とも語られています。神様はそのように大きな升でみ言葉の恵みを受けようとしている者に、更におまけをどんどん与えて下さるのです。しかし逆に、神のみ言葉を自分の思いによって評価し、判断し、自分に役に立つと思われるものだけを聞こうとしている人は、自分の思いや考えという小さな秤しか持っていないことになります。どういう秤を持っているかによって、神様から頂くことができるみ言葉の恵みが全く違ってしまうのです。25節の「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」というみ言葉はそういうことを語っているのです。「持っている人」とは、お金持ちのことではありません。み言葉をいただくための大きな器を持っている人です。「持っていない人」とは、貧しい人ではなくて、み言葉を聞く器の小さい人です。自分の思いや考えというちっぽけな器によって受け取っていたのでは、隠されている神様のともし火を見ることができません。この世の現実の暗さ、闇の圧倒的な力に目を塞がれて、神のみ言葉など、信仰など、何の役にも立たない、何の力もない、と感じられ、結局、与えられている恵みをも失ってしまうことが起るのです。しかしそれは、み言葉に力がないからではなくて、その人の、み言葉を受け取る器が、み言葉を量る秤がちっぽけなものだったからなのです。

私たちは、どのような秤で、神様のみ言葉を量っているでしょうか。その秤の大きさはどれくらいでしょうか。そして量る量をより大きくするためには何が必要なのでしょうか。勘違いをしてはならないのは、その秤の大きさは、私たちの理解力の大きさではありませんし、頭が良いとか悪いとかでもありません。またそれは私たちの信仰心の深さや熱心さでもありません。「自分の量る秤で量り与えられる」とは、み言葉をどう聞くのか、それは悔い改めにかかっているのです。自分が神様に背き逆らっている罪を認め、神様のみもとに立ち帰って赦しを願うことです。み言葉は、そういう悔い改めの思いをもって聞く時にこそ、恵みの力を発揮するのです。

キリストに従い、キリストと共に生き、キリストのために死ぬ。その中に、生涯のすべてを傾け尽くす喜びが用意されているのです。25節には「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」とあります。

悔い改めることなしにみ言葉を聞いても、その恵みの力は伝わって来ないのです。なぜなら悔い改めなければ、自分の思いや考えによってみ言葉を量り、評価し、自分の思いに合うことだけを聞き、そうでないことには耳を塞いでいるからです。自分が主人になって神様のみ言葉を選択しているのです。悔い改めるとは、そのように自分が主人となってみ言葉を評価、判断することをやめて、神様こそが自分の主であるとの信仰を与えられ、神のみ言葉によって自分の思いや感覚、考えを変えられていくことを受け入れることです。そのような秤をもってみ言葉を聞く時にこそ、み言葉の恵みは豊かに与えられていくのです。「聞く耳のある者」とは、この悔い改めの思いをもってみ言葉を聞く人です。その人には、人間の思いや力によっては及びもつかない神様の恵みの世界が開かれ、示されていくのです。そこには、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現している神の国のともし火が見えてきます。今は隠されているけれども、いつか必ずあらわになり、全世界を照らすことになる、神様の恵みのご支配がはっきりと見えてくるのです。

私たちは、苦しみ悲しみが多い、罪が支配するこの世の闇の中で、世の光であり、希望のともし火である主イエス・キリストの放つ光に照らし出されているのです。家族や友人など周りの人々に、このキリストの光を届ける者になっていくのです。

お祈りを致します。

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正しさとは何か

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌187番
讃美歌354番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 49章25節 (旧約聖書 1,144ページ)

49:25 主はこう言われる。
捕らわれ人が勇士から取り返され
とりこが暴君から救い出される。
わたしが、あなたと争う者と争い
わたしが、あなたの子らを救う。

新約聖書:マルコによる福音書 3章20-30節 (新約聖書66ページ)

3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
3:22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。
3:23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。
3:24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。
3:25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。
3:26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。
3:27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。
3:28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
3:29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」
3:30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

《説教》『正しさとは何か』

主イエスの周りには大勢の群衆が集まっていました。「食事をする暇もないほど」と記されていますが、原文では「食事をすることも出来なかった」となっており、時間がないということではなく、押し寄せた群衆によって小さな家が一杯になり、「食事どころではなかった」ということでした。主イエスに興味をもった人々で満ち溢れていたのが、初期のガリラヤ伝道でした。そして、集まって来た人々の期待は、主イエスの超自然的な癒しなどを求めてのことであり、主イエスを正しく理解していなかったということも事実でした。

先週1月31日に、13節以下をご一緒に読んだ時、この弟子たちと主イエスのお姿は教会の原型であることを述べました。教会とは主イエスが中心にあって、弟子たちを含むすべては、付随するものとも言えるのです。もちろん、弟子たちが何もしなかったのではありません。彼らも一生懸命に働いたことでしょう。しかしそれでもなお、中心に立たれるのは主イエス・キリストであり、教会に働く者は、たとえそれが十二使徒であろうと、ただキリストに従っている者に過ぎないのです。

それでは、この時、人々の目に映った主イエスのお姿はどうであったでしょうか。既に繰り返して来たように、主イエスの癒しの御業などに対し、人々が大きな興味と期待を寄せていたことも確かです。自分たちの要求、自分たちの眼に写る身近な幸福への願い、そのような人間の自己中心主義・エゴイズムが彼らの心にあったことに間違いありませんが、ただそれだけとも言えません。

自分の要求を第一とするエゴイズムは、誰にでも有るものであり、現代の私たちも同じでしょう。当時の人々と現代の私たちとは、問題や要求する事柄は違っていても、心の底にある自己中心性は変わっていないでしょう。

それならば、何故、あの時の熱狂が現代にはないのでしょうか。ガリラヤにおいて主イエスに向った爆発的と思える人々の集中には、単なる「物珍しさ」を通り越した「何か」があったと見るべきです。「イエスへの要求」という人間のエゴイズムだけを見るのではなく、かくも人々の心を引き付けた「何か」を、ここに読み取らなければならないのです。

続く21節から、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。『あの男は気が変になっている』と言われていたからである。エルサレムから下って来た律法学者たちも、『あの男はベルゼブルに取りつかれている』と言い、また『悪霊の頭の力で悪霊を追い出している』と言っていた。」とあります。

主イエスの家族の者たちは「イエスが気が変になった」と思いました。「気が変になった」とは曖昧な表現ですが、正しくは口語訳聖書にあるように「気が狂った」と記されているのです。また、ユダヤ人の宗教的指導者である律法学者たちは、「イエスは悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれている」とも非難しました。

しかしながら、主イエスが、病人を癒し、悪霊を追い出しているだけであったならば、家族の人々は「気が狂った」とは思わなかったでしょう。自分たちの家族の一人であるイエスが「どうしてこのような癒しの力を身に付けたのか」と不思議に思ったとしても、「取り押さえに来る」ことはなかった筈です。ナザレからカファルナウムまで約25km、石がごろごろしているガリラヤの山道を丸一日歩かなければなりません。31節を見れば、母マリアまで来ているのであり、大変な思いで駆けつけて来たと思われます。

それ程までしてナザレからやって来たということは、ただごとではない「気が狂った」としか思えない「何かがあった」と考えるべきではないでしょうか。そして弟子たちも、主イエスと同じ姿をとっていたに違いないのです。

何が、「狂った」と言われるほどに異常だったのでしょうか。それは、「何をしているか」ではなく、「どのように生きているか」ということでした。

それは先ず、彼らが平凡な生活を否定したことに見ることが出来るでしょう。ペトロたちはガリラヤ湖での主イエスとの出会い以来、家も職業も捨てたと思われ、御言葉を聞く人々にも自分たちのような在り方を勧めていたため、これ迄の生活を守る堅実な生き方を否定する危険な思想のように受け取られたのかもしれません。

また、主イエスは、多くの人々からバプテスマのヨハネの再来と見られたように、この世の権力を真っ向から否定はしなかったものの、それに従うのではなく、新しい権威、新しい価値観を説いていたと思われます。

祭司や律法学者たちは民衆の指導者であり、尊敬され、大きな権限を持っていました。会堂を中心としたユダヤ人の日常生活は、伝統的な体制に依存していました。そのため主イエスたちは反社会的行動をしていると見做されていたでしょう。加えて、主イエスの周りには当時の社会で軽んじられている人たちばかりが群がっていました。ガリラヤ湖で魚を採っていた漁師たち、軽蔑されていた徴税人、危険思想を持つ熱心党員、それらに加えて、娼婦として軽蔑されていた女性たちや難病に苦しむ人々、苦しい生活を強いられた未亡人たち。主イエスの周りに集まったのはこのような人々でした。

「神の国の到来」という福音を宣べ伝える主イエスの姿勢は、その時代の一般的な人々、特に体制派の人々には受け入れられないものでした。当時の常識的な人生の価値観と共存出来るものではなく、その時代の現実の社会体制の中で生きる者にとって「異質なもの」と見做されたのです。

私たちの周りには時折、「イエスの時代に生まれ、イエスの説教を直接聴いたら、素晴しい信仰者になったであろう」と言う人がいますが、それは大変な思い違いです。主イエスの御言葉を聴く者は、それまで自分が守って来たもの、大切にして来たものを否定する言葉を聴くのです。福音は、それまでの生活の流れを徹底的に変えることを要求しました。

今ここで、聖霊なる神が導かれる教会で、聖書を読んで分からない人は、何処へ行っても分からないでしよう。何故なら、それは聖書が難しいのではなく、心が固いからです。御言葉を拒否してしまっているからです。主イエスの時代の人々と同じように、福音を自分とは異質なものとして聴いているからです。主イエスの家族は、「言うことは分かるが、それほど迄にすることはあるまい。これはもう行き過ぎている」と思ったのです。

私たちはどうでしょうか。自分のこれまでの生活のリズムがある程度保たれ、社会の人々と折り合いをつけられるのであれば、異なる意見に対しても寛容であり得ます。しかし、自分を守る最後の場が否定されれば相手に対して寛容になることは出来ないでしょう。

律法学者たちが主イエスの奇蹟の御業を目の当たりにし、そこで示された偉大な力を見てそれを認めながら、それでもなお、悪霊との結び付きしか考えられないのも、主イエスの家族と同じ状態にあることを示しています。自分の考え、自分の生き方に合わないもの全てを、「まともではない」と決め付けるのです。

主イエスを愛する家族たちも、主イエスを憎む律法学者たちも、主イエスに対する対応が同じであるならば、それは、個人の感情的な問題ではなく、まさに人間の持つ罪の姿と言う以外ありません。福音とは、神様に背を向けた人間の眼には、「狂っている」としか見えないようなことがあるのです。

更に23節から主イエスは、「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。国が内輪で争えば、その国は成り立たない。家が内輪で争えば、その家は成り立たない。同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることは出来ない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。」と言われました。

この28節以下は主イエスが「悪霊の頭ベルゼブルに取りつかれている」という批判に対する論駁です。そして27節の「強い人」とは、その悪霊を指しています。悪霊は、その力で人を罪と死の奴隷にし、「家財道具」のように家に閉じ込めているのです。この悪霊である「強い人」の家に押し入り、その支配下にある「家財道具を略奪しよう」とは、「悪霊に縛られている人を解放しよう」としているのです。そのためには、まず「強い人」を縛り上げるほどの強い力が必要であり、「わたしが悪霊を追い出しているのは、わたしが悪霊よりもはるかに強い力を持っていることの証明である」と、主イエスは言われているのです。

主イエスは悪霊との結び付きを完全に否定しています。そして、悪霊に憑かれていることが「気が変になっている」ということと同じであるとするならば、主イエスはここで、御自分の姿こそ「正常である」と言っているのです。そして更に、もし主イエスが正常であるならば、主イエスを「まともではない」と言う人こそ「まともではない」ということになるでしょう。「正しい」とか「まともである」ということは、それが何を基準にして判断されるのか、明らかに示されなければなりません。

主イエスは御自分の正しさをはっきりと宣言されました。そしてそれは、御自分の家族を含めて、多くの人々が「正常ではない」という宣言でもありました。「正しさ」とは「存在の正しさ」です。私たちが、今、どのように生きているかという問題です。どれだけ、世のため、人のため、また教会のために尽くしているかということではなく、どれ程人を愛して来たかということでもありません。「何のためになされるのか」ということが問われているのです。それは、「神様のため、神様に喜ばれるため」に他ならないのです。

この本来のあるべき姿を失った時、人は全て正常ではなくなると言わざるを得ません。かくて、神様に背を向けて生きる全ての人々は「まともではない」のです。信仰を与えられ神の御前に立つということは、この世の信仰のない人々の生き方から見れば異常な姿に見えるでしょう。信仰を与えられ人本来のあるべき姿として、神の国を生きる時に、人は正常な者として自分を新たに発見するのです。与えられた信仰こそが正しく人を生かすのです。

そして、28節から主イエスは、「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と言われました。

この世で人間の犯す全ての罪は赦される、しかし、永遠の罰が定められるのは聖霊を汚す者だけとあります。それは何故でしょうか。

聖霊なる神とは、キリストから遣わされて私たちのところに来られた「助け主」です。聖霊を拒否する者は、聖霊が与えて下さる神様の赦しを拒否する者であり、神様の赦しを拒否する者は最終的な裁きを受けざるを得ないのです。

ですから、全ての人間に、神様の赦し、つまり正常な人間に戻る道が備えられているのです。福音を信ずるならば全ての人間は救われるのであり、滅びる者は、自分から赦しを拒否して破滅への道を進んでいるのです。

私たちが、今、キリストに属する者、キリストの弟子として教会に召されたということは、この神様の救いの御心が、全ての人々に対して向けられている、ということを証しするためなのです。

聖書が告げる主イエス・キリストの喜びは、私たちがこの世に埋没してしまうことではなく、この世の人々と平和に共存してしまうことでもなく、弟子たちのように、周囲の人々とは違う生き方、新しい生き甲斐を持つ人間の姿を示すことなのです。「いったい、どちらが正常なのか。」との問い掛けを、生涯をかけてこの世に向って証ししていくのが、私たちキリスト者なのです。私たちの日々の生活、生きる姿によって、聖霊に助けられてこの証し人となるのです。

お祈りを致します。

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弟子たる者

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌326番
讃美歌352番
讃美歌225番

《聖書箇所》

旧約聖書:詩篇 41篇2節 (旧約聖書874ページ)

41:2 いかに幸いなことでしょう
弱いものに思いやりのある人は。
災いのふりかかるとき
主はその人を逃れさせてくださいます。

新約聖書:マルコによる福音書 3章13-19節 (新約聖書65ページ)

3:13 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。
3:14 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、
3:15 悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。
3:16 こうして十二人を任命された。シモンにはペトロという名を付けられた。
3:17 ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた。
3:18 アンデレ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、タダイ、熱心党のシモン、
3:19 それに、イスカリオテのユダ。このユダがイエスを裏切ったのである。

《説教》『弟子たる者』

今日の聖書箇所は、主イエスが十二人の人々を選び出し使徒に任命する物語です。彼らは、主イエスに最も近く仕え、親しく教えを受け、驚くべき御業の数々に立会い、教会の基礎を築きました。

しかし、主イエスにはもっと沢山の弟子たちがいたのです。前回読んだ7節以下には、おびただしい群衆が主イエスに従って来たことが語られていました。本日の聖書箇所に語られているのは、その多くの弟子たち、従って来た人々の中から、「使徒」と呼ばれる特別な弟子たち十二人が主イエスによって選ばれ、任命されたのです。

主イエスがこの十二人を選び出した目的として語られていること、「彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため」というのは、まさに使徒たちの働きの内容です。「使徒」とは「派遣された者」という意味です。主イエスによって派遣され、主イエスの使者としての役目を果すのが使徒です。十二人の弟子たちがそういう務めへと任命されたのです。

しかしながら、そのように重要な人々であるということを意識して聖書を読んで行くと、奇妙なことに気づきます。何故なら、この十二人の弟子たちが大変有名であるにも拘らず、聖書は彼らについて極めて簡単にしか記していません。実際に、どのような生涯を送ったのかといったことについても、聖書は殆ど何も書き残してはいません。更に、この十二人が、教会の歴史の先頭に立つに相応しい人物であるとも語ってはいません。

十二使徒の中でも、最も有名なのはケファとも呼ばれたシモン・ペトロです。使徒に選ばれる前はガリラヤ湖の漁師でした。妻子もあり、弟子の筆頭として、福音書には多くのエピソードも記されていますが、彼の生涯の後半で聖書に登場するのは、使徒言行録12章17節に「そこを出てほかの所へ行った」と曖昧に書かれているだけで、それから先は、辛うじて使徒言行録15章のエルサレム会議に姿を見せるだけで、あとは分かりません。これ以前の彼の様々な行動については、聖書に多く記され、皆さんもよくご存知でしょう。

ゼベダイの子ヨハネも漁師でした。若者であり、十字架にまで付き添った唯一の弟子であり、常に主イエスの傍らにいたのですが、「そこにいた」というだけで、殆どの場合、彼自身は何も発言していません。

ゼベダイの子ヤコブは彼の兄と思われますが、漁師であるということ以外、「雷の子」という気短なあだ名が紹介されているだけで、発言は僅か二回、まともなことは語っていません。

アンデレはペトロの弟とされていますが、ヨハネ福音書でペトロを主イエスに紹介したとだけ記されています。

フィリポも漁師ですが、彼もヨハネ福音書以外姿を見せません。

バルトロマイについては何も分からず、マタイは徴税人であると言う以外何も分かりません。マタイ福音書の著者という説も確認されていません。

トマスは主イエスの甦りが信じられなかったという消極的エピソード以外不明です。

アルフアイの子ヤコブとタダイは名前のみです。

熱心党のシモンも政治結社である熱心党員であるか不明です。

裏切りで有名なイスカリオテのユダでさえ、ナルドの香油物語での発言のほかは、祭司長への密告事件以外、何も記されていません。

ヨハネ福音書を除くと、ペトロ、ヨハネ以外、殆どの人物については、些細なエピソードを除いて何も語られていないのです。これらのことから聖書は、十二人を決して特別扱いしてはいないと言えます。彼らは平凡な人間の集まりであり、人々から尊敬され重んじられていたわけでもなく、もちろん、学問的に優れている者でもありません。むしろ、粗野なガリラヤ湖の漁師たち、人々から嫌われていた徴税人、ローマ帝国に対する憎しみを暴力によって抵抗しようとしている熱心党員、そして最後には主イエスを裏切る「心・弱い人々」であり、要するに、何処にでもいる庶民の集まりに過ぎませんでした。

このような人々を見る時、とても「神の使徒」として選ばれるような必然性は何一つ見出せません。もし、主イエスが彼らを呼び出し、「使徒」という名をお与えにならなかったなら、誰一人として指導者になり得なかったでしょう。この選びが、何故、神の御業の新しい段階と言えるのでしょうか。

この使徒たちの選びの場面を見て、「これが教会の原型・ひな型であった」と言う人もいます。「教会」とは「召された人間の集まり」を指すからです。「教会」(エクレシア)とは、「呼び出す」という動詞から出来たものであり、「呼び出された者の集まり」という意味です。決して、同じ考えの人々が集まった団体というものではなく、目的を同じくする者の集団でもありません。キリストに選ばれ、キリストに召し出され、特別に集められた者のことを聖書はエクレシアと呼んだのであり、それを「教会」と訳しているのです。

「私たちの教会・エクレシア」は、私たちを呼び出された主イエス・キリストの意志・御心が全てなのです。

このように、キリストの召しを受けた全ての人間の原点が、本日の御言葉に示されていると言えるでしょう。そしてこの意味を十分に理解するとき、聖書が語る重要な点が、十二人の名前にではなく、個性にでもなく、「彼らがどのように選ばれ、何をなすべく立てられたのか」という点にあることが分かるのです。

先ず13節から、「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。」とあります。

十二使徒の任命は、山の上でなされたのです。その選びが「山の上」でなされたということは、何を意味するのでしょうか。ルカによる福音書の並行箇所、6章12節以下を読みますと、主イエスは山に登って、一晩祈り明かされたことが語られています。山は、主イエスの祈りの場所なのです。主イエスが徹夜の祈りをなさった上で、十二使徒を選び出されたことを強調しています。マルコ福音書は、ただ「山に登って」とだけ語っていますが、やはり主イエスの祈りを暗示していると言ってよいでしょう。使徒たちの任命の根本には主イエスの祈りがあると言えるのです。

同じく13節に、「これと思う人々を呼び寄せた」と記されていますが、これは文語訳や口語訳のように「御心に適った者」と訳すべきでしょう。つまり、神に召された者とは、神の御心に適った者であるのです。これは驚くべきことです。何故なら、私たちは誰でも正直に自分の姿を見詰めるならば、到底神の御心に適うような者ではないということを告白せざるを得ません。

そして続いて、十二人を「任命し」と訳されていますが、この「任命する」とは原文では「造る」という言葉です。直訳すれば「十二人を造った」となるのです。このことは私たちが心に刻みつけておくべきことです。「任命する」には、「君➁はこの任務を果す能力と資格があると認められるから、この務めに任命する」というニュアンスがあります。そしてそのように任命された者は、上司が自分を評価してくれたことに感謝して、その期待に応えるように頑張るのです。しかしこの「造った」という言葉は違います。主イエスが十二人の使徒たちを「造った」のです。主イエスご自身が彼らを「使徒」として造り出したのです。彼らが与えられた使命、神の国の福音を宣べ伝える力も、悪霊を追い出す権能も、全て主イエスによって与えられたもの、主イエスが彼らの中に造り上げたものなのです。使徒たち十二人は、ここで主イエスによって新しい者として造られたのです。十二人の使徒の任命とはそういう出来事だったのです。

キリスト者としての私たちの存在は、「キリストが私たちを愛し、選び出して下さった」ということ、ただそれのみに起源を持ち、私たちがキリスト者であり続けるということは、このキリストの愛への生涯をかけた応答なのです。

人間の価値は愛に対する応答で決まります。愛を無視したり、忘れたりする者は、自らの価値を低めるもの以外の何ものでもないと言えるでしょう。神様からのただ恵みによって愛の中に招かれた者は、その無償の愛に応えることに生き甲斐を見出すものです。

続く、14節から、「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせためであった。」とあります。彼らの使命は、主イエスの使者として派遣され、神の国の福音を宣教することとその神の国、神様のご支配の印として、悪霊を追い出す業を行うことです。けれどもここには、それに先立ってもう一つのことが、使徒が立てられた目的として語られています。それは「彼らを自分のそばに置くため」ということです。使徒たちは、遣わされてあちこちへと出かけて行く前に、先ず、主イエスのそばに置かれたのです。主イエスの傍らに常におり、主イエスのみ言葉を間近で聞き、主イエスのなさる癒しのみ業、悪霊追放のみ業を目の前で見たのです。彼らの使徒としての働きはそこから始まったのです。主イエスが弟子たちを引き連れてガリラヤ中を宣教し、悪霊を追い出されたと語られていたのも、彼らをご自分のそばに置いて、主イエスご自身の宣教の言葉を聞かせ、悪霊追放のみ業を見せるためだったのです。そのような準備期間を経て、実際に彼らが宣教へと派遣されて行ったのです。

神の愛は、愛する者に新しい生き方を用意しているのです。

よく「生き甲斐とは何か」「人間らしく生きるとはどういうことか」と問われます。聖書が示す答えはただ一つです。それは「キリストの愛の中を生きる」ということです。何故なら、キリストは私たちに働く場を特別に用意して下さっており、その働く場において、私たちは御心に応える自分の姿を発見することが出来るからです。

キリストの召しとは、全ての召した者にそれぞれ固有の使命を与えられるのです。全ての者が、どのような時にも同じことを行うのではなく、それぞれが置かれた場で個性を活かし、その時と場に相応しい働く場を与えられるのです。

ここで弟子たちに与えられた使命とは何でしょうか。「宣教」とは神の国の到来を伝えることです。「悪霊を追い出す」とは神のご支配の確かさの告知であり、神の国は現実にここにあるということの証明です。

これらは、もともとキリストの御業でありました。主イエスが初めて明らかにされたことでした。とするならば、選ばれた者に与えられた「権能」とは、「キリストの御業を、キリストに代わって、この世で行うことが許された」ということです、k。つまり、「~せよ」と言われ、「その命令に服従することが求められている」ということではなく、この素晴しい務めを「私の代わりに行うことを許す」という、新しい人生の可能性の宣言として受け取ることが出来るのです。

この時、主イエスは彼らを「使徒」と名付けられました。「使徒」(アポストロス)とは、本来、「遣わされた者」という意味であり、遣わした方の権威を代行する者のことです。古代では国家の権威を代表して海外へ赴く艦隊の司令官などを表し、現代的な意味では「大使」「外交官」を意味すると言えるでしょう。

つまり、「選ばれた」「愛された」ということは、感情的な問題ではなく、キリストの代理として立てられたのであり、神の権威を表す者として生きることを、公式に認められたということなのです。

そしてこれが、現在、私たちが受けている使命です。たとえ私たちが、各地を巡ったペトロたちのような伝道者ではないとしても、キリストの権威を現す者、神の国の外交官として、「特別な務めを負っている」ということに変わりはありません。

私たちは、この使命を日々の生活の中で如何に果たしているでしょうか。「何を行っているか」ということではなく、日々の生きる姿によって「何を表しているか」ということが大切なのです。

私たちにはそれぞれ生活があります。しかし、その生活は「私の生活」ではなく、「神の国を表す生活」なのです。

私たちが、日々の生活の中で、キリストと共に生きるならば、共に生きる喜びを表すならば、それこそ、神の国に生きる人間の姿として、世の人々への証しとなるでしょう。

主に召され、神の聖なる選びの中に置かれた時、私たちは、もはや、つまらない人間ではなく、キリストによって立てられた「神の国の大使」として、この世を生きているのです。

神の国に生きる私たちの姿が、私たちのごく近くで共に生きている家族などの親しい人々に自然に伝わっていくのが私たちの伝道です。この素晴らしいキリストの救いを自分自身の生きる姿で伝えて行けますようお祈りを致します。

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主の山に備えあり

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌338番
讃美歌512番

《聖書箇所》

旧約聖書:創世記 22章1-19節 (旧約聖書31ページ)

22:1 これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、
22:2 神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
22:3 次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。
22:4 三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えたので、
22:5 アブラハムは若者に言った。「お前たちは、ろばと一緒にここで待っていなさい。わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」
22:6 アブラハムは、焼き尽くす献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った。二人は一緒に歩いて行った。
22:7 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」
22:8 アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。
22:9 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。
22:10 そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
22:11 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、
22:12 御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
22:13 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
22:14 アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。
22:15 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。
22:16 御使いは言った。「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、
22:17 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。
22:18 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
22:19 アブラハムは若者のいるところへ戻り、共にベエル・シェバへ向かった。アブラハムはベエル・シェバに住んだ。

《説教》『主の山に備えあり』

本日の物語は、大変有名な聖書箇所です。旧約聖書で最も難解な箇所の一つとも言われてきました。この物語は謎に満ち、私たちを戸惑わせ、混乱させます。この箇所の説教で、ある牧師は、「私はアブラハムのようには出来ません」という結論で説教を結び、聴衆を唖然とさせたそうです。

この物語は、私たちに何を告げようとしているのでしょうか。確かに、ここに記されているのは、神様のご命令で父アブラハムが息子イサクを殺そうとする場面です。次々と疑問が溢れてきます。なぜ神様はアブラハムに息子イサクを捧げることを求めたのでしょうか。なぜアブラハムは、この神様の求めに素直に従ったのでしょうか。イサクは薪の上に載せられるとき、なぜ逃げなかったのでしょうか。アブラハムは本当に神様が子羊を備えてくださると信じていたのでしょうか。

イサクは、アブラハム100歳、妻のサラ99歳の時に授かった奇跡の一人息子です。彼は、アブラハム召命以来の使命を全うすべき約束の子でした。この頃はもう薪を背負って行ける年頃になっていたようです。

モリヤの山は、後のエルサレム神殿の丘と言われていますので、アブラハムの住んでいたベエル・シェバから直線で約80キロ、「三日の距離」(4)でした。「焼き尽くす献げ物」とは「燔祭」のことであり、犠牲の動物を焼き、その香りを天に届かせる古代世界共通の礼拝形式です。分かり易く言えば、主なる神は、約束の子イサクを「焼き殺せ」と命じられたのです。

アブラハムは神様のご命令を受け止め、イサクを献げるためにモリヤまで旅をし、山上で殺す直前、身代わりの雄羊によりイサクの命が救われました。これが本日の物語です。

これはとても恐ろしい物語であり、しかも目的が「アブラハムへの試み」と記されていることから、信仰のテストとして受け止める時、耐えがたい恐怖をもたらすと言うべきです。

私たちは、聖書を読む時、登場する人物に自分たちを重ね合わせて読むことが多いのではないでしょうか。しかし、この物語は、アブラハムに自分を重ねても、イサクに自分を重ねても、いよいよ混乱するだけです。我が子を神様への捧げものとして自分の手で殺すことなど、想像するだけてゾッとします。逆に自分が父親に殺されることなど考えることもできません。最初にお話しした牧師は、自分とアブラハムを重ね合わせ、混乱し、この聖書の箇所からきちんとメッセージを受け取ることが出来なかったのでしよう。

しかし、聖書を読む時、もう一つ大切な方法があります。それは、聖書をキリストを指し示しているものとして読むことです。聖書の謎をイエス様の十字架の出来事という最も深遠なる謎と重ね合わせる時、私たちは初めてその謎を解く入り口に立つことか出来るのです。

この物語はアブラハムの人生の最後を飾るものです。この出来事以後、聖書ではアブラハムは背後に退き、イサク物語に移って行きます。それでこの物語は、アブラハムの生涯の総決算であり、アブラハム物語の頂点とも言われるのです。

物語は「神はアブラハムを試された」と始まります。神の御前に立つ者が避けることの出来ない神の御業が、ここから始まるのです。

神様の呼びかけに対し、アブラハムは「はい」と答えました。この「はい」との言葉は11節でも繰り返されており、ヘブライ語で「ヒンネーニー」です。これは少年サムエルが、初めて神に呼ばれた時の応答の言葉でもあります。原語では「このわたしを見よ」ということですが、実際には、私たちの聖書のように、「はい」と訳すことが出来ます。しかし多くの学者たちは、この箇所におけるアブラハムの姿勢を重視し、敢えて「私はここにおります」と訳しています(フォンラート、ヴェスターマン、関根正雄他)。口語訳聖書もこの立場を取っていました。

「アブラハムよ」と、主なる神から個別に呼びかけられた人間が、御前に自分を明らかにし、自分の存在のすべてを賭けて御言葉に応えようとしているのです。人格のすべてを賭けた応答、それがこの「ヒンネーニー」という言葉に込められています。そしてアブラハムは、本日の物語の中で、神様に対して、この「ヒンネーニー」の一言以外、まったく口にしません。

神の御言葉、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(2)は大変厳しいものでした。「あなたの息子」「あなたの愛する独り子」「イサク」。この三通りに語られた言葉は、献げられるものの大切さを強調しています。アブラハムにとって、イサクは特別な存在でした。アブラハムは、「すべての人の祝福の源となる」という主なる神の約束を受けて旅立って来ました。主の御言葉を信じた彼は、それまでの生活、過去のすべてを捨てました。そして、年老いた日に奇跡的に与えられたイサクは、その約束の「しるし」でありました。何故なら、「すべての人の祝福の源となる」ということは、子供があって初めて可能なことであり、イサクの存在は、彼の生涯の過去及び未来のすべてを意味づけるものであったからです。

ですから、イサクを犠牲にして献げるということ、「殺す」ということは、可愛い子供を失うということにとどまらず、これまで過ごして来た人生のすべての意味を失うことでした。

ヨブ記1章21節に「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」というヨブの告白があります。イサクが、主なる神御自身による、人間の可能性を越えた奇跡的誕生をしたことを考えれば、その通りでしょう。まさしく「主は与え、主は奪う」ということです。しかし、親と子という人の情を考えれば、そのような理屈は受け入れ難いものがあります。この時のアブラハムの心情について聖書は何も記していません。ただ、人間としての苦しみに必死に耐えたであろう、ということは想像に難くありません。

「主は与え、主は奪う」という原理は分かっていても、「どうせ奪うなら、初めから与えられなければよかったのに」という気持ちがわいて来るのではないでしょうか。おおよそ、すべての人間はやがて失う命を生きているに過ぎないのですが、それでも、その死を迎える時期については不満を言うのです。私たちの予想を超えた死に対する怒りであり、「時」を定められる神に対する不満となるのです。死を見つめることは、まさに厳しい限界状況に直面することです。

そのような苦しみ、悲しみを越えて、なお、アブラハムが「向かって行った」ということに注目しなければなりません。壮絶な葛藤があったでしょう。なぜこのような運命に耐えなければならないのか、という疑問が生じたことでしょう。御心を尋ねて見たいという思いもあったでしょう。

アブラハムは危険な荷物は自分で背負い、イサクにはただ薪だけを背負わせました。アブラハムは万感の思いを持って、イサクと共に二人だけで山に登りました。

この時のイサクの質問、「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」との問いかけは何を意味しているのでしょうか。アブラハムの答え、「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」とは、極めて恐ろしい言葉です。

もし、神御自身が犠牲の小羊を用意してくださるであろう、という希望を持ってここまで来たのでしたら、アブラハムは、本当は、イサクを殺す決断をしていなかったのであり、神の御言葉に服従するためにここまで来たのではないと言わなければならないでしょう。

また、もし、これがあきらめの言葉であったならば、そこにあるのは、「どうにもならない」という虚しさだけであり、これほど信仰から遠いものはないでしょう。

それでは、アブラハムは、イサクの問いに対して何を答えているのでしょうか。何も答えていないのです。彼には分からないのです。それ故に、アブラハムの言葉は曖昧であり、どう答えてよいのか分からない苦しさの籠もるものでした。

ただ、彼は「きっと、神が…」と語りました。確かに、分らないことばかりであり、誰にも説明出来ない命令の中に置かれていたのです。イサクに語れることは、それが神の命じられた「神の御心」であるということだけでした。そして、「神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。」(9-10)とあります。抵抗する様子もなく縛られ薪の上に寝かされたイサク。まさに、恐るべき瞬間です。

アブラハムは、この試練に耐え得る特別に強い人間であったのでしょうか。彼の生涯を振り返る時、それと正反対な人間であったことを知らされるでしょう。自分の安全のために妻サラを見捨てた弱さ。甥のロトを救うために神に何度も執り成しをした優しさ。そのアブラハムが、なぜ、このような決断をなし得たのでしょうか。

この物語が、信仰の英雄アブラハムの物語ではなく、神の物語であるということを改めて考えなければなりません。人間がぎりぎりまで追い込まれた限界状況の中で神が何をされるのかということです。甘い期待ではなく、自分の尊厳のすべてと、命を委ねた決断の中で、信仰の本質があぶり出されるのです。

このギリギリの場面で、イサクに代えて、「木の茂みに角をとられていた一匹の雄羊」(13)が与えられ、主なる神は、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」と言われました。すべてをご存知の主なる神が今まで分からなかったのでしょうか。ここで改めて、この物語の冒頭1節に記されている「試み」ということが問われます。これは、神の信仰テストに合格した、ということなのでしょうか。

ここで明らかになったのは、アブラハムの服従の信仰であり、信仰とは命がけのものである、ということです。

しかし、アブラハムの信仰深さを知るために神はこのような厳しいテストをされたのでしょうか。これはテストではありません。すべてを御存知である神が、敢えてなさったことであり、それがアブラハム自身のためであった、ということなのです。

パウロは、フィリピの信徒への手紙4章19節で、「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。」と記しています。私たちが何かをしようと思う時、何かをしなければならない時、その時すでに、神は私たちの決断に先立って働いておられるのです。ということは、アブラハムの決断は、彼の超人的な精神的努力の結果ではなく、彼の卓越した信仰によるものでもなく、主なる神が働きかけ、主なる神御自身が導いたものに他ならない、と言うべきでしょう。

1節の「神はアブラハムを試された」とは、この命令が、彼に可能かどうかを試すテストではなく、アブラハムに「出来る」ということを教える「訓練」であったのです。「主の山に、備えあり(イエラエ)」(14)とは、神の試みと、それに対する「備え」です。試みとは、信仰に生きる者に、神と共に生きる素晴らしさを教え、神の顧みの豊かさを教える恩寵の手段であり、その喜びに生きる信仰の奇跡なのです。

「試み」は「神の備え」があって、初めて意味を持ちます。主は、これだけの備えをした上で、アブラハムを信仰の試練の中で鍛えられたのです。

コリントの信徒への手紙一 10章13節に、「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」とあります。

父なる神は、私たちを信仰の豊かさに導き、神と共に生きる世界を実現するために、独り子なる神を十字架に付けられました。アブラハムのために雄羊が用意されていたように、私たちのためには、御子キリストが備えられたのです。

神と共に生きる喜びとは何でしょうか。それは、あなたの罪は赦されたという宣言を聞くことに始まり、神と共に永遠を生きる望みを受けることです。主なる神は、その喜びに私たちを導くために、御子を身代わりの犠牲としてゴルゴタの丘に備えられたのです。

この物語全体を通じて、アブラハムは、ヒンネーニー「私はここにおります」と言う以外、神に対して何も語っていません。御前における沈黙は、不平、不満の沈黙ではなく、絶望の沈黙でもなく、神を信頼し、すべてを委ねた人間の姿を表すものなのです。御言葉に従う以外、行くべき道を知らない人間の姿、それがアブラハムの沈黙でありました。そしてこの沈黙の素晴らしさを教えることが、アブラハムに対する、神の最後の顧みであったのです。

「主の山に備えあり。」私たちが生き、礼拝へと導かれる世界、それが「主の山」であり、備えられた恵みの大きさを味わう場です。今、御言葉によって召し出され、聖霊によって立てられた教会に集まる者は、この恵みの前に沈黙する幸いを得た、と感謝すべきでありましょう。

お祈りを致します。

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イエスの拒否

《賛美歌》

讃美歌187番
讃美歌217番
讃美歌332番

《聖書箇所》

旧約聖書:エゼキエル書 35章15節 (旧約聖書1,354ページ)

35:15 お前がイスラエルの家の嗣業の荒れ果てたのを喜んだように、わたしもお前に同じようにする。セイル山よ、エドムの全地よ、お前は荒れ地となる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。

新約聖書:マルコによる福音書 3章7-12節 (新約聖書65ページ)

3:7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、
3:8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。
3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
3:10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
3:12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

《説教》『イエスの拒否』

先週の礼拝では、安息日に主イエスがユダヤ人の会堂で片手の萎えた人を癒されたことが語られました。この癒しのみ業がなされた結果、ファリサイ派の人々は出て行って、ヘロデ派の人々と、どのようにして主イエスを殺そうかという相談を始めたのです。

本日はその続きです。初めに、「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた」とあります。湖とはガリラヤ湖です。主イエスと弟子たちは会堂を出てガリラヤ湖の方へと立ち去られたのです。ここは口語訳聖書では「退かれた」となっていました。その方が原文のニュアンスを伝えています。ただ立ち去ったと言うよりも、退いた、退却したのです。それはファリサイ派やヘロデ派の人々の敵意、殺意が高まっていたからでしょう。ユダヤ人の会堂はファリサイ派のホームグラウンドです。そこから逃れてガリラヤ湖の方に退却したのです。

しかし、その退いた主イエスの周りには沢山の人々が集まって来ました。すぐ後に、「ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」とあります。

ここに出てくる地名で、「ガリラヤ」とは主イエスの活動の中心地であり、ガリラヤ湖の西側、当時カナンと呼ばれていた地方の北部にあたります。それに対して続いて挙げられているる「ユダヤ」とはエルサレムより南の地方、カナンの南半分をさしています。

また、「エルサレム」とはその真ん中、古くからの都というよりユダヤ人にとっては世界の中心である都を意味していました。これらの地域は、サマリヤを除くカナンの全域であり、ユダヤ人の全居住地を意味します。

続く「イドマヤ」とはユダヤの南、ネゲブ砂漠に隣接するエドム人の地、ヘロデ大王の出身地です。

また、「ヨルダン川の向こう側」とは現在のヨルダン王国であり、当時のペレア・ギレアドなどパレスティナ東部を指します。最後の「ティルスやシドン」とは、遠く現在のレバノンの海岸地方であり、これらはユダヤ人の居住地に隣接する全ての地域を含んだ広大な地域です。

この頃の主イエスが「これほど広く人々に知られていたとは考えられない」と言われますが、多分その通りでしょう。事実、これよりかなり後の主イエスが十字架に架かられた時でさえ、ユダヤの地方総督ポンテオ・ピラトはナザレのイエスのことを何も知らなかったのですから、主イエスの活動の初期の時代、ここに記されているような広範囲に及ぶ地域の評判を得ていたとは考えられません。

ここに挙げられている地名は、初めに見たとおり、ユダヤ人が住む地域と隣接するあらゆる地域です。ガリラヤの農民や漁師たちにとって、境を接する地域が、言わば庶民たちの「全世界」でありました。ですから、マルコによる福音書が語ることは、あらゆる所から人々が集まって来たということであり、主イエスの御前に立つ者は「一定の地域の人々、限られた人々」ではなく、「全ての人間がイエス・キリストに関っている」ということなのです。ファリサイ派たちの敵意とは別に、群衆は指導者たちの意に反してナザレのイエスを追い求めて集まり、今や、誰も止めることが出来ない勢いになっていたのです。それを聖書は「あらゆるところから人々がやって来た」と述べているのです。

しかしながら、大勢の人々が集まり、主イエスを取り囲んでいますが、群衆に囲まれた主イエスに、少しの喜びもないのは何故でしょうか。むしろ、主イエスはそこから「逃れたい」と思っておられると見ざるを得ません。

私たちは、神の栄光を表すことを人生の目標としています。キリストの喜びを願って日々の生活を送っている者です。その私たちは、このような「キリストの拒否」を考えたことがあるでしょうか。もし、キリストの喜び、キリストが受け容れて下さることを願うならば、何故ここで主イエスがこのような「拒否」を示されるのかを十分に理解しなければなりません。

今、「イエスは逃れようとしている」と言いました。この部分の主題は、まさに「逃れるイエス」なのです。7節に「イエスは立ち去られた」と記されています。「立ち去る」と訳されている言葉は「危険を避けて逃げ去る」という意味でもあり、マルコ福音書で、この言葉が使われているのはここ一箇所だけです。

7節に記されている「湖の方へ立ち去られた」とは、単なる移動ではなく、カファルナウムの街なかにある会堂から「湖岸へ逃げ去って行った」ということなのです。主イエスは何故彼らに背を向けたのでしょうか。

あえて言えば、「論争からの回避」と言うべきでしょう。2章1節からここ迄、ファリサイ派との論争を主イエスは続けられましたが、その論争から何がもたらされたでしょうか。議論をして相手を改心に導くことは極めて困難なことです。議論の危険性は、自分を見失ってしまう傾向が強いということです。たとえ自分の全てをかけた真面目なものであっても、いつの間にか、その言葉が自分を離れたところで空転して、議論のための議論となってしまうことがあるのです。

私たちの議論とは、自分の持っている知識や経験をひけらかすことから始まり、果ては屁理屈と感情的な反発でどうにもならなくなることがあります。議論で敗れたからと言って、直ちに態度や主張を変える人は極く稀れであり、後には憎しみと怒りが残るだけです。こんな経験は誰にもあることでしょう。主イエスの御言葉と御業の前に敗北した結果、「殺してやる」とまで考えるようになった6節のファリサイ派の人たちの姿は、憎しみしか残らなかった自己主張で凝り固まった多弁な私たち人間の典型でありました。

主イエスが背を向けた「危険」とは、ファリサイ派の人たちの心の中に増大するそのような「新たな罪」でした。神の御子と共に居りながら自分の頑なさに囚われ、自分の立場の砕かれることに怒りを感じる人間、ただ憎しみを募らせるだけの人間、罪に囚われた人間の惨めさ。その現実を前にして、これ以上、敵意と憎しみを増大させないために、主イエスは自ら立ち去られたのです。

実り少ない議論に終始する人間に対し、主イエス御自身、遠ざかることによって、新たな罪を増し加えることをさせぬ憐れみを示されたと理解すべきでしょう。私たちも、自分の雄弁がキリストを遠ざける結果になるということを自覚すべきではないでしょうか。

9節から10節には、「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからである。」と、主イエスは群衆から逃れようとしています。「押し寄せた」ことが危険なのではありません。「触れようとした」ことが問題なのです。

人間は古くから、「神聖なものに触れると力を受ける」と信じて来ました。5章25節以下に記されている「十二年間も出血の止まらない女」が、主イエスに近づき、「密かに後ろから触った」と記されています。「服にでも触れれば癒していただける」と信じたからです。

「触れれば治るのか」などと笑ってはいけません。東京名所の浅草寺の本堂正面の大きな鉢で、香が焚かれています。その煙を身体に付ければ無病息災、手のひらで煙を掴んで悪いところへ付けています。毎日、数え切れない数の人々が煙を自分の身体に付けようと一生懸命です。

このような行為の問題点は、「煙に力があるか否か」ということではなく、触るのが「人間自らの自発的な行為である」というところにあります。立ち上る煙に奇跡を生む力があると思う人間の意志と、その力を利用しようとする人間の行為が奇跡を生むと考えられています。それ故に、人は先を争って煙に手を差し伸べるのです。不思議な力を持つ神を自分の欲求のためにのみ利用しようとする人間の姿。これが「罪」の現実であり、現在の世界の実情を雄弁に物語っていると言えましょう。

既に見たとおり、マルコは「あらゆる所から人々が集まって来た」と語っていました。そして、その人々がただ主イエスを利用するだけであるとするならば、実は、「あらゆる人々が全て罪の中にある」という決定的な告発になっているのです。ここに記されているのが全ての人間の問題であるとするならば、全ての人間はキリスト・イエスの御前で罪の姿を示していることをマルコは語っているのです。

主イエスはその人々を拒否されたのです。罪の中にある者をキリストが拒否されるということには、理解し難いものがあるかもしれません。もちろん、キリスト・イエスは、罪の中にある者を救うためにこの世に来られた方です。しかし決して、罪の行為に迎合する人間を赦されないのです。私たちは、その罪を知り、御心から離れた自己本位な姿勢が、御子キリストから徹底的に拒否されていることに目覚めなければなりません。私たちが、その自分の罪を知り、御心から離れた自己本位な姿勢から離れること、それこそが、「悔い改め」なのです。

そして、11節には、「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ。」とあります。何とそれに続く12節では「イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」とあります。

汚れた霊たちの「あなたは神の子だ」という言葉は、確かにファリサイ派の人々や群衆より正しいと言えるでしょう。

ファリサイ派は主イエスが神の子であることを認めませんでした。群衆は主イエスが神のような力を持つことしか認めませんでした。それに反し、汚れた霊ども、つまり汚れた霊に憑かれた人たちは「イエスは神の子である」と人々の前で叫んだのです。その言葉は私たちの「信仰告白」と同じです。しかしその告白を主イエスは拒否されたのです。

「厳しく戒められた」と記されていますが、「戒める」と訳されている言葉は「叱る」という意味の言葉です。「イエスは悪霊を厳しく叱りつけ、そのようなことを絶対に口にしてはならないと命じられた」という意味です。

正しい告白が、何故、拒否されるのでしょうか。主イエスは、何故、その告白を禁じたのでしょうか。

「汚れた霊」「悪霊」とは徹底的に神に敵対するものです。主イエスが神の子であるとの正しい認識を持ったとしても、その本質は変わりません。「汚れた霊に憑かれた者」とは、昔の人々の迷信ではなく、正しい知識を十分に持ちながら、また正しくその事柄を認識しながら、なお自分自身を変えようとしない人間を意味するのです。自分自身が「小さな神」となり、永遠なる神の絶対性を信じない者、神を自分の都合のためにのみ利用しようとする者、それらを「汚れた霊に憑かれた者」「悪霊に憑かれた者」と呼ぶことが出来るでしょう。

主イエス・キリストは、そのような人々との共存を拒否されるのです。「信仰告白」とは、単なる言葉ではなく、その言葉を「生きる姿で如何に表しているか」ということを問われているのです。

ここまで、主イエス・キリストが、人間の罪に対して徹底的に背を向けられることを見て来ました。私たちはこの主イエスのお姿から、罪の世界に埋没した人間の悪に対する、毅然とした姿勢を読み取らなければなりません。主イエスは人々の罪に対して、いささかの妥協もなさらないのです。如何に多くの人々が集まろうとも、ただそれだけで喜ばれることはないのです。

この日の会堂に集まった人々は、期待外れで落胆したでしょう。自分の苦しみを解決して貰えなかった人々は、かえって絶望したかもしれません。故郷ガリラヤの人々を愛する主イエスにとって、むしろ実に辛いことであったでしょう。

しかし主イエスは、この辛さに耐えて行かれたのです。いやそれどころか、むしろそれ以上に、罪に埋没している人々の姿を見ることによって、更に、十字架への道を歩むことの意味とその必然性を確信されたと言えます。

主イエス・キリストの十字架は、自己中心に生きる私たちに対する、神の正義による拒否です。そしてその拒否こそ、愛の頂点なのです。神様が喜ばれる生き方とは、キリストの断固とした拒否の中に「愛の道標(みちしるべ)」を見出し、御前に悔い改めてヘリ下ることから始まると言えましょう。

お祈りを致します。

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