神の力、神の知恵

教会学校との合同礼拝

《賛美歌》

讃美歌344番
讃美歌54番
讃美歌354番

《聖書箇所》

旧約聖書  イザヤ書 29篇13-14節 (旧約聖書1,105ページ)

29:13 主は言われた。「この民は、口でわたしに近づき/唇でわたしを敬うが/心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしても/それは人間の戒めを覚え込んだからだ。
29:14 それゆえ、見よ、わたしは再び/驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。賢者の知恵は滅び/聡明な者の分別は隠される。」

新約聖書  コリントの信徒への手紙 第一 1章18-25節 (新約聖書300ページ)

1:18 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さを意味のないものにする。」
1:20 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。
1:21 世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。
1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、
1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、
1:24 ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

《説教》『神の力、神の知恵』

今日、私たちに与えられた聖書の言葉は、現在は廃墟になっていますが、2000年前は地中海東西交易の拠点として大変に繁栄したギリシャのコリントと呼ばれる町につくられたばかりの教会へ、使徒パウロが書き送ったキリスト信仰の基本をしたためた手紙です。

最初に、「十字架の言葉」とありますが、それは、イエス・キリストの十字架の死による罪人の贖い、つまり「福音」そのものを現わしている言葉です。

「十字架の言葉」である「福音」とは、この世を罪から救う神の力ですとパウロは語ります。そして、その「十字架の言葉」は「滅んでいく者にとっては愚かなものでも、救われる者には神の力」であると続きます。

その「福音」とは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えることですが、それは「ユダヤ人にはつまずかせるもの」でしかなく、「異邦人には愚かなもの」でしかないとパウロは嘆いているのです。

つまりユダヤ人にとっても、また、ここで異邦人といわれているギリシャ人たちにとっても、イエス・キリストの十字架を愚かなこととして、その救いを受け入れることが出来なかったと言っているのです。

そのユダヤ人も異邦人も救いを受け入れられない理由とは、まずユダヤ人たちは、しるしを求めるが故に、十字架につけられたキリストを受け入れられないのです。しるしとは奇蹟といった、目に見える証拠です。イエスが救い主キリストである具体的で目に見える証拠を示せ、と求めているのです。ユダヤ人は、自分たちが神様に選ばれた神の民であるという誇りと自負、「神に対するエリート意識」を強く持っていました。ユダヤ人たちにとって、イエスが、救い主キリストであるしるしとは、自分たちが守り引き継いで来たユダヤ教の伝統を尊重し、律法を守ることが必要な上に、ダビデ王のように、この世にあってのユダヤの民を守り導く力強い指導者でなければなりませんでした。犯罪人として十字架に架けられ死刑となったイエスは力ない無力な敗北者でしかなかったのでした。

そして、一方のギリシャ人は、この時代の地中海文明のローマ帝国の中にあっての学問や知識の中核をなしていました。この時代の地中海の共通語はギリシャ語であり、古代ギリシャには多くの哲学や思想が生まれ、地中海文明をリードしていたと言えましょう。そのギリシャ人にとって、重罪人として十字架刑で死んだイエスに何の魅力も感じなかったのでした。山上の説教に見られる、イエスの教えだけなら、知恵を求める彼らにとって少しは魅力的に映ったかも知れません。しかし、奴隷など身分の低い者を見せしめのために苦しめさせる極めて残酷な十字架刑で処刑されたイエスは、ギリシャ人にとっては愚かな一塊の犯罪者・死刑囚でしかなかったのです。

つまり、十字架のイエスは、ユダヤ人にとっては「つまづかせるもの」であり、ギリシャ人にとっては「愚かなもの」でしかなかったのでした。

一方、私たち現代人も、ギリシャ人のように知恵を求めています。聖書の中にキリストの合理的な教えを見い出し、人生の指針にしようと聖書を読む人々は多いと言えます。その様に聖書を読む人々は「聖書はキリストの教えの溢れる人生の指針である」と言い、しかし「イエスの奇蹟をはじめ、疑問も色々ある。特に自分たち人間にとっての十字架の救いが強調されているが、自分は何も罪を犯してないので救いの必要は感じない。その上、特にイエスの復活は到底信じられないし、その必要も感じない」と言うでしょう。特に私自身の経験を踏まえて、「自分は罪など犯したことがない」と言い切る人々は日本人には極めて多いと言えるでしょう。ずっと以前に奉仕していた某教会に熱心に長いこと通われていた姉妹が「私は決して罪など犯したことがない」と声高に言われていたのが、今でも思い出されます。

十字架につけられ殺され、まして復活したキリストなど、合理性を重んじる現代的な考えでは、まったく愚かなものであり、信じるに値しないと思われてしまいます。

そして、私たちは目に見える証拠、ユダヤ人のようにしるしをも求めます。信じる信仰の決断の前には、明確なしるし、証拠が欲しいと思ってしまいます。そのしるし・証拠とは、自分が納得できる理由や根拠のことです。納得できなければ信じることは出来ないのです。それはある意味では当然のこととも言えるでしょう。当たり前のことですが、納得できないのに信じるのでは信仰にはなり得ません。とりわけ現代人は科学的な根拠や奇蹟の理解できる裏付けを求めます。私たちは、証拠の示せないもの、科学的な裏付けのないもの、理論化・数式化できないもの信じないようにと教育されて来たのです。

ところが、この証拠、しるしを求めるとは、実は人が自分の思いに適っていることを求める、ということなのです。人が納得できるしるしとは、人間が神様を信じる姿勢ではなく、人間の側から神を判断し、信ずべき神か、そうではない神か、を人間が決める。人間が神に優先して判断する、人間が神の支配者となることを意味し、信仰には最も相応しくない姿勢なのです。

そんな人間の考えではなく、神様は十字架につけられたイエス・キリストの愚かさによって、信じる者を救おうと考えられたのです。神様が、私達罪人を救うために、徹底的に愚かになって下さったのが、イエス・キリストの十字架の御業だったと言われているのです。

ここにある「宣教の愚かさ」とは、イエス・キリストの汚らわしくも恥ずべき十字架の死が、如何にして、本当にこの世に救いをもたらすかを語っているのです。神様はそのように愚かになってまで、罪人である私たちを救おうとして下さっているのです。

私たちは、自分がより高く、立派になり、知恵ある者となって神の救いを得る、という方がずっと好ましいと思っているのではないでしょうか。それは誰もが持っている、いや持てと教えられてきた誇りや向上心からそうなると言えましょう。それは、いくら意識しても取り切れない無意識の中に深く根差しているのです。

聖書が言いたいのは、私たちは十字架につけられて死ななければならなかった罪人であり、その罪からは自分の力で救いを得ることは出来ないのだ、と言うことです。その私たちの、自分ではどうすることもできない罪を、神様の独り子イエス・キリストが全て担って十字架に架かって死んで下さった。そこに神様による赦しの恵み、救いがある、と教えているのです。

この救いは、自分の努力など人の力では得られません。神様が一方的に私たちを選び出し、召して下さった時にのみ、救いに与れるのです。

愚かで見栄えのしない十字架につけられたキリストこそ、私たちのために神様が遣わして下さった救い主だと信じることが出来るのは、神様が私たちを信じる者へと召して下さり、聖霊を遣わして下さったからなのです。この神様の招きを私たちの間で実現して下さるのが、聖霊の働きなのです。私たちが、十字架の言葉を信じ、十字架につけられたキリストこそ私たちに救いを与える神の力、神の知恵であることを受け入れるとき、そこに聖霊が働いて下さっているのです。

十字架につけられたキリストを宣べ伝える「宣教の愚かさ」によって、信じて救いに与る者を神様は聖霊によって召し集め、その群れを、この世に教会としてくださいました。

愚かと言われながらも御言葉を宣べ伝える私たちが、この先も更に悔改め、益々砕かれて、如何に愚かと言われようが、十字架のキリストを宣べ伝え、教会に仕える者、人々に仕える僕、となることが出来ますように、聖霊の導きをお祈りを致しましょう。

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