主日礼拝説教
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌11番
讃美歌166番
讃美歌512番
《聖書箇所》
旧約聖書:イザヤ書 35章5-6節 (旧約聖書1,116ページ)
35:5 そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。
35:6 そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。
新約聖書:マルコによる福音書 7章31-37節 (新約聖書75ページ)
7:31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。
7:32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
7:33 そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
7:34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。
7:35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。
7:36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
7:37 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
《説教》『神のわざの素晴しさ』
先々週ご一緒に読んだ「シリア・フェニキアの女」の話と、本日の「デカポリスの耳が聞こえず舌の回らない男の物語」は、それぞれが全く異なって独立している様に見えますが、よく読んでみると、その二つの物語を結合している信仰的な背景があることが見えて来ると言えましょう。
31節に、「それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。」とあります。
これは驚くべき距離です。また、その経路は異常なものとしか言い様がありません。時間の関係から今日はご一緒にこの経路を辿ることはしませんが、地図を見ながらこの聖書箇所を読まれた方は、予想外の方向へ向かって歩まれるイエスのお姿を見出すでしょう。例えば、熱海へ行くのに日光街道を辿るようなものです。そこである人は、「マルコが地理を間違えた」と言い、またある人は「現在伝わっている聖書の文章が間違っているのではないのか」と考えてみたりします。そうでもしなければ説明し難い真に不思議な旅だということです。
この旅が、目的を持った旅ではなく、7章の初めから語られて来ましたように、主イエスがユダヤ人の憎しみに追われ、更にまた追われて行った先々で隠れることも出来ず、次々と留まるところを移して行かざるを得なかった結果であると考えられるのです。それ故に、この旅の道順は不自然で、常識では考えられないコースを辿っているのですが、大切なことは、この異常さを「地理の問題に終わらせてはならない」ということです。
何故なら、ここに明らかにされた「本当に異常なこと」とは、この旅の経路ではなく、神の御子をこのように追い回した「人間の罪・そのもの」に見るべきだからです。この世に来られた神の独り子を、居所を定められぬ程に追い詰める憎しみこそ、神の秩序を乱した人間の罪の姿に他ならないからです。
この旅の経路が常識では有り得ないものであると言う前に、神の御子を十字架へまで追いやった人間の罪を、「まともには考えられない程に神の秩序を逸脱したもの」と認めなければならないのです。
31節に、「ガリラヤ湖へやって来られた」とあるのは、「ガリラヤ地方」ではなく「ガリラヤ湖畔」と思われます。また、8章10節では「舟に乗っている」ので、湖の東岸と考えるのが妥当でしょう。いずれにしても、この長い旅からガリラヤへ戻るのは次の8章に入ってからですので、この物語の場所は未だ異邦人の地域と思われます。ユダヤ人たちから異邦人として差別されていた人々は、皮肉なことに、神に愛されている筈のユダヤ人自身の罪により、「思いもかけず、神の御子に巡りあった」ということなのです。
そこで人々は「耳が聞こえず、舌の回らない人を」イエスの御前に連れて来て「手を置いてくださるように」と願いました。「手を置く」とは、明らかに癒しの奇跡を求めていることを表しています。この男の苦しみの解決は「耳が聞こえるようになること」でした。言葉の不自由さは耳が聞こえないことから生じているからです。そして人々は、有名なナザレのイエスなら「耳を治すことが出来るであろう」と考えたのでした。
「そこでイエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。」と、ここに書かれています。
実に不思議なことをなさっているのですが、当時の人は「唾」に「病気を癒す力があると信じていた」のです。イエス・キリストは、常にその時代の人々の考え方の中に身をおいて行動なさる方なのです。
従って、ここで大切なことは、「唾をつける」ということではありません。それはただ、不幸な人自身が「今、自分が癒されている」ということを実感として味わうことが出来るための、「キリストによる特別な配慮」と言えましょう。
さらに注目すべきは、この時、イエスがこの男を「群衆の中から連れ出した」ということであり、文字通りには、「彼一人を引き離した」ということでした。
二千年前のこの時代、魔術師と呼ばれた者達が不思議な業を行い、人々を驚かせていました。例えば新約聖書228ページ、使徒言行録 8章9節~10節には「この町には以前からシモンという人がいて、魔術を使ってサマリアの人々を驚かせ、偉大な人物と自称していた。それで、小さい者から大きな者に至るまで皆、『この人こそ偉大なものといわれる神の力だ』と言って注目していた。」とあります。
また、同じ使徒言行録には、キプロスでパウロが魔術師を追放したということが記されており、エフェソでも各地を巡り歩く祈祷師たちがいたことも記されています。彼らは、自分たちの力を誇示するために何時も大勢の人々を集め、その人々を観客として不思議な業を行っていたのです。
それに反し、イエス・キリストは、御自分の力をことさら人々に示すことをなさらず、不幸な障害を持つ彼一人を御業の対象とされたのでした。
主イエスは魔術師でもなければ祈祷師でもありません。主イエスは大勢の人々の喝采を得ようとして御業を行われたのではありません。ですから単なる見物人は無意味でありました。主イエスは神を見失って生きる人間を苦しみや悲しみから救うためにやって来られた独り子なる神です。
ですから、主イエス・キリストと救われる者との関係は常に一対一なのです。主に苦しみを訴え、主が招いて下さる者だけが顧みを受け、神の恵みの下に立つのです。「キリストが私を呼んでおられる」ということに気付いた者だけがキリストとの交わりに入るのであり、その声を「私への呼びかけ」として聴かない者は、その関係が結ばれないのです。
私たちは、いったいどちらでしょうか。この男の友人たちは確かに彼をイエスの下に連れて来ました。「この不幸な男にはナザレのイエスが必要だ」と考えたのでしょう。しかし、そのイエスが「自分たちにも必要である」と考えていたでしょうか。
さらに、主イエスは御自分を必要とする人間をどう御覧になるでしょうか。34節には「天を仰いだ」と記されています。主イエスは先ず「天を仰いだ」のです。「天」に御顔を向けられたのです。「天」とは言うまでもなく「父なる神」のことです。「上を向いた」のではなく、「父なる神を仰いだ」のであり、「救いは神より来る」ということをハッキリと示されたのです。
旧約聖書968ページ、詩編121編1節と2節にこのように記されています。
121:1 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
121:2 わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。
主イエス・キリストは、救いを求める全ての者に「救いの根拠」を示されたのです。「救いは天地を造られた主のもとから来る」のです。
続いて、主イエスは「深く息をついた」と聖書は記しています。深呼吸されたのではありません。「深く息をつく」と訳されている言葉は、「苦痛や嘆きの感情が言葉にならず、聞き取れぬ程の音声となって出ること」と辞書にありますので、「深い息」と言うより「うめき」と訳し、理解すべきでしよう。
主イエスは、全てを顧みられる父なる神の御心を「うめき」によって示されたのです。「うめき」は、この不幸な男に対する愛の豊かさと言えましょう。一人の苦しむ人間に対する激しいまでの慈しみです。そしてこれこそが、主イエス・キリストが私たちに接して下さるお姿なのです。
主イエスは、私たちをこれ程までに大切に扱って下さるのです。一人の人間の苦しみに対し、この世の片隅で誰にも相手にされずに生きて来た一人の人間の苦しむ姿に対して、神の御子は、心からの慈しみをもって接して下さり、そして「エッファタ」と言われたのです。
主イエスが「うめき」と共に叫ばれた「エッファタ」という御言葉は、決して不思議な力を持つ呪文ではなく、「開け」という意味です。そしてこの短い言葉の中に、マルコは全ての人間を救われるキリストの決断を見たのではないでしょうか。それがこの御言葉を敢えてギリシア語に翻訳せず、イエスが語られたままのアラム語で書きとめた理由でした。「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきりと話すことができるようになった」とあります。
この男の耳は聞こえるようになり、話をすることが出来るようになりました。そしてこの奇跡は、私たちにおいても、現実のものとなっているのです。
私たちの罪とは何処にあるのでしょうか。それは、私たちの心の耳が御言葉に対して閉じられている処にあるのです。罪が心の耳を塞ぎ、御言葉を聞くことが出来ないようにしているのです。そしてサタンが、さらに数々の誘惑の言葉を耳元でささやき続けるために、いっそう御言葉から遠ざけられるのです。
肉体の耳の不自由な人が言葉を正しく語れないように、神の御言葉に対して心の耳を閉じている者に、「まともな言葉」が語れる筈はありません。それ故に、この世界は「まともではない言葉」ばかりが満ち満ちているのです。そしてその「まともではない言葉」が人間の心を傷つけて行くのです。
教会の中でさえ、呼びかけられる神の御声に対して心の耳を塞ぐならば、その人の語る言葉は単なる自己主張であり、人間のわがままであり、神の栄光を表す「まともな言葉」ではなくなってしまうでしょう。
神の国に生きる者の原則は、「私は何をしたいのか」「私に何が出来るのか」を考えることではなく、「キリストが、教会を通して、私に何を言われようとしておられるのか」を考えることでなければなりません。
この世界の歩みを正すものは何でしょうか。それはここに記されたキリストの御言葉のみです。「エッファタ」という御言葉によって私たちの耳が開かれ、御言葉を正しく聞くことが出来るようになったことこそが、「神様に造られた本来の人間」に立ち戻る第一歩なのです。
最後の36節から37節に、「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。『この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。』」とあります。「この方のなさったことはすべて、すばらしい」。この群衆の驚きは何であったのでしょうか。奇跡に対する驚きでしょうか。ここの「すっかり驚いた」とは変な日本語ですが、この言葉は、「雷にでも打たれたように、びっくり仰天して肝をつぶす」という意味であると辞書にあります。
マルコ福音書は、ここで何を語りたいのでしょうか。それほど人々が驚いたということを報告したいのでしょうか。しかし、先ほども触れましたように、この癒しの御業は人の眼を避けて行われた「隠された御業」であり、群衆の驚きを招くことに御心があったのではなかった筈です。マルコ福音書が語ることは、今、この出来事を「福音として聴く私たち」に、「驚け」と言っているのです。御子の御業の中に示された「神の御心に驚け」ということです。
旧約聖書2ページ、創世記1章31節は、天地創造の完成について、こう記しています。「神は御造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」
この「極めて良かった」。これが私たちの世界の本来の姿でした。
旧約聖書との関係を考えるならば、マルコによる福音書は、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」という言葉を、単なる「人々の驚き」という側面から見るのではなく、かつて損なわれた神の創造の秩序が「ここに回復された」ということを告げているのです。神の創造の秩序「すべてを良しとされた」あの世界が、今、主イエス・キリストの愛によって、ここに回復されたということなのです。
ナザレのイエスこそメシア・キリストであり、罪の中で苦しむ者に「かつての幸福を取り戻して下さる方である」とマルコ福音書は語っています。
主イエス・キリストは、「失われた楽園の生活、神と共に生きる平和が回復された」という宣言を、罪の深みに沈む人間の心の耳を開いて「聴くことが出来るように」してくださったのです。
今、私たちの耳は、あの「エッファタ」という御言葉によって既に開かれ、御言葉を正しく聴き、御言葉をもとに語ることの出来る人間に造りかえられていくのです。
福音から遠く離れた異邦人さえも天の御国の交わりへ導くこと、それが御心であり、私たちはその中に生かされているのです。
お祈りを致します。