道端の人

主日礼拝

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌196番
讃美歌420番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 42章18-19節 (旧約聖書1,129ページ)

42:18 耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。
42:19 わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど/耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど/目の見えない者/主の僕ほど目の見えない者があろうか。

新約聖書:マルコによる福音書 10章46-52節 (新約聖書83ページ)

10:46 一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。
10:47 ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。
10:48 多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
10:49 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」
10:50 盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。
10:51 イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。
10:52 そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

《説教》『道端の人』

エリコの町の外れで、盲目の物乞いバルティマイが主イエスに出会いました。エリコはエルサレムへ向かう街道の基点であり、サマリヤを避け、ヨルダン渓谷へ迂回したガリラヤ地方の人々が通る、最後の大きな町でした。この日も、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムへ向かう巡礼たちで混み合っていたことでしょう。盲目の物乞いバルティマイがその町外れにいたのです。

盲目のバルティマイにとって、「エリコからエルサレムへ向かう巡礼者たちの喜び」は無縁なものでした。何故なら、この時代のユダヤ人社会では、身体の障害は神の怒りを受けた罪の結果として考えられていたからです。

ユダヤ人にとって大前提である「幸福は神からの祝福の賜物」とする信仰、それは間違いではありません。しかし、その反面、不幸は神の怒り、罰と考えられてしまい、不運や重い病気、肉体の障害などは、何らかの罪により神の怒りを買った結果とされたのです。

それ故に、道端にうずくまる物乞いは、神の怒りを受けた者と見なされ、「神の御前に出ることが許されない」と諦めざるを得なかったのです。

大勢の人々が神の御前に出る喜びに満たされてエルサレムへの巡礼の道を行くとき、「神に退けられた」と自覚せざるを得なかったバルティマイは、何時も、その道端で、希望に満たされて去って行く人々の足音を羨ましく聞くだけでした。

バルティマイは、眼が見えないという障害によって、いわれなき差別を受け、「祝福の外に置かれた」と思い込んでいたのです。私たちもまた、信仰を得て救われる以前は、肉体の眼の不自由さに囚われたバルティマイ同様、思い込みの中に置かれ、見るべきものを正しく見極めることが出来なかったのではないでしょうか。

神を正しく見ることをしない人間。キリストの愛に気づかない人間は、自分の前に開かれている道が「神の国への道」であり、それが、「自分の行くべき道である」と見ることができないのです。

バルティマイは物乞いでありました。分かり易く言えば乞食です。彼は、まともな人間として生きていく希望すら失われ、働くことも出来ず、一日中、人々の憐れみを求めてうずくまる「道端の人」として過ごすだけでした。

エリコの町の外れ、路傍に座るバルティマイ。「道端の人」として過ごすものと諦めているバルティマイ。そこに、救いを願いつつ無為の時を過ごす人間の悲しさを見ることができます。

バルティマイの耳には、大勢の人々が喜びつつ神の都へ向かう巡礼の足音に混じって、その先頭に立つのがナザレのイエスであることを聞いたのです。その瞬間、彼は主イエスを「ダビデの子」と大声で呼び、憐れみを求めて叫びを上げました。

「ダビデの子」とは、伝統的に「救い主」という意味です。しかし、このマルコ福音書においては、主イエスに従う者の誰もが口にしなかった思い切った呼び名でした。弟子たちの誰もがこれまで口にしなかった「ダビデの子・救い主」という言葉を、この時、バルティマイは叫んだのです。

勿論、彼は深い意味で「救い主」と告白したわけではありません。罪とか贖いなどという信仰の深みを理解していたとは到底思えません。「救い」という言葉も、その場の苦しみからの脱出という程度だったと言えましょう。

それは、彼が自分の姿をよく知っていたからです。自分を物乞いであると自覚していたからです。物乞いをし、憐れみを求めて生きる惨めさを身にしみて感じていたからでしょう。逆に、自分の惨めさ、恥ずかしさに気付かない人は、決してこのように主イエスを求めることはない、とも言えるかもしれません。現在の生活に何とか満足している人は、必死に主イエスを求めることはありません。

バルティマイが主イエスを呼び求めて叫んだとき周囲の人々は、彼を叱って黙らせようとしました。それは彼らにとって、バルティマイのような者は仲間に数えられるべき者ではなく、相手にすべきではないと思っていたからにほかなりません。彼は、当時の人々からは、まともな人間扱いされない者でした。ですから、ナザレの主イエスから声をかけて貰うことなど、有り得ないと思われていた筈です。

誰も自分の声を聞いてくれない。誰も自分を慰めてはくれない。誰もこの惨めな状態から救い出してくれない。「ナザレのイエス以外に望みを託す方はいない」と考えたのでしょう。それがこのときのバルティマイの叫びでした。

 

主イエス・キリストを求める者には、「この切実さがなければならない」と言うべきでしょう。主イエス・キリストこそが望みを託せる唯一の方であり、「この方を見過ごしてしまっては取り返しのつかないことになる」というバルティマイの追い詰められた必死の思いでした。

また、この「ダビデの子」という称号は、「ユダヤ人の王としてのメシア」を表す言葉でもあり、この時代のローマ帝国の支配下にあっては、ユダヤ民族主義を表す危険な表現でもありました。後に、ゴルゴタの丘で十字架に架けられた主イエスの罪状に「ユダヤ人の王」と書かれたことは良く知られています。その危険な言葉を大声で叫ぶバルティマイを人々は慌てて黙らせようとした、と見ることも出来るでしょう。

主イエス・キリストは、彼の必死に叫び求める声に足を止められたのです。その叫びは、御自身がローマ帝国への叛旗と思われ立場を悪くするようなものであったにも拘らず、彼の「告白」を「よし」とされました。52節で「あなたの信仰があなたを救った」と言われているのは、この意味が含まれていると考えるべきでしょう。

49節で主イエスは、「あの男を呼んで来なさい」と言われました。これを「キリストからの呼び出し」と言います。「救い」とは、この「呼び出し」の御言葉から始まるのです。そして、人々はバルティマイを呼んで、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」と、ありますが、ここは直訳すれば「喜べ、立て、彼が、お前を呼んでいる」という言葉です。

人々は、バルティマイに、先ず、「喜べ」と告げました。「キリストの呼び出し」は「喜びの時」なのです。そしてその喜びは、「立ち上がる時の告知」なのです。

何時までも自分の場所に固執して、これまでの生き方を頑固に守り続けて行こうとするのではなく、新しい生き方を始める時なのです。神の国へ向かう人々をただ見送るだけのバルティマイの人生が、自分もその道を行く仲間に加わった時に変わったのです。50節に彼は「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」とあります。

これこそが救われる人間の姿ではないでしょうか。「上着を捨てた」とは何を表しているでしようか。

バルティマイは乞食でした。路傍で憐れみを求める乞食にとって、「上着」とは全財産のことです。家も持たない乞食は、常にありったけのものを身に着けています。特に長い上着は、寒さを防ぐための必需品であり、寝るときには貴重な布団でもあります。どんなに汚れようとも、決して捨てることのないものです。

それをバルティマイは「捨てた」というのです。最も大事なものを「捨てた」のです。これは彼にとって決定的な変化であり、大きな決断でした。主イエスに呼び出された時、「主に呼び出された」というそのことだけで、バルティマイは「生きる不安を捨てた」とも言えるでしょう。これこそがまさに、過去の生き方の全てと訣別し、「道端の人」から「共に道を行く人」への転換を鮮烈に現しているのです。

51節で主イエスは、彼に「何をしてほしいのか」と言われました。彼は、「目が見えるようになりたいのです」と言いました。バルティマイの求めを知りながら、主イエスは尋ねたのです。必死に呼びかけ求める者の苦しみを御存知ない筈はありません。知っていながら、あえて尋ねているのです。呼び出された者は、御前で告白することが必要なのです。

パウロはローマの信徒への手紙10章10節で、「人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです」と記しています。救いを求める願いは、常に繰り返し、主の御前に差し出されなければなりません。バルティマイは正直に、自分の最も切実な問題、直面している苦しみを差し出し訴えました。

バルティマイの願いは、ただ一つ盲目からの解放でした。それ以上のことを考えてはいなかったでしょう。しかし、盲目のバルティマイを見詰められた主イエスの眼差しは、それ以上のものを見ていたのです。

52節で主イエスは、彼に「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。何が彼の「信仰」であったのでしようか。

ここで言われた「信仰」とは、キリストの御前で相応しい姿を示すことと言えましょう。更に「なお道を進まれるイエスに従った」と記されていますが、これは「直ちにイエスに従った」と読めます。主イエス・キリストの御言葉によって、真実に価値あるものに眼が開かれた人間は、まさに、その時から、共にその道を行くのです。

これは、バルティマイが肉体的に視力を回復したに留まらず、魂の救済に至ったことを現わしています。この変化は、「主イエスの呼び出し」から始まっているのです。大切にしていた上着を脱ぎ捨て、主イエス・キリストに従ったバルティマイ、これこそが、私たちの目指す救われた者の姿です。私たちは、望みを失った「道端の人」ではないのです。

御子イエス・キリストは、共に歩むようにと、私たちを呼び出されたのです。真実の喜びが待つ永遠の世界、天のエルサレム、神の国への道は、「呼びかけられ、呼び出された私たち」のために用意されているのです。

愛するご家族共々、この豊かな「救い」の中を歩んで参りましょう。

お祈りを致します。