キリストの御前に出る

《賛美歌》

讃美歌Ⅱ-30番
讃美歌187番
讃美歌000番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 43章25-26節 (旧約聖書1,132ページ)

43:25 わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。
43:26 わたしに思い出させるならば/共に裁きに臨まなければならない。申し立てて、自分の正しさを立証してみよ。

新約聖書:マルコによる福音書 2章1-12節 (新約聖書63ページ)

2:1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、
2:2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、
2:3 四人の男が中風の人を運んで来た。
2:4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。
2:5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
2:6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。
2:7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」
2:8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。
2:9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。
2:10 人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。
2:11 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい。」
2:12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。

《説教》『キリストの御前に出る』

先週の説教では、重い皮膚病を患っている男の「癒し」というより、「救い」を主イエスがなさり、その評判を聞いた人々が癒しを願って殺到し、主イエスはカファルナウムの町に入ることができなくなりました。町の外の人の居ないところに移られましたが、それでも人々が主イエスのもとに集まって来てしまいました。

1節から、「家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」とあります。この家とはおそらくシモン・ペトロの家と考えられます。

物語に入る前に、当時の庶民の家の構造をお話ししておきましょう。木材が極端に乏しいパレスティナでは、土に藁などを混ぜて固めた日干し煉瓦で壁を作りました。雨の殆ど降らない砂漠の国だから使える材料です。この家は壁が厚いので、夏は涼しく、冬は暖かいという利点もありました。壁から壁に約1米間隔で渡された梁があり、その上に泥で塗り固められ平たい屋根を乗せたというような簡単な作りになっていました。ペトロの家もおそらくこのようなものであったでしょう。

2節に、「戸口の辺りまですきまもないほど」と記されていますが、狭い漁師の家であり、近所の人々が集まっただけで一杯になり、入りきれない人々が戸口から中を覗いていたという状況が思い浮かびます。

この人々が何を期待して集まっていたのかは聖書からは分かりませんが、おそらく、再び奇跡を求めて来たのではないでしようか。しかしここで主イエスがなされたのは神様の愛の宣言であり、人間の救いに関する福音の説き明かしでした。人々は期待外れの思いをしていたでしよう。そんな話より噂に聞いた素晴らしい奇跡を見たいものだ。誰もが見たことのない驚くべき力を早く示してくれないだろうか。集まった人々の心はおそらくこのような奇蹟を期待するものであったでしょう。しかし、主イエスは福音を語られたのです。それが教会の始めであり、教会とはそのようなものでなければなりません。しかしながら、この集まりは思いもかけないことによって中断されてしまうのです。

3節と4節には、「イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」とあります。既に述べた当時の庶民の家の構造から、緊急の時に屋根をはがすことは決して考えられないことではありませんでした。

ところが、そうは言っても、他人の家の屋根を剥がして、家の中を土煙・土埃まみれにして、行われている集会を中断させ、集まった人々の真ん中に頭上から病人を吊り降ろすとは実に乱暴で、無作法なことでした。部屋の中にいる人々の頭の上から、壊された屋根の泥や土埃がたくさん落ちてきたことでしょう。家の主人であるペトロにとって、言葉にもならない驚きであったに違いありません。

ところが、ここには、さらに驚くべきことがあるのです。この男たちの非常識さに勝って私たちを驚かせ、当惑させるものが、ここにあります。それが、このときの主イエスの仰った言葉です。5節に、「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。」とあります。

主イエスはこの時、信仰の何を御覧になったのでしょうか。何故、このような宣言をなさったのでしょうか。

これまでも病気の癒しを主イエスは数多くなされてきました。主イエスのもとに来るのは、御言葉を聞く人より、病気の癒しを求める人のほうが圧倒的に多かったからです。そしてその都度、主イエスは病気で苦しむ人々の要求に応えられながらも、御言葉を求めることを知らない人々にガッカリなさった筈です。

それにも拘らず、主イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われました。ここに、私たちの眼と主イエスが御覧になる眼との違いが明らかになって来るのです。

今ここで、主イエスの眼差しは病気の男だけにではなく、このような非常手段に訴えて病人を運んで来た四人の男たちにも向けられているのです。私たちは彼らの行動を非常識なものと考えてしまいます。しかしそれでは、常識的な行動とはどのようなことでしょうか。病人を運んで来た四人の男が常識的に行動するとは、どうすることでしょうか。

この男たちが病人を連れて来た時、主イエスの居られる家は満員でした。中へ入る余裕はありませんでした。しかし彼らは諦めなかったのです。彼らの求めは、「場所が空くまで外で待とう」などという程度ではなく、「何としても中に入る」という行動に結び付きました。「何が何でもナザレのイエスの前に連れて行かなければならない」ということに心は集中していました。もちろんそれは「友人の病気を治したい」という次元のものでした。

主イエスがこの四人の男を御覧になり、彼らを受け入れられたのはもはや理屈ではありません。彼らの行動がどのようなものであり、正しいか間違っているか、或いは社会常識においてどうか、などということを主イエスは問題にされませんでした。四人の男たちは、ただひたすらに「キリストへ近づく」ということに集中しています。自分の前に置かれている障害を突破し、なんとしてもナザレのイエスの前に辿り着こうという凄まじい気迫を、この四人の男たちに見ることが出来ます。

主イエス・キリストとの出会いを妨げるものに対して、私たちはこれほど強引でしようか。主イエス・キリストに近づくために、私たちはこれほど力を出せるでしょうか。主イエス・キリストの前に出ることの価値を、私たちはこれほど尊く感じているでしょうか。

「病気を治してもらいたいだけではないか」と批判する前に、この世に来られた神の御子の前で、友人のために屋根をはがした男たちと、今の自分の姿とを比べてみるべきでしょう。

主イエスは彼らを受け入れました。この男たちの友人への愛と熱情を主イエスは喜ばれ、「よし」とされたのです。「ナザレのイエス以外に希望はない」という彼らの思いを受け止め、主イエスは救いを宣言されたのです。

「あなたの罪は赦される」。ここでの「罪」という言葉は原文では複数なので、生まれながらの罪である「原罪」ではなく、日々の生活の中で犯す罪、日々積み重なる「個々の罪」のことです。当時の人々が病気の原因と考えていたものを主イエスは取り去られたのです。「何か悪いことをしたから病気になった」と思い込んでいた人々に、「もうそのようなことで悩む必要はない」という宣言がここにあるのです。

6節と7節には「ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』」とあります。さすがに律法学者たちは聖書に詳しく、ものごとを聖書に従って正しく判断しており、「罪を赦すのは神のみである」とはまさしくその通りです。もし、律法学者たちが主イエスを批判し、その正体を探るために監視していたのであるならば、「罪を赦す者は神のみである」との正しい答えがここから出て来る筈です。しかし、そのような考え方は、律法学者たちにとって「決してあってはならないこと」でありました。彼らにとって、自分たちが理解している律法を超える救い主など断固として認められなかったからです。ですから、彼らはこれまで多くの人々と共にペトロの家で、御言葉を聞いていながらも、実は、心の中で「そんなことがある筈はない」と思い、あら探しに熱心になっていたのです。律法学者たちは、その他大勢の人々と同じように、主イエスの御言葉を福音として聞いていなかったのです。

それに対して、屋根を壊してでも病人を吊り下げた男たちは、それを少しも信仰だとは思っていなかったかもしれません。しかし、主イエスは御自身に対する「強引な委ね」を受け止められたのです。

この男の病気は癒されました。もはやこの癒しが「罪の赦し」という御業の前では付録に過ぎないことは明らかでしよう。しかし、世の中には付録の方を大切にする人もいるのです。そこで主は「付録」において神の御子としての権威をお示しになったのであり、この奇跡は、かたくなな全ての人々の誤りを正す「思いやり」としてみることが出来るでしょう。

12節に「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、『このようなことは、今まで見たことがない』と言って、神を賛美した。」とあります。

「今まで見たことがない。」とは、「聞かされた主イエスの御言葉」より、自分が目にした出来事の方が問題になっているということです。ここに、信仰の本当の意味を決して悟ることの出来ない人間の姿があります。

そして何よりも私たちが驚かされるのは、この人々の悟ることの出来ない姿にも拘らず、主イエスが人間の僅かな思いも見落とされず、受け止めて下さるということです。主イエスご自身が、この様な無知で、知ろうとしない人々に対して、怒ったり、落胆されたりせずに、丁寧に愛情あふれた対応をされているのです。

無知な人間の熱心さとかたくなな人間の批判の眼の前において、なおも神様のご愛とご栄光が、明らかにされているのです。神様の怒りを招くのではないかとさえ思える人間の愚かさに対してさえ、神様の赦しがなされるのです。

この素晴らしい神様の恵みである主イエス・キリストの救いを、皆様が大切にしたいと願っている人たちにお伝えしていきましょう。お祈りを致しましょう。

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