信仰の勇者

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌6番
讃美歌124番
讃美歌352番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 50章6節 (旧約聖書1,145ページ)

50:6 打とうとする者には背中をまかせ/ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。

新約聖書:マルコによる福音書 10章32-34節 (新約聖書82ページ)

10:32 一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
10:33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。
10:34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」

《説教》『信仰の勇者』

2022年、明けましておめでとうございます。新型コロナ感染症の世界的流行の煽りで主日礼拝を自粛し、共に集まることが出来なくなり、Youtubeライブ配信など普段とは違った形で礼拝に参加して頂くことの多かった2020年と2021年でしたが、新型コロナ感染症も新しくオミクロン株の世界的再流行が懸念されているも、日本では現在感染流行は下火となって、皆様と共にやっと迎えることが出来た初めてのお正月となりました。

2020年10月第1週から、連続してご一緒に読んできたマルコによる福音書連続講解も本日で49回目で、余すところ30回ほどで、いよいよ主イエスの十字架への道を迎え、終盤の核心部へ入って来ました。

主イエスと弟子たちは十字架の待つエルサレムへの途上にありました。ユダヤ人にとって最も重要な過ぎ越しの祭が間近に迫っており、国中の人々だけではなく、世界中に散らばっていたユダヤの人々も、「自分がイスラエルの一員である」という自覚を新たにするために、続々とエルサレムへ向かっている時でした。

主イエスの弟子たちのなかにも、「過ぎ越しの祭のための巡礼」と思っていた者がいたことでしょう。その一行の先頭に主イエスが立っておられました。しかし、聖書は、弟子たちがこの時「驚き、恐れた」と記しています。何が「驚くべきこと」であり、何を「恐れた」のでしょうか。今歩んでいるこの旅が、普通の巡礼と違っていることを、彼らは何故、感じたのでしょうか。今朝、先ず私たちが注目しなければならないのはこのことです。

エルサレムへの道を辿るイエスの御姿を仰ぐ時、その旅を共にし、同じ道を行く人々の中に自分を置いて、そこで何が起こるのかをしっかりと見極めなければなりません。聖書は「イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」(32節)と記しているからです。

私たちもまた、主イエスに従ってこの世の旅路を歩いている者であり、先立たれる主イエスに、何処までも付き従うことを告白している者です。地上のエルサレムへ向かった弟子たちのように、今、私たちは天のエルサレムへの旅を、主と共に歩んでいます。その旅の途上で、私たちは、どのように主イエスを見つめているのでしょうか。あの時、弟子たちが感じた「驚きと恐れ」、それが、今、私たちの心にあるでしょうか。

私たちは聖書を読み続けていると、何時の間にか、主イエスの御姿が頭の中にイメージされます。キリスト者は誰でも、「私のイエス像」と呼ぶべきものを自分の心の中に持っている者なのです。

その「私のイエス像」に、ひとつの修正を加える必要があることを、今日、教えられるのです。

聖書時代の人々のエルサレム巡礼は、楽しい旅であったようです。家族全員の旅であり、親しい家族とグループを作り、先頭に立つ者が詩編の一節を唱えると、後に続く者がその詩を続けて唱えて行きます。人々は詩編を歌い、神の祝福を全身に受け止めながら、旅を続けて行きました。

そのような巡礼者の群れの中で、主イエスに従う者だけが、このとき「恐れ」を感じていたということは、主イエスと共に行く旅が他の人々と違って、決して楽しいとは言い難い旅であったことを告げているのです。

勿論、この時の弟子たちは、まだ主イエスが目指されていることを全く理解していませんでした。しかし、弟子たちが何も分からなかったにも拘わらず、人間がいつか忘れてしまったものを、主イエスはひとりで引き受け、ひとりで担おうとされているのです。「それを見て」と聖書が記している内容は明らかではありませんが、その毅然とした決断の御姿が弟子たちを驚かせ、恐れさせたのでしょう。

私たちはこの時の弟子たちと違って、既に、知識として主イエス・キリストの十字架と復活を教えられています。十字架と復活がもたらす永遠の生命を、キリストからの賜物として約束されています。

しかし、このような福音を知らされてはいても、なお、自分の信仰の確かさを求めるためには、エルサレムへ向かう主イエスの傍らに、私たちは何時も立ち戻らなければならないのです。

御子イエスが示された恐ろしいまでの決断の強さは、それ故に、私たちを捕らえる罪の力の強さを示して余りあるものと言えます。

十字架が待っているエルサレムへ先立って進まれる主イエスの姿を、神の御子のこの世におけるすべての行動の原因に私たち自身がなっていることを、「恐れ」をもって自覚しなければならないのです。

33節で初めて主イエスご自身が「エルサレムへ行く」という言葉を語られました。具体的な地名が明確に示されました。主イエスが目指すエルサレムは、人々が巡礼に行く楽しいエルサレムではなく、十字架が待つ受難のエルサレムです。エルサレムを目指す人々と、意味も目的もまったく違うエルサレムが見えて来ました。旅の目的地、そこにおける結末、それを主イエスは明らかに告げられたのです。この時、イエスが「弟子たちを恐れさせた」のは、受難のエルサレムを見つめる決断の厳しさであったでしょう。

それ故に、この御言葉は、御自分が果たすべく定められている使命の確認であり、同時に、すべての者へ向けてのメシアとしての宣言なのでした。

今、主イエスは、驚き恐れる弟子たちに対し、御自分の受ける苦しみをはっきりと告げられました。この予告は、8章31節、9章31節に続いて三回目です。私たちは、この三回にわたって繰り返された予告を、何と聴くべきなのでしょうか。

形式的には、御自身の身にこれから起ころうとしていることであり、弟子たちがそれを悟らなかったので三度も繰り返されたと見ることは可能でしょう。物分りの悪い弟子たちへの配慮ということになるでしよう。しかし、それだけなら、私たちは既に「そのいきさつ」をよく知っています。

それでは、私たちに「驚き」は無関係なのでしょうか。三度が一度でも十分だったと言えるのでしょうか。

現在の私たちに対し、この「三度の予告」は、単なる「無知な者への告知」という以上の「何かを意味している」のではないでしょうか。

福音書には主イエスが三度繰り返す場面が何度も出てきます。ヨハネ福音書は21章15節以下に十字架に死んで復活された主イエスによる、ペトロに対する三度の問い掛けを記しています。

十字架の死と復活という想像を絶する出来事に直面して、混乱の只中にあるペトロに対し、甦りのキリストは、「三度」にわたって「わたしを愛しているか」と問い質しました。人間の愛は常にキリストの愛によって触発されるものであり、キリストへの応答であるのです。主イエスが「三度」にわたって愛の応答を求めたということは、ペトロに対する不信感の現れではなく、主イエスの方から「三度にわたって愛の宣言がなされた」のです。「三度」とは、単なる繰り返しではなく、人間の救済への御心の深さとして受け止めるべきなのです。

さらに大切なことは、エルサレムへの旅の途上で主イエスが語られたことは、「受難の予告」と言われていますが、苦しみの予告を繰り返しておらるのではなく、甦りの予告をされているのです。主イエスは十字架の苦しみで終わらず、甦りを明らかに語られています。主イエスが繰り返し語っていることは、復活に至る父なる神の御心でした。「受難の予告」と呼ばれていても、「苦しみの予告」というだけのことではなく、甦りによって完成される「神の愛」が示されているのです。

私たちの魂への神の配慮・愛の顧みが、十字架と復活への道を実現させたのであり、それ故に、十字架と復活の予告は、未来に起こる出来事を「あらかじめ知らせた」というものではなく、父なる神が「如何に私たちを愛されているか」ということを、繰り返し告げる愛の宣言なのです。

それ故に、本日朗読された33節以下の御言葉は、私たちの救いのために、「これほどの痛みがあってもなお厭わぬ」という神の御子の覚悟です。

主は、かくも私たちを愛されました。私たちは、神の独り子が、御自身の生命と引き換えにすべての愛を注ぎ込んで誕生させた「新しい人間」なのです。そして愛された私たちは、その愛に応えることによって、初めて一人前の人間になり得ると言えます。

主イエス・キリストは、三度にわたって「わたしはこれほどまでにあなたがたを愛しているのだ」と語られました。その徹底した愛の顧みの中に私たちは置かれているのであり、私たちを掴んで離さないキリストの愛が、永遠の御国へ導いて下さるのです。

この御心に包まれた生涯の道を、共に救われた喜びをもってご一緒に歩み続けようではありませんか!

お祈りを致します。