主日礼拝
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌2番
讃美歌243番
讃美歌520番
《聖書箇所》
旧約聖書:イザヤ書 51章22節 (旧約聖書1,148ページ)
51:22 あなたの主なる神/御自分の民の訴えを取り上げられる主は/こう言われる。見よ、よろめかす杯をあなたの手から取り去ろう。わたしの憤りの大杯を/あなたは再び飲むことはない。
新約聖書:マルコによる福音書 10章35-45節 (新約聖書82ページ)
◆ヤコブとヨハネの願い
10:35 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」
10:36 イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、
10:37 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」
10:38 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」
10:39 彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。
10:40 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」
10:41 ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。
10:42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
10:43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、
10:44 いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
10:45 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
《説教》『主に導かれて』
今日の聖書箇所も主イエスが弟子たちの先頭に決然と立って、エルサレムへの旅、十字架の待つ旅の途上での出来事です。場所は明らかではありませんが、次回お話する46節ではエリコに着いていますので、ヨルダン渓谷の東側、ペレアの地方を南へ下っている頃と思われます。その道すがら、弟子たちの中心をなしているゼベダイの子ヤコブとヨハネが、主イエスに自分たちの心の中にあることを伝えたのです。
人が「共に生きる」とは、相手のことを考え、相手の心を想うということが大切です。自分と共に生きる人が、何を目指しているのか、また自分が何を求められているのか、それを考え、相手に対する配慮をもって接するのが「共に生きる」ということです。自分の要求のみ、自分の期待のみを優先させ、相手が自分に合わせてくれることだけを要求するならば、それはもはや、「共に生きる姿」ではありません。
キリスト者の人生は「キリストと共に生きる」ことです。共に歩むキリストが「何を見詰めておられるのか」を考えず、自分の一方的な思い込み、勝手な期待だけを押し付けて行くならば、人生の大切な時に、主と訣別しなければならないということも起こるのです。かつては主と共に生きる道を選びながら、何時の間にか主から離れ一人で生きるようになってしまった多くの人々を思い起こすとき、「主と共に歩む」ことの難しさを知らされます。
私たちが常に志すべきことは、「キリストと共に生きる」ということです。神の国を目指して世の旅路を歩むとき、それは、私たちが一人の人間として、自分の責任で「自分の人生を引き受ける」ということではなく、「共に歩まれるキリスト」にすべてをお委ねし、キリスト・イエスの御心に適う「生き方」をしなければなりません。
自分の人生を、「キリストと共に生きる」という絶対条件で考える時、人生の目的はもとより、私たちのあらゆる判断・努力も、また、決して自分ひとりの心から出るものではないことを、自覚するということです。
ヤコブとヨハネが主イエスに願ったのは「神の国における栄光」でした。この願いを持ったのは、この二人だけではなく、他の弟子たちも同じでした。他の十人の弟子たちは、41節にあるように自分たちが出し抜かれたと思って怒ったのでしょう。
この旅の目的について、45節で主イエスは「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」と言っておられます。
主イエスは、「私の命を献げるためだ」と言われ、「そのためにこの旅を行くのだ」とはっきりと言明されました。主なる神に対する反逆の罪を、身代わりとなって負うことを決心されてのことでした。罪の代償としての刑罰、十字架に架けられる決意を明らかにされました。この御言葉は「キリストと共に生きる者のすべてを決定している」と言わなければなりません。
キリスト者の生命は、贖われた生命です。神の御子の犠牲によって罪の下から救い出された新しい価値を持つものとして、私たちは生きています。キリストの愛は、私たちのすべての思いに先立ち、キリストの御業は、私たちのあらゆる行為に先立っているのです。
弟子たちは、主イエスがもたらすものが「栄光の国」であると信じていました。現在の苦しい旅も、やがて実現する喜びの日のためであると考えていたのです。彼らは、その日に栄光ある地位に就くことを期待していたのです。
神の国における栄光を求めるということ自体は、間違いではないどころか、求めなければならないことです。キリストに従う者は、この世における栄光ではなく、「神の国」での栄光と誉れを求める者でなければなりません。「天に宝を積む」とはこのことなのです。
弟子たちが主イエスにお願いしたこと自体が間違っていたのではありません。お願いをした彼らの心の中に、「大切な何かが欠けていた」ことが問題なのです。それは、自分自身の罪の認識の欠如であり、罪の自覚がないゆえの「恐れ」の欠如でした。
この旅の目的地エルサレムで主イエスと共に二人の犯罪者が十字架に架けられ、一人は主イエスを罵りましたが、もう一人の男は「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言ったとルカ福音書23章にあります。この恐れおののきつつ憐れみを求める犯罪人の姿に対して、栄光を求める弟子たちの姿には、なんと隔たりがあることでしょう。自分が罪の中にあることを自覚するならば、神の国における栄光を当然の権利として要求することは、誰にも出来ない筈です。主イエスは、その弟子たちに「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」と言われたのです。
38節にある「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか。」とは、弟子たちへの問い掛けであると共に、主イエス御自身の強い決意を示すものです。
「わたしの杯」とは、父なる神より与えられた使命のことであり、「わたしのバプテスマ」とは、ここでは文字通りの洗礼という意味ではなく、ご自分の使命達成のために受けなければならない「苦難」のことです。主イエスは、「わたしはその使命を受けた」と言われ、「わたしはその苦しみを受ける」と言われているのです。
そしてそのみ言葉に続いて、「あなたがたもそれを受けることが出来るか」と、責任ある人間としての生き方を、ここに改めて問われているのです。私たちの生涯の道も、今、主イエスのこの問い掛けに「如何に応えるか」ということにかかっていると言うべきでしょう。
弟子たちは「できます」と明確に答えました。この言葉は、本質を悟らぬ軽はずみなものであったと言うことも出来るでしょう。深く考えず、勢いで答えてしまったと思われます。
しかしそれでもなお、主イエスはその無知な答えを受け入れて下さっており、彼らを退けることなく、「あなたがたはわたしの道を辿るであろう」とおっしゃって下さったのです。
主イエスの十字架の後、ゼベダイの子ヤコブは、使徒の中の最初の殉教者としてヘロデ・アグリッパに剣で殺され、ペトロはローマで逆さ十字架に付けられました。アンデレはギリシアでX字型の十字架で処刑され、マタイは火刑にされ、フィリポは逆さ吊りで殺されたと伝えられています。
弟子たちの運命は、確かに、主イエスが言われた通りでした。しかしそれは、彼らが「出来ます」と答えた結果ではなく、彼らの無知にも拘らず、主イエスが彼らをその道へ導いて下さったからなのです。
主イエスが、39節で「あなたがたは飲み、受けることになる」と言われたのは、単なる将来の漠然とした可能性を意味するものではなく、「必ずそうなる」という主イエス御自身の強い意志をそこに見るべきです。それは、「お前たちを苦難へ導く」という破滅への預言ではなく、神の国への道を「決して踏み外させない」という深い顧みによる「保護と導き」と言うべきものです。
私たちは、自分の意志で歩むとき、行くべき道を誤りますが、キリストの意志が私たちを正しい道に導き、私たちの願いを永遠の御計画の中で実現して下さることを、弟子たちのこの後の生涯から学ぶことが出来るでしょう。
41節からヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた他の十人の弟子たちに、主イエスは「偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と言われました。恐らく、弟子たちは、口々に自分たちの決心を明らかにしたのだと思われます。その言葉を聞いた主イエスが、「偉くなりたい」「一番上に立ちたい」という弟子たちの願いそのものを「決して否定してはおられない」ということは、まさに注目すべき点でしょう。
「キリストの右に座りたい」という願いは、決して間違いではないのです。文語訳聖書では、「いちばん上」というところを、「かしら」と訳しています。ですから、むしろ私たちは、この主の御言葉を、「偉くなれ、かしらとなれ」という「勧め」として聞くべきです。キリストに従う者は、一生懸命に無我夢中で働くのです。休むことなく、倦むことなく、神の喜ばれることを目指し走り続けるのです。その結果は、神の国で用意されているまったく新しい永遠に価値ある冠を手にすることになるでしょう。
確かに主イエスは「仕える者になれ」と言われ、「僕(しもべ)になれ」と言われました。この「僕」(ドゥーロス)とは「奴隷」という意味です。奴隷は主人の心のままに生きるのであり、主人の言葉が、その人の生涯を形作ります。
神に仕え、キリスト・イエスの僕となることこそ、偉くなり、かしらとなる道なのです。
キリスト・イエスは、私たちを神の国の末席に繋ぎ止めるために十字架に架けられたのではなく、御自身と共に、栄光を受けさせるために、私たちの罪の身代わりになられたのです。
この主の御心を想い、人生の旅路を共に歩んで下さるキリスト・イエスに感謝しつつ、信仰者としての生涯を共々に全うしようではありませんか。お祈りを致します。