恩寵

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌8番
讃美歌122番
讃美歌420番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 56章6-7節 (旧約聖書1,154ページ)

56:6 また、主のもとに集って来た異邦人が/主に仕え、主の名を愛し、その僕となり/安息日を守り、それを汚すことなく/わたしの契約を固く守るなら
56:7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

新約聖書:マルコによる福音書 7章24-30節 (新約聖書75ページ)

7:24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。
7:25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
7:26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。
7:27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
7:28 ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
7:29 そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
7:30 女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。

《説教》『恩寵』

本日の聖書箇所、7章24節以下には、主イエスが人々から身を隠すように、「ティルスの地方」に行かれたことが語られています。この新共同訳聖書の後ろにある緑色の地図の「6.新約時代のパレスチナ」というのを見ていただきますと、地中海沿岸を北にずっと上って行ったフェニキア地方にティルスという町があります。ここはユダヤ人の国ではなくて異邦人の地です。主イエスは「だれにも知られたくないと思っておられた」と24節にあるように、ユダヤ人たちの目を避けて、ゆっくり弟子たちと語り合い、交わるためにこの地に逃れて来られたのです。それなのに「人々に気づかれてしまった」とあります。これは「隠れていることが出来なかった」と読むべきでしょう。主イエスの評判がこのティルスの町にまで伝わっており「隠れようとしても隠れられなかった」のです。
そこに、一人の女性が訪ねて来ました。26節によれば「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」とあります。ユダヤ人ではなくてギリシア人、つまり異邦人です。

先週の「けがれ」と題した説教で、主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗わないことを律法学者たちが責めたことについてお話ししました。これは主イエス御自身による新しい時代の始まりを告げるものであり、もはや、全ての人間が一切の差別もなく、神の御前で「赦しの御言葉を聴く時が来た」という宣言でした。
しかし、これが、逆に律法を堅く守る伝統的なユダヤ人の憎しみと拒絶を生み出しました。何故なら、ナザレのイエスの評判は既にこの異邦人の地にまで響いており、大勢の人々が集まって来たからです。25節から「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。」とあります。これまでと同じような、病気の癒しを求める物語とよく似ています。確かに、幾度も繰り返されて来たお姿です。しかしながら、今ここで、マルコ福音書は、これまでとは決定的に異なる「何か」を語ろうとしています。「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」と記されています。この女性はユダヤ人ではなく、異邦人のギリシア人だったのです。汚れた霊によって、この女性とその娘、そして家族全体が、大きな苦しみを負っていたことは確かです。そういう苦しみ悲しみをかかえていたからこそ彼女は、ユダヤ人たちの間で病気を癒し、悪霊を追い出しておられる力ある主イエスがこの町に来ていることを「すぐに聞きつけ」やって来たのです。彼女は主イエスのもとに来るとその足もとにひれ伏して、娘から悪霊を追い出してくださいと頼みました。これは随分大胆なことです。主イエスの足もとにひれ伏して願うことが大胆なのではなくて、異邦人である彼女が、ユダヤ人である主イエスにこのように救いを願うことがまことに大胆なことなのです。
ユダヤ人と異邦人の間には、私たちにはちょっと想像できないような深い隔たりがありました。それは主にユダヤ人側が、異邦人を汚れた者として付き合おうとしなかったこと、それがユダヤ人と異邦人との「分離」であると先週お話ししました。そのことから両者の間には基本的に敵意があったのです。だから、異邦人であるこの女性が、ユダヤ人である主イエスに救いを願うことは普通はあり得ないし、そもそも願ったとしても聞き入れられる筈はない、というのが当時の常識だったのです。彼女はそのことをよく知りながら、それでも主イエスに救いを求めました。それが彼女の大胆さでした。
遠い昔、父なる神は多くの人々の中からアブラハムを選び出されました。そして、アブラハムに連なるイスラエル民族を神の民として定め、歴史の中で守り続けられました。長い時の後に、イスラエル民族の中に、神の御子が「人として」お生まれになりました。これはただ、「恩寵」と言う以外、説明のしようがない出来事です。何故なら、何の優位も誉れもない「イスラエル民族の一人」として神の御子を迎えることが出来たからです。
しかし、その結果はどうであったでしょう。彼らは、世に来られた神の御子キリストを追い払ってしまったのです。神の御心に背を向け、自分たちの思いの中に閉じこもり、福音を自ら遠ざけてしまったのが、この時代のユダヤ人でした。
そして今、遠く離れた異教の地ティルスの町で、「神の選びの外に置かれたと見做されて来た異邦人の女が、キリストの足下にひれ伏した」という場面を語るマルコ福音書は何を伝えようとしているか。
ユダヤ人たちは、神から与えられた律法を自分たちの生き方の基準にして来ました。しかし、長い時の中で御心を忘れ、「神の民として生きよ」という律法本来の目的を忘れて、自分たちの社会生活を正当化するために利用し続けたのです。それ故に、今、その律法が「本来の役目を取り戻す時が来た」という、まさに歴史的な瞬間に遭遇しても、自分たちのこれ迄の生き方を守るために、新しい時の到来を告げる神の御子の言葉を聞かず、イスラエルの地での宣教を拒否したのです。
しかしながら、そこに予想外の出来事が生じました。神に選ばれたユダヤ人が追い出した御子キリストの前に、異邦人の女性、ユダヤ人から見れば救いの外に置かれ、哀れな民族と蔑まれて来た異邦人の女性が、「ひれ伏した」というのです。ユダヤ人の頑なさは、この世に来られた御子キリストを追い払って、かえって皮肉にも、福音を求める人間、キリストを求める人間を、新たに異邦人の中から生み出す結果となったのです。それが、27節にある主イエスの『まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、子犬にやってはいけない。』との御言葉です。このたとえでは、「子供たち」はイスラエルを表し、「子犬」が異邦人を表しています。ユダヤ人が異邦人を「犬」と呼んで軽蔑していたことは事実であり、そのため「イエスもそのような差別をするのか」と非難する人があります。ここでは、主イエスは異邦人を差別しておられるのではありません。長い歴史を貫く神の愛の確かさを語られたのです。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」。この言葉の中に父なる神の御心の実現に仕える主イエスの姿が示されていると言えるでしょう。かつて主なる神は、救いを実現するために、あらゆる人々の中からユダヤ人を選ばれたのであり、それが歴史を貫く神の御業でありました。
しかしユダヤ人は、選ばれた恩寵を、いつの間にか「恩寵として受け止めること」を忘れたのです。愛されたことに感謝を忘れる時、神の民は「神の民としての最も大切なあり方」を失ってしまいました。イスラエルの民は、「この世に来られた御子に導かれ、神の国に入る人々の先頭に立つ」という使命を捨ててしまったのです。

神の御子を追い出して福音を自ら締め出したユダヤ人。その現実にも拘らず、「選ばれた民を見詰める御心は変わっていない」と主イエスはこの譬えで言われているのです。ここが大切なところです。主イエスは、ティルスという遠く国境の彼方に追われながらも、そこで明らかにしたのは、御自身が選び出した者、即ち、ユダヤ人への変わることのない神の愛でした。神の愛は、何処までも愛する者への愛を変えない永遠の愛です。
それ故に、「まず、子供たち(イスラエル)のために」という「初めの愛」の神の御心を想う時、その愛を拒否する人間の罪が、更に、明らかにされて来ます。28節には、「女は答えて言った。『主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。』」。
この女性は、主イエスの御言葉を正しく受け止め、御心に相応しく答えました。28節の女性の言葉は、原文では「主よ」という言葉の後ろに「そのとおりです」という意味のギリシャ語の「カイ」という言葉が記されています。この言葉は地味な言葉で、新共同訳聖書では省略されてしまっていますが、内容的には極めて重要であり、口語訳では「主よ、お言葉どおりです」と訳されています。彼女は、「主よ、お言葉どおりです」と御前にひれ伏した上で、憐れみを求めているのです。
27節で主イエスが言われたのは、今見て来たように、先ずユダヤ人への愛でした。病気に苦しむ幼い娘を抱えた女性を前にして、キリストは、父なる神が選ばれたユダヤ人への愛を、まず明らかにされたのです。病気で苦しむ娘を持つ親の気持ちを考えれば、冷たい仕打ちと思われるかもしれません。眼の前で助けを求める者を差し置いて、ユダヤ人のことを思っているからです。
しかし、驚くべきことは、その主イエスに対する女性の態度です。彼女は、それでもなお、「主よ、そのとおりです」と御心に服従し、自分の立場をへりくだっています。神への祈りは、「主よ、お言葉のとおりです」という「キリストへのまったき服従」の後に初めて意味を持つのです。この女性の告白した神の御心への服従こそ、本来、ユダヤ人が告白すべきことであった筈です。ユダヤ人は、その告白をするための民族として選ばれていたからです。
しかし、そのユダヤ人が御言葉に背を向け、異邦人の女がユダヤ人に代わって御心への服従を告白しているということこそ、実は、新しい神の民、新しいイスラエルの誕生が、ここに暗示されているのです
そして29節から30節で、主イエスは言われました。「『それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出て行ってしまった。』女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出て行ってしまっていた。」とあります。
奇跡は起こりました。そしてそこで起こった奇跡とは、「娘の病気が治った」という「出来事」だけではなく、「まず、ユダヤ人に」という「神の救いの御計画」に等しく異邦人も加えられたのです。神の恵みの御業が、等しく異邦人へも向けられたのです。マルコ福音書が告げるのは、29節の「それほど言うなら」という主イエスの御言葉が異邦人にも向けられるのだという大きな転換の出来事なのです。
キリストの愛に分け隔てはないのです。ただ、キリストを受け入れる者だけが、その愛を「驚くべき奇跡」として喜ぶことが出来るのです。救われた喜びを十分に受け止めることが出来るのです。
今、私たちは福音のもとにいます。救いの御業の中にあります。
私たちを憐れまれるキリストの愛が、私たち異邦人にも注がれたという事実を忘れてはなりません。ただ、キリストの愛に基く恩寵によってのみ、私たちは生きているのです。
悪霊から解放された娘を見詰める女性の喜びが、今、私たちの心にも甦って来るでしよう。その驚きと喜び、そして感謝を共有するのがキリスト者という者の姿なのです。
この素晴らしい救いの喜びを、教会の皆様共々に、お一人でも多くの方々と共にしようではありませんか。
お祈りを致します。

<<< 祈  祷 >>>