神の心

《賛美歌》

讃美歌Ⅱ-1番
讃美歌338番
讃美歌242番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 61章1節 (旧約聖書1,162ページ)

61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。

新約聖書:マルコによる福音書 1章29~39節 (新約聖書62ページ)

1:29 すぐに、一行は会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
1:30 シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
1:31 イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
1:32 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
1:33 町中の人が、戸口に集まった。
1:34 イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
1:35 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
1:36 シモンとその仲間はイエスの後を追い、
1:37 見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
1:38 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
1:39 そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

《説教》『神の心』

主イエスはガリラヤ湖で漁師をしていたシモンとその兄弟アンデレ、そして、ヤコブとヨハネの兄弟の四人に声をかけられ弟子とされ、ガリラヤ地方で伝道を始められました。その伝道の方法はユダヤ教の会堂・シナゴーグで安息日に説教されるというものでした。

主イエスは、このユダヤ人の会堂を新しい時代の開始を告げる場としてお選びになりました。限られた人々が定められた形式だけを守っている神殿ではなく、一週間の生活に疲れた人々が、新たな日々のために慰めと勇気を求めて集まって来る会堂、「そこにおいて主イエスが語り始められた」ということこそ、福音の開始に最も相応しいとマルコは告げています。

キリストの福音は、疲れた心、求める心に語りかけられます。御言葉を聞かずには新しい日々へ向って行くことが出来ない人々に、主イエスは語りかけられるのです。そして神が定められた安息日とは、この主イエス・キリストの御言葉による「新しい時」の始まりの中にこそ見ることが出来るのです。まことの安息とは、主イエス・キリストによって実現する「神の国」において与えられるからです。

この主イエスが公生涯の初めとして語られた言葉は1章15節にある「時は満ち、神の国は近づいた」であると、マルコは極めて簡潔に記しています。

安息日の会堂で悪霊に対し神の子としての権威を示された主イエスは、集会が終わると、本日の29節にあるように、シモンとアンデレの兄弟の家に行きました。主は何をするためにシモン・ペトロの家に行かれたのでしょうか。この時の状況を注意深く見ると、次のようなことが分かります。先ず第一に、イエスは「すぐに」ペトロの家に行きました。ペトロの家は会堂の「すぐそば」にあったのです。次に気がつくことは、私たちの聖書には書かれていませんが、原文の30節は「しかしながら」という意味の言葉で始まっています。そして31節の「もてなした」とは「奉仕する」という言葉で食事の準備をすることです。

これらのことから考えられることは、初めて会堂でイエスの説教を聴き、悪霊の追放という驚くべき御業に接したペトロが、集会後「主イエスを食事に招待した」ということです。本日の聖書の箇所は、「病人の癒し」が中心になっているように思われますが、ペトロは「姑の病を癒してください」と言って主イエスを招いたのではなく、また主イエスも「病気を癒すために」この家に行ったのでありませんでした。集会後の愛餐、それがこの時の目的でした。ところが家に入ってみると、思いもかけずペトロの妻の母が熱を出して寝込んでいたのです。主イエスを食事に招待したくらいですので、これはペトロにとっては予想していなかった突発的なことであったのでしょう。ですから、この奇跡はまさに偶発的な出来事でした。会堂における悪霊との戦いのように断固とした態度を示されたのでもなく、心を痛めて病人の家に行ったのでもありません。マルコによる福音書は、この出来事によって何を語ろうとしているのでしょうか。

この時、主イエスは集会を終えたばかりで、会堂で明らかにされたことは「イエスこそ安息日の主である」ということでした。「福音が語られ神の御子が働かれる時、新しい時代が始まった」ということが宣言されたのです。そして今、ペトロの家に入ったのは、未だ日没前であり、当然、安息日の最中です。ユダヤの一日は日没が区切りですので、安息日が終わるのは「日が沈む」32節です。そして律法によれば、病気の癒しは安息日には固く禁じられていました。ですからこの日の午後、ペトロの姑の癒しは、律法からは、「許されないこと」だったのです。マルコ福音書は、安息日の午後、思いがけない成り行きによって禁じられている業を行われた主イエスのお姿を記すことによって、古い律法に縛られない新しい時代の到来をここに告げ、イエス・キリストは会堂の主であるのみならず、会堂の外においても、安息日においても主であられるということを明らかにしているのです。その安息日の終る日没になると、32節「夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。町中の人が、戸口に集まった。イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は主イエスを知っていたからである。」とあります。ここに、「多くの悪霊が追い出された」と記されています。これがいったいどういうことなのか、この記事だけでは詳しくは分かりません。ここでは、単なる病の癒しではなく、私たちの理解を遥かに超える事柄が起こっているのです。

病気の癒しであるならば、現代医学は当時より遥かに進んでいます。ペトロの姑の発熱くらい、簡単に治るでしょう。そうすると、現代医学は主イエスの御業のある部分を肩代わりするということになるかもしれません。医学が進歩すればするだけ主イエスの御業は必要性を失い、やがては病気の治療に関して、医学のほうが「主イエスより遥かに多くの部分を受け持つ」ということになってしまうでしょう。もし、「病気の癒しそのもの」がこの物語の中心ならば、このような結論になってしまいます。さらにまた、この奇跡を誤解して、「祈れば病気も治るはずだ」と言う人もいます。または、「教会は何故病気を治せないのか」と非難する人さえいるかもしれません。しかし、もし「病気の癒しそのもの」が大切ならば、何故、主イエスは十字架で死なれたのでしょうか。何故、伝道開始以来僅か三年余りで死んでしまわれたのでしょうか。もっと何十年も長く生きて、多くの病人を癒したほうが遥かによかったのではないでしょうか。しかし、それは医者としてだけの主イエスの姿です。それは、決して救い主のお姿ではないでしょう。医学は、救い主・主イエスに取って代われるものではありません。医学の発展の前に信仰が不要になることも有り得ません。この奇跡物語を読み誤ってはいけません。私たちの驚きは、「病気が治った」という表面的な事柄にではく、主イエスの御業を通して聖書が告げようとしている事柄に目が向けられなければならないのです。

医学の発達していない当時の人々は病人を「悪霊に取り憑かれている」と信じていました。あらゆる思いを遥かに越え、自分自身ではどうすることも出来ない大きな力、人間を苦しめ傷つけ何時までも惨めさの中に閉じ込めるもの、それを人々は「悪霊」と呼んでいたのです。病気とは、この恐るべき悪霊に憑かれることから始まり、その力の下で苦しみ続けるというのが、避けることの出来ない人間の定めとして理解されて来ていました。ですから、病気の癒しは、何よりも「悪霊の追放」と結び付けられ、人間の力の及ばない事柄と考えられていたのです。そのことを知るならば、主イエスがここで何をなさろうとしているのかが明らになるでしよう。この物語の重要なところは、熱が去った・病気が治ったという現象的なことではなく、病人が人間としての正常な姿を取り戻したこと、「悪霊が追い出された」ということにあるのです。

病気は確かに恐ろしいものです。私たちの肉体を苦しめ、精神を傷つけ、死を招きます。しかしながら、キリスト者の生き方は病気による死によって終わるのではありません。その死の先にある希望を見なければなりません。イエス・キリストを救い主として信じる者にとって、人生の目標は父なる神の御国に召されることです。もし、眼に見えるこの世の生活が全てであるとするならば、確かに、その生活を奪い取る死は最も恐ろしい敵であると言えるでしょう。しかしキリスト者は、この世の生活を神の御国への旅路として見ており、死を越えて永遠の生命に生きることを信じているのです。その信仰を抱く者に「病気」は、一体、何をすることが出来るのでしよう。父なる神の御前に出るのに、「病気」が何の妨げになるのでしょうか。神の国に生きる者に「病気そのもの」は何の障害にもなりません。新約聖書18ページのマタイによる福音書10章28節には、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と記されています。「病気そのもの」を恐れる必要はないのです。病気の苦しみに付け込んで私たちの心を神様から引き離そうとする存在にこそ、眼を向けなければなりません。それが「悪霊」と呼ばれているものです。

悪霊を単なる「古代人の幼稚な迷信」と考えてはなりません。現代的に言えば、神様に逆らい、私たちを「神様から引き離そうとする力」のことです。私たちの魂の自由を束縛する全てのものと言うことも出来るでしょう。このような力が人々の心を惑わしている事実は、現代でも肉体の病気を治すことに熱中するあまり、魂の自由を平気で売り渡す人が如何に多いかを見れば明らかでしょう。そこに、肉体の苦しみを利用して魂を真実の神から引き離そうとする巨大な力の働きを見ることが出来ます。身体と魂とどちらが本当に大切なものかを、先程お読みしたマタイ10章28節の「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。」との御言葉を思い返さなければなりません。

病気と信仰は全く別な問題と言ってよいでしょうか。肉体の健康は医者、魂の健康はキリスト、と完全に分離できるのでしょうか。「私はただ人の傷に包帯を巻くだけであり、あとは神が癒される」と言ったキリスト者の医師がいます。もちろん、この言葉は医者の働きについて謙虚に語っているのであり、医師としての最大の努力は尽くしたことでしょう。語っていることの意味は、治療という事柄の中にも神の御業が現されている、という告白です。医師は、知識と技術によって神の御業に仕えているのであり、最後の決定は「ただ神のみがなされる」というのが私たちの信仰です。肉体も魂も全ては神の御手の中にあると信じるのがキリスト者であり、その神の絶対の権威の下で全ての奇跡を見なければならないのです。

今日の、この奇蹟物語は、イエス・キリストが人間の魂に自由を与え、神の御許に行く道を開いて下さるという福音の宣言を、「病気の癒し」という出来事を通して語っているのです。

主イエスがなさった病人の癒しは、会堂で語られたことの「眼に見えるしるし」に過ぎなかったのです。それにも拘らず、人々は「しるし」の目的を見ることなく、たまたま行われた「眼に見えることがらのみ」を追い求めたのです。そしてその「しるしとしての奇跡」も、苦しむ者を見過ごしに出来ない「主の憐れみ」によるものであることに、誰も気付きませんでした。38節で「私は宣教するために来た」と主は言われました。その御心を思わず、主の憐れみのみを利用することを考える人間の心の貧しさが浮かび上がって来ます。

あなた方を罪から自由にすると言われる主イエスの御心を省みず、自分の要求だけを押し通す人間の醜さが、私たちに突き付けられているのです。

私たちは今、どのような主イエスのお姿を信仰の眼に映しているでしょうか。どのようなことを期待して主イエスを追い求めているのでしょうか。新約聖書362ページ、フィリピの信徒への手紙 1章21節でパウロはいっています、「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」

罪という悪霊から解放された人間が、如何に大胆に勇気を持って生きることが出来るか、ということを、信仰の先達たちが多くの実例をもって示しています。

生死を御手の中に置かれるイエス・キリストが、全世界の主として私たちの前に立っておられるのです。主イエスが居られるところ、それが「神の国」です。父なる神の主権が御子キリストによって明らかにされているのです。

今日のマルコ1章29節以下の主イエスが行われた御業は、神の主権の所在と御子キリストの絶対の権威を強く宣言しているのです。主イエスとは何者かを語っているのです。

御子なる神のお姿に、神の義と愛とを正しく見る時、御子なる神のお姿に罪の惨めさと解放の喜びを知らされる時、その時こそ、主イエスに向って、「あなたこそ神の子キリストです」という正しい信仰告白がなされるのです。

その時、主イエスは、告白する私たちと共に、永遠に留まり続けてくださるのです。

この素晴らしいイエス・キリストの救いの御業を覚え、ただ感謝するだけでなく、お一人でも多くの方々に、この素晴らしさを伝えて行きたいものです。

お祈りを致しましょう。

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