墓場からの生還

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌152番
讃美歌352番
讃美歌380番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 65篇3-5節 (旧約聖書1,167ページ)

65:3 この民は常にわたしを怒らせ、わたしに逆らう。園でいけにえをささげ、屋根の上で香をたき
65:4 墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし/豚の肉を食べ、汚れた肉の汁を器に入れながら
65:5 「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな/わたしはお前にとってあまりに清い」と言う。これらの者は、わたしに怒りの煙を吐かせ/絶えることなく火を燃え上がらせる。

新約聖書:マルコによる福音書 5章1-20節 (新約聖書69ページ)

5:1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。
5:2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
5:3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。
5:4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。
5:5 彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
5:6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、
5:7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」
5:8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
5:9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。
5:10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
5:11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。
5:12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。
5:13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
5:14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。
5:15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
5:16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。
5:17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
5:18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。
5:19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」
5:20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

《説教》『墓場からの生還』

本日から、マルコによる福音書の5章に入りますが、最初の1節に「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。「一行」とは、主イエス・キリストとその弟子たちで、「湖」とはガリラヤ湖、「向こう岸」とはその東側の岸です。主イエスと弟子たちは舟でガリラヤ湖を渡り、東側のゲラサ人の地に着いたのです。ここはイスラエルの民の地ではなく、当時ギリシャ人が多く暮らす異邦人の地でした。最後の20節に「デカポリス地方」とありますが、「デカ」とは数字の十、「ポリス」は町です。この地方には、ローマ人が建てた十の町があったのです。ゲラサも、その十の町の一つです。この船旅は、主イエスのご意志によることでした。4章35節に、主イエスご自身が「向こう岸に渡ろう」とおっしゃったとありました。主イエスが湖の向こう岸、異邦人の地に、一人の異邦人の救いのために弟子たちと共に、あの嵐の湖を渡って来られたのです。

ここで主イエスに救われた一人の異邦人とはどんな人間だったのでしょうか。2節に「汚れた霊に取りつかれた人」とあります。その姿は3節から5節にこのように描かれています。「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」とあります。現代の私たちはこれを読むとすぐに、ああこの人は重い精神的な病気だったのだ、と思います。彼は墓場を住まいとしていました。地質に石灰岩の多いパレスティナには洞窟が沢山あり墓に用いていました。悪霊に憑かれていた人は、そこを自分の住まいとしていたのです。そこは普通は人が住むような所ではありません。この人は、普通の人と同じ生活をすることができなくなっていたのです。人間社会の中で、人と共に生きることができなくなって、死者の居場所である墓場にしか居ることができなかったのです。

何故この人は人々と一緒にいることができないのか、それは、「もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった」ということがそれを示しています。人々が彼を鎖でつなぎとめておこうとしたのは、彼が暴れ回り、周りの人々に危害を加えてしまうからです。家族でさえもどうしようもない攻撃的、破壊的な衝動が彼を捕えており、それがひとたび現れると、どんな足枷をも鎖をも砕き、引きちぎって、周りの人々を傷つけてしまうからです。それほどに大きな力が出せるのは、汚れた霊、悪霊の力によるものでした。彼の中には大勢の悪霊が住んでおり、それは豚二千匹を怒濤の如くに走らせるほどの力だったと後の方にあります。そのようなすさまじい力で彼は鎖や足枷を破壊していたのです。彼は悪霊によって鎖を引きちぎるほどの大きな力を得ていたのです。その結果、墓場でしか生きることのできない孤独、深い苦しみに陥って、「昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」のです。人との繋がりを失い、徹底的な孤独に陥った彼は、苦しみと絶望の叫びをあげながら、我と我が身を傷つける自暴自棄の日々を送っていのです。この悪霊に憑かれた男に似た話は、聖書の中にしばしば出て来ることから、この時代、「よくある話であった」ということが出来るのではないでしょうか。

異常な世界に住んでいる者が、初めて自分の異常性に気付き、正しい生き方を求めて新しい世界に歩み出して行く、これこそがキリストに出会った人間の姿であり、今日のこの人の物語なのです

人々は、もはや彼をまともな人間とは見做さなかったでしょう。まともな人間の世界から脱落した者としてしか考えなかったでしょう。

それは一面において正しい見方でした。この人の姿は、どう見ても、誰が見ても、神様が愛の対象として創造された人間本来の姿ではなかったからです。

確かにこの人は、墓場、即ち死の世界の入口に住んでいました。町の人々は皆、この人を、自分たちの世界では共に生きることの出来ない異常者と断定し、彼が自分たちの世界に入ることを許さないことで、社会の平安を守ろうとしていたと言えるでしょう。

しかしそれでは、この人の周りにいる人々、私たちを含めてこの物語を読む全ての人々は、自分たちが、この男とは全く生きる世界が異なり、「暗黒の世界、死の入口に住んでいるのではない」と言い切れるでしょうか。

改めて、私たちが生きている世界を見詰めるならば、冷たい洞窟の墓場の中も、暖かい家の中も、実は、「死」と隣り合わせであることに変わりはありません。アダムの罪を背負い、楽園を追放された世界に生きる悲しみを、誰でも知っているでしょう。この世を生きる私たちの「時」は、死を迎えるまでの限られた時間にしか過ぎません。

その死を目前にした私たちが、今、手にしている自由を幸福と結びつけることが出来ず、神の裁きから逃れられないとするならば、今生きている暖かく明るい部屋も、所詮は「虚しさの世界、暗黒の世界への入口である」としか言えないのではないでしょうか。

この人は6節で「いと高き神の子イエス」と呼びかけました。「いと高き神の子」とは主イエスをよく知る弟子たちでさえ言わなかった正しい呼びかけです。しかしその言葉には少しも喜びがありません。正しい表現であっても、それは決して、その正しい呼びかけの神の子に自分を委ねる告白にはなっていないからです。

そのことは、呼びかけに続く「かまわないでくれ」という言葉からも明らかですが、この翻訳は、直訳すれば、「私とあなたとはなんだ」という言い回しです。口語訳聖書は、この意味を含めて、「あなたと私と何の関わりがあるのですか」と訳しています。関係の否定であり、完全な対立、断絶、拒否を表す言葉です。岩波訳聖書では、「お前と俺は何の関係があるのだ」と、はっきりした関わりの否定となっています。

また、「後生だから」と訳されていますが、こんな言葉はギリシア語の原語にはありません。ここのところの原文は「神にかけて誓う」という意味です。つまり、「神にかけて誓う」と、神様を引き合いに出すかと思えば、直ちに「私と何の関係があるのか」と拒絶の姿勢をとり、「私を苦しめるな」「勝手にさせてくれ」と叫んでいるのです。まさに支離滅裂な姿と言わざるを得ません。

主イエスを「神の子」と呼びながら、その救い主・キリストと無関係に生きようとしている人間、また「生きざるを得ない」と思っている人間。それこそが、悪霊に憑かれた人間に共通の姿であり、滅びの入口に住みついて虚しい叫びを上げている人間の惨めな姿なのです。自分を目指して近づいて来られる主イエスを「神の子」と認めながら、「私のことなどかまわないでくれ」「私に関ってくれるな」と叫ぶのが、墓場に住む人間の特徴なのです。

9節で、この人は自分の名は「レギオン」と言います。この名前は象徴的です。レギオンとは、人の名前ではなく、ローマ帝国の軍団のことです。レギオンとは六千人のローマ軍を表す最大単位です。そして悪霊は、名前の意味を自ら「大勢だから」と説明しています。これは、「多くの悪霊がとり憑いている」という意味であろうと言う人もいますが、それよりむしろ、自分が「単なる一個人以上のものである」ということを強調しているのでしょう。

11節で悪霊は主イエスに「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願ったとあります。悪霊は、何故、豚の中に入ることを願ったのでしょうか。

豚は、ユダヤ人にとって、食べることが禁じられている汚れた動物でした。ユダヤ人は、現在に至るまで、豚を飼ったり、その肉を食べたりすることは、決してありません。旧約のレビ記に記されているように、神の民としては絶対に守らなければならない、律法で規定された信仰の問題でした(レビ記11章参照)。

悪霊は、その豚の中なら、主イエスに許されると思ったのでしょう。最低の動物、全く価値無きものと共になら、自分の存続を主イエスが認めると思ったのかもしれません。

神の正義は、いささかも、悪との共存を許すことは有り得ず、神様の愛は、苦しみをもたらす罪の力を放任することは絶対にないのです。悪が隠れる場所は、何処にもないのです。なだれをうって湖の中に落ち込んで行った二千匹の豚は悪霊に対する主イエスの断固とした決意を示しているのです。

14節以下には、「豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取り付かれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。・・・・・そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」とあります。

悪霊の支配から解放されたこの人は、「服を着、正気になって座っている」のです。悪霊に取りつかれていた時は裸だった彼が服を着るようになったのは、人間としての生活の秩序の中に戻ったということです。そして彼は「座っていた」のです。どこに座っていたのでしょうか。ルカによる福音書第8章に並行記事があります。そこでは彼は、「正気になってイエスの足もとに座っている」と語られています。彼は主イエスの足もとに座って、弟子たちと共に、主イエスのみ言葉を聞いていたのです。主イエスに対して「あなたと私は関係ない。かまわないでくれ」と言っていた者が、主イエスの足下に座ってそのみ言葉に耳を傾け、主イエスに聞き従う者となる、これが、悪霊の支配から解放され、正気になるということです。悪霊は、自分を縛りつけるあらゆる束縛を断ち切り、勝手気ままに生きるようにと彼を唆(そそのか)し、その力を与えました。その結果彼は自分の言葉を奪われ、悪霊の言葉を語るようになりました。つまり自由になるどころか、悪霊の奴隷となり、周囲の人々を傷付け、自分も孤独に陥り、墓場でしか生きられない、罪と死に支配された者となってしまったのです。その罪と死からの解放は、悪霊に勝利した神の子、主イエス・キリストの下に置かれることによってもたらされます。主イエスの足下に座ってみ言葉に聞き従う者となる時にこそ私たちは、悪霊の支配から解放され、正気になって生きることができるのです。

彼が主イエスに聞き従う者となったことは、18節で主イエスがその地を立ち去ろうとなさった時、彼が「一緒に行きたいと願った」とあることからも分かります。しかし主イエスは彼に「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」とおっしゃいました。主イエスは彼を悪霊に取りつかれ飛び出してきた家へ帰されたのです。束縛を嫌い、勝手気ままに生きようとして、共にいることができなくなったその人間関係の中へ帰されたのです。主イエスは彼がその人間関係をもう一度回復することを願って、彼をそこへと新たに派遣なさったのです。

私たちはここに、主イエスによる救いの大事な一面を見ることができます。信仰に生きるとは一方では、弟子たちのように、また彼が主イエスに願ったように、日常の生活を捨て、それまでの人間関係を断ち切って主イエスに従っていくということです。しかしまた同時に信仰者は、主イエスによって、自分の家族の中へと、与えられている人間関係の中へと新たに派遣されるのです。自由を求める思いやプライドを守ろうとする自分の思いに捉われて人との交わりを破壊してしまう私たちが、主イエスによって正気になって、その人々と共に生きる者へと変えられ、交わりを回復されていくのです。

マルコによる福音書は、冒頭の1章15節の「時は満ち、神の国は近づいた」と、主イエスご自身の「新しい時が来た」とのみ言葉から始まっています。今日の物語は、この一人の異邦人に「新しい時」を与えられる主イエスが示されているのです。

主イエスによって正気になったこの異邦人は、「イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」と20節にあります。この人は、家族、同胞のもとへと主イエスによって新たに遣わされ、そこから新たに主イエスによる救いの恵みを証しし、宣べ伝えていったのです。

お祈りを致します。