思い出

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌23番
讃美歌138番
讃美歌494番

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 7章9-11節 (旧約聖書1,071ページ)

7:9 エフライムの頭はサマリア/サマリアの頭はレマルヤの子。信じなければ、あなたがたは確かにされない。」
7:10 主は更にアハズに向かって言われた。
7:11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」

新約聖書:マルコによる福音書 8章11-21節 (新約聖書76ページ)

8:11 ファリサイ派の人々が来て、イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた。
8:12 イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」
8:13 そして、彼らをそのままにして、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。
8:14 弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
8:15 そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。
8:16 弟子たちは、これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、と論じ合っていた。
8:17 イエスはそれに気づいて言われた。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。
8:18 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。
8:19 わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは、「十二です」と言った。
8:20 「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と言うと、
8:21 イエスは、「まだ悟らないのか」と言われた。

《説教》『思い出』

先週、ご一緒に読んだ「四千人の給食」の行われた場所は、ユダヤ人が住むガリラヤではなく、異邦人の住む土地でした。主イエスは、ユダヤ人に追われる様に弟子たちと共にダルマヌタ地方に来られました。

このダルマヌタ地方とは何処なのか、聖書では、このマルコ福音書の、この箇所にたった1回しか出て来ないのでハッキリとは分かりませんが、並行聖書箇所のマタイ福音書ではマガダン地方となっていることなどからガリラヤ湖西岸のマグダラの辺りではないかといった説が有力なようです。

ここに来られた主イエスの周りに、またまたファリサイ派の人々が現れました。彼らはここでも主イエスを陥れるために議論を仕掛けて来たのでした。

彼らは主イエスを試そうとして「天からのしるし」を求めたと書かれています。「天からのしるし」とは、「神による直接の証明」を示せということです。

彼らは、主イエスが各地で驚くべき御業・奇蹟をされたことを聞き、また、その出来事に出会って来た筈です。

しかし、それでも満足していませんでした。神の御子の大いなる御業に接し、その出来事を聞かされながら、それが信じられないのです。それは、自分自身の目で見て満足出来れば、自分たちの判断によって、「神を承認しよう」ということ、人間が神の上に立つということです。

既に、ご一緒に読んで来ましたように、五千人の人々に食事を与え、四千人の空腹を癒したパンの奇跡こそ、「神の国の食卓を表す」ということを私たちは学んで来ました。そこには神の御子の偉大な御業が現わされていました。

しかし、ファリサイ派の人々は、それらの出来事を何ひとつ正しく受け止めようとはしませんでした。深い知識と十分な経験を持ちながら、彼らは自分たちの持つ硬い殻を破れず、何も悟ることが出来なかったのです。

自分を虚しく出来ない人にとって、神の御業は全く無意味であることが、ここに示されたと言えます。「この世のものでないこと」に出会っていながら、なお自分の判断で理解しようとする人々。その人々は、たとえ「しるし」を示されても、それが「しるし」であることに気付かないのです。

主イエスの嘆きは、このような人間の愚かさに対するものでした。

「しるし」がないのではなく、無数に示された「しるし」を見ない「人間の惨めさ」への嘆きがここにあると言えるでしょう。

主イエスは「しるしがない」と言っておられるのではなく、神の御業を見ようともしない人間を悲しまれているのです。

主イエスは、ファリサイ派の人たちに背を向けられました。議論の相手になろうともせず、彼らの求めに応えようともせず、彼らを見捨てて去って行かれました。神の独り子を眼の前にしながら、なおそこに何も見ようとしなかった人々への「天からのしるし」は、もはや神の直接的な御手が下される終末の時を待つ以外ないからです。そして、そのような人々は、舟に乗って去る神の御子を「ただ岸辺で見送るだけ」なのです。

そして、このすぐ後、ガリラヤ湖を渡る舟の中で、主イエスと弟子たちとの間に交わされた会話こそ、私たちが心して聞かなければならないことなのです。

15節に、主イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められたとあります。

この時代、微生物はおろか、微生物の働きである「発酵」や「腐敗」についての原理は知る由もありませんでした。「パン種」とは、焼く前のイースト菌の入った生パンの一片を、次のパンを作るときに、新しいパン生地に加えて発酵させて、次のパンを作るときに用いていたことを現わしているのです。

ところで、皆さんは、微生物の働きである「発酵」と「腐敗」の違いをご存知でしょうか。実は「発酵」と「腐敗」は微生物による有機物の分解でまったく同じ働きを表わす言葉です。

「発酵」と「腐敗」の違いは、私たち人間の役に立つものが「発酵」で、役に立たないものが「腐敗」と呼ばれているだけです。

「発酵」と「腐敗」することはまったく同じであり、「パン種」とは作ろうとするパンに次々に微生物の働きが移って行くことです。このため、聖書では、この「パン種」という言葉は「腐敗」や「伝染」という悪い意味でも用いられました。ここに語られている「ファリサイ派のパン種」とは、悪い影響をもたらし、真実を歪める偽りの信仰という意味として理解出来ます。彼らは、外から見た目には、信仰には熱心であり、敬虔でありました。しかし内実は、自分を第一とし、神を「二の次」とする者として批判せざるを得ません。

「神を求める」と言いながら、実は、神の名を借りて自分の立場を守っていたのがこの人々の特徴でした。彼らが示す信仰者の姿は、真実の自分を隠し、偽りの姿で惑わせる巧妙な偽装に過ぎませんでした。

ファリサイ派の人々に対する主イエスの厳しい批判は、マタイによる福音書23章1節以下の小見出し「律法学者とファリサイ派の人々を非難する」に詳しく記されています。後でお読み頂けると幸いです。また、15節にある「ヘロデのパン種」とは、当時の社会に存在していた「ヘロデ党」と呼ばれる政治的団体に代表される「この世中心主義」のことです。現実主義であり、「自分の生活が第一、神は第二」という世俗主義のことです。富の豊かさと社会的地位や権力を求める人間、それらに眼を奪われる人間。それがこの「ヘロデのパン種」に譬えられるタイプの人間です。

この二つの「パン種」という言葉によって表れされるのは、自分の考え、自分の生活を第一にする人間のことであり、神の御業に出会っても、何も見えない人とも言えます。自分の要求が満足させられるか否か、ただそれだけを求める人は、結局、「そこでは何も見なかった」のと同じことになってしまいます。

幸福を与えるために来られた神の御子に見捨てられ、舟に乗って遠ざかるキリストを岸で見送る虚しさ、これが神を第二とする人間の特徴と言えましょう。

私たちも、ファリサイ派の人々ほど極端ではないかもしれません。ヘロデ党の人々ほど世俗的ではないと言えるかもしれません。しかし、私たちの心の中に、自己中心主義の小さなかけらが一つもないと言えるでしょうか。

神の御業に目隠しをしてしまう力を秘めたものが、心の片隅にこびり付いていないでしょうか。このような自己中心主義の危険にさらされていることが、ファリサイ派の人々やヘロデ党の人々だけの問題でないことは、この舟の中に主イエスと共にいる弟子たちの姿を見れば明らかです。

14節に、「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。」とあります。弟子たちは弁当を持って来ることを忘れたのです。この時、彼ら全体でパンを「ひとつ」しか持っていませんでした。ですから、主イエスの御言葉を聞きながら、一番の心配事として、「パンがひとつしかない」ということに心を痛めていたというのです。余りにも馬鹿馬鹿しい勘違いだと笑う人がいるかもしれません。実に愚かなことだと私たちも思います。

しかしこれこそ、「常に、自分を第一」と考えさせる、あの「パン種」の仕業なのです。

主イエスはそれに気づいて言われました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパン屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」。弟子たちは、「十二です」と言った。「七つのパンを裂いたときには、集めたパン屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」「七つです」と弟子たちは答えました。主イエスは、何を言おうとされているのでしょうか。

五つのパンで五千人。七つのパンで四千人。「そこまで言うならば、ひとつのパンでも十分だったのではないか」と思うなら、その人もまた、この弟子たちを笑う資格はないでしょう。ここで問題になっていることは何でしょうか。

「僅かひとつのパン」で、「どうして全員が食事をすることが出来るか」ということでしょうか。

17節から18節の主イエスの言われた「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。 目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」 主イエスとしては珍しく強い言葉です、一言で言えば、「愚か者!」ということでしょう。まさに厳しい叱責であり、強烈な批判です。主イエスの御業をしっかりと見詰めておらず、そこで示された恩寵の素晴しさを思い出すことも出来ない愚かさが、ここに指摘されているのです。

あの「五千人の給食」と「四千人の給食」で「思い出さなければならないこと」とは何でしょうか。

あの時の飢えは、単なる肉体的な飢えではありませんでした。あの時の満腹は、単なる肉体的な満腹ではありませんでした。主イエスと共にいることで「時」を忘れ、主イエスご自身が解散させるまで離れようとしなかった人々。空腹を忘れ、飢えを忘れ、寒さを忘れ、家に帰るべき時間を忘れた人々。その人々に、主イエスは何をもって報いたでしょうか。その人々は、何を携えて家に帰って行ったのでしょうか。これらの「パンの奇跡」こそ、神の国の恵みの先取りであり、キリストと共にいることの喜びにすべてをささげ、飢えも寒さもあらゆる不安からも解放されたのが、あの時の人々の姿でした。まさしく、「神の国」が実現し、「キリストと共にある豊かさ」が全ての人々を満たしていました。たとえそれが、僅かなひと時であったとは言え、「来るべき神の国」を、主はあの奇跡によって示されたのでした。それにも拘らず、何故、弟子たちは「そのこと」を思い出さなかったのでしょう。主イエスは言われました。「まだ悟らないのか」(21)、「もう分かったであろう」ということです。「あの出来事を思い出したであろう」ということです。

私たちの信仰も、この主イエスの御言葉を正しく思い出すことにかかっているのです。

弟子たちは、「パンがひとつしかない」ということしか考えていませんでした。聖書は、「ひとつのパン」ということから「何を思い出せ」と言っているのでしょうか。それは、新約聖書312ページ、コリントの信徒への手紙第一 10章16節の中頃から17節に、「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。」とあります。

ここの「ひとつ」とは、ひとつ・ふたつと数える数字の「イチ」“ひとつ”ではなく、「掛け替えのない」“ひとつ:ファースト”ということなのです。主イエス・キリストこそ「生命のパン」であり、私たちの新しい生命のための「唯一のパン」なのです。

そして主イエス・キリストは、パンである「御自身のからだ」によって数知れない多くの人々を養われるのであり、この「偉大なパン」を、何よりも大切なものとしなければならないのです。

「たったひとつの生命のパン」、それこそ、主イエス・キリストと私たちを結ぶ信仰の絆なのです。その力を持つものこそが、「天からのしるしとしてのパン」なのです。

あの時、舟の中で弟子たちは、「パンがひとつしかない」と言って心配しました。しかし私たちは、「ここにひとつのパンがある!」ということを喜ぶべきなのです。

ガリラヤ湖に浮かぶ小さな舟。主イエス・キリストを中心とする舟の中の人々。それこそ、教会の姿を示しています。自己中心的、人間主義的な考えから自由になれないファリサイ派の人々やヘロデ派の人々から、主イエス・キリスト御自身が引き離して「湖の上に分け隔てられた群れ」こそ、教会の姿に他なりません。しかし、その教会の中にあっても、私たちは自分自身の力によって、自らの歩みを確かなものにしようとします。主イエス・キリストの十字架による罪の赦しを自分のものと悟ることが出来ず、聖書は赦しを語っているのに、自分で自分を裁いたり、隣人の過ちを裁いてしまうこともあります。

信仰の恵みを理解出来ず、目があっても見ない、耳があっても聞かない者のためにこそ、主イエス・キリストが十字架上で苦しまれているのです。私たちは、その主イエス・キリストの十字架の御苦しみが私たちのためであると理解できたとき、その一つのパンによって赦され、救われた者として歩むようになれるのです。

主イエス・キリストが十字架で苦しまれつつ自らの御体を裂かれたことを思い、その恵みが自分たち教会のためであり、共に信仰に生きる主イエス・キリストの家族のためだったと感謝できる時、救われてその恵みに生かされる者となっていくのです。

お祈りを致しましょう。

イエス様のお誕生

主日CS合同礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌90番
讃美歌96番
讃美歌234A

《聖書箇所》

旧約聖書:イザヤ書 7章14節 (旧約聖書1,071ページ)

7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら
あなたたちにしるしを与えられる。
見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み
その名をインマヌエルと呼ぶ。

新約聖書:マタイによる福音書 1章18-25節 (新約聖書1ページ)

1:18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
1:20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
1:21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
1:22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
1:23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
1:24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、
1:25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

《説教》『イエス様のお誕生』

今日は、教会学校との合同礼拝ですので、教会学校のテキストからマタイによる福音書1章18節から25節のイエス様がお生まれになった時の大切なお話をしましょう。

私は去年の4月から、この成宗教会の牧師として皆さんとご一緒して来ましたが、昨年度2020年はクリスマスイヴ礼拝を含めて52回の礼拝中で皆様と集まって普通に礼拝できたのは32回でした。何と今年度2021年に至っては17回中のたった2回だけです。何としても神様の御言葉を皆様にお届けしようとライブ配信をしていますが、残念ながらキチンとはお届け出来ていないと反省しています。

ところが、この1年3ヵ月ほどの間に、何と5人の兄弟姉妹を神様の御許にお送りしています。そのお一人が野田妙子姉妹です。葬儀は明日午後、荻窪河南の葬儀社斎場で執り行われます。成宗教会で葬儀をと願いましたが、喪主様のご意向で教会ではなく、斎場に私が赴いての葬儀となりました。

葬儀は教会でないといけないとは言いませんが、天の神様に向かって旅立つに際して、葬儀とは、その方が、それまでどう生きて、どう神様を証してきたかを思う一つの大きな機会と思います。私たちにとってこの世の家でもある教会とは何なのかといった思いで今日のイエス様のお誕生物語を、「生まれる・誕生」の中からも「葬儀・死」を思って、お聞きいただければと思います。

実はイエス様の生誕物語は四つの福音書のうち、このマタイ福音書とルカ福音書の二つの福音書にしかありません。二つの福音書の生誕物語は、夫々特徴があります。主イエスの誕生を父親ヨセフの側から語り始める今日のマタイ福音書では母親マリアの言葉はなく、父親ヨセフと天使との夢の中でのやり取りが中心です。一方のルカ福音書では母親マリアを中心としたマリア賛歌も含まれた主イエスの生誕に関連する物語が母マリアの立場から長く記されているのとは大変対照的であると言えましょう。

当時のユダヤ人の結婚に関する決まりでは婚約中の2人はすでに夫婦とされていたので、20節と24節でマリヤは婚約者ではなく「妻」と呼ばれています。婚約者同士は通常1年程度の婚約期間を経て結婚生活に入りますが、その婚約期間中にマリヤの妊娠が明らかになりました。ルカ福音書では、マリヤ自身が大天使ガブリエルから妊娠は聖霊によるのであると告知を受けましたが、今日のマタイ福音書では、主の天使が父親ヨセフの夢に現れたとしています。ここに母マリヤの言葉はなく、マリアの沈黙を敢えて示そうとしているとも言えましょう。しかし、如何に聖霊によって身ごもったとしても、周囲の人々がマリアの妊娠に気付くのは時間の問題であった筈でした。

マリアが身ごもったことは、ヨセフにはまったく身に覚えがないことでした。そこで、マリアの妊娠を知ったヨセフは、密かに縁を切ろうと決心します。19節にあるように、夫ヨセフは、「正しい人」でした。しかし、その「正しさ」とは、マリアを疑い、それが表沙汰になることを恐れた、いわば世間体を気にしてのことでした。このことについて、神に御旨を尋ねようとすることなく、自分の考えだけでマリアと縁を切ろうとした、この時のヨセフの思いは、人間の「正しさ」の限界を示していると言えましょう。人間の「正しさ」とは、自分の罪について自覚できなくなる危険性をいつも孕んでいます。ヨセフはこの時、神の御旨を尋ねるべきでした。しかし、それをしないで、自分だけで判断してマリアと別れよう、縁を切ろうとしていたのです。絶対的な義の存在である神の前では、どんな人間でも一人の罪人に過ぎません。いくら私たちが正しさを主張したとしても、それは神の前に完全な「義」正しさとはなりません。私たちが「真の義」を求めるには、神の導きが必要なのです。

ヨセフが、このようにマリアのことで思い悩んでいるとき、夢を見ます。それこそが、ヨセフにとっての「神の助け」でした。夢の中に天使が現れ、恐れないで妻マリアを迎え入れること、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったこと、その子は男の子で、イエスと名付けること、イエスは自分の民を罪から救う救い主となることが天使から告げられます。夢の中で、今起こっていることの意味を、主なる神が天使を通して、ヨセフに告げ知らせたのです。それまで、ヨセフはマリアを妻とすることを恐れていました。しかし、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのだから恐れることはないとの、天使の告げることを聞いて、全能の神の力によって、マリアの胎に男の子が宿ったことを知り、ヨセフは主なる神に信頼して安心することが出来たのです。また、生まれてくる男の子をイエスと名付けるように命じられました。命名は子供の認知を意味します。イエスとはギリシヤ語の呼び名です。ヘブライ語ではヨシュア、「神は救い」を意昧する名前で、よくあるユダヤ人男性の名前でした。「ヨシュア」と呼ばれた人物は主イエスの他に聖書に10人程登場しますが、最も有名なのはモーセの後継者でエリコを陥落させ、カナンの地を占領し、その地を12部族に分け与え、イスラエルの定住の地を確保したヨシュアでしょう。この「ヨシュア」という名は、自分だけの力ではどうしようもない罪の中にある人間を、確かに救ってくださる救い主の名前として、相応しいものでした。しかし、その「救い」とは「罪からの救い」であり、ローマ帝国の支配からの解放を望んでいた当時のユダヤ人の期待とは異なるものでした。従って、21節の「ご自分の民を」という表現は、「新しいイスラエルの民」、「新しい神の民の創造」という視点から理解されなければならないでしょう。ここにもイスラエルを「ご自分の民」とされた旧約の「主なる神」と主イエスの姿が重なってきます。マタイ福音書は主イエスの生涯が旧約聖書の預言の成就であることを示すため「主が預言者を通して言われた事が成就するためであった」という表現で旧約聖書を度々引用しています。

ここではマリヤの聖霊による妊娠がイザヤ書7章14節の「それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。」との旧約聖書の預言の成就とされています。

23節にあるように主イエスは「インマヌエル」という名で呼ばれるとありますが、ご生涯は「イエス」と名乗り、「イエス」と呼ばれ、「インマヌエル」というお名前では呼ばれませんでした。主イエスの人格とご生涯そのものが「インマヌエル:神は私たちとともにおられる」であったと、マタイ福音書全体を通して、現実の主イエスのお姿を現しているのです。

ヨセフは夢で告げられたことを主なる神の啓示と信じて、妊娠したマリヤを迎え入れました。場合によっては人の好奇の目を浴びるリスクも引き受けたと言えましょう。こうして主イエスはヨセフとマリヤという人間の両親のもとで、人として生れることになったのです。

ヨセフは、主の天使が夢で語った神の御言葉を聞いてから、劇的な変化を遂げています。ヨセフは、信じることができなかったものから、信じるものへと変えられ、受け入れることのできなかったものから、受け入れるものへと変えられたのです。

妻マリアのお腹の中に主イエスが宿ってから、夫ヨセフは愛する人も、主なる神も信じることのできない自分の弱さと罪を知りました。神様は、そのヨセフを見捨てることなく、言葉を投げかけて下さり、彼にその言葉を信じる信仰を与えてくださいました。ヨセフは、その神様を信じる信仰によって、自分からは受け入れられることのできなかったマリアを受け入れ、お腹の子に、名前を付け、自分の子として、受け入れることができるようになったのです。

この子、主イエス・キリストがマリアのお腹の中に来て下さった時から、救いが始まりました。この方が来られてから、闇は光に照らされ、闇の中にいた私たち人間が光に照らされ、罪が明らかになると同時に、その光がどんどん近づいてこられて、私たちの心の内側に入ってきてくださったのです。その光によって、私たちは、新たにされるのです。その希望の光が、私たちの内側に来てくださって、いつも共にいてくださる。「インマヌエル:神はわれわれと共におられる」というのは、このことです。

今日のこの聖書箇所に書かれている主イエスの誕生、キリストの受肉の神秘については、様々な批判や意見のあることは事実でしょう。私たち現代人の高度な科学的知識では、処女降誕など、考えられないといった意見や、妥協して生物界には雌雄両性生殖ではなく、単性生殖も見られるので人間の単性生殖もあり得るのではないかといった議論など、この出来事を無理矢理説明しようとする努力する人もいます。歴史上、数えきれない程の多くの憶測が述べられて来ました。聖書をよく読んでいるキリスト者でも、これは神話なので、実際に起こった事ではないと、この出来事を彼方に遠ざけてしまい、正面から取り上げようとしない人が少なくありません。

しかし、主イエスの生誕において起こったことは、今日のマタイ福音書によれば、神御自身が主イエスとして人となって、人々の間にとどまり「インマヌエル」、その民にとっての「救い主イエス」となるのであり、救い主・キリストが人々を救うためにここに生まれる、ということを述べているのです。

その中心をなしているものは、主イエスにおいて実現する神の人間に向けての救いの実現であり、人間はそれに応答することしかないのです。

信じて従う、それが信仰です。神の御業を信じることから信仰が始まるのです。主イエス・キリストを真の神であり救い主と信じる私たちはこの生誕物語を信仰として受け止め、神の救いの実現に際して、欠くことの出来ない大切な出来事として捉え、信じて伝え続けなければなりません。神の右に座して、神と等しいお方が、肉を取って、私たちと同じ人間となって下さったからこそ、私たちの救いがあるのです。

イエス様が救い主としてお生まれになることは、昔から旧約聖書の預言者によって伝えられて来たことでした。神様ご自身が創造され、何よりも愛された人間が、神様から離れて罪の中で悲しみ・苦しむのを見て、何とか人間を罪の中から救おうとされました。その神様の救いのご計画の中心がイエス様の誕生でした。

昔から、神様を信じる沢山の人々が、神様が一緒にいてくださることで励まされ、辛く苦しいことを乗り越えることが出来ました。乗り越えられれば乗り越えられる程、神様を信じる気持ちを強く持てるようになっていきました。このように神様が共にいて下さり、守ってくださることは、神様の働きとして、今も私たちにも向けられています。

私たちは、聖書を通して神様の御言葉を聞き「天のお父様」と、親しく神様にお祈りすると、神様は、「インマヌエル:神様が私たちと一緒にいてくださる」ために聖霊を私たちのもとに遣わして下さり、私たちが健やかに成長する力を下さいます。

このイエス様の生誕によって、人々が罪から救われて神の国に入るという、確かな救いへの希望が与えられるようになりました。

このようにして始まったイエス様のこの世でのご生涯は、私たちと同じ肉を取られ、私たちと同じ人としてお生まれになり、私たちの救いのために歩まれたものでした。仮の姿ではなく、真の人として、痛みを感じて、苦しみ、十字架にかかり、自分たちでは決して拭い去ることの出来ない私たちの罪を負って下さいました。それは、まさに私たちを愛してくださっている神の御計画そのものなのです。

今日のこの、イエス様の生誕物語「キリストの受肉の神秘」こそ、その内容と意味を、大切な信仰の事柄として、家族や子どもたち・孫たちに伝え続ける責務を、私たちは託されているのです。

そのおひとりお一人の家族への伝道の働きが、一生を通しての天国への旅立ちの準備を形作っていくのです。

お祈りを致します。

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