聖書:イザヤ書12章1-6節, マタイによる福音書28章1-10
主イエス・キリストは陰府の支配を打ち破り、ご復活されて、不滅の命を顕してくださいました。今から二千年前エルサレムで起こった出来事であります。神は主の御復活の善き知らせを、だれに最初に知らせることを望まれたのでしょうか。主イエスの弟子たちには、真っ先にお知らせくださったというならば、だれでも納得したことでしょう。ところが、弟子たちではなかった。最初に復活を知らされたのは、婦人たちでした。彼女たちはガリラヤから主イエスに従って、主と弟子たちの世話をしていた人々でした。厳密に言えば、彼女たちも弟子ではありますけれども、この時代の婦人たちは数に入っていない存在でありました。神はしかし、彼女たちにご復活の主を最初に示してくださったのです。
なぜでしょうか。人類の歴史はほとんど男性優位社会であったのですが、神はそれを覆して、女性の方が値打ちがある、と言われるのでしょうか。そうではないと思います。キリストの弟子たちは皆逃げ去ってしまい、主の葬られた墓に近づくことも恐れていました。自分たちも主の弟子であったことを咎められ、危害を加えられるのではないか、と怖かったのです。ところが、婦人たちは彼らとは全く違う行動に出ました。彼女たちも嘆き悲しみの中にありました。しかし彼女たちはなすべき務めを思いました。主のご遺体に対して香油を塗って差し上げなければならない。そこで立ち上り、てきぱきと出て行きました。お墓がどうなっているのか分からない。そこに入れるかどうか分からない。それでも主にお会いしに行く。正確に言うと、主のご遺体に会うために行ったのです。
その時大きな地震が起こりました。神がイエス・キリストを復活させてくださった。その恐るべき出来事の重さを地震によって、神は彼女たちにお示しになったのではないでしょうか。その時、主の天使が天から降って、墓を塞いでいた大きな石を転がした。その石の上に座った。それらは、主が復活されたことを告げる出来事の重大さを物語っているのです。その稲妻のように輝く姿を見た見張りの者たちは、恐ろしさのあまり死人のようになった。正に死ぬほどの恐ろしさであったのです。これらの証言を、信じるとか信じられないとか論じる人々は、この二千年あとを絶たず、いつの時代にもいます。しかし、主がご復活されたことを世に知らせるのに、このような方法を選ばれたのは、神御自身であります。すなわち、主は御自分が生きておられることを、天使たちによって婦人たちに宣言されました。次に、その後すぐ主御自身が彼女たちにお姿を現されました。そして最後に使徒たちに、様々な機会に御自身を現されたのです。
使徒たちは、自分の身の安全ばかり思って外に出ることを恐れ、閉じこもり、ますます自分たちの裏切りを思い、落ち込むばかりでした。それに比べると、婦人たちは主のご復活を信じていなかった点では使徒たちと何も変わらなかったのですが、それでも落ち込んでばかりはいられなかった。彼女たちは主に対する愛と感謝を忘れませんでした。だから主の死を悲しみ痛む思いをどうしても形に表さずにはいられませんでした。信仰の弱さにおいては同じであっても、主は主に近づこうと行動する婦人たちの愛と感謝の姿に報われました。そして天使を遣わされ、この言葉を与えたのです。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを探しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、(見よ)あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』」と。
婦人たちは、彼女たちは天使の言葉に心底喜んだのでしたが、同時に非常な恐れに打たれたので、歓喜と恐怖で心が混乱していました。もし、彼女たちの信仰が優っていたのなら、心は恐怖に打ち勝って平静になれたことでしょう。しかしこの時はどうしても、歓喜に溢れると同時に、恐ろしさも心にこみ上げて、まだ天使の証言を完全に信頼していたのではなかったのでした。そんな状態でも、取るものも取りあえず、彼女たちは素直に従順に天使の命令に従っていました。すなわち、弟子たちの居る所に走って行きました。人の数にも入っていないという女性たちが弟子たちのところに行って「あの方は死者の中から復活されました」と報告したとしても、果たして「女の言葉なんか信じられるか」という男社会であったかもしれないのです。しかし、彼女たちはそういうことを心配する、あれこれ考えるゆとりはありませんでした。ただ、天使が命じる言葉を届けようとする一心で走ったのです。
このように最初の福音の伝道者は、実は使徒たちではなく、女性たちでありました。そして、それは彼女たちが何か進んでその務めを果たすことを引き受けたのではありません。信仰弱い者、体も頑健ではない、そのような婦人たちに、主は一時的にせよ、福音を伝える務めをお与えになりました。「イエスさまは生きておられます!」と告げるために彼女たちは一生懸命走って行きます。こんなに嬉しい知らせはありません。でも、よく考えてみると、彼女たちは天使に聞いただけなのです。本当にそうなのだろうか、という疑いが少しも起こらないでしょうか。
わたしたちも弱い者だから、心も体も魂も丈夫な者ではないから、同じような経験をしているのではないでしょうか。わたしたちは教会にいる。教会の主は生きておられる、と宣べ伝えるために頑張っているはずではなかったでしょうか。それなのに、主を喜びながら、しかし、どこかで半信半疑なのではないでしょうか。大体、一生懸命走っているうちに、わたしたちは忘れてしまってはいないでしょうか。何のために走っているのか。どこに走って行くのかを。そしていつの間にか思っていること、心にかけていることは、自分の弱さのこと。自分の力不足のこと。そして人と比べ合うこと。人と比べてがっかりすることばかり、等々。しかし更に、人と比べて「自分の方がまだましだ」と思うならば、わたしたちはますます教会の本来の目的から大きく外れてしまっているのです。
本来の目的。それは福音であります。福音は「イエス・キリストは死者の中から復活されました」と告げ知らせることから始まりました。そして、この知らせを信じるか、信じないかに、わたしたちの救いがかかっています。教会の救いは、わたしたちが、十字架に死んで甦られた主を、今も生きておられる主を信じるかどうかにかかっているのです。
さて、わたしたちは今日の復活の物語の中で、主がどんなに恵み深い方であるかを知らなければなりません。婦人たちは天使の言葉に従ってこの素晴らしい喜びを伝えるために走ったのですが、やはり心は弱く、喜びながら怖がり、怖がりながら喜ぶという、気が変になったかのような状態でした。その時主が現れてくださったのです。そして一言、新共同訳では「おはよう」と言われました。この言葉はユダヤの人々の普通の挨拶であったから、このように訳したのでしょうが、口語訳では「平安あれ」と言われました。文字通りのギリシャ語の意味は、「喜びなさい」です。そして宗教改革者カルヴァンも、平安があるようにと訳しています。半笑い、半泣き状態の彼女たちに平安を賜るために、そして何よりも確信を賜るために、主は御自身を喜んで与えられたのです。一番初めに。一番弱い者たちに。
ご復活の主に出会った婦人たちの喜びは想像することができません。彼女たちは主イエスに近寄って主の御足を抱いたと書かれています。それは、この当時の慣わしで、普通、王、支配者に対する服従と恭順の表現であったそうです。ヨハネの福音書では、マグダラのマリアがあまりに地上的な思いで主に縋り付くので、主は「わたしにすがりつくのはよしなさい」と言われ、御自分に触れることを禁じられたのでしたが、最初はそうではなかったと思われます。このように足に触れさせることによって、主は婦人たちに、御自分が決して夢幻ではなく、現実に生きておられることを確信させようとされたのであります。すると、彼女たちはひれ伏して主を礼拝しました。なぜなら彼女たちは、その時こそ主がよみがえられたことを知ったからでありました。このようにして主は信仰弱い者の疑いの雲を吹き払ってくださるために、弱い者のために現れてくださったのであります。
それから主は言われました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」もはや彼女たちは恐ろしいと思ってはいません。ですから、むしろ「主は恐れるな、と言われたのではなく、喜びなさい、すべての悲しみを投げ捨てなさいと言われたのだ」と宗教改革者は論じます。信仰の平和を得て、わたしたちは「キリストに心を高め、死を克服した主に向かって自分を高くするのだから、快活に元気になりなさい」と命じられているのです。
しかしながら、わたしたちが本当に主のご復活を知ることになるためには、主イエスを救い主と信じ、洗礼によってわたしたちの罪を言い表し、主のご復活の命を分かち合う者とされなければなりません。わたしたちは真に疑いと不安に支配されやすく、信仰の確信に満ちた状態からは程遠いと言わなければなりません。だからこそ、主の御語りくださる御言葉にこの肉の耳を傾けることが必要なのであり、肉の耳を傾けて礼拝し、肉の唇から信仰の告白と賛美の言葉を捧げて礼拝することが、実に大きな恵みとして、地上に生きるわたしたちに与えられているのです。
主は、婦人たちを励まして、彼女たちに役割、務めをくださいました。それは、使徒たちに福音を告げ知らせることです。こうして弱い者である婦人たちが、役割を与えられてやがて強い者となる使徒たちを助け、支えていく。これこそ、主の御心。神の愛の働きであります。ご覧ください。主が使徒たちを「わたしの兄弟たち」と呼んでいるのを。復活の主イエスは、御自分の苦難の時に、見捨てて逃亡してしまった弟子たちを「兄弟たち」と呼ぶのです。復活の主は、なお彼らと兄弟の絆で結ばれていると言ってくださいます。
キリストが彼女たちにこの知らせを弟子たちに告げるように命じた時、この知らせによって主は再び彼らを集め、散らされ、倒されていた教会を起こされました。なぜならわたしたちが倒れてしまっても、絶望的な状態に陥っても、再び燃え立たせられることができるとすれば、その力はこの復活の信仰によってのみ与えられるのですから。弟子たちが滅びるばかりの状態から、命を回復させられたのは当然のことでありました。
わたしたちは、ここでも、キリストの驚くべき御好意に注目するべきであります。弟子たちに、卑怯にも主を見捨ててしまっていた者らに、兄弟の名をお与えになるほどの御好意に!主はそんなにも好意的な呼称を、意図的にお与えになったことは疑いありません。主は彼らが非常な悲しみに苦しんでいることを御存の上で、彼らを慰めてくださったのです。このように使徒たちを「わたしの兄弟」と認めてくださる主イエスは、この二千年の歴史の中でわたしたちに至るまで、そして世の終わりまで、教会の主に結ばれる者に「わたしの兄弟姉妹」という名をお与え下さっています。
真に畏れ多いことであり、また感謝に絶えないことであります。ですからわたしたちは復活の物語を無関心に聞いてはならないのです。また、兄弟姉妹と呼び合っているのは血縁でも地縁でもないわたしたちが主の兄弟姉妹とされていることを決して疎かにしてはならないのです。そして、何よりも大切なことは、キリストが御自身の口によってわたしたちをお招きくださり、主の兄弟姉妹となるようにと御好意をお与えくださるのです。この主の恵み深さを知り、死をも命に変えることのお出来になるキリストを礼拝し、主と共に生かされますように。イースターおめでとうございます。祈ります。
主イエス・キリストの父なる神さま
2017年のイースター聖餐礼拝を感謝いたします。主はわたしたちの弱さ、心の頑なさ、思い上がりの故に十字架に掛かり、わたしたちに代わって罪を償ってくださいました。わたしたちは神の御好意、慈しみを信頼せず、自分を頼り、さ迷っておりましたが、主は御復活の命をもってわたしたちを呼び集めてくださり、罪を悔いる者に御自分の執り成しによる赦しをお与えくださいました。
真に感謝申し上げます。わたしたちは今日、あなたが復活の最初の証人として弱い者を立てて用いてくださったことを学びました。今、多くの人々が弱さを覚え、貧しさを覚えております。教会にいる小さな者を用いて福音のために務めを与えてくださりありがとうございます。わたしたちの主のご復活によって、あなたは死ぬ者をも生かす神であることを知りました。打ちひしがれた者、弱り果てた者と共にいらして立ち上がらせてくださる神であることを知りました。どうかわたしたちを用いて聖霊の御力によって、主のご用に生きる者としてください。
来週は教会総会が予定されています。そこで行われる報告の上に、計画の上に、あなたの恵みの導きを祈ります。また長老選挙の上に御心を行ってください。教会員の皆が教会を建てるために奉仕する志を与えられますように祈ります。真に集まることさえ困難な方々が増えている中、あなたの御心があれば、健やかな教会が建てられることをわたしたちは確信し、祈ります。どうか、わたしたちが主イエスの命に結ばれ、あなたの御心、ご栄光を映し出す教会となりますように。そのためにわたしたちも、家族も、仕事も整えてください。良いものすべてをわたしたちのために備え、下さろうとしておられる主よ、わたしたちの罪、咎、過ちを取り去り、共に助け合って、終わりの日まで主の許にとどまる幸いな者としてください。
若い方々、仕事に追われている方々の生活を顧みて、主を礼拝する恵まれた生活へとお導きください。また、高齢の方々の礼拝生活があなたの祝福を豊かに受けますように。
この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。