主に望みを置く

1月の説教

聖書:イザヤ書40章25-31節

説教者:藤野雄大

「主に望みを置く人は、新たな力を得、鷲のように翼を貼って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章31節)

 

新年あけましておめでとうございます。2020年も、皆様とともに礼拝をささげることができますことを感謝いたします。さて、本日も主の御言葉を聴きましょう。本日は、旧約聖書イザヤ書の御言葉が示されました。

旧約聖書の預言者たちは、イエス・キリストに直接出会うことはありませんでした。しかし、彼らはまだ見ぬキリストの到来について、神から預言を与えられました。本日、お読みした預言者イザヤもまた、主イエスの到来と、救いの実現をあらかじめ預言しております。それは、まだ実現していない救いの約束、神の救いの御業への信頼に裏付けられたものでした。

イザヤは、今日の御言葉において、私たちに何に望みを置くのか、何を信頼すべきなのかということをはっきりと問います。そして、どのような時であっても、ただ神にのみ望みを置くこと、神のみを信頼することをイザヤは告げています。

このイザヤの言葉は、逆に言えば、イザヤが生きていた当時の人々が、主に望みを置くことを忘れていたから、神に対する信頼を失いつつあったという状況を示していると言えましょう。事実、イザヤ書が成立したのは、南北イスラエルが滅亡し、いわゆるバビロン捕囚と呼ばれる、多くの人々が捕虜となって連行された時代でした。

それは、イスラエルの歴史にとって、最も困難な時代でした。この中にあって神への信頼が動揺させられるという事態が起きたのです。それはイザヤ書40章の27節にも表れています。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか。わたしの道は主に隠されている、と。わたしの裁きは神に忘れられた、と。」

この言葉から、イスラエルの民が、国を失うという未曾有の苦難の中で、神を疑い、神に不平を訴える光景をイメージできます。そのような中でイザヤは、今一度、民に真の神をより頼むこと、信頼し続けることの大切さを説いています。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れたものに力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与える。」(イザヤ書40章28-29節)

神だけが、真の神だけが、人に力を与えることが出来る方である。人間の力に頼るのではなく、神の力に信頼することでしか、この困難を乗り越えることはできない。イザヤの預言は、経験したことのない苦難を前にして、自らの限界、無力さに打ちひしがれていた人々に慰めを与えるものだったでしょう。

イザヤは、こう続けます。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまづき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章30-31節)

人は、有限な存在です。人間の力には必ず限界があります。若者も疲れを覚え、屈強な勇者でさえ、力を失うという、イザヤの言葉は、時代を超えた真理であると言えましょう。それゆえに、神ではなく、人、あるいは人が作り出すものに信頼を置こうとすることは、むなしいことだとイザヤは訴えます。どんなに栄えているように見えても、力があるように見えても、人間的なものは過ぎ去ります。人間的、この世的な力に信頼を置く者は必ず失望に終わるということです。

このイザヤの言葉は、イスラエルの民だけでなく、我々日本の教会もまた聞くべきものだと思います。プロテスタント教会の伝道が開始されてから160年余りの間に、日本各地で伝道が進められ、教会が建てられてきました。しかし、今日に至るまで、キリスト者は、日本にあってはごく少数の群れに留まってきました。さらに、高齢化の影響などにより、どんどん教勢は低下しています。あと数年のうちに、日本の教会数は激減するという事態を迎える危険性が、しばしば指摘されています。

このような状況の中で、それぞれの教会において、あるいは教区や教団の取り組みとして、さまざまな伝道の努力がなされていると思います。それは、確かに貴いことです。しかし、人の力によってではなく、神の力によって教会は建てられているということを忘れてはならないと思います。教会は、常に神に望みを置くべきであります。たとえ、どのような苦難に直面しようとも、ただ「主に望みを置く」ということを忘れてはならないと思います。

教会の歴史は、常に順風満帆であったわけではありません。むしろ、いつの時代も、教会は、それぞれの時代特有の危機に直面してきたのだとも言えます。しかし、教会は、その都度、神に望みを置くことから立ち上がる力を得てきました。

私たちプロテスタント教会の直接のルーツである宗教改革者たちも、腐敗と堕落の蔓延する中で、ただ神に望みを置き、神の御言葉に強められて、教会の霊的な再建を推進しました。その結果、彼らは教会から破門され、迫害を受けることもありました。しかし、彼らが、そのような地上の権力を恐れなかったのは、ただ主に望みを置いていたからでした。

また私たちの住む日本に派遣されてきた宣教師たちも同様でした。我が国に派遣され、伝道の働きをなした宣教師たちは、もちろん母国の教会から支援を受けておりました。しかし、慣れ親しんだ母国を離れて、異国の地で伝道し、教会を建てることの困難は、容易に想像することができます。そのような困難を乗り越えて、日本に教会を建て上げることができたのは、彼らが、究極的には主に望みを置いていたからでした。

教会が望みを置くのは、この世的な力でも、人間的な知恵でもありません。主に望みを置く時、教会は、困難を乗り越える力を与えられます。成宗教会の現状もまた、人間的な目で見た時、決して楽観的なものではないかもしれません。しかし、2020年の始まりの時、新しい気持ちで、主に望みを置いて歩みを進めたいと願います。

祈りましょう。

主を待ち望む

聖書:イザヤ40章3-5節, マルコによる福音書1章1-8節

私たちはこの年も主イエス・キリストのご降誕を記念するクリスマスを迎えようとしています。救い主の到来は全世界が待ち望んでいることです。昔そうであったように、今も全世界が救いを求めているのではないでしょうか。一体。救いを待ち望まない人々が本当にいるのでしょうか。

旧約聖書の神の民に預言者たちは、長い間語りかけて来ました。彼ら預言者たちは、神の民でありながら、神の掟を守らない人々に、神の言葉を語り続けて来たのです。「主に立ち帰れ」と。神の掟を守り、神に捧げるならば、あなたがたは豊かな祝福を受けるだろう。そして、世界中の人々があなたがたを幸いな者と呼ぶだろう、と。しかし人々は、神に従っても、何の得もない。神の戒めを守って謙って歩いても何の利益があるだろうかと言いました。むしろ高慢な人々に従った方がいいではないか。彼らは悪事を行っても何の損もしない。むしろますます繁栄しているではないか。神を試みても罰を受けていないではないか、と。

私たちはどう思うでしょうか。この世界は貧しい者がますます貧しくなり、力ある者がその力を最大限に生かして富に富を積み上げ、力を増し加えているように見えます。戦争さえも、力を持つ者が起こしている。もっと力を持つために。そして戦いの最前線に出されるのは貧しい人々、戦争で家を失い、土地を追われるのも貧しい人々なのです。そのような人々と、多くの力を握り占めている人々とでは、命の値打ちが違うのでしょうか。権力者の命は金やダイヤモンド。そして貧しい人の命はゴミのようなものなのでしょうか。

主の憐れみが深ければ深いほど、主の怒りは火山のように高く、激しく燃え上がらないでしょうか。こうして戦争に次ぐ戦争が起こるのです。荒廃に次ぐ荒廃に人々は心も荒れ果てて行きます。それでも、地上に僅かな人々が残される。わずかな人々、それは主を畏れ敬う人々です。男であれ、女であれ、身分の高い者であれ、取るに足らない小さな者であれ、強い者であれ、力尽きて倒れる者であれ、主を畏れ敬う人々が残されています。そして、それも神の御業に違いありません。人は皆罪を犯して、神の恵みから遠く離れてしまっているので、神がその人を慈しんでくださらなければ、だれも神を仰ぎ見ることもできない。ですから、神を畏れ敬うことも、皆神から心にいただく賜物ではないでしょうか。

私たちもまた、こうして何の取り得もない者も、ある者も、こうして主の日の礼拝を守るために招かれました。いても立ってもいられないほど、忙しい時代に、また「何かしなければ明日が心配だ」という時代に、不思議にも私たちは神に従う者とされている。これこそは、私たちにとって福音の初めです。福音、神の喜ばしいメッセージを聞きましょう。

マルコ福音書は書き出しの言葉を次のように始めました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。」キリストは「ダビデの子」と呼ばれたり、「アブラハムの子孫」と呼ばれたりします。キリストは、アブラハムの子孫である神の民の中にお生まれになって、神に背いている罪人を救ってくださる救い主でありますが、マルコが強調しているのは、この方は神の子であるということです。なぜなら、罪人を救うことは神の力でなければできないことだからです。神は背く者の傲慢不遜を大目に見たり、甘やかしたり、なさる方では決してないのですが、その一方、ゴミのように打ち捨てられている小さい者を、お見捨てになっておられるのではありません。預言者たちが繰り返し語っているように、神は「不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜わる」方でありますから。

そこで、苦難の時に、何の希望も見いだせない時に、なお主を待ち望み、「あなたこそ主、正しくお裁きになり、私に落ち度があっても、どうぞ憐れんでお救いください」と祈り求める信仰こそ大切なのであります。神は荒れ野に使者を遣わすことを約束されました。荒れ野。わたしたちは、荒れ野というと、もちろん文字通りの厳しい気候風土で荒廃した場所を思い浮かべることもできましょう。しかし、むしろ荒廃しているのは、自然だけではなく、戦争によって、また人の強欲、傲慢、心無さによって破壊された自然や、農耕地や、建物なのではないでしょうか。さらに荒廃しているのは、人々の悪意に囲まれて、踏みにじられて、すっかり貶められてしまった心、自分の価値など全く見い出せないほど地に落ちた人間の魂の荒れ野ではないでしょうか。

神は悪事を決して見逃されない方であり、しかしまた、罪人を憐れんで救ってくださるために、私たちの思いをはるかに超えた恵みの業を備えてくださいます。この方が御子にこう言われたのです。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう」と。そこで、神の子イエス・キリストの福音の初めに、語られるのは、キリストに先立って荒れ野に遣わされた使者。すなわち洗礼者ヨハネのことであります。

彼に与えられた使命は、救い主のために道を整えることでした。私たちの人生の荒れ野。そこにはいろいろな道があります。細い道、曲がった道、崖に沿った道、谷間の道、鬱蒼とした山中の道。救いに至る道はどこか、探すうちに迷路に入ってしまうかもしれない私たちの人生です。神から遣わされた者の声は、そのとき荒れ野に響き渡ります。その声は「主の道を整え、その道筋を真っすぐにせよ」と叫ぶのです。いろいろな道があるのです。しかし、主の道は一筋。それは救いに至る道です。その道を真っすぐにしなさい。

「救われるために何をしたらよいのですか。」それは複雑なことではありません。もったいぶって、「それはなかなか難しい」と言っている人がいます。ああでもない、こうでもない、とさんざん議論し、「あれをしなさい」、「これをしなさい」と勧めて人を引き回す人がいます。そうではない。そんなことは聖書には書いてないのです。主の道は真っすぐ、だれでも見出せる広い道に整えなさい、と命じられています。でこぼこもなくし、歩きやすくしなさいと言われているのです。

私たちは多くの人々が長命を生きる時代にいます。昔の人々と比較して、世の中何が変ったかというと、いろいろありますが、何と言っても多くの人々が長生きできるようになったことが100年前、200年前、500年前と全く違うところだと思います。昔の人は子供を沢山授かりましたが、育って成人になる確率は決して高くなかったと思います。戦争の危機に加えて、ペストのような疫病が突如猛威を振るったからです。宗教改革者ルターもカルヴァンも子供たちに先立たれました。そして本人は60代で亡くなりましたが、それでも長生きした方ではないかと思います。

自分はいつまでも生きられるわけではない、と思う時、私たちの心に一筋の道が与えられるなら、私たちは非常に幸いです。自分の救いのために最善の道を日々祈り、選ぶでしょう。また、自分が先立つ時に残される人々のために、最善の道を日々祈り、自分の力で出来ることはして、彼らのために真心を尽くすでしょう。それに対して、いつまでも生きられるという想定をするなら、一筋の真っすぐな道よりも、寄り道をしてみようと思うでしょう。面白いことの追及が最大の目的となり、迷路遊びに取りつかれ、ついに迷宮入りとなってしまわないでしょうか。真に残念なことです。

洗礼者ヨハネは、文字通り荒れ野に現れたと思われます。便利で華やかな都会ではなく、不便で生活も厳しい地方に生活しました。ヨハネの服装や食べ物については、預言者として禁欲的な生活を進んでしたのだと考えることもできますが、彼の生活ぶりはこの時代の農耕や牧畜をして生活する人々の生活と変わりなかったというかもしれません。ヨハネは人々に質素な禁欲的な生活を勧めようとしたのではないのです。ただ私たちもそうですが、立派な風貌の人が立派な身なり出で立ちで現れると、何となく偉い人のように思ったり、話を聞く値打ちがあるように思ったりするものです。しかし、ヨハネは普通の庶民の貧しい身なりをしていました。そしてそれにも拘わらず、人々が彼の許に集まるほど、ヨハネの宣教は力に満ちたものだったことが分かります。

彼は救いの道を真っすぐに整えます。救われるためにはどうしたらよいのか。ヨハネは罪の赦しを求めている人々に、悔い改めを迫りました。すなわち、「私は神さまに背いて罪を犯しました」と告白することを求めました。この告白を公に行った人々に、ヨハネは洗礼を授けたのでした。ですから、洗礼を受けるためにしなければならないことがある訳です。それは神と人の前で(公に、ということの意味です)罪を告白することです。こうして人々は彼の宣べ伝える言葉を受け入れました。その人々の数は、ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けたと言われますから、本当に相当な人数になったと思われます。

人々は神から遣わされたヨハネを非常に尊敬したと思われます。神から遣わされ、神の御心をその通り人々に教える預言者。洗礼者ヨハネもその通りの忠実な人でありましたから、人々は彼を尊敬したことは言うまでもありません。牧師が一生懸命福音を宣べ伝えているのは、聞く人に、福音の中心であるイエス・キリストを心に受け取っていただくためであります。別の言い方をすれば、福音を聞く人が福音を通して、主イエスが自分を救いに招いてくださっていることを知るためであります。ところが、聞く人は、イエス・キリストが自分を招いておられると感じないで、○○牧師が自分を招いておられると錯覚してしまうことがあるのではないでしょうか。

バプテスマのヨハネもそのような間違いを心配していました。救いの道は神の子イエス・キリストの御名にこそあるのに、「ヨハネ先生は素晴らしい。救いはヨハネ先生の言葉にある!」と勘違いしてしまい、「この先生について行こう」ということになってしまうのではないか。洗礼者ヨハネはそのことを大変心配しました。そこで、彼は救い主について、次のように予言したのであります。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

来るべき救い主、キリストは、力と地位において自分よりはるかに優れているので、ヨハネは一般的な表現(ここでは、「履物の紐を解く」という奴隷の仕事を例にとりました)を用いて、自分との差が絶大なものであることを教えました。そうしてヨハネは、キリストの栄光をほめたたえ、キリストに比べれば自分は無に等しいものだと述べているのであります。ヨハネがこのように証しした通り、教会の牧師も罪を告白する者に対して、形式として、目に見える形でバプテスマを授けるのです。これはキリストが自ら定められた聖礼典であるので、教会は聖餐式と同様に、この形式を固く守っています。しかし、この形式に表された内容、内実をお与えになる方は救い主、イエス・キリストその方であります。

ヨハネは宣言しています。自分は外的な(目に見える形のことです)バプテスマを授ける者に過ぎない。けれども、やがて来られるキリストは聖霊によってバプテスマを授けてくださる方なのだと。

今成宗教会は、長村牧師以後、今に至るまでの時代の記録を編纂しようとしており、他の教会の記念誌にも目を通して参考を得ております。それらを見ると、今80歳前後の世代の方々がお若い頃は、日本は戦後のキリスト教ブームがあり、多くの人々が洗礼を受けたようでした。時代は変わって行きます。しかし、主の体の頭であるイエス・キリストは変わることがありません。だからこそ、私たちがよろよろしてもグラグラしても、この方に救いの望みをかけることができるのです。本当に主の教会に結ばれる人々は、移り行く時代の牧師に、ではなく、変らない主の体に結ばれているのです。この恵みに感謝してクリスマスを迎えましょう。

 

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。待降節第三主日の礼拝に私たちを呼び集めて下さり、ありがとうございました。この日も恵みの御言葉をいただき、讃美と感謝を捧げることができました。 クリスマスを迎えようとしているこの時、私たちの心と体と魂を、御子をお迎えするにふさわしく整えてください。日頃のあわただしい心、落ち着きのない考えを鎮め、感謝と祈りによって一週間を過ごすことができますように。

私たちの地上の命を永くしてくださり、主の恵みを証しする機会を日々与えてくださることを感謝します。どうか若い人々に、次の世代の人々に慰めと励ましと、生きる勇気と知恵の源であるあなたをイエス・キリストを通して紹介することができますように。

クリスマスの準備が沢山ございますが、奉仕者が限られた力を精いっぱい捧げております。どうかあなたが喜んで助けてくださいますように。健康を整え、クリスマス主日聖餐礼拝、祝会、そしてイヴ礼拝を捧げる私たちに、恵みを豊かにお与え下さい。多くの地域の方々の間に、あなたの御名が高く崇められますように。福音が宣べ伝えられますように。そして病気のため、ご高齢のため、礼拝に参加できない方々の上にもクリスマスの喜びと慰めをお与え下さいますように祈り願います。

最後に私たちの教会に集う者すべてのうちに、その背後にあるご家族のうちに、どうか福音の光が届きますように。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。