クリスマス聖餐礼拝
聖書:イザヤ11章1-10節, ルカによる福音書1章26–38a節
今日、クリスマスをお祝いする主の日の礼拝に、今年も皆様と共に集められましたことを感謝します。クリスマスに教会に私たちが集ったのは、主がお招きくださったのではないでしょうか。私たちに良い知らせを聞くために、私たちはここにいます。その良い知らせはおよそ二千年前、天使がマリアに遣わされたことに始まりました。神さまは人間を救いたいと思われました。人間を本当の幸せに招きたい、これが神さまの願いでありました。
しかし、思い上がった人々は神さまを離れているので、本当の幸せを理解しません。だから良い知らせを無視したり、軽蔑したりするでしょう。自分こそが値打ちがあると思っている人々は、他の人が語ることに耳を傾けないのです。「何だ、そんなことか」と右から左に捨ててしまうのです。預言者たちはどんなに呼びかけたでしょうか。悔い改めて、神さまに立ち帰りなさいと勧めても、聞く耳を持たなかったのです。
そこで神さまは救い主を世に遣わすために、愚かな方法を選ばれました。「愚かな」というのは、神さまから離れて生きる人々には「そんなバカなことがあるだろうか」と思える方法なのです。神さまは、そのように他の人を愚かだと思い、軽蔑して人々をご覧になって、そうではない人々を救いに招こうとされたのです。ナザレの町にマリアという人がいました。ダビデの子孫の家系に所属するヨセフと婚約をしていました。まだ二人は一緒になっていませんでしたが、当時のしきたりでは婚約しているということは、既に妻であるも同然でした。神さまはこの名もないおとめマリアに天使を遣わして良い知らせをもたらしたのです。それは神さまが、小さき者、へりくだった者、心優しい者たちに、ご自分を顕わすためでありました。
その一方で、神さまは御自分の秘密の隠し事を、高慢な者、軽蔑する者には知ることができなくなるようになさる方であることに、私たちは注意しなければなりません。わたしたちが名もない小さな者、へりくだった者、心優しい者であるならば、天使の伝えた良い知らせ、福音を聞こうではありませんか。
天使は言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」おめでとう、と天使は言いました。これは「喜びなさい」という意味でもあります。喜びなさい。これは神さまの私たちへの命令ではないでしょうか。しかし、なぜ喜ぶのでしょうか。私たちはしばしば分からないのです。喜んで良いのかどうかさえも、分からない者なのです。天使は呼びかけます。なぜなら、あなたは恵まれているから。またはあなたは幸せな人だから、と。私たちは今目に見えることしか分かりません。あるいはせいぜい過去に起こったことから物事を判断する位しかできません。前代未聞の事件や災害が起こると、全く戸惑うばかりです。このように私たちの能力は限られているので、実際、自分個人についても、また家族、社会についても分からないことばかりです。
しかし、天使は言うのです、「あなたは神さまに恵まれているのだから、喜びなさい」と。ここで私たちは自分の理解をはるかに超えたところに神さまを見上げることができるでしょうか。喜びなさい。あなたは恵まれているから、という福音は、ここで早くも二つの道を示しているのです。その一つは、「わたしは恵まれている」と信じて喜ぶ道です。そしてもう一つは、「わたしは恵まれているかどうか分からないから、喜べない」という道です。そして、たとえ積極的に「信じない」という決断をしなくても「信じられない」ということでは喜べない。それは不信仰への道なのです。
さらに天使は言いました。「主はあなたと共におられる」と。この言葉こそ、喜べと勧める根拠です。あなたは幸せだ、と断言する根拠なのです。神さまが人々と共におられるということは、人々にとってどういうことなのでしょうか。考えてみましょう。創世記の3章に人間の堕落の物語が記されています。禁断の木の実を食べたアダムとエヴァの物語です。私たち自身も十分に理解していない訳ですが、神さまはなぜか食べてはならない木の実を置かれました。神さまはたくさんの食べて良いものをお与えになったのに、人は神さまの約束を破って食べてはならないものを食べたのです。その結果、二人に何が起こったかと申しますと、人は神さまを避けて隠れました。すなわち、主が共におられることを喜ばない者となったのです。神さまに隠れて、神さまから離れて生きる者になったということです。
それがどのような不幸をもたらしたかということです。人が神さまから離れているということは神さまの助けを求めることができないという不幸です。しかも思い上がっている時には、自分の力を信じて助けなどいらないと公言してはばからないのです。一人の人間の一生を考えれば、生まれてから死ぬまで思い上がっていられる人はいないと思いますから、必ず、悔い改めて神さまに助けを求めるチャンスはあるのですが、不幸なことに世界中どこでも思い上がった人々が次々と現れるので、まるで人類はいつでも思い上がって神から離れていても大丈夫だという錯覚が人々を支配している有様ではないでしょうか。
しかし、幸いなことに、誰も彼もが鬼の首を獲ったかのように得意満面に高ぶっている時代は、日本の社会では過ぎ去って、多くの高齢者が(高齢者はいつの時代でもいましたが、今平和が続いたために、長生きが出来た結果であります)労苦して生きているのが誰の目にも分かるようになりました。また子供の虐待、家庭内暴力も(昔からあったものが少子化のためにより顕在化しているのではないかと思います)社会で取り上げられるようになりました。幸いなことです。なぜなら、だれもが、少なくともその一生のどこかで、救いの手を求めて激しく叫びたいようなところを生きていることが分かるからです。その時、叫び求める魂の祈りを聞いてくださる真の神さまへの信仰が、その人にあるのか、ないのか、そのことは真に大きな分かれ道、正に生死を分ける違いなのです。
エフェソの手紙1章1~2節に、使徒パウロはエフェソ教会の信者たちに次のように挨拶しました。352頁「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」パウロの挨拶も天使のマリアへの挨拶と良く似ていることが分かります。神が共におられるということは、神の恵みと平和がここにある。なぜなら、神の助けが私たちにあるから、ということなのです。本当に神を信頼するところにこそ、本当の喜びがあります。
さて、マリアと天使の話に戻りましょう。マリアは天使の挨拶の意味を思いめぐらしていました。それは人間の知恵では知ることのできない、神さまの秘密のご配慮、ご計画であったからです。神さまは御自分の愛する御子を世に遣わして下さり、御子によってわたしたちを心にかなうものとしてくださるご計画を実現してくださいました。つまり、神さまは御自分に背いて離れ去っていた私たちをただ恵みによって受け入れてくださるのです。そして、かつては神さまの敵対していたわたしたちに、救いの恵みを差し出してくださるのです。
天使は言いました。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」それはマリアばかりでなく、すべての人の理解をはるかに超えることでありました。しかし、これをなしてくださるのは神さまの聖霊なのだと天使は答えます。「聖霊があなたに下り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六カ月になっている。神にできないことは何一つない。」
主の聖霊がマリアに来てくださり彼女を覆ってくださるとき、マリアは自分の理解を超えた天使の言葉を福音として受け入れました。真に神にできないことは何一つないことをマリアは信じました。そして、すべてをご存じであり、ご支配なさる神さまだけが本当に良いことを成し遂げてくださることを信じて従う者として、自分を言い表したのでした。
マリアに与えられた恵みを、私たちも思いめぐらしましょう。私たちも主イエス・キリストを救い主と告白する教会の群れに連なって参りました。このことが聖霊の働きであることを信じるならば真に私たちは幸いな者です。マリアはイエスさまが救い主として受ける苦難を知りませんでしたが、聖霊の助けによって受け入れました。そして私たちも、イエスさまが罪の贖いのために執り成しをして下さったことを信じることができたのは、主の聖霊の助けがあったからです。主を信頼し、主に結ばれて共にいると信じることの幸いがここにあります。私たちが幸いであるのは、自分が救われて安泰な人生が保証されているからではないでしょう。主に結ばれている者の幸いは、むしろ、主に結ばれて多くの人々の救いのために働く聖霊の働きに参加させていただけることの幸いなのです。
成宗教会の墓所にはマタイ福音書1章23節のみ言葉が書かれています。「神は我々と共におられる」と。成宗教会の誇り。それはただただ神さまがここに、信者と共にいらしてくださったということに尽きると思います。どんな良い業も、どんな名声も、どんな働きも過去に去って行きます。自分を誇っている人々は、主が共におられることを誇ることは難しいでしょう。ただ、主を誇り、主を喜びとする人だけが、主に喜ばれて主の体に連なる者であり続けるでしょう。
そしてその人は弱いときにも、強い時にも主に用いられるでしょう。丈夫な時と同様に、また病む時にも不思議に用いられるでしょう。若い時に私は学校の教員でした。中年以後に献身して教会に仕えしました。生きている限り、主の恵みを宣べ伝えることは伝道者の喜びです。しかし、だれも年老いて行くこと、例外なくやがて世を去ることは主の御旨です。牧師を辞めても、主に仕える者として死に至るまで忠実であることは、私の目標であり、またどなたにも強くお勧めする目標であります。そうすれば、主はいつの日にも皆さんと共にいらして祈りを聞いてくださり、助けてくださると思います。そのために、私はまだ信仰を言い表していない方々にも強くお勧めします。謙って小さくなられ、世に降られた神の御子イエス・キリストによって明らかにされた神の恵み、罪の赦しを信じて自らを低くし、悔い改めて、キリストに結ばれる者となりますように。そして次世代の伝道牧会者を迎え、この群れに連なり、共に喜んで主に仕える者となってください。祈ります。
御在天の父なる神さま
クリスマスを祝う主の日の礼拝を感謝し、御名を褒め称えます。どうか集められた私たちの讃美を受け入れ、祝福をお与えください。この教会にいつの日も希望を与え、恵みの導きをお与えくださいました。私たちは多くの働きをして、良い時も苦しい時もあなたの教会を建てるために労苦された教師や信徒の方々を既に天に送りました。そして共に労苦した思い出と感謝が残されています。あなたの御子の執り成しによって罪赦され、天から聖霊の助けをいただいて来ましたことの結果であります。
私たちは東日本連合長老会に加盟して共に学び、共に歩んで参りましたことを感謝します。皆、日本の教会、日本の社会の困難を反映して、様々な苦労をしております。しかし、共に悩み、共に労苦して共に教会を建てて行くところに、主が共におられ、どうか喜びが与えられますように。来年度いらしていただく先生方のために、あなたの特別な顧みがございますように。そのお働き、ご健康が祝されますように祈ります。また成宗教会にあなたの御心を示し、私共が善き準備をなすことができますようにお助け下さい。特に長老会の働き、ご健康をお支えください。信徒のお一人お一人があなたの助けによって祈りを篤くし、あなたの広く深い御心と愛とを知って絶えず励まされますように。
本日は聖餐に与ります。どうぞ主イエス・キリストの恵みに恐れと感謝を以て与るものとならせてください。
そして、礼拝後の愛餐の時を感謝します。奉仕するすべての者を祝してください。また明日予定されていますイヴ礼拝の行事を祝福し、助け導いてください。このクリスマスも病気その他の事情で礼拝に参加できないすべての方々の上にあなたの慰めと慈しみがありますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。