死は勝利にのみ込まれた

聖書:イザヤ2579節, コリントの信徒への手紙一155058

 私たちの国にはお盆という習慣があって、これは仏教の慣わしと思っていましたが、外国から伝来した元々の仏教の教えや習慣ではなく、実は先祖を崇拝する日本古来の伝統なのだそうです。この季節はそういうわけで、死んだ家族のことを思うことと、日本が太平洋戦争に敗れた終戦の年を思うこととを両方思い起こす時になっております。罪もない多くの人々が戦争によって命を失ったのですが、人間は、「どうしてあの人々は死んだのか」ということを考えます。この戦争を起こしたのは誰だと問うのです。すると、自分たちばかりが責められることを避けたいものですから、他に理由を探したくなるのです。たとえば、部下だった人は上司が悪いと言うのです。上司は更に上に立つ人が悪いと言います。例えば原爆投下の話で言えば、原爆を落としたのは、そうしないと日本が戦争をやめなかったからだと主張も出て来ます。このように、人はどうしても「自分は悪くない」と考えたいようです。しかし聖書の教えは一貫しています。

ローマの信徒への手紙に、このように言われているのです。3章23節。277頁下。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、(24節)ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」私は成宗教会に務めを与えられまして17年目になります。振り返ってみる時に、もし自分のして来た働きということを判断の基準にして考えるならば、本当に良い結果は、良い働きをしたからだということになり、良くない結果は、良い働きをしなかったからだということになります。

すると、振り返って満足するどころか、考えれば考えるほど、自分の働きの乏しさが思わされるばかりになるでしょう。17年もここにいたのだから、もっとああすればよかった。こうするべきではなかったということが沢山あります。どんどん反省して行ったら、退任を控えた教師である私としては、落ち込むばかりではないでしょうか。いやいや、ここで落ち込んではいけない。そこで、自分は悪くなかったと思いたいために、働きの乏しさをこの時代のせいにするのでしょうか。それとも、他人のせいにするのでしょうか。

しかし、結論を言うならば、全くそうはならないのです。なぜなら成宗教会にいる私たちは、ここで礼拝をし、ここでいただく福音によって主の教会に結ばれているからです。主に結ばれているわたしたちは、罪の赦しに結ばれているということなのですから。過去を振り返ってみると、心痛むことがありました。悔やまれることがありました。その度にだれが悪いのか、と教会の中で問いたくなることもあったと思います。しかし、わたしたちには教会の告白があります。これをもって代々の教会が建てられて来た信仰告白です。前回私たちは、使徒信条で告白している「罪の赦しを信じる」ということはどういうことかを学びました。

わたしたちはどう生きるべきかを神さまから教えられています。律法によって教えられているのです。律法とは、一つには神に対する戒めであり、もう一つは隣人に対する戒めであります。私たちは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と教えられています。また私たちは、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられています。しかし、律法を知っていながら、律法を守ることができない者であります。このような律法を神さまからいただいているからこそ、私たちは、それを守っているとは決して言えない自分を知っているのです。

キリストは律法を守ろうとして守ることのできない罪人のために死んでくださいました。それは罪人の代わりにその罪の罰を受けてくださって、私たちを罪から解放してくださるためだったのです。そして、キリストは復活されました。このことは、キリストの身代わりの死を神さまが受け入れてくださったことを証ししています。教会は、わたしたちのために死んで復活してくださったキリストを信じ、キリストに結ばれて終わりの日に復活する約束を受けた者の群れです。

さて本日は、使徒信条が告白する「からだの甦りを信じる」ことについて学びます。体と言いますと、当然のことながら私たちは、この自分の肉体を思います。今は写真やビデオやいろいろな記録手段によって自分の姿形がいつまでも残る時代です。幼子だった時のあどけない姿や若い頃の写真。その一方で同じ人とは思われない年取った自分等々。この同じ体が、人の姿がどんどん変わって行くことを考えれば、このままで、この姿かたちのままで、天国に入れられるということはあり得ないだろうと思うのです。

「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」と聖書に言われます。肉と血とは、この地上の生活を生きる体です。それは年老いてやがては朽ちて行くより他はありません。聖書の時代の人々はすべての人々は死んで葬られるが、終わりの日に復活させられる。そして裁きを受けなければならないと信じていました。イエスさまもヨハネ福音書でこう教えておられます。ヨハネ5章28-29節です。172-3頁。「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。」

だからこそ、主イエスさまは別のところで、こう命じられました。マタイ10:28です。18下「人々を恐れてはならない。(中略)体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」

イエスさまが「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われた、本当に恐れるべきお方とはどなたでしょう。その方こそ、真の造り主であり、イエス・キリストの父である神さまです。人間を愛して止まない方、しかし、同時に罪を憎んで止まないその方です。その方の御心、その愛こそが、イエスさまを世の罪を贖う救い主として世にお遣わしになりました。

聖書はこのことを伝えているのです。つまり、イエス・キリストの罪の赦しに結ばれている者は、罪の赦しを約束されている。これが福音です。今日の聖書15章51節でパウロが告げている神秘とはこのことではないでしょうか。終わりの日に、「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられる」というのです。52節です。「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちないものとされ、わたしたちは変えられます。」終わりの日に一瞬のうちに起こることを、ラッパという表現でパウロは伝えました。すなわち、軍隊の隊長がラッパの音とともに兵隊を集めるように、主はわたしたち生きて地上にいる者と共に、眠りについている者(すなわち死んだ者たち)を復活させ、世界の隅々から集められるのです。

この言葉が語られた当時は福音が伝えられた世界は限られた地域でした。そして使徒パウロたちも、イエス・キリストが来られる終わりの日は近いと緊張していたようです。しかし、今や福音は、一つの民族だけでなく、全世界の人々に宣べ伝えられています。ですから、終わりの日にはすべての人が呼び集められ、神の裁きの御座に出頭しなけばならないでしょう。生きている者も集められるばかりでなく、死者も墓から出て来るよう呼びかけられるでしょう。更に、乾いた骨とほこりにも命じて、再び初めの形と霊とを取らせ、人皆が生き返らせられて、キリストの面前に直ちに出頭しなければならない時が来るというのですから。それは、正に天地を揺るがす大音響となるでありましょう。

しかし51節で「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられる」というのは、呼び集められるすべての人のことではありません。それでは、「わたしたち」とは誰のことでしょうか。それはキリスト・イエスに結ばれている人のことです。その他の人々について語られているのではありません。52節。なぜなら、「ラッパが鳴ると、復活して朽ちない者とされ、変えられる」というわたしたちは、朽ちるからだのままでは、神さまの前に出ることができない者ですが、キリストに結ばれているので、神さまの御前に立つことができる者に変えていただけるということなのです。

53節。「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」と言われているのは、朽ちるからだのままでは、神さまの前に出ることができない者が、朽ちないもの、死なないものを着て、神さまの御前に立つことができるということです。朽ちないもの、死なないものとは何でしょうか。それは、イエス・キリストの義、すなわちキリストの義しさであります。このお方は真に神の子であり、同時に人の子としてわたしたちと同じ肉体を持って生きてくださいましたが、神さまに忠実にその使命を果たされた方です。パウロはこのようにキリストの義しさを朽ちない衣という言葉によって表しました。わたしたちはキリストの義しさを衣のように自分の上に着て、罪赦され、義しい者とされるでしょう。

イエスさまは人間の罪を負って十字架に死なれました。私たちの死を苦しまれ、わたしたちの下るべき陰府に下ってくださいました。そして死に勝利されました。神さまがキリストの贖いを義と認められたからです。死は勝利にのみ込まれた、という表現は、今日読まれた旧約イザヤ25章8節からの引用だと言われています。そこには、のみ込むという言葉ではなく、「死を永久に滅ぼしてくださる」という表現がなされています。それは全滅させる、絶滅させるという意味なのです。

死よ、お前のとげはどこにあるのかと、歌われているのは、キリストの勝利をほめたたえるためです。死のとげは罪であり、罪の力は律法であります。しかし、人々は考えるかもしれません。「律法がなければ、罪もなかったのではないか。悪いのは律法があることではないか」と。しかし、それでは、「神を愛しなさい」と、言われなければよかったのでしょうか。また、「隣人を愛しなさいと、言われなければよかったのでしょうか。そんなことはあり得ません。それではまるで、何も知らずに泣きわめいている赤ん坊が、何も知らないまま大人になって、傍若無人にふるまい、人が傷つこうが気付けられようが、一切自分が悪いとは思わなくて一生が終わった方が良い、と言っているようなものです。愛そうとするからこそ、多くの失敗、過ちに気づき、悲しみも苦しみも経験することをわたしたちは知っているのです。

わたしたちは自分の罪を知る者だからこそ、キリストに出会うことができました。だからこそ、悔い改めへの招きに従う者となりました。だからこそ主イエス・キリストに結ばれて、終わりの日に復活にキリストの義しさに結ばれて、罪に勝利することができます。使徒信条で告白している「からだのよみがえりを信じる」とは、この希望をいただいて、今与えられている地上の命を大切に生きることです。どんなに悩み多い日々であり、どんなに心に責められることの多い人生であっても、わたしたちは死にのみ込まれることは決してないのです。主イエス・キリストが死の勝利してくださったのですから。この確信に生きましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を賛美します。厳しい暑さの中、八月第二の主の日の礼拝に、わたしたちを呼び集めてくださり、わたしたちは恵みの御言葉をいただきました。足りない者、罪深い者を慈しみ、励まして、キリストの恵みに結んでくださいました。過ぎし日々の歩みを思い感謝に堪えません。

わたしたちの教会に与えられて来た恵みを思い感謝いたします。78年の歴史を歩み、この地域とこの時代に在って福音を宣べ伝える貴い務めをいただきました。私は8代目の教師として遣わされましたが、本当に至らないことが多かったにもかかわらず、教会に忍耐を与えて下さり、共に助け合う教会に育ててくださったことを感謝します。あなたが聖霊の助けによっていつも共にいらして、支え導いてくださったことを思います。

わたしたちの群れは、来年度新しい教師を迎えようとしています。福音を宣べ伝えるためにこれまで用いて下さった事を感謝し、これからもこの教会を生かし用いてくださいますように祈ります。成宗教会は太平洋戦争が起こる前に伝道を開始しました。戦争中の迫害と困窮の中、あなたは牧師とわずかな信徒を励まし忍耐させてくださったからこそ、教会は残されたことを思います。今はその時代を知る人々はほんのわずかになりましたが、困難を共に忍んでくださった主がここにおられたことを感謝します。どうか、これから迎えようとしている新たな試練の時代にこそ、これまでにいただいて来た恵みを振り返って勇気と知恵とを与えられますように。

小さな群れよ、恐れるな、御国をくださることは父の御心である、と御言葉によって励ましてくださる主に感謝します。どうか、高齢の会員を励まし、信仰を強くし、後の世代のために祈りの務めを果たすものとならせてください。どうか若い世代、勤労世代の会員を励まし、求道者の方々と共に、家族とともに、御言葉によって道が開かれることを信じる者とならせてください。

来週は教会学校の行事に合わせて合同の礼拝を捧げます。どうか、心を合わせて主を礼拝し、主を喜び、御言葉に養われますよう、お導きください。午後の教会学校の活動を祝してください。また、9月の音楽会、10月のバザーに向けての準備を導いてください。今日の長老会にあなたが共にいらして、御心をなしてください。すべてを御手に委ね、感謝して、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。