貧しい人に福音を

成宗教会待降節第二主日礼拝説教

聖書:イザヤ55章1-11節, ルカによる福音書4章14-21節

 クリスマスを待つこの時期、今年も沢山の、驚きというより愕然とするような事件がありました。しかしそれでもこの社会にあって、いつも変らない主の御言葉を聞くことができることは本当に幸いなことです。そして成宗教会にいるわたしたちは、変らない教会を、これからの時代にも建てようとしております。このために、牧師も長老会と共に教会員の方々と共に祈り、労苦している訳ですが、この労苦もまた本当に幸いなものです。なぜなら、わたしたち一人一人は、本当にゆとりのない時代に生きており、経済的にも余力がなくなっていますし、また時間的にも日曜日にもゆっくりできない方々、体力的にも教会に足を運べない方々が多くなっているからです。

しかし、それでも、何とか次世代にも教会を残したいと願うならば、主はわたしたちの願いをお聞きくださるでしょう。この願いは考えてみれば、貧困な願いではない。ゆとりある願い、むしろ豊かな贅沢な願いなのではないでしょうか。わたしたち、お金に乏しくとも、時間に乏しくとも、体力に乏しくとも、豊かな贅沢な願いを持つことができる。それはどんな願いでしょうか。それは、教会を建てたいという願いです。わたしたちはたとえ先日まで青々として木々の葉のようであっても、いつの間にか紅葉して、人の目を楽しませ、きれいと言われる葉のようであっても、やがて風に吹かれて散って行く花のようであっても、天の父、そして教会の主には覚えられ、喜ばれる名前を持っているのですから。

教会は、外の世界から見ると、何の目的で立っているように見えるでしょうか。教会では讃美歌が歌われる。コーラスの愛好家が集まっている。昔は書道や華道に優れた方々も沢山いらしたことを思い出します。また、12月になると、社会奉仕を実践している救世軍の社会鍋が懐かしく思い出されます。また教会は貧窮者を助けるために、また少数者の立場に立って権利を擁護するためにあると思われるかもしれません。そのどれも、教会の中で、全く否定されたり、除外されたりすることはないと思います。しかし、外の世界から見えるこのような活動のために、教会が建っているのではありません。

教会の目的は、神の言葉に従い、神の言葉を宣べ伝えることにあり、教会は神の言葉のために建てられるのです。それでは、神の言葉は教会に大切にされて来たのでしょうか。わたしたちが手にしている聖書。当たり前のように読むことができる聖書ですが、実は500年前、宗教改革が起こる、その前の数百年以上、人々は神の言葉をほとんど失っていた時代が続きました。聖書はラテン語で、一般の人には目に触れることはおろか、聞いて理解することもできませんでした。讃美歌でさえラテン語で、一般会衆が歌うことはできなかったのです。

そこで、主は宗教改革者たちを起こし、彼らを励まして、聖書をそれぞれの自国の言葉に翻訳させるように導かれました。そのおかげで世界の人々は聖書がラテン語ではなく、自分の分かる言葉で読まれるのを聞きことができるようになりました。今から500年前のことです。ルカ福音書は、ガリラヤの町、ナザレで安息日に会堂に集まった人々に、イエスさまが皆に分かる言葉で聖書を読み、解き明かされたと伝えましたが、それと同じように、わたしたちも聞くことができるようになったのです。わたしたち現代人は、宗教改革の時代の神学者たちの労苦と献身の働きを経て、初めて聖書を開き、イエスさまの時代と同じ御言葉を聞くことができるようになったわけです。この恵みに感謝して、福音に耳を傾けたいと願います。

今日読んでいただいたイザヤ書55章1節。「渇きを覚えている者は皆、水の所に来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、値を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。」神さまは貧しい人々に呼びかけておられます。飢え渇いている人々。神さまは彼らにパンを与えようとしておられるのです。ぶどう酒と乳も。神の言葉によって神さまは貧しい人々を御自分に招いてくださっています。神さまのくださるパンは神さまの恵みとして無償で与えられます。神さまのくださるパンこそ、あらゆる良いものの源でありますから。

イザヤは、神さまがダビデに約束した慈しみをお忘れにならず、永遠の契約を結んでくださると預言しました。この契約によって約束された慈しみは、神さまの民イスラエルばかりでなく、神さまを知らなかった世界中の諸国民が神さまの備え給う食卓に招かれることです。それでは、どのようにして世界中の人々は招かれたのでしょうか。わたしたちはどのようにして神さまの穀物、神さまのぶどう酒、乳など、あらゆる良いものの食卓に行くことができるのでしょうか。

それはみ言葉によってです。今日の新約聖書はイエスさまがガリラヤで伝道を開始されたときの様子を語ります。4章14節。「イエスは‟霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一体に広まった。」霊の力は、すなわち聖霊の力です。神さまの霊によらなければ、神さまの思いを人々に伝えることは決してできません。イエスさまは神さまの霊に満ちあふれて伝道を開始されたのでした。それは人々を悔い改めさせ、御国に招く力でした。ところで、ユダヤ人の家族の住むところには、必ず会堂がありました。人々はこの会堂に集まって礼拝を献げ、教えを受けるところでもありました。イエスさまは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられたのです。

イエスさまは御自分の故郷ナザレの会堂で、聖書を朗読しようとしてお立ちになりました。(昔は身分の高い人は座り、身分の低い人は立っていました。)イエスさまが立ち上がられたのは、聖書に対する敬意を表すためでした。聖書を解きあかそうとする人々が、畏れ敬う態度で聖書を扱うことは、聖書の尊厳にとってふさわしいことだからであす。神の言葉に対して姿勢を示されたのです。

それは預言者イザヤの言葉でした。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イザヤが語りかけていた人々は紀元前6世紀、バビロンの捕囚後の人々です。彼らは、破壊し尽くされ、暗闇しか見えない荒廃の中にいました。預言者はその闇の中にいる人々を集め、このような長い不幸と災いの連続に打ちのめされている人々を教会として、すなわち神さまを礼拝する共同体として再建する神の恵みを語りました。破壊され尽くしたところに再建の希望を語る。それは人の業ではない。ただ神の恵みの力、聖霊の力による他は考えられません。イザヤはただ聖霊の力によって教会を再建する神の恵みの証人が現れると、預言したのです。

この救いはキリストの到来によって実現されると預言され、人々に信じられて来ました。キリストとはギリシャ語ですが、ヘブライ語でメシア。その意味は油注がれた者、王、祭司、預言者を表します。そして主の霊、すなわち聖霊については、わたしたちもまた、その導き、ご支配を受けたからこそ、その力によって、不信仰な者が信仰を言い表して、イエスさまを救い主と告白、洗礼を受けることができたのです。それは神さまの霊であり、イエスさまが弟子たちに約束してくださった霊ですから、イエスさまに結ばれた教会は昔も今も聖霊の力によって救われる者を生み出しているのです。

ですから主の霊はイエスさまにこそ、限りなく注がれているのです。なぜなら、救い主、キリストであるイエスさまは、わたしたちを神さまと和解させるために、神さまからの使者としての務めを持って世に来てくださったのですから。ヨハネの福音書にこう書かれているとおりです。ヨハネ3章34節。「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が‟霊”を限りなくお与えになるからである。」168下。イエスさまに注がれた霊は、イエスさまによって神の教会が回復されることを目指しておられるのです。主なる神さまがキリスト・イエスさまに油を注がれたことは、この方がご自分の考えではなく、ただただ神さまのお命じになるところだけを行われることを意味しているのです。

そしてこの目的のために、神さまはキリストをお立てになり、貧しい人に福音を告げ知らせてくださいます。預言者イザヤは紀元前6世紀の頃、打ちひしがれた人々にこの言葉を語りました。それは時代を超えて、地域を超えて今も全世界に告げ知らせられています。福音の知らされる前には、神の民、教会がどんなに悲惨な状態にあったかを、またキリストがおられないとき、わたしたちすべてがどのような状態であるかを示しています。

昔も今も、人々は非常に多くの悲惨によって虐げられているので、世界中に、このような傷ついた人々の呼び方がふさわしくない、当てはまらないような所は全くないくらい、人々は傷ついているのではないでしょうか。ところがヨハネの黙示録3章17節に、主は次のように言われます。456頁下。「あなたは、「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」

このように、実は多くの人々が自分の貧しさに気づかず、盲目であることにも気づかない。知らないうちに人に支配され、人にばかりではなく、物にも、支配される。例えば、便利なものに頼り切って、結果的に支配されていることに気がついていないのです。更に、死と滅びにさえも魅力を感じ、死にたいと公言して犯罪者の餌食になったりします。わたしたちは実に、自分のみじめな状態を感じないほど愚かであることさえあります。真に悲しむべき深刻な悲劇が遠くにも近くにも見過ごしにされているのを、わたしたちは感じないではいられません。

福音には二つの目的があります。その一つは、神さまは福音を通して慈しみ深い御顔をわたしたちに示し、深い死の淵からわたしたちを救い出して下さり、そして、完全な幸福をわたしたちに回復するために、命を与える希望を示してくださるところにあります。それが、19節の主の恵みの年という言葉に示されています。旧約の律法の書には、50年目の解放の年が定められていました。その年が来ると、奴隷は解放され、負債はすべて免除されるという規定でしたが(レビ25:10)、このことは、罪人の罪を免除する神の憐れみのしるしとして宣言されているのです。神の恵みによって罪の奴隷から解放されるのですから、その人は解放された後は、罪に支配されず、神に従う者とならなければなりません。せっかく神の恵みの年に解放されても、神の畑で働くのでなければ、また罪の負債を負ってしまうことになるからです。

福音のもう一つの目的は、わたしたちも自分の中にある貧しさを真に感じて謙り、キリストをわたしたちの解放者として求めることにあります。そうでないならば、キリストがわたしたちにもたらそうとしておられる恵みの救いを受けることができない。高慢でふくれあがり、自分の惨めな者であることを思わず、そこからの解放を願わない者は、このイエスさまの預言に耳を閉ざす者であり、侮る者となっているのです。

だとすれば、本当に幸いなのは、人間の貧しさを知ることではないでしょうか。草は枯れ、花は散ると思う時、だれ一人そのような存在でないと言うことはできません。わたしたちはあらゆる社会にあって、どのような時にも貧しい人に、すなわち神の言葉に耳を開くすべての人々に福音を告げ知らせてくださる聖霊の働きを求めて行きたいのです。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

尊き御名を讃美します。待降節第二の主の日の礼拝にわたしたちは集められ、恵みの御言葉を聞き、讃美を捧げます。小さな群れは、御子キリストの執り成しによって罪を赦され、あなたの慈しみと恵みによって今日まで守り導かれて参りました。今、少子高齢化の進む社会にあって、東日本連合長老会の一員として共に一つの教会を建てる歩みの中に入れられていることを感謝します。

わたしたちの想像を超える時代が始まって行くのではないか、と思う今、どんな時にも、所にも、貧しい者に福音を告げるために世に来てくださった御子イエス・キリストを信じ、あなたの御名を褒め称えさせてください。どうか、私たちをこの主に従い、主の命に連なり、命を得る者としてください。あなたの御心は天が地よりも高いように、私たちの思いを高く超えてあることを感謝します。どうかわたしたちの教会を建てる志、御言葉を世に残す願いが御心に適うものでありますように。来週は成宗教会に新たな主任担任教師を招聘するために臨時教会総会を開きます。どうぞ、御心ならば、多くの教会員が集められ、心を一つに祈りを合わせて招聘を決議することができますように。すべてのことの上に主の恵みのお導き、ご支配を祈ります。

今、ご病気の方々を顧みてくださり、ご健康を回復させて下さいますようお願いいたします。クリスマスの準備が整えられ、喜びと感謝のうちに多くの兄弟姉妹が集められ、お祝いされるクリスマスとなりますように。今、悩みの中にある方々、特にお独り暮らしの方々のご生活の上に平安をお与えください。どうか聖霊の主の助けによって、無くてならないもので養ってください。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストは我らの苦難を負って下さった

聖書:イザヤ55章8-11節, マルコ福音書8章27-37節

 今年の受難節は2月の14日(水)から始まりました。例年二月はほとんど特別な行事がありませんで、それだけ静かにしみじみと主のご受難を覚える季節を迎えるのですが、今年は少し様子が違いました。東日本連合長老会の行事として、2月11日(日)講壇交換礼拝が行われ、十貫坂教会の清野先生をお迎えしました。続いて12日(月)には東日本の長老、執事研修会が自由が丘教会で行われ、その同じ日に、第4回東日本長老会議も開かれました。

例年以上に厳しかった寒さ、インフルエンザの流行が影響して、教会学校やピアノ教室もお休みの方が多かった2月でしたが、皆様のお祈りと奉仕が祝され、支えられて、成宗教会は無事に受難節第3の主日を迎えることが出来ました。真に感謝です。そして2017年度も今月で終わろうとしています。今、ご存知のように成宗教会は記念誌を編集しております。発行は2019年3月です。この計画は2017年度の教会総会で可決承認されたものですが、アッという間に一年が経ちましたので、来年度一年で何とか完成させることを目指さし、皆様のご協力をお願いしたいと思います。

私が赴任しましたのは、2002年ですから、今月で16年が過ぎたことになります。私の前々任の長村亮介先生の時代に50年史が編纂されていますので、それ以後、大石健一先生と私の赴任していた時代の記録を整理することが、成宗教会に必要であるということで賛同を得ています。私は今日まで16年も成宗教会に仕えて参りましたが、私の牧師としての務めは、実は第二の人生の務めでありました。私の前歴については、どなたもほとんど関心をお持ちにならないと思って、お話もあまりしなかったのですが、元々、私が一番やりがいがあると感じ、また誰からも喜ばれた仕事がありました。それは産休代替の教員です。

今有名人の藤井君という中学生棋士が通う名古屋大学附属学校をはじめ、4つぐらいの公立私立で臨時教員を務めました。その仕事の特徴は、勤務年限がはっきりしていることです。産休代替の教員は産休、育休の間、学校に派遣されて喜ばれ、お産の教師が職場に戻れば、辞めていなくなって喜ばれる。だれからも喜ばれる教師でした。そして私個人としては一人の人の出産に協力したという喜びがある。産休と育児休暇で長くても15カ月を超えることはありませんでした。居心地が良いからそこにいつまでもとどまりたい、そういう選択肢はありません。しかし、私はこういう仕事が非常に気に入っていました。

ところが、神さまは私の気に入っていることを好きなようにさせてくださる、ということではありませんでした。神さまは、「自分の好きな道を行きなさい」とは仰らない。ただ、「わたしに従って来なさい」と言われます。ある日神さまは突然、すべてのわたしの気に入っていた職業も、教会も、ボランティアの仕事も次々と道を閉ざされました。そして、神学校だけが、それも東京神学大学への道だけが開かれました。

わたしたちは、皆それぞれに決心をして洗礼を受けています。私も50年前洗礼を受ける前に勉強会があったことを覚えていますが、進行について十分分かったから受けたというようなものでは決してありませんでした。洗礼を受けるということは、自分はこう信じるとか、ああ信じると告白することではありません。そうではなくて、教会が信じて来た信仰を受け入れ、イエス様の体に連なることなのです。しかしそのことも、教えられなければ自分で分かることは困難です。それでも、わたしたちは皆それぞれに、いろいろあっても今日も礼拝を守り、教会に連なる者とされています。これは、決して当たり前のことではなく、とても恵まれた不思議なことなのだと思います。

本日の聖書は、イエス様が弟子たちに信仰の教育をされているところであります。受難節が巡って来ますと、イエス様の弟子たちについて、わたしたちは学ぶのですが、イエス様の弟子たちも元々はわたしたちとそんなに変わりのない人々だと感じるのではないかと思います。イエス様が大好き。でも、あまり苦労はしたくない。イエス様と一緒にいると何か得することがあるのではないか。と思っているような、まあ普通の人々ではないかと思います。イエス様は初めに一般の人々は、御自分のことをどういう者だと考えているのか、と尋ねておられます。それは、イエス様が世間の評判を気にしておられたからではありません。そして弟子たちも、イエス様にはっきりと敵対している人々の考えについて答えたのではありませんでした。むしろ、ユダヤの人々はイエス様を洗礼者ヨハネと比較し、エリヤと比較して、似ているとか、そっくりだとか、評価していたのでしょう。その好意的な意見について弟子たちは報告しています。

わたしたちも教会の外の人々について考える時、イエス様に好意的な人々、キリスト教に対して良い印象を持っている人々があることを知っています。それはうれしいことではありますが、しかし、イエス様は弟子たちにお尋ねになりました。他の人々はそう考えているのだということだが、それでは、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」イエス様は今、エルサレムを目指して進んで行かれます。その目的地には、非常な苦難が待っていることを弟子たちに教えなければなりません。弟子たちはこれまでイエス様に従って、教えを受けていたのですが、イエス様が受けなければならない苦難については、何も理解してはいませんでした。彼らは本当にわたしたちとあまり変わりない人々だったことは、驚きでもありますが、神さまがイエス様によってこういう人々を呼び集めてくださったことは、わたしたち自身の現実を考える時には、慰められることでもあります。

ところが、イエス様の問に対して、ペトロははっきりと答えます。「あなたは、メシアです。」つまりペトロは、あなたはキリストです、と答えたのでした。キリスト、ヘブライ語でメシアは、救い主の永遠の御支配と祭司職を表します。キリストはわたしたちを神に和解させて下さり、わたしたちのために完全な義を獲得して下さいます。つまりキリストの捧げる犠牲によって、わたしたちの罪を廃棄してくださるのです。こうしてキリストはわたしたちを自分のものとされ、御自分の中に受け入れ、わたしたちをあらゆる種類の祝福で豊かにして保ってくださるのであります。

「あなたはキリストです」という告白。この中にわたしたちの救いがすべて含まれているのです。教会の信仰告白としてわたしたちは使徒信条を告白しています。しかし、ペトロの告白は教会の信仰の根幹であります。こう告白出来たということは、本当に素晴らしいことでありました。では、この告白をしたからには、弟子たちはイエス様のことがすっかり理解できたのでしょうか。それは全くそうではなかった。31節以下を見ますと、そうではなかったことが分かります。

わたしたちの歩んできた生活を振り返ってみますと、弟子たちの様子はよく分かるのではないでしょうか。「あなたはキリストです」と告白出来たことは、本当に素晴らしいことで、奇跡的なことというべきです。なぜなら、わたしたちはだれも、イエス様がキリストである、ということが本当にどういうことなのか、よく分かっている人はいないからです。わたしたちがたとえ長生きするとしても、キリストの担われる苦難と死について、どうして十分理解できるはずがあるでしょうか。ですから、真に聖霊の助け、恵みの御業がなければ、この小さな告白も決して起こらないのです。

しかし、イエス様は弟子たちが全く理解出来ないことをお教えにならなければなりませんでした。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と。苦難と死の予告は、弟子たちには全く耐え難いものでした。想像を絶するものでした。そのことを知っておられるイエス様は、すぐに「三日の後に復活することになっている」というお言葉を述べて、彼らを慰めてくださったのですが、本当に衝撃は大きく、彼らの耳に全く入りませんでした。

イエス様があからさまに話された時、ペトロはイエス様をわきの方にお連れしたということです。それは、「イエス様に皆の前で何か物申すのは失礼だから・・・」という配慮からでしょうが、しかし、そもそも先ほどの告白と、ペトロの行為はどうつながっているのでしょうか。あなたはメシア、キリストですと告白したからには、わたしたちはキリストにただただ従って行くだけなのです。それなのに、ペトロはキリストに意見をして「苦難を受けるなんてとんでもない!」「殺されるなんてとんでもない!」とお考えを変えるように迫りました。わたしたちはいかにキリストを侮っていることか。それは神を侮っていることと何一つ変らない、恐ろしいことなのです。

わたしたちは、神様に従って生きているつもりでも、実はどんなに逆らっているか、神様を説得して考えを変えさせようとするほど、神様を侮っていることに気がつきません。自分の考えは絶対正しい!と少しも疑わないということが起こります。イエス様はペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」ペトロは何とサタンと呼ばれました。実際、彼は神に逆らっている彼はサタンの支配を受けていたからです。しかし、このように厳しいお叱りを受けたからこそ、彼は悔い改めることになるのでした。

キリストはわたしたちを招いておられます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」わたしたちは自分には背負うべき十字架があるとはあまり思っていなかったでしょう。わたしたちは自分の行きたいところに行って、自分のしたいことをして生きるのが理想だったかもしれません。楽しい趣味で生活を満たして生きようとしたかもしれません。一方、イエス様だけが重い十字架を背負って苦しんでおられるように見えていたのではないでしょうか。

イエス様はあんなに苦労なさって死の報いを受けることしかなくて、お気の毒でした。イエス様は大変立派な方で、奇跡も起こしてくださったけど、あんな苦労は、わたしはしたくない、というのが偽らない気持ちではなかったでしょうか。そして、苦労は一方的にイエス様のところに、楽な人生は一方的に自分のところにあるような錯覚に陥っていたのではないでしょうか。

私は学校教員として派遣されて喜ばれ、学校を去って喜ばれた、と自分の過去を申しました。私は16年前に成宗教会に派遣された時、教会の皆さんに喜ばれているようには感じられませんでした。非常な悲しみと痛みが皆さんの背後に感じられたからです。私はその原因についてほとんど何も分かりませんでした。けれども、少なくとも私は、私を成宗教会に呼んでくださった方を知っておりました。私をここに来させた方は、この教会と共にあり、わたしたちが苦労も苦難も拒否していた時もわたしたちのために、わたしたちに代わって、十字架を負ってくださったことを、私は知っていたからです。それがどなたであるか、皆様はもうご存知です。その方こそ、教会の主イエス・キリストです。教会と共にいてくださる主、皆様の背後にある苦労と苦難と悲しみと痛みを負ってくださるキリストを信じて、皆様は教会にとどまることが出来ました。だからこそ、主はわたしたちに主の命をくださろうとしておられる。そして、それをわたしたちは信じているなら、そのことこそが、わたしたちに与えられた恵みなのです。祈ります。

 

主なる父なる神様

信仰弱い教会に、計り知れない慈しみをお示しになって、救いに招いてくださるあなたの愛を見上げ、心からの感謝をささげたいと願います。昔地上にいらした時にあなたが読んで下さった弟子たちをあなたは御子によって愛し、その愚かさにも拘わらずお見捨てになりませんでした。わたしたちは何も知らないものでありながら、自分を賢い者のようにあなたに従おうとしませんでした。自分の考えの方があなたよりも正しいと思うに至るほど、罪深いものです。しかし、実際には少しの重荷にも、労苦にも耐えられない。あなたはそのようなわたしたちに、絶えず愛を注ぎ、希望を注いで導いてくださいました。どうかわたしたちがそのことに気付き、驚き、感謝に溢れる日が来ますように。

今苦しんでいる者も、今悩んでいる者にも、そのような日が来て、あなたの思い、溢れる愛を発見する恵みに与りますように。どうかイエス様の労苦、苦難がわたしたちを救うためであったことを悟ることができますように。喜びと感謝に溢れる日が来ますように。この受難節の日々、どうか人知れず労苦している方々の労苦を顧みてください。病気の悩み、孤独の悩み、仕事の悩みにあなたの助け、慰めと癒しをお与え下さい。

今、わたしたちは2017年度の終わりを迎えています。様々な困難のあった一年でしたが、あなたは多くの悩みを通して、共に祈り支え合うことを教えてくださいました。どうぞ、ここにこそ、主の喜ばれることが実現しますようにお助けください。新しい年度に向けて整えなければならないことが多くあります。どうか貧しいわたしたちが持てる力、与えられた賜物を生かしてあなたの喜ばれる教会を建てることが出来ますように、お導きください。連合長老会と共に歩む歩みが祝されますように、切に祈ります。復活のお祝いの日を目指して、わたしたちの日々を一歩一歩整えてください。お病気の方々も癒されて共にイースターを喜び迎えることが出来ますように。

この尽きない感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。