我らを兄弟と呼ぶために

イザヤ7章10-14節, ヘブライ人への手紙2章10-18節

昨日は子供の日でしたので、ある俳優の方が、子どもたちを祝福するメッセージをラジオで語っていました。子どもたちよ、失敗を恐れず、勇敢に生きなさいと。そして私も85歳だが、もう少し頑張って楽しく仕事に打ち込み、それからあの世とやらに行くつもりだと。この方は一人の人間として、高齢者として、誠実に精いっぱい愛情を込めて語っていることだと感じました。しかし人が人に語ることとしては、これ以上のことは言えないと思います。

わたしたちは2018年度の教会標語を掲げました。それは週報の表紙に書かれています。(エフェソの信徒への手紙第3章18-19節)「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」

キリストの愛とは、キリストの内に表された神の愛を指しています。それはわたしたちの生きる土台となるものです。私たちの信仰の学びは「神とはどなたであるか?」を知ることから始まりました。この学びを続けることは、人の言葉ではなく、神の言葉を求めることです。人の励ましではなく、神の励ましを受けることによって、わたしたちは、これからあの世とやらに至る道ではなく、救いに至る道をしっかりと歩むことができるのです。

そこで、本日の使徒信条の学びは、使徒信条に「主は聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれ」と告白されていることについてです。これはどういうことでしょうか。答は、結論から言えば、イエスさまが、罪を別にすればわたしたちと同じ人間になってくださったということです。ここにこそ、神の愛が真っ先に人間に向けられていることが表されているのです。神は御自分に似せて人間を創造されました。ところが人は罪の支配を受けて以来、死を恐れるようになりました。アダムとエヴァは神との約束を破って、食べてはならないと言われた木の実を食べました。するとその直後、二人が取った行動は神の前にありのままの自分の姿を見せることではなく、神から自分の身を隠すことだったのです。

こうして人間は、光の源である神から身を隠すようになって以来、闇に支配されることになりました。闇を恐れ、死を恐れながら、しかし神に立ち帰ることができないのです。では、これに対して、神はどうされたでしょうか。神は人間の創造者であります。人間を造り人間に目標を与えられました。その目標とは、神の交わりに生きることです。神は、罪のためにその目標を失っている人間を御覧になりました。そこで悲惨な人間のために行動し給うたのです。それはまさに神にふさわしいことでありました。

今日のヘブライ人への手紙2章10節。「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。」ここで、「彼らの救いの創始者」と言われるのは、イエス・キリストその方です。創始者というより、救いに導く方という方がふさわしいと思います。わたしたち人間を神の子とするために、神の独り子をお遣わしになるほど、神は世を愛されたことを、わたしたちは繰り返し思うのです。神の御子である救い主も(11節には人を聖なる者とする方)、また私たち救われる者(聖なる者とされる人たちと言われています)も、その源は一つ、キリストは神から出た方であり、私たちは神に造られたものだからです。

神は人間を(しかも罪のために悲惨な状態に陥っている人間を)どんなに愛しておられることでしょうか。それで、御子であるイエスさまは、わたしたちを兄弟と呼ぶことを恥ずかしいと思われないのです。よく子供たちがいたずらをしたり、悪いことをすると、親は叱って、「こんな子はうちの子じゃない!」と言います。そりゃ、親にして見たら恥ずかしいと思うことがあるのです。しかし、神様はどうでしょう。恥ずかしいようなことをしでかす人間を、何とか救おうとなさるのであります。

それでイエスさまも、恥さらしのとんでもない人間を兄弟姉妹と呼ぶことを厭わないで、12節。「わたしは、あなたの名をわたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します」と言い、また、「わたしは神に信頼します」と言い、更にまた、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」と言われます。12節の引用は詩編22篇23節です。この詩人は、人から虫けらのように言われ、人間の屑と蔑まれるわたしを、主は救ってくださったと証ししています。だから私はこのことを兄弟たちに証ししたい。それはそれを知って、多くの人々が救われるようにと願うからです。

また13節後半には、「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」が引用されています。ヘブライ人への手紙の著者は、これをキリストの言葉として私たちに聞かせているのです。ヨハネ福音書10章11節(186頁)に、主イエスは言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われた主の御言葉を思い出します。

そこで主イエスは、私たちを救いに招き、兄弟姉妹と呼ぶために、何をしてくださったでしょうか。私たちに目に見える姿で現れ、私たちの耳が聞くことのできる言葉を語るために、主はどうなさったでしょうか。主は謙って、私たちの世界に現れてくださいました。すなわち、主は血と肉を備えられたのです。血と肉とは地上の命のことです。血と肉とは、やがては死すべき人間を表します。私たちは皆、地上に血と肉をもって生きているので、私たちを救おうとなさるお方もまた、御自身に血と肉を備えられました。

今日の旧約聖書イザヤ7章11節「それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」インマヌエル、すなわち、「神、我らと共にいまし給う」です。イザヤ書に登場するユダ王国の王アハズとその国民はイスラエル王国の滅亡の危機、大国アッシリアの攻撃の脅威にさらされ、風に震える木の葉のように動揺していたと言われます。その時、預言者イザヤは「主の救いを信じなさい」とアハズ王を励ましたのです。

ここに鋭く問われているのは、王と民の信仰であり、またわたしたち教会の民の信仰なのです。神に対して自己を完全に委ねること。そうすれば、どんな危機に直面したとしても、わたしたちは神の真実に堅く信頼して立つことができるのです。しかし、もし王にこのように委ね切ることがなく、かえって神が在さないかのように恐れおののくなら、王も民もその安全は確かに脅かされるだろうとイザヤは警告します。イスラエルの民は信仰においてのみ成り立っているからです。なぜなら、イスラエルは神の選びによって生まれたのでありますから、神に全面的に信頼している限りにおいてのみ、存続するのです。だから、もし信じることができなければ、イスラエルの王も貴族も神の民も消滅するでしょう。

イスラエルの不信仰。すなわち神に招かれ、その民とされながら、神に信頼し委ね切ることができない。そのイスラエルのために、イザヤは預言しました「主御自ら、あなたたちにしるしを与えられる」と。「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」と。こうして、神の御子、すべてを超越した存在であるイエスさまが、地上に生まれられました。このことによって、主はすべての人間と共通する存在であることを、御自分に受け入れたのであります。14節~15節を読みます。

「ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらの者を備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」イエス・キリストは肉を裂き、血を流して我らの贖いとなってくださったことを思います。すなわち、わたしたちを死から解放するためにご自分を犠牲として捧げ、罪を断罪してくださいました。この目的のためにも、主は肉体を取ってくださったのです。

そして、わたしたちに、信じたくても信じることができず、信じ続けることがなお難しい人間のために、目に見える存在として、耳で聞くことのできる存在として、また不信仰なトマスと同じく、触ってみなければ信じない人間のためにも、地上にただ一度いらしてくださって、神の愛がどのようなものであるかを明らかにしてくださいました。この目的のためにも、救い主は限りある血と肉とを人間となってくださいました。

人々は神を知ることを真剣に求めない人でも、天使や悪魔に興味のある人は多いと思います。姿形まで想像して絵や彫像を造ったりします。彼らが霊的存在であることも興味が惹かれる理由の一つであると思います。お化け、幽霊とか、ハリーポッターなどの世界に登場する霊が好まれるところを見ると、どうも変幻自在であるとか、神出鬼没という存在が人間の憧れなのかもしれません。しかし、神の愛は人間に注がれている、ということを、最もユニークに表現しているのは、ヘブライ人への手紙ではないかと私は思います。16節に「確かに、イエスは天使たちを助けず、アブラハムの子孫たちを助けられるのです。」とあるからです。

神は、限りある肉体をもって、地上に限定されて生きている人間を愛しておられます。ちょうど、植物が雨が降っても雨宿りもできず、日照りの時も川に移動することもできずに、一つところに根を下ろしたら、その場でいつの日にも一生懸命生きていくより他はないように、神は、私たちが日々の困難に耐えて精一杯生きてこそ、美しいと見給うのではないでしょうか。その所で、その時において、造り主を見上げ、その愛が造られた者に注がれていることを信じ、この神を私たちに教えてくださった救い主をほめたたえる命を今日も生きたいと願います。

植物の例えを出しましたが、私たちは空の鳥、野の花より価値あるものであると教えてくださったのも、また救い主イエス・キリストであります。私たちは神の形に造られた者。空の鳥、野の花を手本に生きるのではありません。それを造られ、守られる恵み深い神に立ち帰り、神をほめたたえるために、私たちは罪の赦しに結ばれなければならないのです。自然にそれができたのでは決してない。神を離れ、さ迷い出て苦しむ私たちのために、私たちと神との間に立ってくださり、壊れた関係を回復してくださるために、神の御前において憐れみ深い大祭司となってくださいました。憐れみ深い神の御心を表してくださいました。同時に忠実な大祭司となってくださいました。それは、神に対して忠実な人間の本当の姿を表してくださったということなのです。

御自身は神に忠実であり、神に全く背いておられないのに、試練を受けて苦しまれたのは、神に背いて試練を受けていた人たちを助けるためでした。これほどの愛をいただいているのは、天使ではないのです。限りある私たちなのです。この喜ばしい言葉を、神の恵みの言葉として聞きましょう。目に見える私たちは小さな群れ、しかし、主はこの群れを愛して、その証しを沢山残してくださいました。見ようと願うなら見ることができます。聞こうと願うなら聞くことができます。礼拝の民として、とどまることを願うなら、あなたがた自身、主の愛が注がれた者としての生涯を証しすることになるでしょう。

主がそのことを喜び助けられるからです。祈ります。

 

御在天の父なる神様

尊き救いの御名をほめたたえます。あなたは罪ある者の罪を憎み、それを決して見逃されない方です。しかしあなたは罪ある者を憐れみ、イエス・キリストにおいて、その愛の広さ、高さ、長さ、深さを表してくださいました。どうか、私たち地上の生涯の間に、その愛を少しでも多く知ることができ、知って喜び、感謝し、讃美礼拝の中に、あなたの御許に召される日まで、歩ませてください。

あなたの御心はまた、御子によって示された計り知れない愛を、地上に在って、主の兄弟姉妹とされた教会の方々と、共に分かち合うことにあると知りました。どうか、あなたの御心を全く知らずに、または信じられず、主にゆだねることができずに、不安の日々を生きている多くの人々に、主と共に生きる幸いを知らせてください。主が聖霊を送って共におらせてくださることを切に願います。20日にはペンテコステ礼拝を守ります。どうか私たちを清めて、聖霊の住み給うにふさわしいものとしてください。

多くの方々が高齢になっております。それぞれのご家庭をあなたの恵みの御支配のある所としてください。平安と必要な助けが日々与えられますように。また同様に、独り暮らしの方、ご病気の方、どうぞあなたのお守りと顧みが豊かにございますように。来週は墓前礼拝を予定しております。どうか、このために出かける旅路をあなたの恵みのうちにお守りください。感謝の礼拝を捧げることができますように。

本日は、長老会議が開かれます。どうぞ、来年度の主任担任教師の交代に向けて長老会を導いてください。すべての教会員が心を一つにして備えることができますように。また、教師ばかりでなく、長老、信徒についても新しい奉仕者が与えられますように切に祈ります。また、東日本連合長老会の交わり、その働きがあなたの御心にかなったものとなり、共に主の体の教会を建てて行くために、諸教会と心を合わせて進むことができますように、助け導いてください。善き働きのために奉仕する諸教会の教師、長老、信徒の皆様のご健康が祝されますように祈ります。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。