《賛美歌》
讃美歌187番
讃美歌217番
讃美歌332番
《聖書箇所》
旧約聖書:エゼキエル書 35章15節 (旧約聖書1,354ページ)
35:15 お前がイスラエルの家の嗣業の荒れ果てたのを喜んだように、わたしもお前に同じようにする。セイル山よ、エドムの全地よ、お前は荒れ地となる。そのとき、彼らはわたしが主であることを知るようになる。
新約聖書:マルコによる福音書 3章7-12節 (新約聖書65ページ)
3:7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、
3:8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。
3:9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。
3:10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった。
3:11 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。
3:12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。
《説教》『イエスの拒否』
先週の礼拝では、安息日に主イエスがユダヤ人の会堂で片手の萎えた人を癒されたことが語られました。この癒しのみ業がなされた結果、ファリサイ派の人々は出て行って、ヘロデ派の人々と、どのようにして主イエスを殺そうかという相談を始めたのです。
本日はその続きです。初めに、「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた」とあります。湖とはガリラヤ湖です。主イエスと弟子たちは会堂を出てガリラヤ湖の方へと立ち去られたのです。ここは口語訳聖書では「退かれた」となっていました。その方が原文のニュアンスを伝えています。ただ立ち去ったと言うよりも、退いた、退却したのです。それはファリサイ派やヘロデ派の人々の敵意、殺意が高まっていたからでしょう。ユダヤ人の会堂はファリサイ派のホームグラウンドです。そこから逃れてガリラヤ湖の方に退却したのです。
しかし、その退いた主イエスの周りには沢山の人々が集まって来ました。すぐ後に、「ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」とあります。
ここに出てくる地名で、「ガリラヤ」とは主イエスの活動の中心地であり、ガリラヤ湖の西側、当時カナンと呼ばれていた地方の北部にあたります。それに対して続いて挙げられているる「ユダヤ」とはエルサレムより南の地方、カナンの南半分をさしています。
また、「エルサレム」とはその真ん中、古くからの都というよりユダヤ人にとっては世界の中心である都を意味していました。これらの地域は、サマリヤを除くカナンの全域であり、ユダヤ人の全居住地を意味します。
続く「イドマヤ」とはユダヤの南、ネゲブ砂漠に隣接するエドム人の地、ヘロデ大王の出身地です。
また、「ヨルダン川の向こう側」とは現在のヨルダン王国であり、当時のペレア・ギレアドなどパレスティナ東部を指します。最後の「ティルスやシドン」とは、遠く現在のレバノンの海岸地方であり、これらはユダヤ人の居住地に隣接する全ての地域を含んだ広大な地域です。
この頃の主イエスが「これほど広く人々に知られていたとは考えられない」と言われますが、多分その通りでしょう。事実、これよりかなり後の主イエスが十字架に架かられた時でさえ、ユダヤの地方総督ポンテオ・ピラトはナザレのイエスのことを何も知らなかったのですから、主イエスの活動の初期の時代、ここに記されているような広範囲に及ぶ地域の評判を得ていたとは考えられません。
ここに挙げられている地名は、初めに見たとおり、ユダヤ人が住む地域と隣接するあらゆる地域です。ガリラヤの農民や漁師たちにとって、境を接する地域が、言わば庶民たちの「全世界」でありました。ですから、マルコによる福音書が語ることは、あらゆる所から人々が集まって来たということであり、主イエスの御前に立つ者は「一定の地域の人々、限られた人々」ではなく、「全ての人間がイエス・キリストに関っている」ということなのです。ファリサイ派たちの敵意とは別に、群衆は指導者たちの意に反してナザレのイエスを追い求めて集まり、今や、誰も止めることが出来ない勢いになっていたのです。それを聖書は「あらゆるところから人々がやって来た」と述べているのです。
しかしながら、大勢の人々が集まり、主イエスを取り囲んでいますが、群衆に囲まれた主イエスに、少しの喜びもないのは何故でしょうか。むしろ、主イエスはそこから「逃れたい」と思っておられると見ざるを得ません。
私たちは、神の栄光を表すことを人生の目標としています。キリストの喜びを願って日々の生活を送っている者です。その私たちは、このような「キリストの拒否」を考えたことがあるでしょうか。もし、キリストの喜び、キリストが受け容れて下さることを願うならば、何故ここで主イエスがこのような「拒否」を示されるのかを十分に理解しなければなりません。
今、「イエスは逃れようとしている」と言いました。この部分の主題は、まさに「逃れるイエス」なのです。7節に「イエスは立ち去られた」と記されています。「立ち去る」と訳されている言葉は「危険を避けて逃げ去る」という意味でもあり、マルコ福音書で、この言葉が使われているのはここ一箇所だけです。
7節に記されている「湖の方へ立ち去られた」とは、単なる移動ではなく、カファルナウムの街なかにある会堂から「湖岸へ逃げ去って行った」ということなのです。主イエスは何故彼らに背を向けたのでしょうか。
あえて言えば、「論争からの回避」と言うべきでしょう。2章1節からここ迄、ファリサイ派との論争を主イエスは続けられましたが、その論争から何がもたらされたでしょうか。議論をして相手を改心に導くことは極めて困難なことです。議論の危険性は、自分を見失ってしまう傾向が強いということです。たとえ自分の全てをかけた真面目なものであっても、いつの間にか、その言葉が自分を離れたところで空転して、議論のための議論となってしまうことがあるのです。
私たちの議論とは、自分の持っている知識や経験をひけらかすことから始まり、果ては屁理屈と感情的な反発でどうにもならなくなることがあります。議論で敗れたからと言って、直ちに態度や主張を変える人は極く稀れであり、後には憎しみと怒りが残るだけです。こんな経験は誰にもあることでしょう。主イエスの御言葉と御業の前に敗北した結果、「殺してやる」とまで考えるようになった6節のファリサイ派の人たちの姿は、憎しみしか残らなかった自己主張で凝り固まった多弁な私たち人間の典型でありました。
主イエスが背を向けた「危険」とは、ファリサイ派の人たちの心の中に増大するそのような「新たな罪」でした。神の御子と共に居りながら自分の頑なさに囚われ、自分の立場の砕かれることに怒りを感じる人間、ただ憎しみを募らせるだけの人間、罪に囚われた人間の惨めさ。その現実を前にして、これ以上、敵意と憎しみを増大させないために、主イエスは自ら立ち去られたのです。
実り少ない議論に終始する人間に対し、主イエス御自身、遠ざかることによって、新たな罪を増し加えることをさせぬ憐れみを示されたと理解すべきでしょう。私たちも、自分の雄弁がキリストを遠ざける結果になるということを自覚すべきではないでしょうか。
9節から10節には、「そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからである。」と、主イエスは群衆から逃れようとしています。「押し寄せた」ことが危険なのではありません。「触れようとした」ことが問題なのです。
人間は古くから、「神聖なものに触れると力を受ける」と信じて来ました。5章25節以下に記されている「十二年間も出血の止まらない女」が、主イエスに近づき、「密かに後ろから触った」と記されています。「服にでも触れれば癒していただける」と信じたからです。
「触れれば治るのか」などと笑ってはいけません。東京名所の浅草寺の本堂正面の大きな鉢で、香が焚かれています。その煙を身体に付ければ無病息災、手のひらで煙を掴んで悪いところへ付けています。毎日、数え切れない数の人々が煙を自分の身体に付けようと一生懸命です。
このような行為の問題点は、「煙に力があるか否か」ということではなく、触るのが「人間自らの自発的な行為である」というところにあります。立ち上る煙に奇跡を生む力があると思う人間の意志と、その力を利用しようとする人間の行為が奇跡を生むと考えられています。それ故に、人は先を争って煙に手を差し伸べるのです。不思議な力を持つ神を自分の欲求のためにのみ利用しようとする人間の姿。これが「罪」の現実であり、現在の世界の実情を雄弁に物語っていると言えましょう。
既に見たとおり、マルコは「あらゆる所から人々が集まって来た」と語っていました。そして、その人々がただ主イエスを利用するだけであるとするならば、実は、「あらゆる人々が全て罪の中にある」という決定的な告発になっているのです。ここに記されているのが全ての人間の問題であるとするならば、全ての人間はキリスト・イエスの御前で罪の姿を示していることをマルコは語っているのです。
主イエスはその人々を拒否されたのです。罪の中にある者をキリストが拒否されるということには、理解し難いものがあるかもしれません。もちろん、キリスト・イエスは、罪の中にある者を救うためにこの世に来られた方です。しかし決して、罪の行為に迎合する人間を赦されないのです。私たちは、その罪を知り、御心から離れた自己本位な姿勢が、御子キリストから徹底的に拒否されていることに目覚めなければなりません。私たちが、その自分の罪を知り、御心から離れた自己本位な姿勢から離れること、それこそが、「悔い改め」なのです。
そして、11節には、「汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫んだ。」とあります。何とそれに続く12節では「イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。」とあります。
汚れた霊たちの「あなたは神の子だ」という言葉は、確かにファリサイ派の人々や群衆より正しいと言えるでしょう。
ファリサイ派は主イエスが神の子であることを認めませんでした。群衆は主イエスが神のような力を持つことしか認めませんでした。それに反し、汚れた霊ども、つまり汚れた霊に憑かれた人たちは「イエスは神の子である」と人々の前で叫んだのです。その言葉は私たちの「信仰告白」と同じです。しかしその告白を主イエスは拒否されたのです。
「厳しく戒められた」と記されていますが、「戒める」と訳されている言葉は「叱る」という意味の言葉です。「イエスは悪霊を厳しく叱りつけ、そのようなことを絶対に口にしてはならないと命じられた」という意味です。
正しい告白が、何故、拒否されるのでしょうか。主イエスは、何故、その告白を禁じたのでしょうか。
「汚れた霊」「悪霊」とは徹底的に神に敵対するものです。主イエスが神の子であるとの正しい認識を持ったとしても、その本質は変わりません。「汚れた霊に憑かれた者」とは、昔の人々の迷信ではなく、正しい知識を十分に持ちながら、また正しくその事柄を認識しながら、なお自分自身を変えようとしない人間を意味するのです。自分自身が「小さな神」となり、永遠なる神の絶対性を信じない者、神を自分の都合のためにのみ利用しようとする者、それらを「汚れた霊に憑かれた者」「悪霊に憑かれた者」と呼ぶことが出来るでしょう。
主イエス・キリストは、そのような人々との共存を拒否されるのです。「信仰告白」とは、単なる言葉ではなく、その言葉を「生きる姿で如何に表しているか」ということを問われているのです。
ここまで、主イエス・キリストが、人間の罪に対して徹底的に背を向けられることを見て来ました。私たちはこの主イエスのお姿から、罪の世界に埋没した人間の悪に対する、毅然とした姿勢を読み取らなければなりません。主イエスは人々の罪に対して、いささかの妥協もなさらないのです。如何に多くの人々が集まろうとも、ただそれだけで喜ばれることはないのです。
この日の会堂に集まった人々は、期待外れで落胆したでしょう。自分の苦しみを解決して貰えなかった人々は、かえって絶望したかもしれません。故郷ガリラヤの人々を愛する主イエスにとって、むしろ実に辛いことであったでしょう。
しかし主イエスは、この辛さに耐えて行かれたのです。いやそれどころか、むしろそれ以上に、罪に埋没している人々の姿を見ることによって、更に、十字架への道を歩むことの意味とその必然性を確信されたと言えます。
主イエス・キリストの十字架は、自己中心に生きる私たちに対する、神の正義による拒否です。そしてその拒否こそ、愛の頂点なのです。神様が喜ばれる生き方とは、キリストの断固とした拒否の中に「愛の道標(みちしるべ)」を見出し、御前に悔い改めてヘリ下ることから始まると言えましょう。
お祈りを致します。
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