聖書:エゼキエル書34章1-3節, コリントの信徒への手紙二12章11-15節
新約聖書に収められている27の文書のうち、使徒パウロの手になるとされる文書は13あります。分量的には新約聖書の実に4分の一以上が、パウロによって送られた手紙であります。世界中のクリスチャンにとってパウロは偉大な伝道者。ペトロに劣らずその名を知らない者はいないとおもいます。しかし、わたしたちは今、コリントの信徒への手紙の二を読んで唖然としたのではないでしょうか。なぜなら、わたしたちがこれまで持っていた偉大なパウロという人物像が、ここではひっくり返されているからです。パウロが同時代の人々から、何と「取るに足りない。つまらない人物」という評価を受けていたからです。新約聖書に登場する人々の中でも、最も偉大な者の一人であるパウロがいくら何でもnothing ,つまらないと評価されるとは。
この手紙では、それに対して、パウロは反論を続けている訳です。わたしはダメだと言われているけれども、あの大使徒たちに比べても少しも引けは取らないのだと、パウロは本気で反論して参りました。Ⅰコリ9章22-23節では彼はこう言っています。311頁「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。」
そうです。だからパウロは愚か者にもなったのです。愚か者は、自分を自慢します。あれができる、これができる。あれをもっている、これをもっている。自分はこんなに素晴らしいのだ、と。パウロが愚か者のようになって愚かな自慢をする。本当はそんなことをしたくない。自慢話は使徒の務めに全く合わない。むしろ務めに反するものだと、誰よりも知っています。それにも拘わらず、自分はこんなに素晴らしいと言わざるを得ないのは、なぜか。それは、あなたがたのせいですよ、とパウロはコリントの人々を責めているのです。
あなたがたのせいです。なぜならあなたがたは、自慢する人が偉い人、立派な人だと思っているから。自分はこんなに素晴らしいと自己宣伝に勤しむ偽者の伝道者をほめたたえるから。そういうあなたがたを、そのまま放置するならば、どうなるでしょうか。あなたがたは彼らの弟子にはなるかもしれません。しかし、イエス・キリストは自己宣伝のために世に現れたのでしょうか。主は御自分を無にして、父なる神の栄光を表すために命を捨てられたではありませんか。だとすれば、自己宣伝をするような人々に福音があるでしょうか。だから、あなたがたの救いがそこにあるはずも無いのです。
パウロは福音のためには何でもすると言いました。だからこそ、愚かなコリントの人々に対しては愚かな者のようになったのです。何のために?彼らを救うためにです。今、わたしたちは、「コリントの人々は何と愚かなのだろうか」と笑うことができるでしょうか。これは、コリント教会への手紙として聖書に収められています。しかし、聞く耳のある人々には、これは正に他人事ではない。聖書は神の言葉として、悔い改めを迫る言葉として、すべての人に、例外なく差し出されているからです。
本当に善意の人を、本当に誠実な人を蔑ろにしている一方、悪意をうまく隠している者の口車に乗せられている罪の世に、わたしたちは生きています。平和を求める穏やな人々の声が十分に届かない一方、非難の応酬がエスカレートして戦争への道を転がり落ちそうな危険な世界に生きています。教会の中でさえ、使徒パウロが他の大使徒と比べて少しも劣らない、ということが理解されない一方、自己宣伝する者たちはいかにも自分たちが十二使徒たちと同等であるかのように吹聴するので、彼らに圧倒されて惑わされ、取り込まれてしまうとしたら、まして教会の外ではどんな理不尽なことが起こっても不思議はないでありましょう。
12節の言葉は口語訳では、「わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と力ある業とにより、忍耐を尽くして、あなたがたの間であらわしてきた」となります。こちらの方が原文に忠実なようです。パウロが「しるしと奇跡と力ある業」という三つの言葉によって表そうとしていることは一つです。しるしとは単に役にも立たない見世物ではなく、人々を教えに導くためのものです。奇跡とは(文字通りは「不思議」ですが)、その新奇さの故に人々の目を見張らせ、人々を驚かせるはずのものです。そして、力ある業とは、わたしたちが日常の中で観察している自然の力よりも、はるかに優れた神の力を明らかにするものであります。そして、この三つのものが目標とするものは一つ、神の教えを更に一段と権威あるものにすることに他なりません。
使徒であることの証明は、この三つを、忍耐をもって行うことです。この忍耐こそ、使徒であることを実証する土台であります。彼はサタンやその敵どものどんな攻撃をも、勇敢に耐え忍び、常に退くことなく、不屈の態度を示してきました。そして、パウロは自分の優れたところは、自分自身の思いにも上らせないのです。口には出さなくても、もし心の思いの底に「実は自分はすぐれているのだ」という考えがあれば、どうでしょうか。人から度重なる侮辱を受けると、「もう我慢ならない!」ということになってしまいます。しかし、そんなことではどうして福音伝道者の務めを全うすることができるでしょうか。結局は、この務めを主からいただいたということを蔑ろにする結果になるのです。
しかしパウロは、自分になされた一切の侮辱を辛抱強く耐え忍び、数々の労苦も何ごともなかったかのように過ぎ行かせ、忍耐をもって多くの卑劣な策略に勝利したのであります。世に気高いこと高貴なことというならば、これ以上のことがあるでしょうか。これこそ、天から与えられた使徒職がここにあることを証明するしるしなのであります。
13節でも、コリント教会の人々に厳しい言葉は続きます。「あなたがたが他の教会よりも劣っている点は何でしょう。わたしが負担をかけなかったことだけではないですか。この不当な点をどうか許してほしい。」パウロはコリント教会を開拓して、人々をキリストの救いに与る者とするために命を賭けて働きました。彼は人々のためにこんなにも大きな恩恵を施したうえに、それを無報酬で行いました。しかし、その後で彼らのしたことは、恥ずかしくもなく自分たちの最初の伝道者を軽んじて、慎ましく忍耐しているパウロをいっそう侮ったのであります。
こういうことはわたしたちにも思い当たることがあるでしょう。物を、大金を出して手に入れると、お金がかかっているので大切に扱う一方、安く手に入れると扱いが粗末になるものです。学校の教師をしていると更によく分かります。「ただで教えてあげるから、聞きに来なさい」と言っても来ようとはしない生徒が、高い月謝を払って家庭教師を雇うものです。またバブル崩壊の時代以降、いくら試験を受けてもなかなか正採用にならない教員がいる一方、どう見ても実力が疑われる正規の教員がいかにも優れた者のように見せるために威張り散らすので、生徒が非常に気の毒な学校もありました。
「この不義をどうか許してほしい」と述べているのは、パウロが善意を持ってしていることが、却ってよくない結果を招いたからと、反省の弁を述べているのでしょうか。しかし、聞きようによっては、やはり、彼らは受けた恩を忘れたばかりでなく、悪い者たちに唆されて、恩人を侮るような不義を働いたということが指摘されているのだと受け取れるのです。パウロはコリント教会を訪れようとしています。これが三度目です。そして今度もやはり、パウロはコリントの人々に費用の面でやっかいをかけないと宣言しています。コリント教会の人々は、この言葉をどのように受け止めたでしょうか。自分たちがどんなに反省しても、先生の怒りはまだまだ収まらないのだろうか、と感じたでしょうか。
しかし、パウロが単に怒りに駆られてこの手紙を書いたなどとは、だれ一人思わなかったでしょう。こんなにたくさんの手紙を受け取って、しかも一字、一字、手書きで、代筆する人がいたのかもしれませんが、消しゴムもない、便せんもない時代に、貴重な羊皮紙に書いて送られた手紙を受け取って、食い入るように彼らは読んだことでしょう。わたしたちの時代とは違う。便利で、軽薄な時代、何でもすぐ打ち込んで、すぐ送信出来て、すぐ読んで、すぐ消されて、すぐ忘れ去られる時代とは違う、2千年前の時と所を想像してみたいものです。
皆で額を寄せて、一字、一字読まれたことでしょう。あるいはきっと家の教会で大勢の人々を前に司会者が朗読したことでしょう。字の読める人も、中には字の読めない人もいて、熱心に聞いていたでしょう。パウロ先生の言葉を。「わたしはそちらに三度目の訪問をしようと準備しているのですが、あなたがたには負担はかけません。わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。」わたしが欲しいのはあなたがたのお金や物ではない。確かに、牧師が近寄って来るのは、金品が欲しいからだと疑っている人々がいます。
私も施設にいる人に教会に献金してくださいと求めたことがありました。教会がキリストの体として建てられるために、わたしたちは主の日に礼拝に集まり、感謝と賛美と祈りを捧げます。わたしたちの捧げる献金を用いて、神様が伝道をしてくださると信じています。捧げられた献金によって、教会の伝道に必要な一切を賄うのです。牧師を招聘するのもその一つです。教会に来られない信者の方々を問安できるのも、捧げられた献金によるのですから、金額の大小に関係なく、すべての教会員が月々の献金を捧げることが大切です。そこで、私の場合、献金を捧げて教会を支えてください、とお願いすることが必要と思われました。それは自分自身が、献金を捧げるのは、人に対してではなく、教会の主に献げているのだと信じて喜んでいるからです。ところが、その人は猛烈に怒りました。怒りのあまり、私が以前差し上げた十字架のペンダントを捻じ曲げて返してきました。献金とは牧師のポケットに入るものと考えているのでしょうか。人々がいかに誤解していることか。献金を求めることの難しさを知らされた出来事でした。
パウロは書いています。「わたしが求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身だからです。」あなたがた自身を求めている。パウロは心を求めているのです。では、パウロはコリントの人々の心を自分のものにしたいからでしょうか。自分だけに心を向けてほしいのでしょうか。決してそうではないのです。パウロはただただ、自分の行っていることは親のような愛情によってなされたものであると伝えたいのです。主イエスは、天には父がおられることを、わたしたちに教えられました。それでわたしたちは、「天にまします我らの父よ」と祈ることのできる神が親としておられることを信じることができるようになったのです。
パウロが彼らに負担をかけたくない理由は、第一に、彼は彼らの富を求めていないことを知らせるためです。そして第二にパウロは彼らに対し、父親の役目を果たすことを願っているからです。わたしの羊を飼いなさい、と命じられた主に従う良い牧者とはだれでしょう。それは、羊たちに対して自分自身の益を求めず、羊たちの救いを求める牧者です。ですから、たとえ主に仕える者が人々を求める時にも、人々を自分のものとして独占しておこうという意図をもってしてはならないのです。
こうして、パウロは自分の働き、自分の持つすべての力を、コリントの人々のために使おうとする備えが出来ていたのでした。そればかりか、自分の命をも危険にさらし、彼らにどんなに粗末な扱い、冷たい扱いを受けようとも、変わることの愛情を持ち続けたことが知らされるのです。まさしく親以上の献身と愛情のしるしであります。しかし、今日の御言葉が示された目的は、ただわたしたちがパウロに感動するためではありません。彼の心に倣うようになるためであります。それゆえ、特に牧会する務めを持つ者はこの聖書箇所によって、自分たちが教会に対して果たすべき義務は何かを学び知るべきであります。祈ります。
御在天の父なる神様、
あなたはすべてのものをお造りになり、中でも人間を神のかたちとして尊いものとしてお造りになりました。人はあなたに背を向けて不幸になりましたが、あなたはイエス・キリストをお遣わしになって、今なお変らないあなたの愛をお知らせくださいました。主よ、わたしたちは本日、福音を宣べ伝えるパウロが真にあなたの父としての愛を伝える者として、親が子を思うように、人々を思う姿を学びました。キリストによってあなたを父と呼び、あなたの子となりましたわたしたちも、パウロの思いに倣うものとなりますように。教会を愛し、主に結ばれた人々を愛し、何とかして良いものを後の人々に残すことができますように。良いものとは、何よりもあなたに対する信頼であります。あなたがお遣わしになった救い主によって罪赦されたことを信じる信仰を、わたしたちの後に残すことができますように。 全世界が造り主であるあなたのものですから、どうか罪人を悔い改めさせ、世界を悪意による滅びから救ってください。教会が平和の砦として、平和を実現するものとして世に立ち続けることができますように。恥知らず、恩知らずの罪を犯している人々を忍耐して愛し続け、救いに招き続けたパウロの愛を通して、あなたの御心を悟る者とならせてください。わたしたちの身近な家族、親しい者たちを御手に委ねます。どうか特に病気に苦しむ者の苦しみをやわらげてください。試練の時にこそ、あなたの慰めをもって支え合うことができますように。来週の礼拝は大塚啓子牧師が成宗に奉仕して下さいます。真に感謝です。どうか喜びと感謝に満ちた礼拝となりますように。大塚先生のご準備を祝して下さい。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。