聖書:エゼキエル45章9節, エフェソの信徒への手紙4章25節-5章1節
昨日、ポストに宗教の宣伝ビラが入っていました。ハローウィーンの季節を意識してか、おどろおどろしい夏のお化けのようなイラストで各宗教を説明していました。それは仏教系の新興宗教なので、仏教以外は皆ダメだと書いてあり、特にキリスト教に至っては、「神に見捨てられた人を拝んでいる」人々がいるなんて全く信じられない弱い宗教だと総括していました。思わず微笑んだのは、これとまったく同じ感想が、古代ローマ帝国時代の人々に聞かれたということを、東北学院大学の松本宣郎学長の講演で聞いたことがあるからです。
日本社会は只今、かつて経験したことのない少子高齢化社会であり、また世界的にはIT革命の時代であります。人の仕事がITに奪われると危機感を持ち、まるで人間の価値が仕事で決まるかのように騒ぎ立てる時代に、わたしたちは呆然としてしまうかもしれません。しかし、どんな時代にも教会は信仰を受け継いで来ました。今とは異なる危機ではありますが、今より軽い患難では決してない、危機の時代を生きて、教会は旅を続けております。わたしたちは「弱いときにこそ強い」というみ言葉(Ⅱコリ12章10節)を与えられています。なぜなら、イエス・キリストがわたしたちの弱さをすべて身に受けて、弱さの極みを御自分のものとし、反対に神の強さをわたしたちに与えてくださったからです。わたしたちはこの方を救い主と信じ、自分の罪を告白して、キリストに結ばれるものとなりました。
わたしたちはキリストに結ばれ、キリストの体の教会の部分となっています。イエスさまは言われました。(ヨハネ15:4…198頁)「わたしに繋がっていなさい。わたしもあなたがたに繋がっている」と。またこうも言われます。「人がわたしに繋がっており、わたしもその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ(ヨハネ15:5)」と。わたしたちはどのようにして教会の肢となるのでしょう。それは洗礼を受けて肢となるのです。ではどのようにして教会の肢として、イエス・キリストに繋がっていることができるのでしょう。それは、礼拝を捧げ、神の言葉によって養われることによってつながっているのです。
さて、イエスさまに結ばれた者は、罪赦され救われていることを、どのように感謝したら良いでしょうか。これがわたしたちの大きなテーマです。今日まで学んで来た 十戒 も、この大きなテーマの中で学んでいます。すなわち、わたしたちが暮らす一日一日は感謝の生活であるはずだからです。今日は十戒の第八番目です。第八戒とは何でしょうか。それは、「あなたは、ぬすんではならない」です。世の中の犯罪の中で最も多いのは、窃盗、ひったくり、そして万引きだそうです。盗むというとそういうことを思い出しますので、わたしは盗んでない。だからわたしには関係ない、と思うかもしれません。
しかし、この戒めは単に物を盗むことだけを言っているのでしょうか。決してそうではないのです。この戒めも第六戒の「殺してはならない」や、第七戒の「姦淫してはならない」と同様に、人と人との関係を破壊するに至る重大な罪を指しているのです。盗みの非常に深刻な一例は誘拐であります。誘拐はすなわち人間を盗むことです。古代社会では労働力を確保するために誘拐が頻繁に行われました。先週取り上げました創世記のヨセフ物語でも、悪意ある兄たちは、穴に入れられたヨセフを、売ろうか、どうしようかと相談しているうちに、商人の一行が来て、穴の中の子供を勝手に引き上げ、奴隷として売るために連れ去ったことが語られています。このことからも、誘拐が珍しくなかったことが分かるのです。しかし、自分の身にそういうことが起こることを少しでも想像すれば、誰にでも分かることですが、自分の人生が誰かの手に握られるのは、失われたも同然であります。そして、誘拐された家族の生活も破壊されます。
本日の旧約聖書はエゼキエル45章9節を読んでいただきました。「主なる神はこう言われる。イスラエルの君主たちよ、もう十分だ。不法と強奪をやめよ。正義と恵みの業を行い、わが民を追い立てることをやめよと、主なる神は言われる。」ここでは誘拐という盗みとはまた異なった盗みについて、預言者の言葉が語られます。大国との戦争に破れたイスラエルの人々は奴隷の民となってバビロンに引いて行かれ、異国で敗戦の民の憂き目を味わいました。ペルシャ王クロスの時代から祖国への帰還ができるようになったのですが、依然としてイスラエルは外国の支配を受ける属国でありました。その属国を支配する者は同じ神の民、イスラエルでありながら、上に立つ者が権力を奮い、貧しい人々を苦しめ、搾取したのです。彼らはどうやってそれをしたのか。貧しい人々から盗んでいるとは、全く思いません。支配者たちは自分たちの都合の良い方法で、お金を貸し、作物の種を貸し、土地を耕させるからです。しかし、農耕民は借金が返せなくなると、先祖からの嗣業の土地を手放さざるを得なくなる。また、土地ばかりか、子供たちさえ売らなければならない。最後には自分自身さえも、借金の抵当として取られてしまう。こうして真に深刻な共同体の破壊が起こりました。
このようなことが起こらないように、村の人々を守り、町の人々を守ることこそ、上に立つ指導者、権力者の務めであったはずです。エゼキエル書の預言者は叫びます。正義と恵みの業を行えと。そのためには、正しい度量衡を施行することも、支配者の責任でありました。申命記25章13-16節には次のように言われます。「あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升をおいてはならない。あなたが全く正確な重りと全く正確な升を使うならば、あなたの神、主が与えられる土地で長く生きることができるが、このようなことをし、不正を行う者をすべて、あなたの神、主はいとわれる。」320頁上。ところが法に違反して、二種類の升、二種類の重りを使い分けて、不正な取引が実際行われ、その結果は貧富の差の著しい拡大となりました。
盗んではならないという戒めが指し示すものは、わたしたちの生きる社会、世界でも全く同じではないでしょうか。イエスさまの許に来た金持ちの青年がいました。マタイ19章16節です。彼は尋ねます。「永遠の命を得るには、どんな良いことをすればよいのでしょうか。」イエスさまは十戒によってお答えになりました。「殺すな、姦淫するな、偽証するな、父母を敬え、また隣人を自分のように愛しなさい」と。青年はこともなげに答えました。「そういうことはみな守ってきました」と。それほど簡単に答えられることの方が不思議です。しかし彼は、「持ち物を売り払って貧しい人々に施しなさい」と勧められると、悲しみながら去っていきました。盗んではならないという戒めの意味の深さ、大きさを彼は思いめぐらすことができなかったのでしょう。今日の世界中の貧富の差を考えると、そしてますますそれが開いて行くということを知らされると、本当に深刻なことではないでしょうか。キリストの体に結ばれているわたしたちは、ただ主を仰ぐより他はありません。
今日読んでいただいた新約聖書は、エフェソの信徒への手紙4章25節からです。「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。」わたしたちは神さまが人間を神の形にお造りになったと教えられました。ところが、神さまに背いて以来、神の似姿を失ってしまいました。イエスさまは真の神の子であられますが、人間を救うために背きの罪を贖ってくださいました。わたしたちは真の神の子と結ばれて、神さまが最初に人間にお与えになった神の形を回復させていただいたのであります。そこで神の形と言われる人間になるとは、どんな風になることなのでしょうか。
それは神さまの似姿ですから、神さまに似たものとなることです。神さまは真実な方ですから、わたしたちもまた偽りを捨て、真実を語ることを目指します。クリスマスが近づくと聖書に読まれる祭司ザカリヤはこう歌いました。ルカ1章74節。102頁。「こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。」これは「わたしたちは清く神さまに仕えたい」という目標です。そして「正しく隣人と仕え合いたい」という目標です。しかし、これはわたしたちの力でできることではありません。ただ教会の主イエスさまに結ばれているからできる希望があるのです。26節。
「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」カルヴァンは怒りの三段階ということを言いました。第一は、自分の一身に関わる不正、過ちに動揺して腹を立てることです。第二段階は、ひとたび動揺すると度を越して激しい怒りに走ってしまうことです。第三段階になると、自分に対して向けるべき怒りを兄弟たちに向けるようになります。いわゆる八つ当たりで、自他ともに思い当たることではないでしょうか。パウロが勧めているのは、罪を犯さないように怒りなさいということです。そのためには怒りの原因を他人よりも自分の中に求めなければなりません。また怒ることがあっても、いつまでも怒り続けることのないように努力しなさいと勧めています。
ところで、皆様は思うかもしれません。今日の第八の戒めと怒りとは関係がないのではないかと。これまで盗んではいけないのは、物だけではないことを学んで来ました。人そのものを盗んではならないのです。そうだとすれば、人の心にあるものも盗んだり、奪ったりしてはならないのです。パワハラで奪われるものは心の平安ではないでしょうか。八つ当たりされる家族は、落ち着いていられません。小さい者、弱い者ほど、激しく盗まれるのではないでしょうか。27節。
「悪魔にすきを与えてはなりません。」怒りに身を任せている人はサタンに心が占領されているのです。また、それがいつまでも根深い恨みとなって心に残れば、それは癒しがたい病となるでしょう。28節。「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。」くり返して申しますが、盗みを働いていた者とは、泥棒家業の人ではありません。ここでは、人間の裁きでは見逃されてしまうような、隠れた盗みのことを言っているのです。つまり、他人の利益を自分の方に引っ張って来るあらゆる種類の横領を含めて考えています。オレオレ詐欺は実に巧妙ですが、人から名誉を盗む、評判を盗む、人のことを巧みにけなしたり、持ち上げたりして自分の利益になるようにもって行く人は、自分でも盗みを働いているとは、全く気付かない。そこにわたしたちの隠れた罪があります。
しかし、わたしたちは、ただ神の言葉によって過ちが正され、悔い改めに至るように、聖霊の助けを絶えず願いましょう。教会の肢であるわたしたちには高い目標が与えられています。これまで他人の利益を密かに奪うようなことをして来たとしても、これからはだれにも害を及ぼさないように働くという目標です。それは、ただ単に自分を養うだけのものを得るために働くだけではなく、他の人々を助けることができるようにならねばならないという高い目標です。自分だけのために生きることを考えるのでなく、互いの必要に役立つように努力する。これこそがキリストが与える愛の目標なのです。
わたしはもう年取って何の役にも立たないと、言いたくなる気持ちはよく分かります。しかし、それもまた、人間の側の身勝手な判断ではないでしょうか。だれが役に立つのでしょうか。だれが役に立たないというのでしょうか。わたしたちが役に立つのはキリストに結ばれているからです。もし人が、わたしに繋がっているならば、その人は豊かに実を結ぶと主は言われたではありませんか。「生きている限り清く正しく」と歌うザカリヤの言葉は真実です。わたしたちの判断によってではなく、ただ主の恵みによって、わたしたちは第八の戒めを守る者とされるでしょう。
カテキズム問48 第八戒は何ですか。その答は、「あなたは、ぬすんではならない」です。神さまは、わたしたちに必要なものをすべて与えてくださいます。しかし、自分に与えられたものを恵みと理解せずに、むしろ不満に思って、人に与えられている神さまからの恵みを奪うことが禁じられています。」祈ります。
主なる父なる神さま
今、わたしたちは、必要なものはすべて豊かにあなたから与えられていることを、教えられました。真に感謝です。わたしたちの救いのために、御子をも惜しまず、すべてのことを成し遂げてくださったことに、あなたの豊かさを知る者でありますように。そして讃美礼拝する者となりますように。
わたしたちを主の体の教会に連なる者としてくださったこの計り知れない恵みを感謝します。わたしたちはこの群れに在って、互いの安否を尋ね合い、互いの喜びを喜びとし、互いの悲しみを悲しみとして、キリストの体にふさわしい教会となりますように。どうか御言葉を以てわたしたちを養い、守り、教会を建ててください。成宗教会は連合長老会に加盟し、5年が経ちました。東日本の諸教会との交わりを感謝します。また更に大きな教会の交わりを与えられ、共に助け合って、教会形成をする道が開かれますように。
目に見える教会の行事の一つ一つを顧みて、福音伝道にふさわしく整えてください。働く者が足りないと思っているわたしたちですが、あなたがいつも必要を満たしてくださいました。特に来週行われるバザーの行事、事故無く怪我無く、あなたの御旨のままに良き交わりの時が与えられますように。奉仕する者、参加する者を祝福してください。また今、ご健康を害しておられる方、いろいろな悩みの中にある方、遠くにいて教会を覚えている方々を顧み、共に主に在って一つの群れとしてください。
成宗教会は、主の恵みの下に、東日本連合長老会の指導を受けて牧師後任の人事に取り組んでいます。そのすべての上にあなたの御心が成りますように。 すべてを感謝し、御手に委ねます。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。