主日礼拝
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌138番
讃美歌380番
讃美歌444番
《聖書箇所》
旧約聖書:詩篇 8篇7節 (旧約聖書840ページ)
8:7 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
新約聖書:エフェソの信徒への手紙 1章22-23節 (新約聖書353ページ)
1:22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。
《説教》『教会はキリストの体』
今日は教会学校との合同礼拝の日で、いつものマルコによる福音書から離れ、教会学校の教案からエフェソの信徒への手紙1章の「教会はキリストの体」からです。
皆様は、お子さんやお孫さんから「教会ってなあに?」って聞かれたら何と答えますか。屋根に十字架のついた建物を思い浮かべ、今、ご一緒に礼拝しているこの建物を思い描くかもしれませんね。
最初にハッキリ言うと、教会というのは「建物」のことではありません。教会とは、私たちキリスト者、世界中の主イエス・キリストを信じるすべての人々のことです。神様によって呼び集められ、イエス様に結び合わされている私たち全員のことです。私たち一人ひとりが教会なのです。どんなに立派な教会の建物を建てたとしてもそれだけでは教会にはならないのです。また反対に、集まっている建物や部屋がたとえどんなに小さくても、ちょっと古くても、そこに神様によって呼び集められた人たちが居るなら、それが教会なのです。
教会とは、神様を信じるすべての人たちのことです。この成宗教会だけでなく、世界中の教会を一つに合わせて大きな大きな教会なのです。
今日の、エフェソの信徒への手紙は使徒パウロが書いたものです。1章はその書き出しで「神様が教会のために万物に対する主権をすでにキリストに与えた」という大胆な発言(22)で始まっています。22節の「すべてのもの」とは、キリストの主権に立ちはだかる悪魔の力をも含む神様によって造られた被造物すべてを意味しています。悪魔でさえも、キリス卜の主権に服しキリストの支配に従うものとされています。
何故、このような全世界のすべてが従うと言った大胆な、大きな話で始まっているのでしょうか。
それは、ここでは、神様の存在を疑い、神様のなされる御業を疑っている人々に対して、神様がパウロを通して私たち人間にとって最も大切なことが、ここに語られているのです。神様を疑っている人々に対して、神様がすべての人間の救いを完成させるという最高のご計画を行われることを、その疑っている人々に向かってパウロが話を始めているのです。すべてのもの主であるキリストがすでにその救いを始められたから、世界のいかなる者も、この神様の救いのご計画を挫折させることはできないと言っているのです。
20節から22節で「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」とあります。パウロはエフェソ教会の信仰者たちを始めとするすべての信仰者に働いている「神の力」を、彼らが感じて知ることを願いながら、その「神の力」を説明しているのです。その際に、主イエス・キリストを「復活」させた絶大な「神の力」が信仰者つまり「教会」を通して働いているのだと語っているのです。
パウロは「神の力」を主イエス・キリストにおいて、そして、教会において見ているのです。
神様は主イエスを復活させ、ご自分の右の座に着かせ、足元に従わせ、そして頭として教会にお与えになりました。教会の頭として与えられた主イエス・キリストは、私たちの教会を保ち、そして治めておられるのです。そのことを私たちが知る、知らないに関わりなく、「神の力」が現実に、現在只今教会に働いているので、主イエス・キリストが教会の頭、主であるのです。そして、同時に「世界の主」であられるのです。これが、パウロの信仰告白と証しです。
また23節で「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」とあります。この「すべてを満たしている方の満ちておられる場」である教会に「満ちておられる方」とは聖霊です。聖霊が教会に満ち満ちておられるのです。聖書の中には「教会」を現す比喩、表現がたくさんあります。少し先の5章では教会が「キリストの花嫁」という表現でも記されています。「教会はキリストのからだ」であると表現されたり、「キリストはからだである教会のかしら」であると複雑な表現がされています。「体なる教会」は、「かしらであるキリスト」の聖さと栄光に与るものである、キリストの聖さが教会に反映されるのであるとされています。この、「かしらとからだの結合」と同じく、「キリストと教会の結合」は命あるものが持つ生命的な関係、生き物の体全体が健全な時に生命があって、生きているのと同じ関係なのです。その関係を形作る「命」は復活の主イエス御自身であり、教会は復活の主イエス・キリストご自身である聖霊によって、神様が満ち満ちるのです(エペ1:23、4:10、コロ2:9‐10)。この生命的な関係があるからこそ、「からだなる教会」は日々成長し、完成へと向かうことが保証されているのです。そして、からだの一つひとつの手足であり器官であるであるキリスト者たちによって教会が建てられ、生命を持つのです。その生命ある教会の建てられた目的とは、聖書の御言葉に記された神の御旨に従う務めを通して、目標である「万人の救い」に到達することです。その目標達成にために「体なる教会」には、信仰の一致と信仰の成長への努力が求められているのです(エペ4:11‐16、ロマ12:4‐8、Ⅰコリ12:27‐31)。
本日の箇所にある「キリストの体」という表現は、主イエス・キリストご自身が、今もこの地上を、この時間の中を歩んでおられる、それがキリストの体としての教会であるということです。
私たちの目に見える教会は人間の集まりです。それも、この世にあっては罪人の集まりでしかないのです。しかし、教会は罪人の塊で終わっているのではありません。教会には私たちの目には見えない聖霊が今、この時も働いているのです。キリストが天にあげられ私たちに派遣すると約束してくださった聖霊が「キリストの体」を形作って、日々私たちに働きかけてくださっているのです。「キリストの体」としての教会には、聖霊である神様が満ちておられるのです。教会は主イエス・キリストが生きておられるところ、聖霊の共同体であるということです。この主イエス・キリストを頭、主とする私たちの交わりが神様の御自身の現臨、今生きて働いておられる場とされていることを、私たちは常に思い起こし、また共にこのことを証ししなければならないのです。
お一人でも多くの方々、とりわけ皆様の愛するご家族の方々が、今もここに死の力に打ち勝って「教会のかしら」として生きて働いておられ、聖霊として臨在される「主イエス・キリストの救い」に入れられますよう、お祈りいたしましょう。