主は天に昇られた

聖書:詩編6819節, エフェソの信徒への手紙4716

 あまり実感がないのですが、世の中は好景気なのだそうです。その証拠に今は人手不足だということで、若い人々の就職活動も順調と聞いて、まずは良かったと思っています。考えてみれば、少子高齢化社会では、人手不足は慢性的なものと思われます。私のおばあさんは、私の両親が結婚することになった時、「さあ、これからはご飯炊きから洗濯から縫物まで、全部嫁にしてもらって遊んで暮らしましょう」と言ったと聞いたことがありますが、その時祖母は40代前半だったのです。今頃それを思い出して驚きます。昔は40代半ばぐらいの年から何も労働をしないで老後を暮らそうと言えるほど人手があったのだ、と。

それから祖母は40年以上生きたのですが、今の高齢者はそうはいきません。「長生きするなら、だれにもあまりお世話をかけないように、自立した心構えで生きなくては」と互いに励まし合う時代です。そして、これからはますますそうなるでしょう。高齢になっても、できることは自分で何でもするようになります。このことは、教会の歩みに一番よく表れていると思います。地上の教会はその時代、その地域に建っているのですから、その時代、その地域の社会の姿を映し出さないはずはないからです。そしてその社会の中で、その社会が抱える問題のただ中で、教会は建てられて来たからです。

今日のエフェソの信徒への手紙4章7節は、教会のわたしたち一人一人にキリストの賜物が恵みとして与えられていることを語っています。教会もまた人手不足。奉仕する人々が足りない。礼拝に出席する人々が不足している。そういう不足を嘆くわたしたちに、子の手紙は語りかけています。キリストの賜物は、恵みとして与えられているのだよ、と。わたしたちの思い煩いにもかかわらず、わたしたちの努力を超えて、恵みとして与えられるのだよ、と諭されているのです。

8節の聖句は、旧約の詩編68篇19節の引用と思われます。「そこで、「高い所に昇るとき、捕われ人を連れて行き、人々に賜物を分け与えられた」と言われています。」ここには主語が語られていませんが、イエス・キリストのことを証ししているのです。この方は高いところ、すなわち天に昇られた方であるというのですから、それなら、天に昇る前は地上におられたことになります。キリストは地上に来てくださり、福音を宣べ伝え、神の国、天の国にわたしたちを招いてくださった方です。そしてキリストはわたしたちが天の国に入るために、わたしたちの罪を清めてくださった。それが十字架の贖いであります。

主イエスさまはわたしたちの罪のために死なれ、陰府に降り、三日目に甦らされました。それによって、わたしたちの罪の贖いがなされたのです。キリストの死は、わたしたちの罪の死であります。そして、キリストの復活はわたしたちの罪が赦されることを証しするものにほかなりません。さて、主イエスは御復活の体をもって40日弟子たちと共におられました。それから、使徒言行録1章によれば、弟子たちの見ている前で天に上げられました。それならば、キリストは御自分の御体をもって天に行かれたということではないでしょうか。「主イエスが天に昇られた」という天、新共同訳聖書では「高い所」と言われているこの言葉は、空の果て、宇宙の果てという空間を意味しているのではありません。天とはご復活の主が神と共におられる所であり、神の御支配が行われている所なのです。

ところで、マグダラのマリアは、ご復活の主に出会った時、喜びのあまり主に駆け寄ってすがりつこうとしました。その時主イエスは彼女に言われました。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。」しかし弟子たちもまた、マリアと同じ思いだったかもしれません。地上で主イエスに出会った人々は、「いつまでも主と共に地上で暮らしていたい。今までのように、目で見て、耳で聞くことのできる先生と」と思うのは無理もないことではなかったでしょうか。

しかしキリストは、ご自身が弟子たちから離れて天に上げられることの利益について教え諭しておられます。その言葉は、ヨハネ16:7にあります。200上。「しかし、実を言うと、わたしが去っていくのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」主が天に上げられる意義は、何と言っても、その事がわたしたちのためになる。利益となるからなのです。主イエスが天に昇った時、主は地上に残っている弟子たちに、弁護者を送ると約束されました。弁護者とはだれでしょうか。弁護者とは聖霊の神であります。

主イエス・キリストは天に昇り、父なる神の右におられることによって、父なる神と共に、全能の力をもって、わたしたちを救いに導いてくださいます。そのために主イエスは父と共に聖霊の弁護者を送ってくださり、わたしたちと共にいてくださると約束してくださったのです。思えば、キリストの地上の生涯、十字架の死と復活は、パレスチナという世界のごくごく狭いところで起こったのでした。そして時間の限られた間に起こった出来事です。歴史の中に神がご自身を現わしてくださったということは、限られた時間と空間の中に限られた命の中に御自身を現わされたということに他なりません。しかし、御子イエス・キリストは限られた命に死んで限りなき命に復活されました。そうして主は天に昇られました。このことによって、主は全世界の信じる者すべてと共に生き、昔も今もそして今より後の時代にも、信じる者と共にいてくださるのです。聖霊が教会の人々に送られるのは、「すべてのものを満たすため」なのです。

弟子たちの上に聖霊が降った最初の出来事は、ご存知のようにペンテコステの日として聖書に書かれ、人々に語り継がれました。すなわち、聖霊は、主を信じる者が皆集まって共に祈っている所に来てくださいました。聖霊によって聖書の言葉が神の言葉として与えられました。聖霊によって、語る者も聞く者もキリストが共にいらしてくださることを知る者とされたのです。このように聖霊は教会に降ったのでした。その頃は、教会堂も礼拝堂もなかったでしょう。人々は仲間の家に集まって聖書を読み、祈り、讃美しました。今も同じです。礼拝堂があれば教会なのではありません。礼拝堂に人々が集まって礼拝するから教会なのです。イエス・キリストの恵みを分かち合うために、聖霊の賜物が与えられました。

「この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。」キリストがもろもろの天よりも更に高く、つまり神の国にまで上られることで、主は今、わたしたちの目には今は見えない離れたお方となっておられるように思われますが、しかし実際は却ってそのために、聖霊の力によってすべての者を満たしてくださっています。つまり、キリストの霊的な力は、神の右に及ぶまで、広げられました。そして、キリストは天にあっても地上でも、その無限の力によって、至る所に現存しておられるのです。

「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」このように、教会のいろいろな役職、役割が書かれています。これは初代教会の話でありますから、今日の諸教会の教師や長老の役職とは一致しません。しかし中でも牧者は羊飼いを表す重要な役職でありまして、その務めは羊飼いです。常に先頭に立って羊の群れを導き、牧草地に連れて行って食物を与え、流れのほとりで水を飲ませ、野獣などの外敵から身をもって羊を守ることそのものであります。もちろん、絶対的な意味では、キリストがすべての信徒の牧者であることが前提となっています。

福音がその職務に遣わされたある一定の人々によって説かれるということは、教会が完全にこの世に存続して最後に全く完成されるに至るために、主が教会に、統治と、秩序を保つことを望んでおられるからです。わたしたちは自分に能力がない、力が不足していることを、大変痛感することがあります。特に高齢化社会の教会は、若い人が溢れ、我も我もと奉仕を申し出たような時代とは全く違っています。果たして自分に出来るだろうか、という思い。自分ばかりが大きな期待をかけられたらどうしようかといった不安や消極的な思いが先立つのです。

しかし、教会での奉仕においては、聖霊の助けによって賜物が与えられていることを信じることが大切です。人が神に奉仕するよう呼ばれる時には、必ずその務めに必要な賜物が与えられるのです。教会はキリストの体と呼ばれるのですから、その体は非常に多種多様な部分をもっていることは当然のことであります。もしも皆が同じ顔、同じ賜物、同じ特徴しかないなどという教会があるなら、それこそは異常なこと、異様なことではないでしょうか。キリストの体全体は多様性によって保たれております。このことによって、主イエス・キリストは求めておられるのは、おかしな競争意識、異常な妬み、世の人々が追い求める野心が蔓延らないように、教会から取り除かれることではないでしょうか。

そしてキリストの体である教会は、その部分の一部が大切にされたり、一部がないがしろにされたりすることはあり得ない。皆がキリストに呼び集められた者として大切なのですが、教会の統治については、はっきりと理解しておかなければならないことがあります。それは、教会を総べ治めるのは、キリストであるということです。キリストはみ言葉によって、統治なさるのです。この世のように鞭と飴によって、脅しとおだてによって統治されることはあり得ません。ですから教会の統治はみ言葉を語ること、聞くことによってなされることを常に覚えなければならないのです。

すなわち、教会の統治は御言葉への奉仕によって成り立っています。それは、人の考え、人の力によって造り出されるものではありません。ただ神の子イエス・キリストによって立てられるものなのです。この務めを果たすように教会に任命された者は、その務めを果たすのに十分な責任も能力も二つ同時に授けられることを信じましょう。厳しい言い方をするならば、御言葉の説教者であろうと、または御言葉を聴く会衆であろうと、この務めを拒否する者、あるいは軽蔑する者があれば、その人は、キリストを侮辱し、それに叛く者となってしまっているのです。なぜならキリストは、その務めを立てた方なのですから。

だからこそ、わたしたちの教会が後任の教師を招聘するために、連合長老会にお願いしている最も大切な条件はここにあります。それは、日本基督教団信仰告白にも唱えられている通り、御言葉を正しく宣べ伝え、聖礼典を正しく執り行うための教師です。教師が与えられる職務はキリストに励まされなければ、この務めを全うすることはあり得ないのですから、わたしたちはひたすら祈って主に委ねて参りましょう。祈りこそ、わたしたちに求められている第一の奉仕でありますから。

13-14節「こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。」

大変厳しいことに、今、礼拝を守るだけの体力がなくなっている信仰者がたくさんおられます。そしてそうなってますます礼拝に集まることの大切さを痛感しておられるのを、わたしたちは知っています。逆に教会に来ようと思えばいつでも来られる人々の中に、「教会に集まる必要はない、家で聖書を読んでいれば良い。教会の共同の奉仕などは全く必要ではない」と思っている人がいるとしたら、それは傲慢と言わなければなりません。

主が天の昇られたのは、教会に連なる人々に賜物を与えるためでした。互いに足りないところを助け合い、礼拝を捧げて御言葉を宣べ伝え、御言葉を聴くために、讃美の声を合わせるために、すべてが整えられるのです。教会は信仰者すべてに共通の母であります。信仰者はキリストの中に生まれ、大きい者も小さい者をも教会の主が養い始められます。それがみ言葉によって、説教と聖餐に与ることによってなされるのです。同じ教えに呼ばれ、集められるということは一致を保つための訓練なのですから。

わたしたちは本日、主が天に昇られたことの意味を学びました。「頭であるキリストに向かって成長していく」希望を与えられているのは天の昇られた主から教会に注がれている聖霊の賜物であります。主はこうしていつまでも教会と共にいてくださいます。祈ります。

 

主なる父なる神様

尊き御名をほめたたえます。今日の礼拝にもわたしたちに天から聖霊を注いで下さり、御言葉で養ってくださいました。小さな群れですが、あなたのお支えは決して小さくはなく、目に見える恵みと共に目に見えない恵みを豊かにいただいておりますことを感謝します。ここに集まる兄弟姉妹ばかりでなく、集まることのできない方々が、この礼拝を覚えて祈り、あなたの御前に静まっていることを私たちは思います。御言葉の恵み、主の愛を形に表すべく、わたしたちは今週も教会から出かけて行って働きたいと思います。

非常に苦しんでいる人々の苦しみがそれだけではないことを、どうかわたしたちに知らせてください。イエス・キリストが地上で非常に苦しまれましたが、その御苦しみがわたしたちの救いのためであったように、わたしたちは困難と向き合っている人々によってあなたを思い起こし、人々のために祈り、わたしたちも勇気と愛を主からいただけるように、祈ります。そしてどうぞ、教会に連なっている方々とあなたの恵みの下に再会することが出来ますように。

わたしたちの弱さ、思い煩いをご存じの主が、どうか絶えずわたしたちを励ますために聖霊を送ってくださいますよう。そして父、御子、御霊の豊かさに与り、喜びと感謝を以て従って、教会を建てて行くことが出来ますようにお助け下さい。本日も、遠くから困難を乗り越え、あなたに勇気を与えられて礼拝に集められ、奉仕された方々のゆえに感謝します。どうぞ帰りの道をも祝福の中にお守りお導きください。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ

聖書:イザヤ53章6-12節, エフェソ3章14-19節

 本日は、成宗教会の教会総会が開かれます。そこに上程します議案については、日本基督教団の教会規則によって、既に公告がされております。私は2017年1月の長老会議に退任の希望を提出し、同年3月に長老会として承認されました。私は退任の期日を、2018年3月末と希望しましたので、今年度の教会総会に議案として上程されることになったわけです。教会総会の議員資格を持っておられる方々には、是非とも総会にご出席いただきたいのですが、皆様の中には健康上の理由から、礼拝後の会に継続して参加できない方々もおられます。そこで、礼拝のメッセージを通して主の御心が成宗教会に伝えられることを私は心から願い祈ります。

私が辞任することは、この教会の歴史の一ページが閉じられ、また新しいページが開かれることです。一人の教師、この教会の牧師であった者が辞任をします。しかし、牧師が辞任することは、教会にとって決して大きなことではありません。なぜなら牧師が辞任しても、しなくても変らないことがあるからです。それは変らない一つの願いです。わたしたちに一つの共通の願いがあります。それは何でしょうか。イエス・キリストが集めてくださった群れを守り、キリストの一つの体とすることです。

このただ一つの願いのために、私もここに務めさせていただきました。この一つの願いのことをわたしたちは最初から知っていたでしょうか。理解していたでしょうか。私自身については最初から十分知っていたとは言えません。ただ、献身の決意を与えた御言葉は次のものでした。マタイ9章36-38節。(17ページ)「イエスは(中略)また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。』」

私は教会が「ただ飼う者のない羊のように弱り果てている」ことを知っていました。それは何もこの教会がそうだというのではありません。私は、赴任するまで成宗教会を知らなかったし、教会の方々もわたしを知らなかったのですから。そして、この教会の方々も、自分たちは「飼う者のない羊のよう」だと思っておられたかどうかわかりません。

そもそも、私たちは皆、私たちには一つの願いあることを、共通の願いがあることを知らなかったのではないでしょうか。なぜなら、この願いは元々から私たち自身の願いではなかったからです。この願いは、私たちに与えられた願いであったのです。そして今は、私たちに与えられて、共通の一つの願いとなっていることを、私は確信しています。その願いとは元々、私たちが願ったものではなかった。では、それは誰の願いだったのでしょうか。それは主の願いだったのです。主が、父・御子・聖霊の神様が切に願っておられたので、主はその願いを私たちに与えて下さり、私たち自身の願いとしてくださるのです。

今日、読んでいただいたイザヤ書53章6節。「わたしたちは(われわれのすべてが)羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。」ところが、道を誤り、散り散りになって行った私たちのすべてを、主は放置されたでしょうか。主は私たちが滅びに向かうことを望まれませんでした。だからそのままにされませんでした。主は、一人の僕を立てられました。御自分に全く忠実な僕を。そして道を誤った私たちの罪を負わせられ、苦しみと死を受けさせられました。一体それは何のためだったでしょうか。それは一重に、ただ一重に彼らを正しい道に呼び返すためではなかったでしょうか。

 イザヤ53章11節。「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った。」私たちは、主イエス・キリストの死によって贖われ、救われました。私たちは、正に主の苦しみの実りなのであります。ですから今、私たちは救われたものとして、主の道に立ち帰らなければならない。さまよい出た道から、主の導かれる道へと立ち帰るのです。主に立ち帰るならば、主に結ばれて、実を結ぶものとなるでしょう。主は御自分をぶどうの木に例えられました。私たちは主の体の肢。私たちの結ぶ実は何でしょうか。その実の名は「救い」です。私たちは主によって罪赦され、清められ、「永遠の救い」という実を結ぶのです。

 そのために、私たちは日々、主に立ち帰り、主に結ばれて生きるのです。この実りはまた自分自身のためになるばかりでは、決して終わりません。この実りは自分の救いを世に明らかに示し、そのことによって更に世の多くの人々を救いに招くために用いられるでしょう。世の多くの人々、その中に、私たちの隣人、身近な人々がいることを信じましょう。

私が成宗教会に遣わされて来たのは、そのためでありました。そして私が去って行くのも、またそのためであります。私ばかりでなく、信者となり、教会の肢として結ばれている私たちは皆、生きる時も死ぬときも、来る時も去る時も、働くときも休む時も、皆すべてが祝され用いられます。病気や困難、苦難でさえもこの目的のために用いられるに違いないのです。主からわたしたちに与えられた願い、父・子・聖霊の神様の一つの願いが私たちにあるならば。その願い、キリストの体である教会を建て、キリストと結ばれたい。その願いを私たちは主に捧げて祈りましょう。

今日の聖書エフェソの信徒への手紙3章14節。「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。」自分たちの働きが多いとか少ないとか、苦労が多いとか少ないとか、考えるよりも、またこれまでのことを振り返って、自分で評価したり、人を評価したりするよりも、何よりも前に、天の父の御前に恐れをもって立ち、心を低くして祈りを捧げましょう。なぜなら、私たちを実りあるものにしてくださるのは、私たち自身ではなく、主の憐れみと慈しみなのですから。

15節。「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。」神さまの御国には、すべて天にある血縁的につながる人々から、地上の血縁的につながる一群の人々がその名が記されているというのです。こう言われているのは、キリストがそうしてくださったからに他なりません。キリストがおいでになる前は、ユダヤ人は神の民と自分たちを誇り、その一方、異邦人は救いとは関係のない人々でありました。ところがキリストは地上においでになって、すべての人間のために罪の贖いを成し遂げてくださいました。そうして、キリストによって救われる人々は、一つの家族、一つの同じ親族に帰せしめられたばかりでなく、天使とさえも同じ一つの家族にされました。ですから、私たちを結んで神の家族とする絆は、イエス・キリストなのです。

パウロは祈ります。16-17節。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」

「内なる人」とは、どういうことでしょうか。それは、私たちの魂と霊的、精神的な生活に関わる全てを表します。それに対して外なる人という表現もありますが、こちらの方は、体の健康、富、名声、若さ、信用、その他これに類するものであります。人々の関心は専ら、外なる人を強めることにあり、頑張っています。それに対し、内なる人は、神の国に関わることでありますから、神の力によって強くされるのです。

パウロのこの祈りは、キリストによって神に仕える福音伝道者に共通の祈りです。それぞれの信者が賜物を与えられ、御霊の働きによって内なる人を強くしていただけるようにと祈ります。これは、だれでも御霊によって信仰が強められる希望があるからです。つまり、私たちは幼い者から年老いた者まで、だれもが成長させていただける希望が与えられているということなのです。パウロはⅡコリ4:16でも次のように教えて人々をはげましています。「たといわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日ごとに新しくされていきます。」329下。

私たちは、何かと人を評価して、あの人は立派な信仰者であると、まるで完全な人のように言うことがあるかもしれません。しかし宗教改革者は言います。「信仰者というものは、これ以上常に成長する必要はない、と言い得る位にまで進歩することは決してないのだ」と。そうだとすれば、信仰者にとって地上の生活の完全とは何でしょうか。それは信仰者として成長を愛するようになることです。少しずつ少しずつ、主に向かって成長する。「キリストに倣う」と言います。キリスト御自身も言われました。「天の父は完全な方なのだから、あなたがたも完全な者になりなさい」と。使徒パウロも、皆が自分のようになってほしいと述べています。けれども、このようなことは聖霊の働きによらなければ、だれも決してできないのであって、人間の能力ではないのです。

あらゆる良いことの初めは、神の霊のお働きによって起こったのです。そのように、私たちが、神様に向かって成長することを、心から愛し、望むならば、その望みもまた聖霊の働きであることを確信しましょう。では、内なる人の成長は何によって分かるのでしょうか。キリストは言われました。ヨハネ福音書14章23節。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」(197頁)キリストが聖霊によって私たちの内に住んでくださることの結果は、愛という実となって現れます。すなわちキリストによってわたしたちに示された神の恵み、神の愛がどんなに絶大なものであるか、ということが分かるようになるのです。

神の愛が、まるで立派な基礎を持った建て物のように、あるいは深い根を降ろした植物のように、わたしたちの内に深く在って堅固で不変のものとなるのです。そして、私たち人間はだれ一人、直接神を見ることはできないのですが、キリストが私たちと共におられることによって、人間に対するキリストの愛がどれ程大きいかを理解ようになるでしょう。18-19節。

「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれ程であるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」ここに聖徒の交わり、教会の姿が示され、祈られているのではないでしょうか。「すべての聖なる者たちと共に」と祈られているからです。罪ある者でありながら、共に罪赦され、罪の奴隷から解放され、キリストによって神のもの、神の家族とされた私たちであります。このことを日々信じる。心から信じる。そして互いに愛し合い、その弱さを忍び合い、助け合うことができるようにしてくださるのは、正に神の愛が、キリストの愛が、信じる群れに注がれているからに他なりません。

主の願いはただ一つの救い、ただ一つの教会を建てることです。そしてこの願いを主は私たちにもくださいました。この願いのために私は退任しますが、この願いのために、成宗教会に教師が新たに遣わされます。そして、新しい時代にも福音が宣べ伝えられる教会とされるのです。このことを皆さんと共に確信して祈りましょう。

キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ

十貫坂教会講壇交換礼拝説教

聖書:イザヤ53章6-12節, エフェソ3章14-19節

本日は東日本連合長老会の企画による講壇交換礼拝のために、お許しをいただいて礼拝に奉仕致します。私が皆様の教会の説教壇に立たせていただきましたのは、二度目、東日本の長老執事研修会の礼拝を含めますと三回目になります。改めて東日本連合長老会の交わりに加えていただいていることを感謝申し上げます。特に十貫坂教会では関川先生ご夫妻の時代から神学生を大勢受け入れて来られましたので、2010年以降、秋の神学校日には神学生を説教者として成宗教会に派遣していただきました。

地域連合長老会を中会として共に主の体の教会を形成するという目標は、もう何十年も前に掲げられ、取り組まれて来たと伺っています。しかし、この目標をより広く、多くの教会に紹介し、賛同する教会を仲間に入れるという取り組みは、そうたやすくできることではなかったと思います。クリスチャンはほとんどの人が、自分の教会だけが教会だとは思っていないのですが、教会は大きいところも、小さいところも内側ばかり見ているような傾向が続いていたのだと思います。

私が受洗した仙台東一番町教会も、その後転出した横浜六角橋教会も、名古屋教会も大きな教会でした。200~300人もいますと、礼拝出席以外、何もしなくてよいということで、「わたしは信者として楽をしている」という感覚がありました。そして小さな教会は大変だろうと思っていました。そこで、東神大に入った時、小さな教会に奉仕したいという漠然とした希望を持ちました。念願かなって成宗教会に赴任しまして、無我夢中で教会を建てようと頑張ったと思います。「どう頑張ったのか」と言えば、自分の遣わされた教会以外のことは何も考えず「わき目も振らず頑張った」ということです。

しかし、その当時、大きな教会は内側で満足しているという批判があったとすれば、私のしていたこともまた、内側だけに集中していたことでした。つまり多くの教会は、大きさは違っていても、同様に各個教会主義でありました。そして今、日本の教会は社会全体と同じく少子化高齢化の問題を映し出しております。あんなに盛んであった婦人会が高齢化で成り立たなくなっている教会が増えているからです。

去年の春から東日本の婦人会の活動の中で、それぞれの教会の実状を話し合う機会がありました。大変困っている教会から、今までと変わりないという教会まで、様々な様子が話されました。ある時、十貫坂教会の婦人会の方がそのような話し合いの感想を語られ、「こうして集まって、ほかの教会の婦人会の様子を知ることが出来てとても良かった」と仰いました。その時、私は大変うれしい気持ちで一杯になりました。それは、誰もがだんだん余裕がなくなって行く時代に、そして教会に人手がない、お金がない、労力がないと思い、もう他の所のことは考えていられない、と言いたくなるような時に、他の教会の窮状を聞いて、「それは大変なことだ」と思うことが出来る、その心は、一体どこから来るのでしょうか。

それこそが、今日の聖書で、私たちに与えられていることなのではないでしょうか。それは私たちに祈りの言葉として与えられています。会衆に向かって語られますが、しかしそれは何よりも御父の前に謙って捧げられた祈りです。「御父から、天にある家族、地上にあるすべての家族がその名を与えられています。」家族という言葉は、共通の先祖によって血縁的につながる一群の人々を意味します。しかし、御父の家族はどうでしょうか。それは、すべての人間がキリストによって一つの家族、一つの同じ親族に帰せしめられたばかりでなく、天上の霊的な存在である天使とさえも同じ親族にされたということなのです。かつては神の家族は、特別に選ばれたイスラエルの民族だけと思われていましたが、今や、イエス・キリストの執り成しによって罪赦され、御子イエス・キリストの死に結ばれ、その復活に結ばれて、すべてのものが一つとされた主の教会、それが御父の家族なのです。

もはや人はだれも、他の人々を軽視軽蔑したり、また神の家族であるという誇らしい名前を自分たちだけのものにするために、血筋や、能力や、いろいろなものを誇ることはできません。ただキリストによって神の家族とされたこと以外には、教会の人々に誇るべきものが一切あるはずがないのです。キリストのみが私たちをを結ぶ絆であって、キリストを他にしては、ただ無秩序があるのみです。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」

この祈りは、教会の過去でのことでしょうか。現在のことでしょうか。それとも未来のことでしょうか。もちろん、未来のことだと私たちは知っています。それなら、教会の未来があるということです。教会に未来がある。すなわち、私たちに未来がある。それは神の憐れみがその豊かさの中から私たちに聖霊を送ってくださるからです。使徒はそのように信じ、そのように祈ります。信仰者は上を目指して成長していく。それを願うべきであります。私たちは超高齢化社会におりますが、地上の命を永くされるのも、短くされるのも御父の御心なしには起こらないことです。どんなに長生きして肉体が年とっても、年だからもう神の家族として成長しなくてもよいということは決してありません。地上にある限り、天上のことは分かりませんが、地上に生きている限り、御父から聖霊の賜物をいただいてもっともっと成長することを愛することが出来ますように。

宗教改革者は言うのであります。信仰者がこれ以上進歩する必要がないほど完全になるということはないと。しかし信仰者の完全な状態があるといいます。信仰者の完全とは、神の家族として成長を愛するようになることであると。それは、人間の力によっては決してできないことです。人間の力が目指すのは、もっと健康を、とか。もっと○○ができるようになりたいとか、もっとお金があればなあ、とかいうことでしょう。こういう願いは信仰のない人々も切に願っていること。そしてそのような願いは教会の中でも、ついつい出て来ない訳には行かないからです。

たとえば成宗教会の会堂は建築から25年ほど経っています。そのころはバブルの時代で、会堂建築には内からも外からも沢山の献金が捧げられた。いわゆる景気が良かったので、人々も気前よく捧げることができたのでした。そして建物も、省エネなどあまり考慮しなかった時代でした。しかし今は年月が経ってだんだん修理修繕に費用が掛かるようになる。そして経済的に厳しい時代で、多くの教会員も高齢になっていますから、昔のようにはいきません。経済や、人手が乏しいことを嘆きたくなってしまう現状は、多くの教会でも同じようではないかと思っております。

こうして私たちは目の前のあれやこれやの問題で頭がいっぱいになるかもしれませんが、正にこのような私たちのために、代々の教会のために、エフェソ教会へとあて名が付けられた手紙は差し出され、パウロ(本当はパウロの後の時代の伝道者かもしれませんが)は祈りを捧げているのではないでしょうか。聖霊によって内なる人が強められますように、と。そうです。パウロはⅡコリ4:16においても、次のように力を込めて励ましているのです。「たといわたしたちの外なる人は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日ごとに新しくされていきます。」329下。

私たちは、ついつい年取って大変だと思ってしまうのですが、大変なのは後の世代のことです。世に在る教会を去る時に、世に在る教会が残されるように。私たちに与えられた伝道の使命は、世に在る人々に対して果たすべきなのですから。地上に教会を建てることは主の尊い御旨であります。そのためにこそ、御父が豊かな栄光の中から聖霊を送り給い、心にキリストを住まわせてくださるように、と祈られているのです。キリストが私たちの内にお住まいくださる。そこに私たちの力では到底できないことがなされるのです。すなわち、教会は愛に根差し、愛にしっかりと立つ者とされる。そのために必要なこと、それは何か、キリストが私たちの内なる人に住んでくださることです。

私が前回十貫坂教会の礼拝に奉仕しましたのは、中村恵太先生がまだ伝道師でいらした時でした。聖餐式を執行するために伺い、礼拝後にも教会員のお宅を訪れて聖餐に与っていただきました。その兄弟はお嬢様の見守る中、聖餐を受けられましたが、90代になっておられ、私は嚥下障害を心配しました。聖餐のパンを呑み込むことも大変ですが、ぶどう酒の方は更に呑み込みが難しいので、私はその時、誤嚥性肺炎が起こるといけないから、ほんの一滴でも良い、形だけ、しるしだけにしようとしました。ところが車椅子に腰かけて聖餐を受けられた兄弟は、私が口元にほんの少し差し出した盃にかみつくようにグイッと口に引き寄せられたのです。聖餐の秘跡。聖なる恵みに与りたいと兄弟はどんなに望んでおられたことか、それを知らされた瞬間でした。自分はキリストの体に結ばれている。結ばれたい!その強い思いが、意志が伝わって来て、圧倒されたことを思い出します。その三日後に兄弟は主の御許に召されたと、中村先生より伺いました。

このような証しをさせられるのは、主イエスが教会と共に、信仰者と共におられるからに他なりません。キリストが私たちの内に住んでくださることの結果は何でしょうか。それは愛です。キリストがいかに私たち罪人を愛しておられるかを知る。そしてキリストを通して神を知ることにおいて前進することです。今週水曜日から教会歴は受難節を迎えます。イザヤ書53章は語ります。世界の支配者たちは皆、主なる神のご支配から離れ迷い出た羊の群れのようであったが、主はその罪の重荷を忠実な一人の僕の上に置かれました。ここにキリストの受難が告げられています。苦役を課せられて、かがみこみ・・・捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。しかし、彼が苦しんだのは私たちのため、彼が負ったのは私たちの罪であった。

しかも彼が身代わりの苦難と死を受けることは神の御旨であったというのであります。

「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。」この僕こそ、神の御子イエス・キリストであります。神はこのために御子を世にお遣わしになりました。御子の執り成しによって罪が贖われ、神の御前に立つ者。キリストに結ばれて神の子とされ、神の家族とされるために。私たちはこのキリストを心に信じます。

パウロが教会の人々のために祈っている通りに、キリストが天に在って執り成しの祈りを捧げてくださっています。ですから、キリストを通して神の愛を知り、神を愛し、キリストを愛する愛が、私たちの内なる人に深く根を下ろすようになるでしょう。その愛は、ちょっと風が吹いた、ちょっと何かが起こったことで、揺れ動き、吹き飛ばされるようなものではない。愛が堅固な建物のように、岩の上の教会のように建てられるように、と私たちは祈られているのです。

キリストの愛をパウロはその広さ、長さ、高さ、深さと表現しております。どれが広さなのか、長さなのか、高さなのか、深さなのか、それは言葉で言い尽くすことはとてもできないことでしょう。私は、十貫坂教会の婦人会の方が他の教会のご様子が分かって良かったと言われた時に、とてもうれしく印象に残ったことをお話ししました。他の教会を思い遣る心そのものが、主の愛を証ししているからです。教会を建てることは、キリストの愛を知るようになることです。東日本連合長老会が発足して9年が経ちました。

私は個人加盟としてはその時からおりますが、成宗教会が加盟を認められたのは2013年です。加盟に至るまでも、その後も東日本に所属して学ぶことが沢山ありました。たとえば、教会学校の教案については連合長老会の日曜学校委員会のカテキズム教案を用いるようになって、教会学校が改善されました。また、私は前歴が学校の教員でありましたので、教会員はいわば担任の教室の生徒のようなイメージでありました。優等生もいれば、憎まれっ子もいます。先生に嫌がらせをする生徒がいても一向に気にしない教師でありました。ただただ生徒が可愛いだけで、生徒のために頑張りました。受洗した教会は長老派の教会でしたが、神学校に入ってからも、教会にとって長老会の形成がどんなに重要であるかが、どうも私にはピンと来なかったのだと思います。

そこで成宗教会に赴任して16年。教会は牧師が一人で頑張るという習慣が、いつの間にか当たり前になってしまっていたことも、大きな問題でした。増田先生に成宗教会のある問題を指摘されるまで、私は全く気がつかなかったという大失敗もありました。そのことも東日本の長老会議や教師会で指導を受けて初めて改革することが出来たのでした。個々の教会の内側にいて長い間、気づかれない問題というものが、連合長老会の交わりによって明らかになるということは、大変大きな恵みです。

いくら個人的には愛情があるつもりでも、キリストの教会を建てるためには、ほとんど役には立ちません。人の知恵、知識をはるかに超えた主の愛を知ることは私たちの力ではできません。だからこそ祈ります。そしてそれを宣べ伝えることも、人の力ではできません。ですから、もし礼拝において私たちの口を通して語られ、耳を通して聞かれる言葉が、御言葉として伝えられるならば、キリストの愛を伝える言葉となるように、私たちは祈り、祈られるであります。東日本の教会の交わりがキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを日毎に理解する交わりとして前進していることを思い、真に感謝しております。そしてまた、大きな目に見えないキリストの一つなる体の教会を望み見ることが、同時に小さな教会の片隅に起こるキリストの溢れる愛の証を見い出すことと、深くつながっていることに感謝します。祈ります。