誰が救われるのか

主日礼拝説教

齋藤 正 牧師

《賛美歌》

讃美歌74番
讃美歌122番
讃美歌497番

《聖書箇所》

旧約聖書:エレミア書 32章17-20節 (旧約聖書1,239ページ)

32:17 「ああ、主なる神よ、あなたは大いなる力を振るい、腕を伸ばして天と地を造られました。あなたの御力の及ばない事は何一つありません。
32:18 あなたは恵みを幾千代に及ぼし、父祖の罪を子孫の身に報いられます。大いなる神、力ある神、その御名は万軍の主。
32:19 その謀は偉大であり、御業は力強い。あなたの目は人の歩みをすべて御覧になり、各人の道、行いの実りに応じて報いられます。
32:20 あなたはエジプトの国で現されたように今日に至るまで、イスラエルをはじめ全人類に対してしるしと奇跡を現し、今日のように御名があがめられるようにされました。

新約聖書:マルコによる福音書 10章23-31節 (新約聖書82ページ)

10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」
10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。
10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。
10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。
10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、
10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。
10:31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

《説教》『誰が救われるのか』

本日の物語に先立つ10章22節には、主イエスの御前にたくさんの財産をもった人が現れ、悲しみつつ去って行ったことが記されていました。永遠の生命を求めて御前に平伏しながら、御言葉に従うことが出来なかった人を見送りつつ、主イエスが弟子たちに語られたのが今日の聖書箇所です。この会話を通して、「神の国に入ること」即ち「救われる」ということが如何に困難なことであるか、ということを私たちは自覚しなければなりません。

「らくだが針の穴を通る」。実に極端なたとえであり、「不可能である」とさえ言われています。「救い」とは、このように本来有り得ない不思議な奇跡なのです。

神に逆らい、罪を背負い、なおそれを知らずに反逆者として滅びへの道を歩いていた私たちが、神の子とされ、永遠の生命を受けるということを、あらゆる奇跡に優る奇跡だと考えたことがあったでしょうか。絶対なる神、万物の主なる神、正義の神が救い上げるとは、「らくだが針の穴を通る」以上に不可能なことだと言われているのです。

多くの人々は、ここに語られた御言葉を、「財産のある者」「金持ち」のことであると考えますが、そうでしょうか。確かに、そう考える人は沢山います。所有物の全てを放棄し、世俗の富と無縁で生きようとした人は、古来、宗教を問わず大変多く知られています。

しかし、ここで語られる「難しさ」が「財産のある者・金持ちのことである」とするならば、それでは「貧しい者・貧乏人は神の国に入り易いのか」という反論が、成り立つでしょうが、神の国に入るのに、財産が問題になると言うのは釈然としません。

21節以下に記されていた主イエスの語られる財産問題はひとつの比喩でした。ここでも「財産のある者」「金持ち」という言葉を比喩として読まなければならないのです。マタイによる福音書 5章3節の有名な「山上の説教」で主イエスは「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」と教えられました。

この「天の国」とは、今日の「神の国」のことです。そこに入る条件としての「貧しさ」とは、「心の貧しさ」のことなのです。しかも、主イエスが言われた「貧しさ」とは、「乏しさ」という程度ではなく、「物乞い」のことです。神の憐れみを「ほんのひとかけらでも頂かなければ、生きて行けない」と、必死の思いで、切実に求める人のことです。それが「心の貧しい者」のことなのです。

主イエスは、17節から22節で「ひとりの男」を例としてあげ、信仰に生きる人間の心構えをお話になったのです。それに対して28節でペトロが主イエスに直ちに反応して、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言い出しました。果たしてそうであったでしょうか。確かに、かつてペトロは魚をとる漁師で、ガリラヤ湖畔で主イエスによる大漁の奇跡に出会い、主イエスの導きに従い、「舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」のでした。「舟も網も捨てた」ということは事実ですが、それは何時まで続いたのでしょうか。ヨハネによる福音書 21章2節以下に主イエスの復活の様子がかたられていますが、そこには、「その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに二人の弟子たちが一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。」とあり、弟子たちは、主イエスの十字架の後、再びガリラヤに帰り、元の漁師に戻ろうとしていたのであり、何も変わっていなかったのです。「捨てる」とは形式的なことではなく、復帰の余地のないものでなければならないのです。「具合が悪くなったら元に戻す」というのでは「捨てた」ことにはならず、それは、「一時、横に置いた」ということに過ぎません。

そこで主イエスは、29節以下で、「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の生命を受ける。」と言われました。

これは、「自分の生活を支える身近なもののすべてを捨てよ」と主は言われるのです。「身近なもののすべてを捨てる」。財産放棄か、家出か、出家か。洋の東西を問わず、このようなことをした人は数多くいます。釈迦やアッシジのフランチェスコ、また多くの隠者、修道士、聖者など、無一物となり世界を放浪した修行者たちはいくらもいます。

しかし、家族と別れること自体に何の意味があるのでしょうか。イエスは、決して「家族と別れよ」などとはおっしゃってはいません。それどころか、30節では、それらを「百倍受ける」と言われています。しかも、その百倍の恩寵は「後の世」ではなく、原文では「迫害の中で」と記されており、岩波訳では、「今この時期に、迫害の中にあっても」と『現在』を強調しています。「捨てる」とは、「手放すこと」「別れること」のみを意味するのではなく、価値の転換を意味すると考えるべきでしょう。「私の家族」という考えを捨て、「神の家族」になるのです。「私の財産」ではなく、「神の財産」となるのです。全てをキリスト中心に考える時、家族もまた信仰の同労者、神の国への旅を共にする者となり、与えられている豊かさは、その旅路を全うするための「神よりの賜物」と見ることが出来るでしょう。かくて、この世に属するものとして執着して来たすべてがその価値を失い、神の民としての生活がそこから始まるのです。

今までのお話が、主イエスが教えられた「永遠の生命に至る道」です。しかし、「問題はここからである」とも言えます。いったい誰がこのような生き方によって、永遠の生命を獲得出来るかということです。

私たちは、自分を知れば知るほど、この道が困難であり、この方法が、自分にとって「あまりにもかけ離れたもの」であると言わざるを得ないでしょう。現実に、主イエスの前から立ち去った豊かな財産を持つ男だけではなく、私たちもまた、「それでは、だれが救われるのだろうか」という26節の言葉を、弟子たちと共に呟かざるを得ません。

31節で主イエスは、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われました。地上における先と後という順序がそのまま後の世、神の国における順序となるわけではない、ということです。マタイによる福音書21章31節では「先の者」とは祭司長や民の長老たちを指し、「後の者」とは徴税人や娼婦のような罪人を示していました。ルカによる福音書13章30節では「先の人」とはユダヤ人を、「後の人」とは異邦人を示していました。それは、神の救いが人間の功績によって得られるのではなく、ただ神の恵みによってのみ与えられることが示されています。人間の功績、どれだけ立派な善い行いをしたのかと問えば、そこには先と後という順序、序列が生まれます。しかし、その順序は神の国、神による救いにおいては何の関わりもありません。むしろ神は、恵みを際立たせるためにしばしば、後のものを先に、先のものを後になさるのです。今先頭を走っている者が真っ先に救いにあずかるわけではないし、今はまだ神の恵みを拒んでいる者が、何でもおできになる神の力によって、先に救いにあずかっていくことも起るのです。私たちの救いは、私たちの努力や功績によってではなくて、ただ神の恵みによって、主イエス・キリストの十字架の死と復活において示された神の全能の力によって与えられるのです。

自分が先に救われて洗礼を受けているといった自尊心にしがみつくことをやめて、神の恵みに身を委ねていくなら、私たちはこのような後先の逆転を受け入れることができます。そこには、お互いの地上の富を比べ合い、それによって順序、序列をつけ、どちらが先か後かと競い合い、誇って人を見下したり、劣等感にさいなまれて人を妬んだりすることから解放されて、天の富、神様の恵みに依り頼み、その恵みによってお互いに与えられている賜物を喜び合い、生かし合い、お互いに仕え合っていくような、百倍千倍も豊かな人間関係が与えられていくのです。

お祈りを致しましょう。