聖なる公同の教会

聖書:エレミヤ書138-14節, エフェソの信徒への手紙416

 教会は今朝の礼拝でも、使徒信条を告白しました。成宗教会がそうしているだけでなく、全世界の教会において礼拝毎に告白されています。また現代の教会だけがそうしているのではなく、代々の教会が、使徒信条あるいはコンスタンチノーポリス信条を告白しています。全世界の教会は歴史を通してこの告白を以て一致して参りました。

さて、今日は使徒信条の中で「教会を信じる」ということについて学びたいと思います。わたしたちは教会というと、何といっても思い出すのは建て物です。また、そこに集まっている人々です。また教会学校が開かれるとお子さんが集まって来ます。するとその人々によって教会は目に見える教会となります。しかし、教会を信じるというのはそういうことでしょうか?目に見えているものを信じるとはどういうことでしょうか。わたしたちは目に見える教会に集まっています。ここに、イエスさまがわたしたちを集めておられると信じるからです。イエスさまは今も神さまの右に、つまり天の教会におられます。だからわたしたちは目に見える地上の教会に集まって、目に見えないイエスさまによって礼拝を守るのです。それはわたしたちの礼拝が目に見えない天の教会、神さまとイエスさまがおられるところを見上げて、そこに向かって礼拝を捧げることに他なりません。

地上の教会にいるわたしたちは、今日も「聖なる公同の教会を信じます」と告白しました。聖なるとは、きよいということですが、特に衛生的な意味で「清い」ということではありません。「聖なる」とは、「わたしたちが神さまに選ばれ、集められた」という意味です。わたしたちが礼拝に集まっているのは、神さまが一人一人、名前を呼んでくださったからなのです。そして「公同の」とは、いつでもどこでも誰でもが信じることのできる、普遍的な、という意味です。これに対して様々な考え、価値観が時代によって地域によって起こり廃れ、絶えず変化するので、わたしたちは生きる上で大変大きな影響を受けています。その世界に在って聖なる公同の教会を信じるとはどういうことなのでしょうか。

本日はエレミヤ13章を読んでいただきました。13章9節。「主はこう言われた。『このように、わたしはユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く。この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着け、わたしの民とし、名声、栄誉、威光を示すものにしよう、と思った。しかし彼らは聞き従わなかった』と主は言われる。」

主なる神さまは御自分の民をどんなに集めようとしておられるか、それは歴史を通していつも変らない神さまの御心に他なりませんでした。主は、ご自分の民を帯に例えておられます。「人が帯を腰にしっかり着けるように、わたしはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をわたしの身にしっかりと着ける」と。そして「わたしの民とする」と。帯の例えが語られます。帯と言えば、わたしたちは日本の女性の和服のことを思い出します。昔は着物よりも帯の方が高価でありました。帯は和装の全身を飾る美しさの象徴であったのです。また男の人ならボクシングの豪華なチャンピオンベルトを思い出すでしょう。帯というものは身に着ける物のうちでも本当に大切なものだったのです。

神さまは人々をどんなに愛して大切にしておられたことでしょう。神さまはイスラエルのすべての家とユダのすべての家をご自分の身にしっかりと着け、ご自分の民とし、ご自分の名声、栄誉、威光を、神の民によって示したいと思われたのです。ところが人々は神さまに従いませんでした。ところが、「この悪い民はわたしの言葉に聞き従うことを拒み、かたくなな心のままにふるまっている。また、彼らは他の神々に従って歩み、それに仕え、それにひれ伏している。彼らは全く役に立たないこの帯のようになった。」その結果は傷ましいもの、忌まわしいものとなりました。主はこう言われました。『見よ、わたしは、この国のすべての住民、ダビデの王座につくすべての王、祭司、預言者、およびイスラエルのすべての住民を酔いで満たす。わたしは、人をその兄弟に、父と子を互いに、打ちつけて砕く。わたしは惜しまず、ためらわず、憐れまず、彼らを全く滅ぼす」と。

神様への反逆の結果は全世界の不幸であります。しかし、神さまはこの世界をお見捨てにならず、その罪を贖うためにイエス・キリストを世に遣わしてくださいました。イエスさまは真の人として世にお生まれになり、世の罪を負われ、十字架にすべての人の身代わりとなって死んでくださいました。ご自分を信じる者に、最後の晩餐に新しい契約を立ててくださったのです。イエスさまはパンを取り、それを裂いて弟子たちに与えて言われました。「取りなさい。これはわたしの体である」と。また杯を取り弟子たちにお渡しになって言われました。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と。

そういうわけで、イエスさまを信じ、この方の死に結ばれて罪の赦しを受けることを信じたわたしたちは洗礼を受けました。わたしたちが「聖なる公同の教会を信じる」と告白するとき、わたしたちはイエス・キリストの体に結ばれているという、その体がどういうものであるかを知りたいと思います。それを教えられるなら学ぶことができるのです。学ぶことに向かった道が開かれるのです。今日はエフェソの信徒への手紙4章を読みます。1節以下。「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように務めなさい。」

使徒パウロは聖なる公同の教会を信じ、目指して教会を建設していく道筋を勧めます。それは抽象的な、頭の中だけの理想では全くありません。実に具体的な日常に関わることなのです。2節に書かれている「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持つ」というところは特に肝心なことです。エレミヤ13章でも、主は「ユダの傲慢とエルサレムの甚だしい傲慢を砕く」と宣言されているように、教会を建てるために何よりも大きな妨げになるものは高慢、そして傲慢なのです。寛容の心を持つということも、単にニコニコと人を寛大に扱うということではなく、辛抱強く、長く耐え忍ぶということです。自分が何も痛くもかゆくもない、ただ言葉だけの広い心というのはあり得ません。そのためには、第一に傲慢な姿勢が改められなければなりません。

ところが、「自分が悔い改める必要があるとは全く思わない。悪いのはあの人だ。この人だ」と思う人々は少なくありません。私は皆さんにお話しして参りました。「イエスさまはわたしたちのためにどれ程耐え忍んで、教会を建ててくださったことでしょう。私たちはイエスさまのために忍耐して教会を建てましょう」と。しかし、17年教会に仕えて思うことは、人を赦せない、人に我慢できないということは、結局イエスさまの忍耐のことをいくら話しても無駄であるということでした。主はこう言われたからです。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」と。

振り返れば、そういう人々のために悲しむべきことはたくさんあります。しかし教会を建てるということは日々、心を低くして悔い改め、主に従うことです。具体的には互いに愛をもって忍耐し、平和に共に過ごすことです。愛そのものの性質が忍耐強いのですから、愛がわたしたちを支配し力を得るところでは、わたしたちは互いに多くのことを忍び合うのではないでしょうか。しかし、人々から遠く離れて一切付き合わず、礼拝から遠ざかっていて、「わたしは人々と愛をもって平和に過ごしている」とは言えないでしょう。

4節です。「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。」わたしたちはすべて同じキリストの命、同じ永遠の命に召されているのです。だから、いくらわたしたちが聖なる公同の教会を信じると告白しても、今わたしたちは地上の教会にいるのですから、ここで、互いに友情と和合とを保って生活しない限り、永遠の命を受けることはできないと思います。それとも天の国で、神さまの宴会に招かれた人々が、神さまに「わたしはあの人と一緒にいるのは我慢できません。あの人はひどい人だったのに、なぜここにいるのですか」などとクレームをつけるつもりなのでしょうか。人は皆、全くイエスさまの執り成しの恵みを信じてようやく入れていただくのに、そんな偉そうなことを言うのでしょうか。あり得ないことです。

5節。「主は一人、信仰は一つ、洗礼バプテスマは一つ」です。主とはキリストのことです。主は御父によってわたしたちの主となられたのです。わたしたちはこのことで一致しているのでなければ、この主の御支配の下に主の御力をいただいて生きることはできません。また信仰もいろいろあってよいということには決してなりません。すべての人に共通の信仰があるのです。またすべての人に共通の一つの洗礼があるのです。だからこそ、わたしたちは洗礼を授ける前に、代々の教会の信仰について学び、この共通の土台の上に立つ信仰を受け入れて、キリストの体に属する者となる信仰を問うのであります。また、他の教会からの転入会の場合も一人の主、一つの信仰、一つの洗礼を確認するのはこのためです。

わたしたちはその時代、その地域、個々人の都合によって信仰を変えることは決してありません。パウロがコリント(一)8章6節で述べている通りです。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰っていくと信じているのですから。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」309上末。

教会の信仰は、父・子・聖霊の神への信仰です。この神は三つの位格を持っておられますが同じ一つの神であられます。人間の知恵によっては計り知ることのできない神のご性質を、しかし教会は聖霊によって教えられ、信仰を受け継いで来たのであります。6節。「すべての者の父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。」

神さまは聖霊によって主の体の教会のすべての肢々に来てくださいます。イエス様は「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」といわれたのですから、主の聖霊はわたしたちにも来てくださいます。わたしたちが元気な時も丈夫な時もですが、弱っている時にこそ、来てくださり、平安を与え、安らぎを与え、主の恵みで満たしてくださるのではないでしょうか。そしてわたしたちを清めてくださいます。「清めて」というのは聖なる公同の教会に連なる者にふさわしく造り変えてくださることにほかなりません。また、このことをわたしたちに対してバラバラに個人的にしてくださるのではありません。すべてを御自分の恵みの御支配の下に含めてくださるので、すべての者のうちにして下さる、ということなのです。

神さまは三位一体の神さまと呼ばれますが、心は一つであられ、ご自分の中に何の不調和もございません。ですから、当然わたしたちも心を一つにしなければならないのです。わたしたちは「聖なる公同の教会を信じる」と告白しました。わたしたちは、真の神さまを信頼しない世界に住んでいます。そして多くの人々は、真の神さまではなく自分の欲を満たしてくれそうなものを追い求めるので、様々な不幸、不安、争いは尽きることがありません。しかしわたしたちは、このような世界にキリストの救いを差し出し、教会を建ててくださる神さまに感謝し、主の体の一致を求めたいと願います。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

御名をほめたたえます。今日もこうして礼拝に招かれましたことを感謝します。今西日本の豪雨の被災地にある教会を励まし、その地域の救いのためにお力をお与えください。本日は聖なる公同の教会を信じるという告白の意味について学びました。わたしたちは多くの問題を抱え、困難の中にありますが、心を高く上げて主の体の教会を形成してくださる聖霊の助けを待ち望みます。どうかわたしたちの自分中心になりがちな心を打ち砕き、あなたの御前に謙る者とならせてください。自分の間違いを知らせ、あなたの愛と慈しみがどんなにわたしたちすべてに注がれているかを悟らせてください。主のご労苦とご忍耐を思い、主の愛に応える者として、兄弟姉妹助けあって行くことができますように。

今、わたしたちの多くは年を取り、力弱くなっております。しかし、あなたの御心でしたら、この地に、わたしたちの隣人に主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために教会を残してください。わたしたちは自分の力に頼ることなく、あなたの恵みの力に頼り、希望をもって将来に備えます。どうぞ、主に結ばれて終わりの日まで忠実な歩みを一人一人にお与えください。

成宗教会に遣わされる後任の人事のために、労苦してくださる連合長老会の働きのために祈ります。どうか全国のすべての教会にとって益となる人事が行われますように、そのために労を取ってくださる役職の方々を祝福し、お守りください。

成宗教会の信徒のために祈ります。どうか、今病床にある方々、これから手術を受けられる方をお支えくださり、最善の治療が受けられますように、支えているご家族、医療、介護に携わる方々を顧み、その働きを祝してください。礼拝への奉仕をあなたに捧げようと全力を挙げて努めている方々を祝してください。どうか豊かな平安、喜びをもって報いてくださいますように。礼拝を覚えながら、参加できない方々を慰め励ましてください。

また、8月教会学校の行事をはじめ、これから秋にかけて、音楽会、バザーなど、準備をしようとしております。どうかすべてのことがあなたのご栄光のために、主の体の教会にふさわしく勧められますように。

この感謝と願いとを主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。