共に苦しみ、共に喜ぶ

聖書:エレミヤ書313134節, コリントの信徒への手紙一121231

 大変な暑さの中で、先週は二階の集会室のエアコンに不具合が起こりました。急なことで無理なお願いをしましたが、原田姉の会社の方々がすぐに来てくださって、本当に助かりました。わたしたちは、今は高度な機械も指一本で操作できる時代と思っていますが、 実際には故障の原因は簡単に分かる者ではなく、作業してくださる方々は、どんどん上昇する暑さの中でエアコンの中を開けて、汗だくになってあれこれ、力と知恵の業を駆使して直す、その様子を目の当たりにして私は思いました。

わたしたちの生活は機械があれば、人の助けは要らない、ということにはならないのだと。一つの物事を解決するのに、実に多くの助けがあり、支えがあって初めてわたしたちが当たり前と思っている生活ができるのだと。人が汗だくになって働いて助けてくださることの有難さを思います。そして改めて思うことは、イエスさまがわたしたちの落ち度、失敗、過ちを、御自身の身に受けて、わたしたちの負った傷を覆ってくださるために働いてくださったことの有難さであります。

そしてわたしたちは教会の有難さを特に思っています。神さまが与えてくださったイエスさま、救い主の教会だと信じるからです。神さまがイエスさまの執り成しを受け入れてわたしたちの罪を赦してくださったことが、わたしたちにとって一番大切なことです。このことなしには生きられない、と信じるので、わたしたちは何とかして礼拝を守るのです。神さまに普段から「父なる神さま、あなたには何でもできないことはありません」と、賛美を捧げないでいながら、「神さま、わたしを助けてください」はあり得ないでしょう。神さまに常日頃、「神さま、あなたはこれまでわたしたちを恵み、導いてくださいました」と、感謝を捧げずに、「神さま、わたしの願いを聴いてください」はあり得ないからです。

ところが世の多くの人々はイエスさまの宣べ伝えられた神さまについて何も知らないので、まさか自分の救いのためにそんなに労苦してくださる神の子イエスさまがおられるとは知りません。だから残念なことに、教会の有難さ、礼拝の大切さをも理解できません。それで自分を頼りに生きるのですが、その自分自身は年を取って行くばかりなのですからどうしようもないのです。何を頼って生きるのか。自分の子供か。お金か、ということになりますが、そんなにあてにすることができるものではありません。まして最初からそれもあてにできない人は多いのですから、多くの人々の人生は惨めなことこの上ないのではないでしょうか。

わたしたちが教会に集まるのは神さまを礼拝するためであります。そして教会は主イエス・キリストの体であり、わたしたちはその肢、部分であると教えられています。この目に見える小さな教会に集まったわたしたちがキリストを信じて告白するなら、わたしたちは目に見えるこの教会のメンバーとして数えられるだけでなく、同時に、天にある目に見えない唯一つのキリストの教会のメンバー、部分として名を記されると信じます。全世界の様々な教会もこの唯一の真の教会を目指して一つとされるのであります。

今日の聖書コリントの信徒への手紙一、12章は、キリストに在って一つとされる教会は、一つの体に例えられています。体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの体も一つなのです。教会にはいろいろな人々が招かれます。わたしたちが招いているように見えても、本当に招いてくださるのは主です。ですから、皆一つの体となるために洗礼を受けるのです。今は受けていない人々も主が招いて御自分の体としてくださるなら、きっとそうなるでしょう。洗礼は一つです。お国柄が違っても、人種が違っても、言葉が違っても、その他実に様々な違いがあっても、洗礼は一つです。これは全世界でこの2千年変わりないことで、世の終わりまで続くことです。

一つの洗礼を受けると、父と子から送られる聖霊が、わたしたちを清めて、教会の肢として主の体の部分として成長させ、御国の教会にふさわしいものとしてくださいます。ですからわたしたちに来てくださる聖霊も一つであることはいうまでもありません。この二千年の間、地上には多くの教会が建てられ受け継がれて今日に至ったのですが、世にある教会はいつも試練無くして建つことはありません。コリントの信徒への手紙に語られていることは、教会には実に様々な試練があり、サタンによる絶え間ない攻撃が教会を破壊しようとしていたか、そしてパウロを初め使徒たちがどんなにその攻撃と戦っていたかということなのです。

その一つが今日読んでいただいた12章にあります。それはコリント教会の中に、皆一つの霊をのませてもらったことに反対する勢力がいたということです。皆、一つの体となるために聖霊が各自に来て働いておられるという信仰に反対する理由は何でしょうか。それは聖霊があの人よりも優れた霊としてわたしに来てくださったという主張です。たとえば、わたしたちも、人のお祈りを何気なくほめたりすることがありますが、そういうことから、次第にお祈りの優劣を主張する考えが生れることに警戒しなければなりません。

ある教会では非常に長く熱心に祈る人々が多いのですが、即興で延々と祈る、自発的に立ち上がって祈るということには慣れていない者にとっては、非常にとまどうことです。しかし、初代教会にも我こそはすぐれた霊が降っていると信じ込んで、祈りや預言や、異言(誰かに説明してもらわない限り、普通には理解できない言葉)を語る能力に、優劣をつける考えが教会にはびこることになるのです。パウロは、それはキリストの体として大問題だと警告しているのではないでしょうか。

サッカー選手が活躍すれば、みんなサッカー選手になりたい。将棋の天才少年が現れれば、こぞって将棋教室に通うというのはほほえましいことですが、キリストの体ではありえないことです。みんなが目を羨んでみんなが目になってもらっては困るからです。もし、足が「わたしは手ではないから、みんなと他の人と一緒にやっていけないよ、と言ったらどうなるのでしょうか。それがもっとひどくなると、あの人は役に立たない盲腸みたいな人だから、と言って軽蔑することになるのでしょうか。それはキリストの体ではあり得ないことです。

しかし、現実にはわたしたちは皆、神さまから見れば、小学生のようなことを言ったりしたりしているのです。「お母さん、お隣の○○ちゃんがバレーを習っているから、わたしも習いたい」みたいな言動です。このようなわたしたちをキリストの体の部分としてくださるために、主はどんなに働かれたことでしょうか。もし、わたしたちが主の体の部分であるならば、わたしたちは部分としていつも首である主イエスさまのことを思うはずです。その結果、主がお建てになった体全体のことを思わずにはいられないのです。

わたしたちは体の大事な目立つところが病気になった時だけ、具合が悪くなるのではありません。小指の先でもちょっと傷ついたら、とても痛い、辛いのです。そして小指だからと、目は「ふーん、わたしとは関係ないよ」と言うとは思えません。胃が痛いと全身具合が悪い、と感じます。体全体が同情して熱を出して、痛い、痛いと苦しんで、早く治そうとするではありませんか。

また、外に出して目立った方が全体として美しく見えるところは、外に出して、目立たないように隠して、そっと守ってやらなければならないところは、体の内側に置き、更に着る物で覆っています。そのように全体として各部分が配慮し合っているのが体です。改めてパウロは訴えています。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分なのだと。そして最後にパウロは、教会での働き人について具体的な明らかにします。28節。「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡をおこなう者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。」ところがどうでしょうか。教会の中ではみんなが使徒になりたいと言い出したのでしょうか。みんなが預言者になりたい、教師になりたい、奇跡を起こしたい、異言を語りたいと言い出したのでしょうか。

体の例えで考えるなら、これは笑わずにはいられないことではないでしょうか。一人が「わたしは目になりたい」と言えば、次々に「わたしも、俺も、わたしだって」みたいなことです。一人が「わたしは手になりたい」と言えば、「僕も、わたしも、俺も」みたいなことになってしまいます。小学校の授業中みたいなことを申しましたが、これは大人の話であり、教会の話であります。使徒たちは、実に生まれたばかりのコリントの教会を、この世の支配から守り、主の体の教会とするために真剣な戦いをしているのであります。

それでは、主はこのような愚かで浅ましい者たちを御自分の体に結ばれたことを後悔されたでしょうか。有り難いことにそうではなかったと思います。マルコ福音書9章33節でイエスさまは弟子たちに、何を議論していたのかとお尋ねになったのですが、弟子たちは黙っていました。なぜなら、だれがいちばん偉いかと議論し合っていたとは、恥ずかしくて言えなかったのです。コリントの教会の人々、そしてわたしたちの時代の教会でもほとんど変わりない自分中心な罪人の姿がここにあるのです。このようなわたしたちを救うために主イエスさまが来てくださったことを改めて思います。

神はその昔、旧約聖書の民にご自分を顕して神の民として生きるように律法をお与えになりました。神を唯一として礼拝し、人々を愛して共に生きるための律法です。ところがこの人々は自己中心の罪から神に背を向け、律法を守ることができませんでした。神を愛さない者は隣人を愛することもできません。愛とは、相手のことを思って共に苦しみ、相手の救いのために共に忍ぶことに他ならないからです。そして愛とは、相手の幸いを、救いを共に喜ぶことではないでしょうか。

預言者エレミヤは言いました。エレミヤ31章31節。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ計画はこれである、と主は言われる。(33節。)すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」エレミヤの預言した新しい契約はイエス・キリストによってもたらされました。そのとき、人々はキリストによって神さまの御心を知りました。キリストによって神に立ち帰り、罪の赦しを約束されました。

こうして教会は「聖徒の交わり」を信じると告白して参りました。聖徒とはわたしたち信仰者です。どれ程貧しく小さくとも、神さまが恵みによって選び集めてくださった信仰者のことです。「聖徒の交わり」を信じるとは、わたしたちがイエスさまに結ばれて、神さまから与えられた賜物をお互いに分け合うということです。こうして、救いの喜びをより豊かに、また多くの人に届けたいと願うようになります。元々自己中心的な貧しい者であるわたしたちは、しかし、教会を通して、生けるイエスさまの言葉を聴き、イエスさまの体である教会の一部分となります。教会の頭であるイエスさまの生命を、ぶどうの木が地中から吸い上げる水のようにいただいて生きることができます。それはイエスさまの心を心とし、共に苦しみ、共に喜ぶ教会に成長させられることを目指します。祈ります。

 

主なる父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。猛烈な暑さの中、わたしたちは礼拝を与えられ、こうして集められました。大変な異常気象の惹き起こす災害に見舞われてた西日本の被災地を思い、その復興を支えてくださいますようお願い申し上げます。どうか被災者の方々の上に立ちあがって行く希望をお与えください。多くの困難に立ち向かう救援の方々に道を開いてください。

また、わたしたちも同様の困難に備えるために日々の祈りを整えてください。全地を御支配くださる主の恵みを全世界に現わしてください。わたしたちは小さな群れの中にあって見えない主の体の教会を仰いでいます。どうかこの地の救いのために祈り、わたしたちの家族、友人、社会のためにたゆまず祈る教会でありますように。

本日は聖徒の交わりを信じることについて学びました。どうか、わたしたちの貧しさ、弱さにもかかわらず、わたしたちを招いて、罪を赦しキリストの命に結んでくださった方が、わたしたちの教会に将来を与えてください。新しい年度に牧師を迎え、78年続いた成宗教会に将来を開くことができますように。この少子高齢化の時代にも、若い人々に希望を与えてください。また高齢の世代も守られていますことを感謝します。どうか終わりの日に至るまで、キリストの体全体のために奉仕する肢として生かされますように。

今、教会に来ることができなくなっている方々を、あなたの恵みによって慰め、励ましてください。聖徒の交わりの中に立ち帰ることができますように。また、今、大きな悩み、試練の中にある方々を上よりの御力で支えてください。あなたの恵みと慈しみによって立ち上がり、主を証しする生活をいただくことができますように。

教会学校も来週で今年の前半を終えました。あなたの恵みのうちに守られたことを感謝します。8月の一日夏期学校の行事をあなたの御心に従って行い、御名が崇められますように。

この感謝、願い、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。