イエス・キリストの啓示

東日本連合長老会講壇交換礼拝

成宗教会での説教者  清瀬信愛教会 竹前治牧師

聖書:サムエル記上3:10, ガラテヤ1:11-12

 愛する皆さん。今朝は東日本連合長老会の交換講壇として成宗教会に招かれこと心から主なる神に感謝いたします。今朝は使徒パウロがガラテヤの人々に書いた手紙、ガラテヤの信徒への手紙より共に主イエス・キリストの良い知らせを共に聞きましょう。

パウロは「兄弟たち」と呼びかけます。呼びかけをするということは相手に責任をもっているからです。つまり、ガラテヤにおいてパウロは福音を宣べ伝え、ガラテヤの人々は、パウロの口を通して語られる真実の福音を受け入れ、教会が建てられたのです。しかし、パウロが去った後、ガラテヤの人々の所ユダヤ人キリスト者が現れ、律法主義、割礼主義を教え始め、パウロの教えた主イエスを信じることによって救われる義から行いをもって救われるという、行為義認を教え、パウロの教えから引き離し、パウロを非難することを教えたのです。自分の伝えた教えから離れていくガラテヤの人々に対してパウロは「兄弟」と呼ばれるのです。

皆さんはどうでしょうか。信頼していた人から裏切られた時、私たちはその人の名前を呼ぶことができるでしょうか。むしろもう関わりを持ちたくないとさえ思ってしまいます。

ではなぜ、パウロは「兄弟たちよ」と呼ぶのでしょうか。それは、神は人間が裏切り続けても私たちの名を呼ばれ、応答することを求められていることを知っていたからであります。神が人間を創造されたお方として、人間に対しての責任を持っているからでありす。パウロもはじめはキリストを迫害する者であって、神の恵みに応答する者ではありませんでした。しかしそのパウロが、あのダマスコに迫害に行く途中、神に名を呼ばれ、使徒として選ばれた。神は迫害する者でさえも責任をもって関わり続け、真実へと招き入れようとされるお方であることを知ったからです。パウロは自分のその体験からガラテヤの人々にも福音を宣べ伝えた者として責任もって「兄弟たち」と呼ぶのです。もし責任などなければ「兄弟」などと呼べはしないし、また手紙など書けないはずです

 

パウロは「兄弟たち」と呼びかけた後、ガラテヤで宣べ伝えた福音が人によるものではないと言っています。福音は人間に従って、人間に基づいてのものではない、またパウロが自分の考えや思いで福音を作り出したものでもありません。さらに、パウロは福音を人から受けたものでも教えられたものでもないと言います。福音がパウロ以外の人間のだれかが作り出して、パウロに教えたのでもないのです。福音は人間から人間の関係の中ではないということです。では、パウロは伝える福音はいったい誰から知らされたのでしょうか。聖書には答えがはっきりと記されています。「イエス・キリストの啓示によって」知らされたのです。

 

ここで、二つの言葉「福音」「啓示」に目を向けたいと思います。「福音」とは何か、福音は英語では皆さんもご存じの様に「グッドニュース」と言われ、「良い知らせ」であります。「良い知らせ」とは人間の側に起こる「良い知らせ」でしょうか。私たちの生活の中の中において良い知らせと言えるものはいくつもあると思います。しかし、私たちの中に起こる良い知らせというのはある意味一瞬であります。時間がたてば薄れ消え去っていきます。でも聖書が伝える「良い知らせ」は人間の側におけるものではなく、神の側から私たちに向けられたものであります。人間の罪を赦し、新しい生命を与えるという、一瞬の良い知らせではなく、永遠の良い知らせ、生も死も貫く良い知らせであると言うことです。この神の良い知らせを伝えたのが主イエス・キリストであります。主イエスはご自身の命を献げてまでして神の良い知らせを、罪深い人間をなおも愛し、赦し責任をもって救おうされる神の恵みを示されたのであります。このことがわかると「イエス・キリストの啓示」もおのずと理解できてきます。「啓示」とは広辞苑では「あらわし示すこと。」「人知では知ることのできない神秘を。神自ら人間に対す愛の故に示すこと」と記されています。ですからイエス・キリストによって神の神秘が明らかにされた、それは主イエスが神の御子であり、神と同質のお方であるからこそあらわし示すことができたのです。

パウロはキリストが出会ってくださり、キリストが神の恵みの愛を私に示し、その恵みを聖霊の助けを受けてガラテヤにて。主イエスの福音を宣べ伝えたと言うのです。

私たちもキリストを出会う時、誰かの導きがあったかもしれません。しかしその人があなたの信仰の父や母ではありません。その人を崇拝するものおかしなことです。あくまでもその人は神に遣わされた者にすぎず、神ご自身が責任をもってあなたと出会い、あなたの罪を赦すために独り子主イエスをあなたのためにお遣わしくださり、あなたを救ってくださるのです。ですから私たちもパウロ同様にイエス・キリストの啓示によって福音が知らされた一人ひとりなのです。主の日の礼拝のたびごとに神は私たちの名を、サムエルを呼ばれた時のように、今も呼び続け人間の手によらない永遠の良い知らせを私たちに主イエスを通して示し信じることを望んでおられるのです。

聖霊を信じる

聖書:エゼキエル36章25-32節, ガラテヤの信徒への手紙5章16-26節

 わたしたちはキリスト教徒と呼ばれておりますが、わたしたちが礼拝する神様は、父と呼ばれる神、御子と呼ばれる神、そして聖霊と呼ばれる神であられる方です。三つの位格を持つ一人なる三位一体の神に対して、教会は信仰を言い表しております。その中で最も親しく、知られているのは御子と呼ばれるキリストでしょう。この方は地上に来てくださった方。人として生まれてくださったので、わたしたちはこの方が人々に何を教え、何を行ってくださったかを知ることが出来ました。そして父と呼ばれる神について、説き明かしてくださったのはイエス・キリストであります。

「わたしを見た者は父を見たのである」とキリストはおっしゃいました。そこでわたしたちは天にはキリストの御父がおられることを知りました。そして天の父が愛する御子を地上にお遣わしになったその目的も知りました。それは世にあるわたしたちの救いのため。世に在り、世の罪にまみれて生きることしかできないわたしたちの救いのためです。御子であるキリストは、造り主であられる神様から遠く離れてしまったわたしたちの罪を贖ってくださいました。神様はわたしたちをキリストの死に結び付けられて、罪に死んでキリストの命に生きる者に、御子と共に神の子と呼ばれるようにしてくださったのです。

しかし、聖霊という神のお名前については、わたしたちはどれだけ理解しているでしょうか。教会を知らない方々に、どれだけ適切な説明ができるでしょうか。真に心もとないのではないでしょうか。先週20年以上前のオウム真理教の幹部だった人々の死刑が執行されたとのニュースが流れました。20世紀末のあの頃、世界的にも奇妙なというか奇怪な新興宗教についての報道が多かったように思いますが、宗教法人の団体が非常に凶悪な犯罪を起こしたことの影響は大変深いものがあります。「宗教は怖いものだ」という考えが社会に広がったからです。私が赴任した頃は成宗教会の礼拝にも、手を上げてかざすなどの行為を伴った宗教の青年が来ました。私の家にもやって来て、彼が言った言葉は「わたしは霊に導かれて来ました」というものでした。

日本の教会では伝統的に神の霊を御霊と呼び、また聖霊とも呼んで来たのですが、このような新興宗教団体による凶悪事件以後は、聖霊というと、幽霊を思い出すばかりでなく、悪霊の類と何もかも一緒くたにされる傾向がますます強まって来たので、教会は大きな試練を受けて来たと思います。しかし、わたしたちは悪に負けることなく、代々の教会が受け継いで来た信仰を言い表すのですから、聖霊と呼ばれる神についても聖書によって、神御自身の説き明かしをいただきたいと願います。

本日取り上げた新約聖書ガラテヤの信徒への手紙5章16節です。「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」ガラテヤの教会の中には深刻な意見の対立があったようです。それはコリント教会での対立とは異なる性質のものでした。コリントの教会では人々は、キリストの福音を宣べ伝えられたのに、キリストの福音ではなく、それを宣べ伝えた人に心惹かれ、こだわって、「わたしはパウロ先生につく」、「いや、わたしはアポロ先生につく」と言って分派が出来たということがありました。どこでも起こりそうな問題です。

ガラテヤ教会の方はもっと深刻であったようです。なぜならキリストの福音そのものが否定されかねないことが、教会の中で論争となったからです。わたしたちも改めて耳を傾けなければならないことですが、キリストの福音は、ただ神の恵みによる救いを宣べ伝えるのです。キリストが世の罪を贖うために来てくださったということは、すなわちわたしたちはだれも自分で自分の罪を贖うことが出来ないからに他なりません。そして、実際ユダヤ教から多くの人々がこの福音を信じて従う者となりました。

ところが彼らの中から、律法を守って救われるというユダヤ教の教えを、キリストの体である教会の中で広めようとする人々が現れたのです。教会はキリストの体であります。わたしたちは行いを正しくして救われることはできない罪人であることを認めたのです。ただキリストに結ばれるならば、キリストの死によってわたしたちの罪も死んだとされ、ただキリストの正しさによってわたしたちも正しい者とされると信じたのであります。それが、あろうことか、また自分の正しい行いがなければ救われないという教えに逆戻りしようとしているとは、どうしたことでしょう。そこで、教会の中に深刻な対立が起こりました。同じ一つの体の部分であるわたしたちを想像して見てください。目と足が対立して、どっちかを徹底的にやっつけようと陰謀を企てるなどということはあり得ない。正気の沙汰ではありません。しかし実際そんなことが起こっているなら、どちらが勝手も負けても、体全体にとっては悲劇ではないでしょうか。そんなことになる前に手を打たなければなりません。

それではどのような手を打つのか。それは、人間的な教えによってではありません。人間的な力によってでもありません。教会はキリストの体ですから。パウロは勧めています。「霊の導きに従って歩みなさい。」この霊はキリストの霊であり、父なる神の霊であります。

地上にいらしたイエスさまが弟子たちに約束された聖霊です。ルカ24章49節にこう言われました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」162上。

わたしたちはキリストの死と結ばれて罪赦され、イエスさまが弟子たちに教えられたように、神を見上げて「天の父よ」と呼びかけ、祈ることが出来る幸いな者となりました。しかし、神の子とされた後もわたしたちは肉体をもって地上に生きている限り、地上の性質であるいろいろな誘惑、欲望、様々な悪徳にさらされており、それらと無縁で生きることはできません。しかしだからと言って、わたしたちは完全に地上的なものの奴隷となり、これに支配され、溺れてしまうばかりではなく、何とか抵抗しようと努めるのではないでしょうか。また、たとえ人々の目から見ると、素晴らしく敬虔な、聖霊に満たされているように見える人であっても、この世的な欲望から全く解放されているとか、誘惑を受けないということはないのです。

ですから聖書がわたしたちに例外なく勧めていることは、怒りやすいとか、愚痴が多いとか、だらしないとか、お酒にはまるとか、数え上げればきりがないのですが、自分の元々の性質に支配されるままにすることなく、断固としてそれに抵抗して、聖霊の神の御支配にわたしたち自身を委ねることを願うことです。17節です。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。」

わたしたちはキリストに従う決心をして洗礼を受けたのです。それは聖霊の導きによって生きることにほかなりません。それがわたしたちの教会の肢であるわたしたちの願いでした。ですから自分が本当にしたいと思っているのは、聖霊の望むところなのです。実際はなかなかそれが出来ていない。なぜでしょうか。肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。これは私には身に染みて分かる言葉です。

私は本当に物事を始めるのが遅い人間でしたから、起きていればなかなか寝ようとしない。朝になるとなかなか起きられない。それは本当にひどくて起きなくてよいならこのまま死んでも構わない…と思いながら寝ていました。後から考えるとひどい低血圧のせいだったかもしれませんが、今でも取り掛かるまでにひどく時間がかかります。なぜ、こんな人間を主は献身させたのだろうか、と思うのですが、今ははっきりとその答が分かります。主は人間が自分の努力で、能力で出来たと思わせないためです。ただ神の助けによって、恵みによって出来たと証しして、神の栄光を讃えるためです。

そういうわけで、使徒パウロはわたしたちに、自分の肉的な性質と戦うことなく、キリストに従って生きることはできないことを教えて、これから先も困難な闘いに備えるよう励ましているのです。実に人間性全体が、神の聖霊に対して頑固に反逆しているのだから、聖霊に従うためには日々このことを意識し、祈り、労苦して戦わなければなりません。しかしその次にパウロは、信仰者がこれからの戦いを思って、勇気を失うようなことにならないために慰めを与えています。18節。「しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下もとにはいません。」

「律法の下にいる」というのは、たとえ100の中、99%のことが正しく出来たとしても1パーセントの間違いがあれば、厳しく追及されるということです。それに対して、「律法の下にはいない」という言葉の意味は、たとえ、わたしたちにまだ欠けている点があるにしても、それについてその責任を負わされず、その一方で、わたしたちの奉仕は、まるで完全に十分になされているかのように、神に祝福されているという結果になるのです。なぜなら、わたしたちはキリストに結ばれており、キリストは昔も今も後もわたしたちの罪の赦しのために執り成しの祈りを捧げてくださるからです。

さて、19~21節にはいわゆる悪徳表が並べられています。クリスチャンの生活の目標は聖霊に従い、その導きに逆らうわたしたちの性質に抵抗するために、具体的な目標を掲げて簡潔に示しています。イエスさまは人々に教えられました。マタイ7章17-18節。12上。「全て良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない」と。真に、木はその実によって明らかに知られるものです。人はその結ぶ実が明らかになるまで、偽善者となっているので、実は自分が汚れた者と愚かな者であったことを認めることがなかなかできないのです。

これらの項目を一つ一つ説明は致しませんが、姦淫と偶像礼拝は大変近い関係にあることを知っていただきたいと思います。神に対する信仰も結婚の関係も誠実、忠実を前提としているからです。また聖書によっては汚れという言葉が出てきます。これは道徳的な不潔、不貞を表しています。わたしたちは魔術も悪徳の中に入っていることに注目したいと思います。世界中の子供たちにクリスマスシューボックスを送ろうというキリスト教団体の取り組みがありますが、靴箱サイズの箱の中に玩具や絵本などを入れて送るのです。その内容に、送ってはいけないものの項目がありました。戦争関連の武器、裸の女の子の人形などの他に、魔法の本も、入っているのが印象的でした。魔法や、占いなどの中に自分の願いを投影することも、聖霊の導きから遠ざかることだと思いました。

そして「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」とは、大変身近なところにあるのではないでしょうか。このような実を結ばないようにすることは、教会に結ばれているわたしたちの真剣な目標なのです。パウロの警告です。「このようなことを行う者は神の国を受け継ぐことはできません。」

さてそれに対して聖霊の結ぶ実について明らかにしましょう。それは、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」特に寛容について申しますと、寛容とは、longsuffering(辛抱強い、長く耐え忍ぶ),精神の柔和さであります。キリストのご性質そのものではないでしょうか。これらすべての徳は、聖霊によって与えられるものです。聖霊の導きによって神とキリストがわたしたちを新たに造り変えてくださるのです。「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」と勧められています。わたしたちはもはや自分自身に生きないために、キリストの死との交わりにつながれたのです。それは、人間の側の働きではなく、神の恵みによることであると信じます。

本日は聖霊を信じる教会の信仰について学びました。「わたしは聖霊を信じます」とは、どういうことでしょうか。それは、父と子と共に聖霊をあがめ、礼拝するということです。そして神さまに愛された人生を生き、イエス・キリストに救われた感謝と喜びの生活を送ることができるということです。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神様

本日の礼拝も、あなたの御前に祝福をいただいて捧げることが出来ました。心から感謝申し上げます。あなたはわたしたちの弱さにも、愚かさにもかかわらず、聖霊をお遣わしになり、わたしたちを愛し続け、忍耐し続けて今日まで守り導いてくださいました。わたしたちの教会の小さな歩みの中に、共に歩んだ方々をあなたはすべてご存知です。洗礼によって明らかにしてくださった救いの約束を、どうか最後まで全うしてください。わたしたちは与えられた恵みを思い起こし、これから歩む道のりをも導いてくださるあなたの御手を信じて委ねます。

多くの教会が全国に全世界に在って、労苦しながら福音を宣べ伝えキリストの体である教会を建てようとしています。その困難と喜びを共にしてくださるあなたの聖霊の導きを感謝します。特に想像を絶する水害に見舞われた地域の教会を強くし、被災者と共に支えてください。そしてわたしたちもその苦しみを思い共に祈る者とならせてください。あなたの御子イエス・キリストに結ばれているわたしたちが、教会に良い実を結ぶものとなりますようにわたしたちの生活を整えてください。人間的なものがほめたたえられることなく、ただキリストによって救いを齎したあなたの御名こそがほめたたえられますように。

多くの兄弟姉妹が高齢となり、病にあり、労苦しております。地上の歩みを終わるその日まで、そのご家族と共にお世話をする方々と共に恵みと平安を施してください。今週も成宗教会に連なる方々に、主の恵みのお導きを祈ります。また、この国に、この地域にある人々に御言葉を宣べ伝えるために労苦する連合長老会、日本基督教団の尊い務めを祝してください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。