死者の中から甦り

聖書:ヨブ記19章25-27節, コリントの信徒への手紙一 151222

 イエス・キリストの福音を宣べ伝える礼拝、今日も守ることができる幸いを感謝します。この福音はキリスト教会の二千年の歴史を振り返ること無しに、語ることはできません。教会に新しい方が来ると、私たちはその方のことを何も知らないのですが、その方と教会とのつながりを神さまが作ってくださっていることを思います。先月ご結婚された成宗教会の兄弟が、初めて成宗教会に来た時、私は兄弟の出身の国と日本の長い歴史を思いました。それこそ千年、二千年にわたる交わりです。日本人は昔あなたの国に留学生を送って勉強したのですと、わたしは申しました。

本日は愛知県の半田教会から40年前の私たち夫婦の知り合いの方々がいらっしゃると聞いて、私は思いがけないことを思い出しました。それは、半田教会の創立者は数年前まで成宗にギリシャ語を教えに来てくださった小泉仰先生のお祖父さまご夫妻ではないかということです。小泉紋次郎先生は、今91歳の方のお爺様ですから明治の初めの頃の方でしょう。脇差を腰に徒歩で青森から東京に出て来た話や、戦争中に空襲を避けるために国策で強制的に教会堂を壊された話を伺ったことがありました。

教会は人々の労苦を経て建っています。ですから人々の労苦を忘れないことはとても大切なことです。しかし、人の労苦だけで建っているのなら、100年、200年と続いて行くのはとても困難でしょう。ところが100年、200年どころか、教会は1000年も2000年も続いているのです。とても人間の力ではできないです。しかも、全世界に建っている。それは、イエス・キリストの名によって建っているからに他なりません。もっと言えば、その時代、その時代の人々が、昔も今もイエス・キリストの御名を信じたからに他なりません。キリストは今も生きておられると。今も生きて私たちを救ってくださると。昔も今も、そして世界の津々浦々で信じられているからこそ、教会は建っているのです。

キリストは今も生きておられると信じる。それはつまり、キリストは十字架にお掛かりになった。本当に死んでしまわれたこと。お墓に葬られたことを信じたのです。キリストの死を信じた上で、しかし、キリストは死人の中から甦られたことを信じている、ということなのです。教会は信仰告白において、このことをはっきりと告白しました。そして主なる神は、この告白の上に教会を絶ち続けてくださっています。

しかしながら、この告白は何の問題もなく、あっさりと教会の人々に受け入れたのではありませんでした。今日の新約聖書のテキスト15章12節で、使徒パウロは教会の人々に尋ねています。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」と。この手紙が書かれた時代は紀元五十年代です。それは、主の十字架の出来事からまだ三十年も経っていない頃でありました。それなのに、キリストが十字架に死に給うたことを信じるかどうか。そして三日目に復活されたことを信じるかどうか。そういう議論が、早くもコリント教会で問題になっていたことが分かります。つまり教会の中に、この頃早くも復活を信じない人々が現れていました。それで議論が起こっていたのです。

すごいことだと思います。ついこの間の出来事であろうと、2千年前の出来事であろうと信じない人々は信じない。そして信じる人々は信じるのです。それでは、信じない人には、「信じなくてよい、勝手にしなさい。我々は信じる者だけでやって行くから」ということになったとか、というと、全くそうではありません。復活を信じる者が福音を宣べ伝えて来たのです。復活を信じる者が教会を建てて来たのです。そして信じる者を助けるお方がおられる。すなわちご復活の主がおられるからこそ、教会は建つのです。

そこで教会を建てるためですから、使徒パウロは信じない者を放置しません。議論し、説得に努めたのです。キリストの復活を信じることは、私たちの復活を信じる根拠でありからです。そこで、もしキリストが復活したのならば、私たちも復活するでしょう。もし、キリストが復活しなかったのならば、私たちもまた復活しないでしょう。これを逆に言っても同じです。「もしわたしたちが復活するとすれば、キリストが復活されたからです。もし私たちが復活しないならば、キリストもまた、復活しなかったのです。」

それならば、キリストは復活されたが、それはわたしたちの復活とは関わりない、という話にはならないのです。またキリストは復活されなかったが、わたしたちは復活するとか、もう既に復活している、などという考えは成り立たないということなのです。なぜなら、キリストが死んで、甦られたのは、御自身のためではないからです。そうではなくて、御自身の体となった教会のためです。そして教会の中に、主に結ばれた信者であるわたしたちもいるからです。

それなのに、あなたがたの中にいる一部の人々は死者の復活などない、と言っている。よろしい、とパウロは、その人々の主張を仮に正しいものとしたらどうなるかを考えましょう、というのです。13節。「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」キリストが地上の生涯の間、語られた福音を人々は聞きました。また、なされた数々の不思議な業を体験し、証言しました。キリストは神の真心を具体的に表されたのです。しかし、人々はこの方を十字架の死に至らせた。この義人の死を認める人々は多かったでしょう。しかし、神はこの方を復活させる力がないというのでしょうか。死者は死者のままで終わる。たとえキリストであっても復活はない、というのであれば、その人々がキリストの名を呼び続けるのは空しいことではないでしょうか。

キリストが死に呑み込まれ、全く滅び去り、罪の呪いによって圧倒されていたならば、つまり、キリストがサタンに打ち負かされていたならば、もはや何が残っているのでしょうか。キリストの死だけを認め、復活がないものとすれば、そこに見い出されるのは絶望の種ばかりです。それでは、全く死に打ちひしがれた人が他人に救いをもたらす者となることは不可能でしょう。

よく人の名前の付いた教会があります。○○記念教会という名前ですが、たとえそれがその教会を建設するために力を尽くした人の名であっても、その人の名を呼んで教会を建てることはできません。キリストの教会を建てるためにはキリストの名を呼ぶのです。そしてキリストの名を呼ぶのは、正にキリストが生きておられるからです。主の名を呼ぶ者を救う力がある方がキリストだからです。キリストの復活を信じない人が、自分の都合によってキリストの名によって祈り、助けを求めることほど、矛盾していることはありません。復活について信じるのか信じないのか、いい加減な考えのままで生きている。危機に直面したときだけ、いくらか真剣に考えるけれども、そうでない時には忘れている。こういう中途半端な信仰が教会に増えれば増えるほど、教会は力を失って行ったのだと言わなければなりません。パウロや使徒たちの労苦はこのような不信仰を打ち破るためにも費やされました。

大切なことは、イエス・キリストの体である教会に結ばれることです。そのために最も大切なことは、キリストは死者の中から甦られたことを信じることです。福音のすべては、ただ一重にキリストの死と復活に掛かっているからです。

わたしたちはもし福音によってその益を得ようと真剣に考えるならば、この点にこそ、自分の思いを集中しなければなりません。使徒パウロはギリギリの所まで自分を追い込んで、伝道者の存在を賭けてこう述べています。15節。「更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。」神によってその永遠の真理を宣べ伝える者として立てられた使徒が、もしも嘘偽りをもって世の人々をだましてきたことが発覚するならば、それは由々しき一大事と言わなければならないでしょう。なぜなら使徒たちは、何と神に対して大変な侮辱を与えることになるからであります。

更に不幸なのは、使徒たちの教えによって信仰に入った教会の人々ということになってしまいます。「死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストも復活しなかったのなら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。」もし、キリストの復活がなかったものと仮定するなら、生きている者は今もその罪の中にあることになります。なぜなら、キリストの罪の執り成しがなかったことになってしまうからです。そうだとすれば、人は以前そうであったように、自分の正しさを証明するために自分で果てしなく償いをしなければなりません。

そして更にキリストの執り成しを信じて眠りについた信者にとってもそれは空しいことになってしまうのです。罪赦され、終わりの復活の日に、御国を継ぐために召し出される希望がなければ、死者にも幸いはありません。最後に生きて労苦している信者たちも、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めなもの」だということになります。

この世の生活でキリストに在って信じるだけしか、考えていないのは、実は現代人にこそ最も特徴的ではないでしょうか。物質的繁栄の結果、すべての望みをこの世にかけるような堕落が起こっているのです。それは、私たちの信仰の実をこの世だけで結ばせようとする考えであって、私たちの信仰がこの世の果てよりも更に遠くを見通し、更に広く広がって行くことがなくなります。そうなると、ひたすら今繁栄している人々が羨ましい、苦労はただただ避けたい。苦難、困難に何の意義も感じないということになりかねない。神の御支配どころか、神がおられることすら、頭から消えてしまって考える余地もなく、時を過ごしているのです。

神はキリストに苦難を負わせられました。キリストは御自分の罪ではなく、罪人の罪、わたしたちの罪のために苦しまれたのです。だから、わたしたちもご復活に与る者であることを信じなければ、すべての労苦は空しくただただ辛いだけになってしまうでしょう。クリスチャンがそうでない人々よりも苦労しているように見えるのは何も不思議なことではありません。クリスチャンが皆貧乏なわけでもなく、皆病気なのでもありません。キリストを信じる人も信じない人も富める人、貧しい人、健康な人、病気の人がいます。そして共通しているのは、皆等しく年取って行くことにだけです。

しかし、クリスチャンでない人々がしばしば幸福そうに安泰に見えるのは無理もないことです。自分のことしか考えない人々は悩みが少ない。それに対して、身近な人々、更に多くの人々の集団に対して責任を感じ、いつも皆の安寧平和を考える人々は、いつも多くの悩みを共有しているのです。額にしわを寄せ、重荷を負って皆のことを思う人々は、当然キリストのご労苦が分かります。ご自分のためでなく多くの人々の幸福のために自ら労苦して、自ら不幸を負ってくださった。わたしのためにも死ぬほど苦労してくださったと思えば感謝があふれます。死者のさまよう陰府に降って霊のことさえも心配してくださったと思えば涙があふれます。

一方、そういうことを少しも考えない人はのんびりしたものです。生き生きと自分の楽しみに邁進しているように見えます。ちょうど、屠られる動物が、屠られるその日まで丸々と太らされるように、悲しむことも労苦することもないのを見て居るだとしたら、キリストを信じる者は羨ましく思ってはならないのです。キリストの福音は神の愛があふれてわたしたちに届いたのですから、わたしたちもそれに応えて、キリストを愛し、隣人を愛して教会を建てて仕えたいと願います。最後にⅡペト1:7-8を読み、祈ります。436下。「信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。これらのものが備わり、ますます豊かになるならば、あなたがたは怠惰で実を結ばない者とはならず、私たちの主イエス・キリストを知るようになるでしょう。」

 

主なる父なる神様

尊き御名をほめたたえます。本日の礼拝を感謝します。わたしたちは、使徒信条の中で「三日目に死人のうちからみがえり」とはどういうことかを学びました。人間の不信仰は新約聖書の時代にも、早くも復活を曖昧にして来ました。それにもかかわらず、教会が全世界に福音の宣教によって建てられたことは、一重にあなたの憐れみと愛の勝利です。

主イエスキリストが復活され、死に勝利されましたので、わたしたちも主に結ばれて復活の希望に生きることができます。日本の社会はますます困難な時代を迎えますが、わたしたちはそれぞれの置かれたところで、過去の恵みを日毎に思い起こし、人々に証しすることを怠ることなく、恵みの教会、恵みの救いを世に宣べ伝え、残して行くことができますように。死ぬ者をも生かす愛の神。罪人を死と滅びから救い出される神に、栄光を祈り続けて参ります。

今日礼拝を守ることができなかった方々にあなたの顧みがございますように。御名を呼ぶ者を、憐れみ、悔い改めに導いてください。ご病気の方々を支え、励まし平安をお与えください。若い世代は多忙を究めていますが、あなたのご配慮によって必要を満たしてください。全国連合長老会が明日から金沢で開かれます。主よどうぞ、地方で労苦している教会、教師、長老の方々を励まし、一つのキリストの体を与えられますように助けてください。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。