聖書はキリストを証しする

聖書:ホセア書6章1-3節, コリントの信徒への手紙一15章1-11節

 人が生きるために最も大切なこと、必要なことは神を知ることであります。神とはどなたであるか。神は命を与えられた方です。私たちは神に造られた、神の作品であります。私たちも子どもの頃は特にだれでも作品を作ります。うまく出来たらうれしい。学校で褒められた。いつまでも大事に取って置きたい。しかし、失敗作品もあります。気に入らない。もう見たくもないと思う。そういうのが人間の作品です。

神の作品はどうでしょうか。自分たちの秤で、物差しで神の作品を考えると、神さまも失敗作品をお造りになるのか、と考えるかもしれません。とんでもないことです。神はわたしたちを造られた。皆、良い作品として造られたのです。皆、よくできたと喜んでこの世界に生かしておられるのです。神のこのような喜び、神の愛は、もちろん自然の恵みを通しても感じられるでしょう。収穫の秋が巡って参りました。大地の実りをいただいて有り難いと思うでしょう。でも、大地に感謝することでとどまってしまうのでしょうか。海の産物、山の産物をいただいて、海に感謝する、山に感謝することにとどまってしまうのでしょうか。

しかし私たちの信仰は、すべての実りを与えてくださる神、すべてを造られ、すべてを養われておられる神を捜し求めます。神は、目に見えないお方です。しかし、私たちはイエス・キリストに出会うことによって、神を知ることができるのです。神はイエスさまをおよそ2000年前、パレスチナの地にお遣わしになりました。私たちから見れば西方の地に、そして西洋諸国から見れば、東方の始まるところであります。強大な国の偉大な王者として世に遣わされたのではない。強風に震える木の葉のような国民の中に名もない、貧しい人々の中に遣わされた方です。

実に不思議なことではないでしょうか。私たちの多くは世を去って数十年も経たないうちに忘れられてしまう者に過ぎません。しかしイエスさまのお名前は、2000年経った今も世界中に知られています。もちろん、人気歌手のように熱狂されることもないでしょう。あえて声高に語られることも少ないでしょう。それにもかかわらず、イエスさまのお名前によって捧げられる祈りは、言わず語らず、その声も聞こえないのに、日毎に、夜毎に、全地に満ちて天に上っているのです。それはなぜでしょうか。この方こそ、神を表す方、神の栄光を証しする方、神の愛をわたしたちに知らしめる方だからです。

それでは一体私たちは、どこでどのようにして、イエスさまのことを知ったのでしょう。日本では、プロテスタント教会が伝道を開始したのは、幕末からであります。そしてローマ・カトリック教会が日本に伝道したのは戦国時代、有名なフランシスコ・ザビエルによってであります。しかし、日本が中国の隋の国、唐の国に留学生を派遣していた奈良時代、平安時代には、すでに中国にはキリスト教の一派である景教が伝来しておりましたから、日本にもその影響が伝わっていたのではないか、と考える人々もいるようです。

そこで、イエスさまのことを宣べ伝える人々は、どのようにして宣べ伝えたか、と申しますと、日本の幕末以降のことに限定しても、聖書によって伝道したのです。聖書の翻訳に力を尽くしたのは明治学院の創立にも力のあったヘボン博士であります。聖書を教え、キリストにこそ、神の御心は表されていることを教えて、今日に至っております。

イエスさまはルカ24章で次のように言われました。これは復活されたイエスさまが弟子たちに現れ、説き明かした言葉であります。24章45節。「そしてイエスは聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。」161末。

さて、本日の聖書はコリントの信徒への手紙一の15章であります。ここからイエス・キリストについての証言を聞きましょう。コリント教会へ送られた手紙によって、使徒パウロは多くの勧め、というより、問題の指摘をなして、人々の間違いを正し、悔い改めを求めて来ました。それは第一に非常に具体的な問題、信者の生活についてでありました。パウロは何もこまごまと人々に干渉しているのではありません。教会の外でもめったにないような性生活の乱れ、不道徳が教会の中で見過ごされていたという驚くべき現実があったからです。また他にはキリストを信じる者が教会の外で、言ってみれば八百万の神々を礼拝している人々の間でどのように生活すべきか、という問題。これはわたしたちの時代にも社会にも無視できないことです。そして第三には教会の礼拝を守るということはどういうことかを問いました。これは具体的には聖餐を受ける人々の姿勢を問うているのです。

教会は救いに入れられた人々の共同体です。主イエスがお招きになった人々は、実にいろいろな人々がいます。貧しい人々が多かったそうですが、金持ちもいました。奴隷の身分の人々もいました。老若男女あらゆる人々が一堂に会するということです。教会で問われることはただ一つ。本当にイエスさまを知りたいのか、本当にこの方によって神を知りたいのか、ということだけです。その一点で真剣であるなら、誠実であるなら、わたしたちはイエスさまを知るでしょう。神さまは御自分をこの方を通してわたしたちに示してくださるでありましょう。しかし、この一点が疎かになっていた。いい加減になっていた。分からなくなっていた。それがコリント教会の現状であったと思われます。パウロは言います。

「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。」

彼は教会の人々が以前確かに聞いていた福音を記憶に呼び戻そうとしているのです。あなたがたに告げ知らせた福音。福音とは、復活の教えです。イエスさまは死者の中から復活された。教会の人々はかつてこのことを知らされ、このことを受け入れたはずです。この方を信じるなら、わたしたちもイエスさまの復活の命に与るのです。元気に好きなことをして生きているけれど、だんだん年取れば動けなくなる。動けなくなったら、後は死んでお終い、という人生ではない。神の恵み、神の命に与る希望を誇りにして生きる人生です。

覚えていますか?覚えていればこの福音によって救われます。どうやら、その教会の人々は初めに受け入れた福音があやふやになっていたようです。その結果、生活の様々なところに恥ずかしいほどの問題が起こった。自分のことではなくても教会の他の人々のことを見過ごすしかなかった。それは正に、福音の中心をしっかり理解していなかったからなのです。キリストは死んで復活された。このことを否定する人は、いくらイエスさまは優しい人だった。立派な人格者だった。わたしたちを愛しておられるにちがいないと信じても、その信仰は空しいものになってしまう。このことははっきりと言わなければなりません。

そこでパウロは改めて、福音の中心を告げ知らせます。それは使徒が主から受けたことであって、自分では何一つ発明、発案したことではありません。それはすなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだことであります。キリストは死に給うた。それはわたしたちの罪をぬぐい去るための受難なのです。わたしたちに罪の赦しを得させるために、神の御子であるキリストがわたしたちと等しい者となってくださった。キリストの死はわたしたちの死であります。キリストはわたしたちと共に死に給うた。その目的はわたしたちが彼と共に復活するためである。

実に、キリストはわたしたちの呪いを御自身の上に引き受けられ、私たちのためにその贖いとなり給うた。この教えは聖書からの教えであるとパウロは告げています。聖書、この時代の聖書ですから旧約聖書の教えです。たとえばわたしたちは受難節に読まれるイザヤ53章の苦難の僕について教えられます。イザ53:5-12「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた(5節)。…多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった(12節b)」1149末。

また詩22篇に「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という祈りがあります。イエスさまは十字架の上でこの祈りを祈られました。今日読んでいただいたホセア書もキリストを指し示す預言ではないでしょうか。「さあ、我々は主のもとに帰ろう。主は我々を引き裂かれたが、癒し、我々を撃たれたが、傷を包んでくださる。二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる。」

教会の信仰は、実に、罪人の救いのために罪人の身代わりとなって贖ってくださる神がおられるという信仰です。4節以下。「葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。」パウロがこうして弟子たちの名前や数を挙げるのは、復活が夢や幻、または誰かの発明ではなく、歴史の中に起こった事実であると証言するためです。ご復活の主は、最後に自分にも現れてくださったと証言します。月足らずに生まれたという表現。キリストに在って人は新たに生まれるのです。イエスさまは地上のご生涯に弟子と交わりを持たれました。そしてだんだんに教えて育ててくださって、弟子として生まれさせたのです。

ところがパウロについては違いました。彼は教会の迫害者、徹底的にイエスさまを迫害する者の側に居ました。そしてイエスさまを迫害することが神に反逆することだとは思っても見ませんでした。それどころか、教会をやっつけ、クリスチャンを根絶やしにすることこそ神に仕える奉仕だと信じて疑わなかったのです。このように、人間は自分の間違いに全く気が付くことさえ出来ないことが、私たちにも分かります。しかし、パウロがそうであったように、わたしたち自身もまた、他の人の間違いに気づくことができても、自分の罪に気づくことは非常に困難な者ではないでしょうか。

自分は罪人の中の罪人であった、とパウロは告白しておりますが、それを悟ったのはキリストが彼に現れてくださったからでした。気がつけば神に反逆していた自分、最も罪深い罪人の救いのために、キリストは死んでくださった。この罪人のために復活してくださった。それに気づかない哀れな者のために現れてくださった。そのためにパウロは瞬く間に別人のようになりました。キリストはパウロの罪に死んでくださった。そしてパウロはキリストの復活の命に生まれ変わったのです。十月(とつき)十日(とおか)お母さんのお腹の中に育てられて生まれたクリスチャンが他の弟子たち、使徒たちだとすれば、パウロは全く月足らずで生まれたクリスチャン。一人前だと誇ることもできない、一人前に認められなくても、全く仕方のない者であります。

本当に、誇るべきものは何もない。けれど、自分に誇るべきものが何一つないからこそ、自分のうちに人々が認めたもの、認めずにはいられないものがありました。それはただただ、神の恵み。神の栄光が彼の伝道によって輝いたのであります。ここにパウロをはじめとする使徒たちが宣べ伝えた福音。教会が受け継いで来た福音の著しい特徴があります。すなわち、キリストは死んでくださった。わたしたちの罪のために身代わりの死を死んでくださった。そして神はキリストを復活させてくださった。それは、わたしたちがキリストの死と結ばれて罪に死ぬなら、わたしたちはキリストの復活の命を生きることになるからです。教会は宣べ伝えます。イエス・キリストによって、神は死ぬ者をも生かす方であると。祈ります。

 

主イエス・キリストの父である神さま

恵みと憐れみに満ちた尊き御名をほめたたえます。

わたしたちに新たな主の日を与え給い、小さな集いですがここもまた豊かに祝福を与えられましたので、わたしたちは礼拝を捧げることができました。今日の御言葉を通して、福音の最も中心にあるキリストの死と復活の信仰を教えられました。

わたしたちはこの世に在って生活の糧を得、世の人々と交わり生きておりますが、あなたの尊い福音を受け入れて、真の救いを見上げ、求めて生きる信仰を与えられました。主よ、どうか、このことを片時も忘れることなく、心に来てくださった主なるキリストと御父によって聖霊によって生きる者と、生かされる者と、わたしたちを新たに造りかえてください。わたしたちは無力なものでありながら、あなたの御前に謙ることよりも、自分の業を誇ることに心を用い、その結果、神さまの恵み深さ、慈しみの深さ、罪人をも救おうとされる御心の麗しさを、身をもって証しすることが非常に少ない者でありました。

どうか、わたしたちに悔い改めの心をお与えください。わたしたちは教会に多くの計画をもっており、また個々人の家庭に多くの願いを持つ者です。しかし、わたしたちの願いを清めて、ご栄光のために豊かに用いられるために、わたしたちが貧しく弱い者であることを悟らせてください。わたしたちの活動のすべてが、ただあなたの御力によって支えられ、良い業が成し遂げられるために、わたしたちが感謝をもって献げられますように。

主よ、あなたの御心に適って、どうか今弱り果てている方々を守り、癒し、慰めをお与えください。私たちの活動が私たちの力によってではなく、あなたの目に見えない豊かな顧みによって、支えられていることが証しされますように。そしてイエス・キリストの父なる神の御名がほめたたえられますように。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。