聖書:詩編62篇12-13節, コリントの信徒への手紙二 11章7-15節
わたしたちは、それぞれ一人の信仰者として、自分のことを考えます時に、「自分は信仰の篤い者」とか、敬虔なクリスチャンだと自認できる人はなかなかいないことでしょう。また、この世の人々が切に求めている才能、能力、あらゆる力についてはどうでしょうか。これもまた、自分には力があると自信を持っている人は少ないことでしょう。実は客観的に見て優れた人々は教会には少ないわけではないでしょうが、「能ある鷹は爪を隠す」という諺の通り、「自分などは大したものではありません」と謙るのが通例で、礼儀に適っている態度でもあります。
しかし、謙った態度には二つの意味があります。一つには「本当に自分は力ある者ではない」と思っている場合です。もう一つは、「自分に力があると思われるのは困る」と考える場合です。その理由は、それを羨む人々が多いからです。そして、人の力を当てにする人々も多いからです。そこで、おそらく「自分の能力を他の人々のために使うことを求められたくない」と思うのでしょう。今でもあるのでしょうか。昔、長者番付というものが発表されていました。そうすると、番付の上の人の屋敷の玄関に捨て子がされていたという新聞記事があったものです。
そうかと思えば、全く反対に、「力があると思われたい」、「大したものだと思われたい」と考える人もいます。それはちょうど、本当は貧乏なのに、金持ちに見られたいという人がいるのと同じことです。いかにも信仰深く、敬虔なクリスチャンであるかのようにふるまう。そうして皆に尊敬されたい。しかし、本当に尊敬に値するかどうかは全く別の話です。もし、そういう人が教会の教師、指導者となったとしたらどうでしょうか。使徒パウロが伝道したコリント教会、その教会の信徒たちが直面している問題がここにあります。
パウロはコリントの人々にこう書き送ります。7節。「それとも、あなたがたを高めるため、自分を低くして神の福音を無報酬で告げ知らせたからといって、わたしは罪を犯したことになるでしょうか。」彼はコリント教会を開拓伝道した時、まるで自分の内に何ら優れたところがないかのように自分を低くして、実に慎み深く行動して来ました。しかし、人々が謙遜なパウロの本当の価値を見抜くことができないならば、彼らには、パウロは自分を低くしているのではなく、本当に大したことのない者のように見えたことでしょう。
一方、パウロはコリントの人々に夢中になっていました。正確に言えば「人々に」ではなく「人々が救われるために」夢中で働いたのです。子どもの教育に携わる人には分かることですが、自分を低くして子どもに向き合うことが大切です。そのように無知な人には分からない所まで降りて行って、病人には見下ろすのではなく、枕元に身を低くしてというふうに。その目的は、ただただ、人々の救いを願っての一心であります。
ところが、これがバカのように見えた人々がいました。どうやらパウロはコリント教会を開拓伝道する間、この人々から生活に必要な報酬を受けなかったようであります。使徒言行録にも記されているように、彼はヘブライ人として学問を究めた人物でありましたが、同時に手に職を身につけていました。このことは肉体労働を軽蔑しないヘブライ人の特徴でもありました。彼は天幕作りをしながら伝道をしたということが知られています。しかし、それだけで生活に必要なものを十分得ることはできなかったと思われます。このような開拓伝道者を支えたのはだれでしょうか。それはマケドニア人の教会でありました。マケドニア州の諸教会については、8章の初めに次のように紹介されています。1~2節。333頁。「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」
わたしたちは今も、大きな教会と小さな教会、力のある教会と力の弱い教会があるのを見ています。そして大きな教会、力のある人々は小さな教会、力の弱い人々を支援するのが正しい。あるいは望ましい姿であると考えたくなります。しかし、聖書が語る初代教会から、実際はそうではなかった。そうあるべきだとは思うけれども、そうとは限らなかったことが分かるのではないでしょうか。パウロたちは大きなものにも小さなものにも福音を宣べ伝えようとしています。コリントの地は経済的に豊かな商業地域、東西交通の一大拠点でありました。教会に集められた人々は様々であったことでしょうが、経済的には他の地域よりも恵まれていたことが想像されます。
しかし、パウロはその伝道に当たって、彼らから自分の生活を支えるだけの報酬を求めず、何と貧しさの中で労苦しているマケドニア州の人々から支援を受けたというのです。そしてそのことを悪く言う人々がコリント教会の中にいた。パウロは「マケドニアからかすめ取った」と批判したようです。彼はその批判に反論しているのです。福音を告げ知らせるのに、報酬を受け取らなかったパウロ。これはパウロの謙遜さの表れでもありました。彼はまるで自分の地位が他の人の地位よりも一段低いかのように、権利を行使するのを差し控えてきました。そのために、報酬を与える値打ちがないかのように軽く見られる原因ともなったのですが、他方、もし報酬を求めたとしたらどうでしょう。それはそれで、パウロに敵対する人々に、批判する口実を与えることになったでしょう。「パウロは金品を要求した」と。
一方マケドニアの教会の人々に対しても、パウロは自分の生活を支えてくれるように要求したわけでは決してないのです。マケドニアの教会には貧しさがあり、困窮があった。だからこそ、彼らは同じ貧しさの中にある人々を思うことができたのです。これまでに語られて来たエルサレム教会に対する災害支援がそうでありました。彼らは困っている人を誰でも彼でも助ける力はありませんでした。しかし、彼らは福音を聞きました。異邦人である自分たちが、イエス・キリストによって救いに招かれていることを知らされました。神も希望もない人々が、新しいイスラエルの民となったのです。この喜びによって、彼らは主の兄弟、姉妹の交わりを知りました。だからどうしても助けたかったのです。この救いの源にあるパレスチナの教会、この救いの源にあるユダヤ人の教会を。そしてパウロを。自分たちの貧しさを忘れてどうしても助けたかったのです。なぜなら、彼は福音を宣べ伝えるために命を賭けていたからです。マケドニアの教会の人々は言いませんでした。「コリント教会にはお金持ちがいるから、そちらから援助していただいてはどうですか」とは言わなかったのです。
このことをわたしたちは驚きを以て受け止めます。主の教会では、小さな貧しい者が大きな豊かな者に支えられているとは限りません。主の体の中では、小さな貧しい者が大きな豊かな者を支えていることも起こるのです。主の体の中では、感謝に溢れている部分が他を支えているのではないでしょうか。なぜなら、わたしたちが恵みを受けていると感じること自体、そして感謝すること自体、感謝できるということ自体が、上からの恵みに他ならないからです。
パウロはそれでは、いつでも、どこでも福音を宣べ伝える務めを無報酬でしたのか?というと、決してそんなことはありませんでした。主御自身、弟子たちを派遣なさるときに、無報酬でしなさいと命じられたのではありません。マタイ10:10「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である。」17下。福音伝道の務めのために働く者だからといって、日用の糧が必要なことは同じです。パウロはコリントの信徒への第一の手紙の中で、次のように述べています。
Ⅰコリ9:14-15「同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと指示されました。しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら死んだ方がましです…。だれもわたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。」310-11。この権利を利用するくらいなら、死んだ方がましです、というのは本当に激しい言葉です。なぜなのでしょうか。パウロの誇りとは何でしょうか。他の教会では受けている報酬を、援助を、コリント教会からは断固として受けないという堅い決意を表明しています。「わたしの内にあるキリストの真実にかけて」という決意は、ほとんど誓いの言葉であります。断じてわたしはあなたがたから報酬を受けない。こうまで言われた人々は、むしろ寂しく思うのではないでしょうか。「パウロはマケドニア州の人々からの支援を喜んで受けているのに、わたしたちからはこれからも受けないと言う。それは、わたしたちのことを心にかけていないからではないだろうか」と。
パウロは、彼らに逆に尋ねています。「なぜだろうか。わたしがあなたがたを愛していないからだろうか。神がご存知です。」英語の聖書(NRSV)では、「神はわたしがあなたがたを愛していることをご存じである」と訳しています。パウロの心は悲しみで一杯だったのではないでしょうか。命を賭けて伝道した教会。人々の目線に立って、自分を低くして伝道した教会。半信半疑の信仰しかまだ育っていない教会に、自分を支援してくれと金品を要求することなどどうしてできたでしょうか。結局のところ、救われた者でなければ、救われたことを感謝する者でなければ、本当に伝道者をお金や労働によって支援することはできないのです。
パウロがコリントの人々にこのように語気を強めて主張しているのは、彼らの背後で糸を引いている偽者の使徒たちを知っていたからです。そして、悲しいことには、コリント教会はまだまだ彼らの実態を見抜く力が養われていないのでした。パウロがもしコリントの人々に愛想をつかしていたならばどうでしょうか。あんな不信仰でふらふらしている人々は駄目だ、見かけばかりの美しさ、格好の良さに気を取られているようでは見込みがない、とダメな理由を挙げ出したら、本当に切りがないほどあったかもしれません。しかし実際はどうでしょうか。パウロは彼らを愛しておりました。この偽者と本物の区別もつかないようなダメ信者の彼らを、本当に愛して、心配して、彼らのために命を削るようにしていたのではないでしょうか。
そしてそのことは、主もまた彼らをお見捨てになっていない証拠であります。そして天の父も彼らを愛しておられる証しではないでしょうか。だからこそ、こうしてこの手紙は神の言葉として全教会が聞くことになったのです。パウロは戦います。コリントの人々が救われるために。コリントの人々が救われないように、サタンから繰り出されるあの手この手の攻撃に耐えるように、彼らのために戦っているのです。
サタンがわたしたちを悪へと唆す時には、彼は自分の本来の姿をそのとおり表さないのです。サタンこそ不倶戴天の敵であり、常に救いに反抗して戦いを挑んで来ます。彼がわたしたちに襲い掛かるにあたっては、むしろ天使のように見られたいと苦心するのですから、彼が、うわべはさも立派に、神の名までかたって攻撃してくるとしたらどうでしょうか。このように、サタンを助けている連中も皆同じ悪だくみを真似するのです。すると、わたしたちは、すべての人に対して疑心暗鬼になって、何でもサタンの使いだと疑うべきなのでしょうか。パウロの言いたいことは決してそんなことではありません。判断のための基準をわたしたちは御言葉からいただいているのですから、うわべにばかり目を留めてはならないのであって、本質的なことはどうなのか?このことをわたしたちは常に尋ね求めるべきであります。
わたしたちの信仰は終わりを目指す信仰です。「自分の業に応じた最期」とは、日本語の聖書では死ぬ時を表す「最期」となっていますが、それは、英語で言えばendであり、ギリシャ語ではテロスです。その意味は終わり、終点であると同時に、成就、完成、結末を意味します。そして生きる目標をも表しているのです。わたしたちの生きる目標は、イエス・キリスト。罪に死んでいる者をも生かす方。サタンに支配され、手下に使われている者をさえ、打ち砕いて罪に死なせ、主の命に結んでくださることがお出来になる、その恐るべき御力、その驚くべき愛に依り頼みましょう。祈ります。
御在天の父なる神様
尊き御名を賛美します。本日の礼拝に集められ、御言葉を聴く恵みをいただき感謝申し上げます。真に小さな群れですが、主の慈しみは深く、御業は計り知れないことを教えられました。大きな群れでも信仰薄く、大きな試みに遭うことしばしばです。小さな群れでも、大きな感謝に溢れ、無力な者をも奮い立たせて生かし用いてくださることを知らされ、心励まされます。
わたしたちはキリストによってあなたの愛と熱意を知らされました。またパウロの熱意によって、キリストの愛が迫っていることを知らされます。わたしたちもまた信仰弱い者ですが、コリントの人々が見捨てられていないように、信仰弱い者も、強くされ、主の教会の生きた肢としてしっかりと結ばれますように。大変な困難をそれぞれが抱えている時代でありますが、いつもわたしたちの最終目標であります主を目指し、主の御心を目指して生きる教会でありますように。
7月も半ばとなり、ますます厳しい暑さの中、教会に連なる方々のご健康、ご家族のご健康をお守りください。特に小さい者、健康に不安を覚えている者をお守りください。そして生活のすべての中で、御名が崇められますように。私たちが自分の救いのために、家族、友人、社会の救いのために、祈りを捧げますように。そして、ここに真の救いがあることを、いつも証しすることができますように。主よ、あなたの喜びを、あなたの愛をわたしたちに満たしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。