神の栄光を映し出す

聖書:詩編8篇4-10節, コリントの信徒への手紙二 3章15-18節

 今日はこのようなお天気ですが、日本の秋は観光シーズン、美しい自然に親しむ季節であります。美しい自然に感動する。しかし今日読まれました旧約聖書詩編の編集者は、自然を拝むのではありません。わたしたちは美しい景色に心打たれ、それをお造りになった方を仰ぎ見ているのです。神は世界を、宇宙を良いものとしてお造りになったからです。造られた方は御自分の指の業を御覧になって、その作品を「良い、よくできた」と言われた。そして祝福しておられます。

それにしても、と詩人は驚いています。「その神さまが、すべての造られたものの中で、人間を特に顧みてくださるとは。」空に輝く星々に比べても月に比べても、人間は芥子粒のような小さなもの。取るに足らないもの。その神さまがこんなにちっぽけなわたしたち人間を顧みてくださるとは・・・!?本当にいくら驚いても、驚き足りないことです。人間とはどういう者なのでしょうか。人間とは、弱くもろいもの。また悲惨と貧困とを表すと言われます。人の子という言葉も使われていますが、英語ではモータルと訳されます。モータルとは死すべきもの。壊れやすい、はかないものを表します。そのような人間を、神は御心に留めてくださいます。顧みてくださいます。ここに神の御姿が描かれています。弱い人間に心を配って、絶え間なく、訪れてくださる神のお姿。

私たちがイメージできるとすれば、それはまるで病院か老人ホームでベッドに横たわっている人に「大丈夫?」「お元気?」「いかがですか?」と声を掛けに来る看護師、介護士、ヘルパーみたいに絶えず訪れてくださる神さま。詩人は神さまをそのような方と感じているようです。神は人間を御自分に似せて造られた。神のかたちに造られた、と聖書は告げているのですが、一人一人見れば、何とちっぽけな人間。空を見上げては壮大な星々が気の遠くなるような美しさでわたしたちを圧倒しています。このような天の偉大さと大きさに比べれば、なぜ神は一見、取るに足らない人間に心を用い、愛を抱かれるのだろうか、と思わずにはいられません。ちょうど長身の大人が小さな幼子の話を聞くために、身をかがめるように、神さまは御自分を低くされて、このちっぽけな被造物である人類を心に留めておられる。何いうと驚きでしょうか。

詩人は歌います。「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ」と。神は人を御自分の似姿に造られました。そして人間は他の被造物と比べても、明らかに取るに足らぬものであるのに、神は人間をこの世界で神の創造の御業の冠とされたのですが、最初の人間であるアダムは、神に背きました。その罪のために、全人類は生まれつき腐敗してしまったと聖書は告げています。その結果は悲しいことに、わたしたちの中に本来持っていた神の似姿は、ほとんど全面的に消えうせてしまいました。そして、その結果神に似ている性質がもたらす豊かな賜物は失われてしまい、人間は惨めで恥ずべき貧困に陥ったのです。その豊かな賜物を表す言葉が栄光と威光なのです。

ところで、このような悲惨な人間の救いのために、神の真の子であるキリストが人の子として天から降ってくださいました。すなわち、失われた神の似姿を人間に回復させるため、本来持っていた神の栄光を映し出す性質を人間に回復させるためです。主イエスは人間の代表として地上におられたのです。人間として、限られたいのちの者として、死の苦しみを受け、人間の罪を贖ってくださいました。ゆえに、「栄光と栄誉の冠を授けられた」のを見ています。主イエスは、(ヘブ2:9)「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださった方」なのです。そしてキリストは十字架の死から三日目に甦られ神の命によって豊かにされました。

実は、キリストが豊かにされたのも、わたしたちのためであり、キリストの卓越したご性質、また天の父の権威も、キリストの命に結ばれるわたしたちがいただくことができるようになるためです。教会の信仰は、「人類に失われていた神の似姿という性質は、主イエス・キリストによってわたしたちに回復される」と信じます。そのことが世界中に信じられるようになるための道筋は、神の深く隠されたご計画によるもので、大変遠く、長いものでありました。キリストが世に来てくださる何百年も、何千年も前から、人々は神の名を呼んでいました。すなわち、救いを求めていたのです。

本日読まれました新約聖書コリント第二の手紙3章には、旧約の律法とイエス・キリストの福音が対比的に述べられています。わたしたちは社会生活をするために日常的に法を守っております。人が人と共に平安に暮らすためには、公の規則や法律が必要なことは誰もが認めています。律法が国家、地域社会の法律や規則と異なっているのは、それが神によって与えられたというところです。律法の中心はモーセという預言者を通して神が与えられた十戒、十の戒めです。連合長老会の教会では十戒を毎週唱える礼拝が守られているところもあります。律法は、出エジプト記20章に書かれている通り、神に対する4つの戒めと、人々に対する6つの戒めから成り立っています。その内容は、非常に簡潔に言えば、第一には神に対する愛の戒めであり、第二には人々に対する愛の戒めであります。

神がお与えになった律法は本来良いものに違いありません。それを守ることができれば、その人は命を得ることができます。しかし、実際は守れませんでした。守れない人と守れた人がいたということではありません。人は誰も例外なく守れなかったと聖書は語ります。律法によっては、誰も救われなかったのです。特に神に対する戒めはより深刻です。神を信頼する心。神に従う心。神を愛し、敬う心。神に忠実な心について、誰が本当に律法を守ることができたでしょうか。

そういうわけで、律法の役割が明らかになりました。それは人を罪に定める働きです。律法はただ立派に生きるための規則を定めたものにすぎないのであって、人の心を悔い改めさせて良い道に従う者に導くわけではなく、その一方、律法に背くものに対しては永遠の罰を宣告することになります。けれども有り難いことに、律法は一時的のものに過ぎないのです。なぜなら人は律法があり、律法を守ろうとする時に初めて、本当に自分が行いによって正しい者となることができないことを自覚することになるからです。もし律法がなかったら、つまり、神の前にも、人の前にも、して良いことと、悪いことがあることを知らないとしたら、そういう人は罪の自覚は一切なく、神を神とも思わず、人を人とも思わない恐ろしい人であり、救いとは何の関係もないことになるでしょう。

従って、自分は律法を守ることができないという自覚は、神に救いを求めるためには、必要なことではないでしょうか。さて、律法の役割について述べましたが、それに対して、福音の役割は何でしょうか。それは、人間が一切の希望を失っているのを見て、救済の手を差し伸べることであります。福音は、人をキリストの御許に導くことによって、命に至る(救いに至る)道の門を開く務めを行うのです。

先程、律法は一時的なものと申しましたが、福音の務めはそれに対して永遠に続くのです。律法はモーセを通して与えられたのですが、イエス・キリストは来てくださり、モーセの果たした律法の務めに終止符を打たれました。すなわち、人は皆罪を犯して神の似姿、神の栄光を失っていましたが、ただキリストを救い主と信じる信仰によって、罪赦され、神の子イエス・キリストの命に与ることができるのです。先週、読みました使徒言行録8章でもエチオピアの宦官が言い表した信仰は、「私は、聖書の証しする苦難の僕、わたしたちの罪が赦されるために身代わりに苦しんでくださったイエス・キリストは神の子であると信じます」という告白でした。(使徒8:37)

福音の中にあってキリストの栄光は照り輝いています。もちろん、月も星も暗い夜には輝いて見えますが、それらが太陽の光に出会うならば、たちまちその光は薄くなり、影を潜めてしまうでしょう。そのように律法の栄光も、キリストの栄光とは比べものにはならないのです。キリストの栄光は太陽の輝きのように、福音の中にあって輝きわたります。しかしそれはだれにでも見ることのできる輝きではありません。ただ、信仰をもって神を仰ぎ望む人々に、神が人を造り人に与え給うた神の似姿が見えるのであります。それは、人々の力によるのではなく、人々に信仰を与え給う聖霊の働き、主の霊の働きです。聖霊は、父なる神と共に、御子イエス・キリストと共に働いてくださり、信じる者の心や精神を天にまで引き上げようとその威厳ある御力を発揮してくださいます。

キリストの霊の働きは天から降って、わたしたちに命を与えるものです。律法の光は目に光を与えるよりも、むしろ目をくらますものでありますが、キリストの福音の光は神の栄光を輝かせ、その光は人を怖がらせるようなものではなく、それどころか愛すべき、慕うべきものであります。神は福音が隠されることなく、すべての人に親しく現れることを心から喜ばれるでしょう。ですから、わたしたちは自分の弱さにも拘わらず、確信に満ちあふれて、福音がすべての人に親しく現れるために大胆に宣教したいものです。

聖書全体は、常にその唯一の目標であるキリストとの関連において読まなければなりません。そうでなければ正しい方向から全く外れてしまうでしょう。教会もキリストと結ばれて行動するのでなければ、どんな努力も正しい方向から外れて、ただ人間の業を競うだけの貧しいものになるでしょう。コリント二、3章17節を読みます。「ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられる(キリストの務めのある)ところに自由があります。」神を愛し、隣人を愛し合いなさいという最も大切な律法について言うならば、律法がキリストの霊を受ける時初めて、それは生きたものとなり、命を与えるものとなるのです。なぜなら、キリストこそは、律法の命であり、霊であり給うからです。

それではキリストはどのようにして律法に命を与え給うのでしょうか。それは、主がわたしたちに御自分の聖霊を与え給うことによってなされます。「主の霊のおられる(キリストの務めのある)ところに自由がある」からです。自由とは何でしょうか。それは、第一に罪への隷属からの解放です。そして自由とは第二に神の子とされることの保証なのです。アウグスチヌスの言葉です。「わたしたちは生まれながらにして罪の奴隷であるが、新生の恵みによって自由の身とされた。」聖霊によって新しく生まれること。神の栄光を映し出す者に変えられる希望をアウグスチヌスは語りました。

18節。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。」わたしたちは皆と言われます。ひとりのこと、個人のことではありません。キリストに結ばれた人々、キリストの体の教会全体が含まれています。皆が自分の救いにおいて聖霊の御力を経験しています。そして、

これからもそうでありますように。

わたしたちは主イエスによって啓示されたこの方、神をひたすらに仰ぎ見ることによって、栄光から栄光へ神の似姿へと変えられて行くのです。以上のことはただ一瞬にわたしたちになされるようなものではなく、絶えず順を追って成長させられることです。それは絶えず、次第次第に増し加えられて行く恵みです。

本日行われるバザーの行事は、成宗教会の業の中でも、伝統的に力を入れて来たものです。これは教会の名によって行われて来ました。教会の名とは、主イエスのお名前です。もしもこのお名前がなかったら、またこのお名前を忘れたら、人の業になってしまうでしょう。このお名前による働きとなれば、それは主イエスの聖霊の業となるでしょう。わたしたちはひたすら聖霊の神の御名をほめたたえ、福音の業が力強くなされますように祈りましょう。