貧しさの中に溢れる豊かさ

聖書:申命記12章8-12節, コリントの信徒への手紙二 8章1-7節

 神は全世界のキリストの教会を建てることを求めておられます。人はそれに対して、まず自分を立てなくてはいけない。自分の家族を立てなくてはいけない。自分の関係する地域、社会を立てなくてはいけない、と思うのではないでしょうか。もちろん、神は一人一人を生かし、その人の家族を生かし、地域、社会を生かすことをお考えになっておられないはずありませがありません。このことを、「もちろん!」と言うわたしたちは、神が全世界をお創りになり、すべてを平和の中に守ろうと望んでおられると信じているからであります。

その上で、なお、「全世界にキリストの教会を建てることは、神の御旨、望まれることである」と主張するのはなぜか、と申しますと、神は全世界の人々をキリストの体の肢となるように招いておられるからです。キリストの体に結ばれるということは、罪の赦しに結ばれる、ということです。人生を振り返ってみると、たとえ聖書にほめたたえられているイスラエルの王でさえも、多くの罪、咎、過ちを免れなかった。そのことを聖書は静かに、率直に語るのです。人が悔いても、取り返しのつかない過去を、人に代わって償って下さり、日々新たに罪赦されて生きることができるようにしてくださった方が、わたしたちの主イエス・キリストです。教会を建てるということは、キリストの体を建てることです。教会の一員となるということは、キリストの体のメンバー、肢体、部分となることです。それは、キリストの罪の赦しに結ばれることに他なりません。

使徒パウロは、キリストが十字架の死と復活を果たされた後に、キリストに従う者となりました。他の使徒たちと比べて、自分はいちばん小さい者と、自分を呼んでいたのは、キリストに出会う前の自分の過ちを思うからです。それは大変な過ちであり、教会の人々を死に至らせるほどの罪でした。彼は教会の迫害者でした。しかし神は彼を救われ、今度は教会の救いを宣べ伝える者としてお立てになったのです。

敵であったパウロを、最終的に信頼し伝道者として送り出したのは、エルサレム教会でした。わたしたちはもう間もなくペンテコステ(聖霊降臨日)を迎えますが、キリストの使徒たちに聖霊が降り、彼らが伝道を開始したのはエルサレムです。しかし、使徒言行録に語られているように、やがてエルサレム教会に対して激しい迫害が起こりました。その時、使徒たちはエルサレムにとどまりましたが、多くの者が迫害を逃れてパレスチナへ、また更に遠方へと散らされて行きました。

使徒パウロは異邦人伝道に召された者として、異邦人の世界へ出て行ったのですが、パレスチナは飢饉に見舞われ、エルサレム教会の人々は非常な困窮に陥っていたと伝えられています。パウロはエルサレムから遠く離れて伝道し、教会を各地に建設して行きましたが、貧しいエルサレムのことを決して忘れてはおりませんでした。「救いはユダヤ人から来る」(ヨハネ4章22節)とイエスさまが言われたように、今、多くのユダヤ人以外の人々が救われ、罪の赦しと永遠の命に生きる者となった。神でないものに支配され、奴隷となっていた者が解放された。この救いにまさる喜びが他にあるでしょうか。しかしながら、その喜びの源となったエルサレム教会は今困窮にあえいでいました。聖霊が注がれた教会、伝道を開始した初めの教会が苦しんでいる。

パウロはこのことを片時も忘れていなかったに違いありません。彼自身も未知の土地に入って伝道する、新しい教会を建てる。それには予想をはるかに越える困難が次々と起こりました。コリント教会のように豊かな人もいて順調な教会形成がなされたかと思えば、パウロが去った後、たちまち傲慢な人々の支配するところとなってしまう。「前の教師は駄目だ」とこき下ろし、「我こそは…」と自己宣伝するのが指導者だとしたら、そうなると、教会の有り様は、主の体とは程遠いものに変って行くのです。神の御心、キリストの恵みが正しく宣べ伝えられないということは、実に恐ろしいことであります。

パウロはコリント教会に手紙を送って問題点を厳しく指摘しました。厳しく、ですが同時に誠意を尽くして、愛を込めて指摘したのでした。誠意を尽くすのは人に対してというよりも、神に対してです。たとえ言われた人には、厳しすぎる言葉であっても、神の御前に誠意をもって語る時、彼は必ず言わなければならないことを言いました。なぜなら、パウロの目的は教会を建てることだからです。ですから、愛を込めてというのも、神の御心に結び付いた愛なのです。神の愛は必ず教会に現れるはずであり、キリストの体に結ばれているところに現れるはずだからです。

そういうパウロの願いは、神に聞かれました。厳しく戒められたコリントの人々は悔い改めたからです。彼らは非常な熱意をもって、自らの間違いを正し、使徒の教えに忠実になろうとしました。このことを知らされた時のパウロの喜びは計りしれません。キリストの執り成しがここにある!だからこそ、誠実に神の御前で戒めを与え、だからこそ、誠実に神の御前で自ら悔い改める。だからこそ、今まで何事もなかったかのように、ではなく、多くの不安、不信、高慢の誤りを乗り越えた教会が、ここに建っているのです。キリストの執り成し、罪の赦しに結ばれているとは、正にこういうことです。

だから、使徒パウロは喜びに満ちあふれています。主に結ばれた者が喜びにあふれている時、自ずから心に浮かぶことがあります。それは何でしょう。それは感謝です。それは讃美です。ああ、有り難い。わたしたちはこんなに満たされている。平安と愛で満たされている。今まで、不安だったのに。またまた間違いを起こすのではないか、と。またまたひどく互いに傷つけ合い、争い合っているのではないか、と。しかし、主が助けてくださいました。これは全く主の恵みなのだ、と思ったとき、パウロはすぐに心にある計画について話し始めるのです。

それは、いつでも忘れていないエルサレム教会のことです。敵であった自分を味方と認めて、福音伝道者として認めて送り出してくれた教会。「エルサレムは、異邦人のあなたがたにとっても、また母なる教会ではないでしょうか。その教会が困窮しているのです。皆さん援助しましょう!」というのがパウロの呼びかけの趣旨です。しかし、パウロはこの呼びかけの前にマケドニア人の諸教会の話をし始めました。この援助の計画は、単にエルサレム教会が困っているから、コリントに助けを求める、ということではないのです。これは、あちらの教会、こちらの教会、どの教会も関係ある計画であります。なぜなら、どの教会もキリストの体に結ばれた教会の建設を目指しているからです。

コリントの教会はアカイア州にあり、マケドニアのフィリピ教会やテサロニケ教会はその北側にありました。パウロはマケドニアの諸教会のことをコリントの人々に称賛していますが、それは、彼らが豊かな、この世的な意味で豊かな教会であったからではありません。たとえば、礼拝出席が多いとか、建物が立派だとか、経済的に豊かな人々が多いということをわたしたちはついつい思いがちですが、フィリピ教会もテサロニケ教会もそうではなく、苦しみ、大変な試練の中にあったようです。使徒言行録にも、現地の人々や宗教との問題、ユダヤ人社会との問題、ローマ帝国の支配下での問題など、様々なことがあったでしょう。

その困難、苦難の中にあって、しかし彼らは救いの喜びにあふれていたというのです。彼らは生活に全く余裕なく、どん底状態であったにも関わらず、喜びがどん底の貧しさをついに呑み込んでしまうほどにあふれ出ました。「そんなことはあり得ないだろう」とわたしたちは思うのではないでしょうか。だからこそ、パウロは語り始めたのです。これは、マケドニアの諸教会に与えられた恵みです。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」2節で、「人に惜しまず施す豊かさ」と訳されている言葉は、「単一、単純」という意味です。それが「誠実。真心」という意味になり、「物惜しみしないこと。犠牲をいとわない気前の良さ」を表す言葉になりました。

あれこれ、考えすぎない単純さ。これが真心なのです。今の時代は何でも数値で表し、細かく計算する。80歳までにいくらいくらお金がかかる。それが100歳まで生きると・・・。いやいや、これからは120歳まで生きるかもしれない、などと計算するならば、「人に惜しまず施すほど、家にお金があるものか!」という結論に至るのは、当然かもしれません。それが全く不思議なことに、金持ちだから慈善に参加するのではなく、貧しいにも拘わらず、力に応じて、いや力以上に、慈善の業に参加したいと、進んで願い出たというのです。頼まれたから仕方なく、ではなく、自発的に、喜んで、「是非参加させてください」と熱心に頼んできたと、パウロは報告しました。

慈善事業というと、この頃はあまり聞かれない言葉かもしれません。慈善は、金持ちのするもの、というイメージを持っている人が多いかもしれません。そうすると「金持ちでない自分はしなくてよいのだ」という言い訳が立つからです。さらには、少しでも多く寄付金をする人には、「アナタはお金持ちですね」というレッテルを貼る人もいます。しかし、これはキリストの体を建てる業のことなのです。教会を建てるということが神の御心であり、キリストを信じる者に命じられている事業であることを、今日の冒頭でお話ししました。

20世紀は先進国で社会福祉が政府、自治体の事業として大々的に発展した時代でした。日本でも基本的人権という思想が定着し、だれでも思想、信条、性別、人種によって差別を受けず、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有することが憲法で定められたのです。そして、収入に応じて税金を払いますので、一般の勤労者は特に慈善事業に参加しなくても、自分が納税したお金の一部が貧しい人々の生活と健康を支えるために用いられていると考えることができて来たのです。しかし、これからはどうなって行くのか、将来が見えにくくなっていると感じる人は非常に多いと思います。格差社会と言われて久しく、目に見えない所に莫大な富が集まって行く一方、目に見えない所で大変な困窮があると言われています。しかも多くの人が豊かな方へ、ではなく、困窮の方へ落ちて行くことが懸念されているのです。

しかし、このような時代に生きる私たちだからこそ、地上に教会を建てることが目指されなくてはなりません。4節の「聖なる者たちを助けるための慈善の業、奉仕」とは、すなわち教会を建てる働きなのです。それは、神の御心ですから、私たちに与えられた義務なのでしょうか。いいえ、それは義務ではありません。カルヴァンは「援助の恵み、協力」と訳しています。パウロは施しの業を「神の恵み」と呼んで讃えているからです。わたしたちが豊かに暮らすことができるのは、恵み深い神が天から豊かに施してくださる結果であることを思う時、私たちもまた神の恵みの業によってキリストの教会を建てる業に参加できるならば、それこそは、クリスチャンに与えられた義務ではなくて、恵みであり、特別な権利であると言えるのです。

マケドニアの諸教会は極度の貧しさの中で、乏しい自分たちを捧げることを喜びとし、神の恵みとし、光栄とするほど豊かになりました。そのようにコリントの教会も、そしてわたしたちの教会も、教会を建てるために心を高く上げて、頭(かしら)であるキリストに祈り求めることが勧められています。信仰において、言葉において、知識において、熱意において、主からいただいている、また代々の伝道者から受けている愛において豊かであることを思い起こし、わたしたちも豊かな者となるようにと勧められているのです。祈ります。

 

教会の頭であるイエス・キリストの父なる神さま

尊き御名をほめたたえます。あなたは大きな者にも小さな者にも恵みを豊かにお与えになり、主イエスの贖いに結んで下さいました。私たちは今日も礼拝に参加し、聖餐の恵みに与ります。どうか、いつも教会の頭(かしら)である主を見上げ、主が私たちのために命を捨ててくださるほどに、愛して下さり、救ってくださったことを感謝する者とならせてください。

私たちは貧しさの中に豊かさがあふれ出た初代教会の信仰を、御言葉によって学びました。どうか、時代が変わり、地上の有様が変っても、変らない救いの喜びで私たちを満たしてください。苦難の中にある人々があなたを信じ、あなたを愛し、あなたに従ったという奇跡の不思議は今も変わりません。どうか私たちの小さな群れが、乏しいことにばかり目を向ける不信仰を打ち砕かれ、あなたの豊かな恵みを喜ぶ群れとなりますように。

本日は長老会議が行われます。教会を建てるために選ばれた長老たちを助け、あなたの知恵と力によってお導きください。今年度の行事が御心に従って行われますように。そしてすべての活動を通して、御言葉の豊かな御支配がありますように。総会が終わったので、教会員の方々に報告を送っています。どうか、この教会が多くの方々の祈りによって奉仕によって、助け合いによって建設されますように、大きな者も、小さな者も、強い者も弱い者も、主の聖霊によって奮い立たせてください。

そして、連合長老会の諸教会の上に、教師、信徒の皆様の上に、主のお守り、お導きを祈ります。

この感謝、願い、尊き主イエス・キリストの御名によってお献げします。アーメン。