あなたはキリストの手紙

《賛美歌》

讃美歌461番
讃美歌515番
讃美歌525番

《聖書箇所》

旧約聖書  エレミア書 31章31-34節 (旧約聖書1,237ページ)

31:31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
31:32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
31:33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
31:34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。

新約聖書  コリントの信徒への手紙 二 3章1-6節 (新約聖書327ページ)

3:1 わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。
3:2 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。
3:3 あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
3:4 わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。
3:5 もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。
3:6 神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。

《説教》『あなたはキリストの手紙』

コリントの町は古代ギリシアの都市でしたが、ローマ帝国に反抗したために、紀元前146年にローマ軍によって徹底的に破壊され、その場所は廃墟になっていました。しかし約100年後、ユリウス・カエサルによってローマ帝国の植民都市として再建され、主イエスの時代にはローマ帝国のアカイア州の総督府が置かれるようになりました。古代地中海世界の多くの主要都市と同じように、そこにはかなりのユダヤ人が住んでいました。パウロはいつものようにこれらの人々の間で宣教を始めたのでした。

コリントの信徒への手紙第二では、コリント教会共同体の内部生活やパウロとの関係について多く取り上げられているので、他のどの手紙よりもパウロ自身について多くを知ることができます。コリントの教会は罪を犯すことがない聖人の集まりではなく、救いにあずかり、信仰について考える過程の只中にある、罪人の集まりであったと言えましょう。パウロは紀元55年前後にコリント教会の混乱を収めるためコリントの信徒への手紙第一を執筆しました。その手紙で、コリント教会の混乱が収まったかどうかは明確には分かりませんが、パウロは再びコリント教会に問題が起きたとの情報をエフェソで得て、解決のためコリントに赴きましたが、結果は不調に終りました。エフェソに帰ったパウロは2章4節にあるように「涙ながらに」コリント教会に書簡を書き、弟子のテトスに託しました。

エフェソでの働きを終り、パウロはトロアスに移動しました。トロアスは伝道有望地でしたが、パウロはコリント教会の成行きを案じてマケドニヤへ渡り、そこで、コリントから帰ったテトスに会い、コリント教会の悔い改めを聞きました。この朗報に接してマケドニヤから書いたのが、このコリントの信徒への手紙第二でした。つまり、第一コリント執筆後1~2年後の紀元56年から57年頃に、この手紙は書かれたと思われます。

今日の3章1節から、パウロは、「新しい契約」に仕える使徒として任じられた証拠を自分は持っていると論じ始めます。パウロは「わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。」と書き始めています。ここに「またもや」という言葉が使われていますが、この手紙によると、パウロはコリント教会の人々から自己推薦をしていると誤解して受け取られていたようです。

この時代には、推薦状がしきりに書かれていました。ここで、「ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか。」とあるように、コリントの教会にも推薦状が送られていたようですし、またコリントの教会の人も誰かを推薦し推薦状を書いていたということが分かります。このように、コリントの教会では、来会者を判断するために推薦状を受け取ることが当たり前になっていたようです。

パウロが言わんとしているのは、「自分には誇れることはない、むしろ弱さばかりある。しかし、神様が、そのような宣べ伝えるに相応しくない自分を、宣べ伝える者として召して下さったから、今あなた方に宣べ伝えているのです。」ということです。パウロが弱さを誇るのは、自分は自己推薦できる者ではなく、そして他者から推薦されるに相応しくないことを示したいからです。パウロは自分を自己推薦するのではなく、ただ神様が推薦してくださっているということを、コリントの人々に伝えたかったのでした。ここで、パウロはこの神様の推薦があることを明らかにしようと試みます。それが2節の、「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。」というこの不思議な言葉です。これは、読む人にとっては意外な言葉です。推薦状とは、他者か、または自分が書いた書類である筈です。しかし、パウロは書類ではなく、人が自分の推薦状であると言うのです。そして、それがコリントの人々であると言っています。「自分は、あなたがたに対して、イエス・キリストの福音を宣べ伝えた。それをあなたがたが受け入れた。そしてあなたがたは救われて、主イエスを信じるようになって、信仰生活を送っている。それがわたしの推薦状になっている」と言っているのです。パウロは、人に信仰を与え、その人を信仰者として生み出してくださるのは、神様であると確信していました。信仰者もまた「信仰は父なる神が与えてくださる」ということ、すべては神様の働きであるということを知るようになります。だから、「あなたがたは神から与えられた私の推薦状なのだ」とコリントの人々に訴えるのです。

この後半で「それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。」とあります。「パウロの推薦状は、コリントの人々自身である」ということが「パウロの心に書かれており」、その事柄は、すべての人々に知られているということなのです。そして3節には、「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。」と、今度は、「あなたがたはキリストの手紙」であるということを語り始めます。パウロがまだ推薦状のことを語りたいのならば、ここを「手紙」とは書かずに「キリストがわたしたちを用いてお書きになった“推薦状”」と書いたのではないでしょうか。ここでは、「推薦状」と書かずに「手紙」と言い換えているのです。ここからは自分の推薦の話ではなくて、コリントの人々に対して、あなたたちは「キリストによって書かれた手紙である」ということを伝えたかったからなのです。

どういう意味でキリストの手紙なのでしょうか。それは、ここに「キリストがわたしたちを用いてお書きになった」と書かれていることから、この手紙は、主イエスご自身によって書かれた手紙であり、その内容は主イエスが仰りたいことであるということが分かります。

主イエスが人々にお伝えになりたいことというのは、「喜びの知らせ」すなわち「福音」です。主イエスによって罪を贖われ、罪を赦され、復活を信じることができ、永遠の命を与えられることを信じることができる。そして本当に父なる神が、どうしようもない私たちを見捨てず愛してくださって死ですべてを終わりになさらず、復活し新しい命が与えられて、神の国に入らせ、そして父なる神の家に住まわせてくださることを約束して下さっているということをお伝えになりたいのです。そのお伝えになりたいことを主イエスは、手紙として書いているのです。その救いと愛と希望の喜びの知らせを、主イエスは私たちに書き記しておられるのです。

どのようにして、私たちに書き記されているのか、それは信仰によってです。ここに「墨によってではなく、神の霊によって、書きつけられた」とあります。私たちは、その喜びの知らせを信じる信仰を与えられた時に同時に神の霊、聖霊を与えられます。信仰を与えられたその時に私たちは、聖霊なる神によって、その喜びの知らせを刻まれるのです。パウロは永遠に消えることのない神の霊によって、信仰と喜びの知らせが刻まれているということを伝えたかったのです。

どこにそれが刻まれるのか、それは後半に「石の板ではなく、心の板に、書きつけられている」とあります。石の板ということで、私たちが思い出すのは、モーセが神様から与えられた十戒が記された石の板、すなわち律法ではないでしょうか。パウロは、石の板である律法ではなくて、主イエスに与えられている喜びの知らせである福音が私たちの心に書きつけられているのだと言っているのです。私たちは律法によって、自分たちの罪を知りますが、律法によってでは、救われませせん。律法によって私たちが自覚させられる罪を、主イエスが十字架の死の犠牲によって代わりに背負って、贖ってくださって、救ってくださったのです。その救いの喜びの知らせ、「福音」が私たちの心に刻まれるということを、パウロは4節で強調しているのです。

パウロは、この救いの喜びの知らせ、福音に確信を持っていました。

そして、パウロは続く5節で神様に与えられた「資格」について語ります。「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです。」

パウロがここで述べている「資格」というのは、伝道者としての資格のことです。そのような伝道者としての「資格」は、自分にはないということを、ここで述べています。「独りでなにかできると思う」と書いていますが、ここは原文に沿って訳すと、「わたしたち自身は、何か考えたり主張したりするには相応しい者ではない」ということです。

これは、パウロのコリントの教会に対しての忠告であり、願いでもあったのでしょう。または彼らに御言葉を語ることの権利や資格は「そもそも自分にない」というへりくだりとも言えましょう。

ここでは、パウロが自分だけのことを言っているのではないことに気付かされます。

「わたしたちには、その資格がない」と「わたしたち」と言っているのです。つまり、パウロにだけ伝道者としての資格がないのではなく、誰一人として、伝道者になる資格を持ち合わせていないと言っているのです。

私たちは本来、神様の救いに与る資格や神の子とされる資格も資質もありません。しかし、その資格もただ主イエスによって、ふさわしく無い自分が赦され、救いに与る資格が与えられ、神の子とされる資格が与えられたのです。それは最後の6節を読むと分かります。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。」とあります。

ここの「新しい契約」とは、主イエスが十字架上で流された血によって結ばれた契約のことです。神様と人との契約です。創世記のアダムとエバ以来失われた神様との関係を主イエスがその犠牲によって修復して下さったことにより神様の前に立つことができ、神様と共に生きることができ、神様とつながって永遠の命に与ることができるようになるという、神様の一方的な約束です。そして、この「新しい契約」というのは、主イエスがお生まれになる600年も昔の時代に預言者エレミヤを通して神様から与えられた約束でした。それは、先程お読み頂いた旧約聖書エレミア書に書かれていた言葉です。

ここの「霊に仕える」というのは、聖霊なる神にすべてを委ねるということです。パウロは、ここで「文字に仕えるのではなく、聖霊なる神に仕える」と言っています。

ところが、ユダヤ人たちは、「神の民」とされているということや「新しい契約」をいつの間にか忘れ、律法に書かれている掟を守れる者が「神の民」であり、「神の民にふさわしい者である」と考えるようになっていました。そして、律法を、絶対視するようになり、文字に書かれた律法の「行い」に違反する者を裁く者になっていました。

パウロは、そのような「文字」に仕えるのではなく、「聖霊」に仕えると言っています。また聖霊に仕える資格を神様から与えられたと言っているのです。「文字に仕える」というのは、文字で書かれた律法の「行い」に従い、自分自身を評価し、また他者をも評価し裁くことです。そして、その律法と自らの「行い」で自分を変えたり、その律法の力と自分の力とで他者をも変えようとすることです。「霊に仕える」とは、ただ一方的な愛ゆえに赦し選び救いだしてくださった神様の霊によって、自分自身を判断し、他者を見ること、そして、自分の力で自分を変えようとせず聖霊なる神によって変えられること、また隣人も同様に聖霊なる神によって変えられていくことです。

今、私たちは礼拝に集い、神様の前に立つ資格を与えられています。本当は、私たちは誰一人として神様の前に立つことのできる資格を有していません。私たちの中で、生まれながらに穢れ無く、聖なる者、義なる者は居るでしょうか。一人も居ません。誰一人として神の御前に本来は立ち得ないのです。

そんな私たちが、神様の前に立ち、御言葉を聞くことができるのは、神様の一方的な赦しがあり、義なる者として、認めてくださっているからなのです。

罪ある者、穢れある者が、ここに居ることができるのは、4節でパウロが「キリストによってこのような確信を神の前で抱いています」と言っているように、それは一方的な神様の愛である「キリストによって」なのです。主イエスによってということです。私たちは、神様の前に立つことが赦されています。神の子であることが赦されています。それはただ主イエス・キリストの十字架の犠牲によってのみで与えられているのです。その結果、私たちには、聖霊なる神に仕える資格が与えられています。この素晴らしい神様の愛を一人でも多くの人たちに伝え、共に豊かな愛の中を生きようではありませんか。

特に自分が大切であると思う人にこそ、この素晴らしい豊かな神様の愛を伝え、その愛の中に居て欲しいと思うのが私たちの素直な気持ちではないでしょうか。ですから私たち自身が「キリストの手紙」となり、すべてを神様に委ね、自分の生きる姿こそが福音を伝えるものとなりますよう祈りつつ歩んでまいりましょう。

お祈りを致します。

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キリストに、神の輝くお姿を見る

聖書:出エジプト24章12-18節, コリントの信徒への手紙二 4章1-6節

 本日は、旧約聖書として出エジプト記の聖書が与えられています。出エジプトの民の物語は、今、21世紀を生きるわたしたちに、現実として差し出されています。彼らの先祖であるヨセフは、ヤコブの息子であり、アブラハムのひ孫にあたりますが、兄弟に妬まれ、憎まれて、奴隷としてエジプトに売られました。しかしその兄弟たちもすべて、パレスチナの飢饉の際にエジプトに移り住んだのです。そして長い間にはエジプト人に支配され、奴隷の身分に転落して行きました。しかし、彼らは神がご自分に従う民として選ばれたアブラハムの子孫でありました。そこで神は人々を支配する者の鎖を断ち切ってくださり、自由へと招いてくださいました。自由。それは神に向かう自由。神に従う自由であります。

人々は実に孤独で生きて来たのではありません。人々の生きた歴史は、人々が共に生きる共同体の歴史です。共に生きる交わりです。それはどんな共同体なのでしょうか。血縁共同体なのでしょうか。または住む地域を共にする地縁の(地域社会の)共同体なのでしょうか。それとも、共同体とは、一緒に仕事をする仲間なのでしょうか。趣味の仲間ならたくさんいる、という人々もいることでしょう。学びの仲間もそうかもしれません。しかしそれ以上に、共同体を作るために集まる人々もいます。それでは、出エジプトの民はどんな共同体だったでしょう。そのどれも当てはまるところがあるかもしれません。しかし、全く当てはまるかと言えば、そのどれにも当てはまらないのです。

なぜなら、出エジプトの民は神が集められた共同体であります。奴隷の状態から自由にされた共同体です。そして自由とは、神への自由です。神だけが人をあらゆるものの支配から自由にしてくださる方です。これは神への信頼で成り立っている共同体です。逆に言えば、それがなければ成り立たない共同体なのです。

先ほど私は、出エジプトの民の現実を私たちも生きていると言いました。なぜなら、わたしたちもまた現代という激動の時代を生きているからです。21世紀、激しい気候変動が起こっています。また、福島の原発事故は人類がかつて体験したことのない災害でありました。これから何十年、あるいは何百年経っても過去の話にはできないかもしれません。そして第二、第三の事故がいつでも起こるリスクがあります。それも、自然災害からだけではなくても、戦争という人災によって引き起こされる可能性はいつでもあるのです。その上に日本ではこれから激しい人口減少に直面していかなければなりません。その一方、世界中では人口爆発があり、地球全体としてはすでに72億を越えているということです。

そういう現代に在って、今わたしたちも、神の集められた共同体に生きています。イエス・キリストによって招かれたからです。今日も、こうしてわたしたちは成宗教会という日本基督教団の1600余りの教会の一つである小さな教会に礼拝を守っております。また、教団の中にある連合長老会の一つである東日本連合長老会という地域教会に所属する群れとして礼拝を守っております。このように、聖書の御言葉に向かいながら、今、歴史的に自分たちがどこに立っているのか、また世界の中でどこに立っているのかを、確認させられることは大切なことではないでしょうか。

こうして今年も春に向かおうとしています。教会の入り口から差し込む光が日に日に明るくなり、柔らかくなっているのを感じて、「ああ、今年も春だ。春だ」と思いながら、私は16年も成宗教会と共におらせていただいたのだと感慨深く思います。16年前も礼拝に集まっていた人々が集まることが出来なくなったという嘆きの思いが教会にありました。一生懸命教会に仕えていた人々が高齢になり、教会に足を運ぶことが出来なくなった。また、転居を、引っ越しを境にどこの教会にも行かなくなった人々は少なくありません。しかし、礼拝を守ることが出来ないことの深刻さを真に理解していた人々はどれだけいたのでしょうか。

出エジプト記でエジプトから脱出した民は、人間の支配者の奴隷状態から救い出されたのでしたが、それからが彼らの戦いの始まりでした。なぜなら、人の支配に縛られなくなっても、罪の支配を受けず、本当に神に従う自由な人となるために、人々は自分たちの罪と戦わなければならなかったからです。なぜなら、人は一人で生きる者ではなく、共同体の一員として生きる者だからです。実はこういうふうに申しますことさえ、ごく最近まで「それは共同体論という一思想に過ぎない」と批判されるだけになっていました。

現代人は共同体など不必要、なくても生きられるという思想が歓迎されたからです。ひとりで○○に登ったとか、世界を一人で○○したとか、そういう個人プレーがもてはやされるのですが、実際にはその個人を育て、サポートするどれだけ多くの人々がいるか、ということが成功の決め手であります。また、7年前の震災の直後、私は一人の老人がお団子屋さんの前から動かないのを見ました。何だかんだと話しながら、そこに座り込んでいるので、店の主人は困った顔をしていましたが、老人の気楽な独り暮らしが地震を境に一変して、家にいるのが恐ろしい様子でした。

生きるということは、決して一人で誰とも関わりなく生きることではないとは、震災を経験したすべての現代人が知っていることです。また長く生きれば生きるほど、多くの人々のサポートによって自分の生活が成り立つことを実感することでしょう。また実感すべきです。また、少子化が進む時代に、子供を家庭で育てられなくなるという深刻な事態も急速に増えています。子どもたちが家族という共同体を失って行く危機的な状況が広がっているのです。

このような今、成宗教会に集まっているわたしたちは、礼拝共同体の一員として主の御招きを受けているのです。神に招かれ、神の自由に生きる特別な恵みを受けるために。主はモーセに言われました。出エジプト記24章12節。「わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける。」そこでモーセは山に登り、十戒を刻んだ石の板を主から受けることになるのですが、この板は御存じの通り、礼拝共同体の人々が神に対する戒めを守り、隣人に対する戒めを守って、救いを得るための律法が書かれていたのです。

モーセは神の御許に出るために山に登って行く際に、礼拝共同体の長老たちに言いました。「わたしたちがあなたたちのもとに帰って来るまで、ここにとどまっていなさい。見よ、アロンとフルがあなたたちと共にいる。何か訴えのある者は、彼らのところに行きなさい。」

こう言い残してモーセは人々から離れ、四十日四十夜神の御声に聞き従っていましたが、モーセが不在の間、神の礼拝共同体であるはずの人々は、自分たちを導いてくださる神から心が離れ、金の子牛の形を造り、これを自分たちの神として拵え上げ、これに礼拝を捧げるようになってしまったのです。

わたしたちを圧迫し、支配する人間から解放してくださった方こそ、真の神でありますが、その方を信じ続け、従い続けることの何と困難なことでしょう。また、真の神は目に見えない方、わたしたちの感覚や考えをはるかに超える方でありますが、わたしたちは自分の考え、感覚を何と信じていることか。自分で良いと思うものに何と夢中になることか。そして自分で拵え上げたものを神としてこれに仕え、この世の支配に縛られ、それに何とがんじがらめに縛られることになることでしょうか。

モーセが不在であった40日40夜とは、イエス様が荒野で悪魔の誘惑を受けられた長さに匹敵します。それは実際の数字というよりは、十分長い期間を意味します。その間、神の共同体は礼拝を守り、教えを聞くことが出来なかったのでしょうか。それともしなかったのでしょうか。ここに礼拝を守ることの大切さをわたしたちは教えられるのではないでしょうか。わたしたちはイエス・キリストによって礼拝の民とされました。共に集まり、讃美と感謝を捧げ、御言葉によって生かされるのです。主の聖霊がわたしたちの罪の赦しを御言葉によって教えてくださるからです。

わたしたちは旧約の民に優るとも劣らない罪の誘惑にさらされている者です。それは絶えざる不安となってわたしたちを攻め立てて来ないでしょうか。自分が救いに入れられたということがどんなに大きな事であったことか。神を忘れ、すぐに他の頼れるものを捜し求めてバタバタする。礼拝を守るどころではない、ということになってしまう。しかし、神はわたしたちの不信仰にもかかわらず、様々な落ち度にもかかわらず、ただ恵みによって救いに入れてくださったのです。それも忘れてしまって、わたしはあれをしたから良かった、わたしはこれができるから、と自分で自分に値打ちをつけようとします。そうすることによって、ただ自分を輝くようにしたいのです。その結果、神の恵み深さをほめたたえることから遠ざかり、神の栄光の輝きを目立たないようにするために努力しているという、真に情けない不幸な状態に陥るのではないでしょうか。

それでも、この教会の群れは、大変幸いであると私は思います。今日の新約聖書コリントの信徒への手紙で、使徒パウロが強調して止まないことを、私も強調するために、説教をさせていただくことが出来たからです。すなわち、イエス・キリストの真の福音とはどのようなものかを明らかに伝えるために、主はパウロをお遣わしになりましたが、私もまた、どんなに小さな足りない者であっても同じ福音を伝え続けるために、この教会に遣わされたからです。本当に誇るべきは、この輝かしい福音伝道の務めであります。

ですからパウロは、「卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」と述べましたその言葉を、私もそのままお伝えしたいと思います。使徒パウロほど、人生の大逆転を経験した人はいないと思います。キリストを迫害する者、教会を迫害する者としてのサウロ。彼の名はダビデ王を妬み殺そうとしてサウル王と同じでした。サウル王には神からの悪霊が来て、彼を迫害者に変貌させたのですが、教会の迫害者サウロには何と主イエス御自身が来てくださって彼を罪に死なせ、福音に生きる者と生まれ変わらせてくださいました。

真に恐るべきは神の力。神の恵みの圧倒的な力であります。わたしたちの目には何が正しいのか、また何が一番大切なのかが、しばしば隠されて見えません。様々な声がわたしたちを惑わし、迷わせるからです。しかし、主の方に向き直りましょう。災害や疫病や戦争や、ありとあらゆる不安が世界に昔からあるのに加えて、今はIT革命の時代です。人間も社会をも支配すると言われるITが果たして誰の支配を受けるのか、わたしたちの知恵が及ばないとしても、わたしたちは見えない神の御支配を信じ、2000年従って来たキリストの体の教会を信じます。

「この世の神(=悪魔)が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の(目に見えない)似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。」御父は人間の感覚によっては理解できません。しかし神は、御子を通してわたしたちに現れたまい、御子によって見えるものとなり給うたのです。「闇の中から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。キリストは闇の中に輝く光、救いの光です。しかし、わたしたちの救いのためにいらしてくださった主は、地上では何ら輝かしい、人を引き付けるようなお姿をお持ちになりませんでした。わたしたちの中にいらしてわたしたちの弱さを担い、わたしたちの破れを御自分のものとしてくださったこの愛を、わたしたちは知ることが出来るでしょうか。この愛に神の輝くお姿を見ることが出来るでしょうか。

キリストは救いの光として世に来てくださいました。光がそこにあるだけではわたしたちは感じることが出来ません。目の中に映し出されて、初めてわたしたちは光を見ることが出来るのです。福音は二つの光に例えられます。一つは聖霊が与え給う福音がキリストをわたしたちの罪を贖うために掲げてくださる光です。そしてもう一つは聖霊がわたしたちの心にその光を感じる光を与えてくださることです。聖霊がわたしたちの心を照らして、救いを悟らせてくださるために、わたしたちは礼拝共同体として御言葉を聴き、真の救いを心に確信する教会を建てて参りましょう。

 

御在天の主なる父なる神様

御子イエス・キリストによって開かれた救いの御業を感謝し、尊き御名をほめたたえます。わたしたちはあなたの御招きに従って、本日も礼拝を守り、代々の教会と共に、また全国全世界にある教会と共に真の主イエス・キリストの体に結ばれることを切に願い祈ります。

目に見える悲惨と困難に満ちた世界に在って、またこの国、この社会の問題の中にあって、わたしたちはただ恵みによってあなたに招かれ、あなたに従う者とされました。どうかわたしたちが志を同じくする東日本連合長老会と共に、また全国全世界の教会と共に、御心を尋ね求め、福音を宣べ伝えて真にあなたに信頼する共同体を建て上げるために努めることが出来ますように。

主なる神様、あなたはあなたの慈しみに頼る他はない貧しい者を決してお見捨てにならないとわたしたちは知っております。どうか、同じ信仰を告白し、主の執り成しに頼る人々を教会に集めてください。わたしたちをつなぐものはイエス・キリストの尊い死と復活の命であることを、多くの人々が悟り、悔い改めてあなたに立ち帰りますように。どうか受難節の歩みを主が共に導いてください。今苦しんでいる者を顧みてください。

この尽きない感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって捧げます。アーメン。