主日CS合同礼拝
齋藤 正 牧師
《賛美歌》
讃美歌6番
讃美歌205番
讃美歌312番
《聖書箇所》
旧約聖書:詩篇 8篇2-4節 (旧約聖書810ページ)
8:2 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます
8:3 幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。
8:4 あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。
8:5 そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。
8:6 神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
8:7 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。
8:8 羊も牛も、野の獣も
8:9 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。
8:10 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。
新約聖書:コリントの信徒への手紙 Ⅰ 1章28-31節 (新約聖書300ページ)
1:28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
1:29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
1:30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
1:31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
《説教》『人を造られ、愛される神様』
この天地とその中にあるすべてのものを神様がお造りになったということを信じることは「信仰」から始まります。信仰は私たちの存在に根拠を与えます。私たちが存在する、この宇宙は138億年前に起こった宇宙の始まりをとらえた「インフレーション理論」から次第に理論的に明らかになっています。理論的な宇宙の始まりは、あの有名な大爆発「ビックバン」から起きました、それまで何もなかった宇宙は、まったくの「無」から始まりました。現在知られている、私たちの居る、この大きな大きな宇宙が何もない、小さな点でもない、「無」から始まり、造られたことは科学的に良く知られています。私たちの住む地球が出来たのは46億年も前でした。哺乳類(ほにゅうるい)が誕生したのは6600万年前以降です。「ホモサピエンス」と呼ばれる人類が誕生したのは、ほんの20万年前です。地球の46億年の歴史を1年間におきかえてみますと、何と人類の誕生は12月31日の午後11時37分に誕生したことになります。私たち人類を含む、現在の地球に生きる生物種は、地球のダイナミックな環境の変化を生き延びて多様化し進化した生存競争勝ち組のサバイバーたちだと言えるでしょう。その中で最も遅く誕生してきたのが、私たち人類なのです。
それに対して、創世記の物語を通して聖書が私たちに語っていることは、この天地も、私という存在も、天地・宇宙を造られた神様によって造られているということです。偶然にできた宇宙の塵の寄せ集まりではないのだ、ということです。そこで初めて、私たちの存在に意味が与えられ、私たちの生き方も明確になって来るのです。
私たちは、物を造ります。手芸品であれ、工作物であれ、大工業の製品であれ、何にせよ新しいものを作るには、自分が作りたいもののイメージを得ることが始まりです。同時に、それが出来上がった時に感じる喜びも、予感しながら造る筈です。その喜びを目指すから、造る途中で経験する困難も乗り越えることができます。そのようにして、試行錯誤を繰り返した結果、イメージ通りのものが出来上がったときの喜びは、私たちが物造りする時の原動力です。
神様が天地を創造し、私たち人間を造られたときも、同じだったのではないでしょうか。何の感動も喜びもなしにものを造ることはありません。神様もご自分のイメージの中で、この天地とその中にあるすべての物や、私たち一人ひとりを思い浮かべ、胸を弾ませながらお造りになったのではないでしょうか。こうして天地創造は愛の業として全うされたのです。本日の詩篇8編4節から7節に、「あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。 そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。 神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ、 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。」とあるのは、「信仰」を通して私たちに与えられた「天地創造」です。
天地創造の物語の中でも、中心にあるのは生命の創造です。初めに天地を造られた神様が、次に造られたのは草と木でした。そしてそれに続いて太陽と月が造られたのです。まず太陽が造られ、それからその光を受けて育つ草と木が造られるのが自然科学の順序ですが、それが逆転しているのです。まるで草木を育てるために太陽が造られたようです。世界には、太陽を神として崇める宗教がありますが、聖書にはまったくそのような考え方はありません。神様にとっては、太陽よりも、草木の方が大切であるようです。私たちの神様が、生命あるものをこよなく愛される方であることがわかります。
その生命あるものの最高のものとして造られたのが、私たち人間です。神様は人間を、神様の形にお造りになりました。そういう意味で、人間は他の動物とは違う特別な存在なのです。最近は動物の研究も進み、いろいろな動物が持つ特別な能力も明らかになっていますし、人間に寄り添うものとしての動物の存在も重要視されています。私たちの中には、犬や猫に代表される動物を家族の一員として共に生活している人も少なくありません。そのように動物と人間の距離が近くなっていますが、それでも人間と動物は同じではありません。その間には「神信仰があるか、ないか」といったようにはっきりと線が引かれているのです。どんなに動物と親しくなっても、人間は動物とは違うことを、忘れてはなりません。
神様の形に造られているということは、神様に応えることができる存在だということです。人間はあらゆる生き物の中で唯一、神様に応答することができます。具体的に言えば、神様を礼拝し、神様を讃美し、御言葉を聞き、祈ることができるということです。そのようにして神様との交わりを持つことができる唯一の生き物として、私たちは造られているのです。神様と応答することが出来るのは「信仰」を通してです。「信仰」という管を通して神様と交わりを持つことが出来るのです。
その人間に、神様はこの世界を治めるという役割をお与えになりました。治めるとは、支配者として世界を自分のもののように扱うことではなくて、神様の御心に従ってこの世界を保つことに責任を負うことです。目先の利益のために動物を絶滅させたり、環境を破壊したりすることは、委ねられた責任を放棄することです。
同時に神様の形に造られていることは、男と女に創造されたことです。これは神様に男と女があるのではなくて、違いを持つ者同士が一緒に生きるということです。神、キリスト、聖霊がそれぞれ違う存在でありながら一体であることと同じです。この三者は愛と信頼で結びついています。父なる神様は主イエス・キリストを信頼してすべてを委ね、主イエス・キリストは父なる神様の御心に全く服従されました。そして、主イエス・キリストは聖霊を私たちの元に遣わされ、聖霊は主イエスの言葉を思い起こさせるために働かれます。そのようにして共に生きることが、私たちと神様のあり方なのです。天地創造の初めから、神様はご自分が造られたものを愛し、この私たちの世界に共にいてくださいます。主イエス・キリストが来られたことは、そのしるしです。その意味で、主イエス・キリストは天地創造の初めからおられた神様ご自身であるのです。
皆さんは夜、星を見ることがありますか。最近は東京のような都会では、見える星の数が少なくなりましたし、夜も部屋の中で明かりをつけて暮らしているので、星を見る機会も少なくなっているでしょうか。でも、時々は夜、外に出て空を見上げてみてください。明かりの少ない田舎で天気がよければ、空にたくさんの星が輝いているのを見ることができるでしょう。
星を見ていると、不思議な気持ちになりますよね。昼間は明るくて星はまったく見えませんが、周りの世界がよく見えます。でも見えるのはこの地上のことだけです。この地上は人間が支配しているので、地上のことだけを見ていると、人間が世界で一番偉いような気持ちになります。でも夜になると、地上のことは見えなくなって、地球の外の星の世界が良く見えるようになります。宇宙が見えるのです。空に輝く星の一つひとつが、私たちが住んでいるこの地球よりもずっと大きくて、宇宙ロケットで飛んで行っても、何千年もかかるほど遠いところにあることを思い起こすと、人間がこの世界で一番偉いと思い込んでいたのは間違いだったと思うでしょう。そして自分が住んでいるこの地球が、この宇宙に存在する無数の星のひとつに過ぎないことも分かります。そういう地球の上に、自分が生きていることが不思議に思えてきます。いったいどうして自分かここにいるのだろうと考えることもあるのではないでしょうか。
そんな時、もし神様を知らなかったら、自分はこの広い宇宙の中でひとりぼっちなのだと、思うかも知れません。自分が生きていても、死んでしまっても、たいしたことではないと、思うかも知れません。でも私たちはそうは考えません。ひとりぼっちになることもありません。神様がおられることを知っているからです。神様がこの宇宙と、その中にある全てのものをお造りになりました。私たちが住んでいるこの地球も、その上で生きているこの私も、私の家族や友だちも、神様が心を込め、愛を込めてお造りになったのです。
神様がこの宇宙を、どうやってお造りになったのかは、自然科学がはっきりと教えてくれます。138億年も昔に、大爆発「ビックバン」が起こって、宇宙が誕生したと、先程お話しました。でも、そのことは聖書には書いてありません、聖書にはもっと大切なことが書いてあります。神様がこの天地を造られたことと、それは神様にとっても大きな仕事だったということです。それは「信仰」を通して信じることが出来るのです。
「信仰」を通してみると、神様が天地をお造りになる前、世界は混沌が支配していました。混沌というのは、何が正しくて何が間違っているかがわからない、どっちが右で、どっちが左かわからない、どっちが上で、どっちが下かもわからない、そういう何も分からない世界です。そういう世界では、どのように生きればよいかも分かりません。だから希望もありません。世界は分からない暗闇になります。
その世界に、神様は最初に光をお造りになりました。正しいことと間違っていることの区別をはっきりさせられたのです。世界に希望が生まれました。そうやって神様は、それまで世界を支配していた混沌を打ち破られ、神様が支配される世界をお造りになったのです。だから今でも、人間が神様の御言葉に従わないで、自分勝手な生き方をすると、世界は混沌になります。希望がなくなって、闇か支配する世界になってしまうのです。
今日の詩編第8編を書いた人は、昔々の人です。宇宙がどうやってできたかなど、知らなかった人です。でもその人も、この世界は、混沌と戦って、神様が造られたことを「信仰」を通して知っていました
神様の形に造られた私たち人間は、神様の言葉を聞き、それに応答することができます。この世界も、この私たち人間をも、神様が愛を込めて造ってくださったことを知ることが出来、神様を讃美するのです。神様の御言葉を聞いて、讃美できるのは、生命あるものの中でも、私たち人間だけです。
皆さんもご一緒に神様を、讃美しましよう。そのために私たちは造られたのです。
お祈りを致します。