聖書:イザヤ書第64編5-8, コリント人への第二の手紙第5編1-10
最近主人が新しいパソコンを家に入れたのですが、古い型式のもので十分だと思っても、最新のウィンドウズ10を買わざるを得ないように世の中はなっているようです。そして昔と違うことは、目を見張るばかりの映像の美しさです。それで、こちらが頼んでもいないのに、パソコンを立ち上げる度に、ドキッとするような華麗な景色が目に飛ぴ込んで来ます。開ける度に違った景色に、思わずワーッと驚かずにはいられません。するとすかさず、コンピューターに「気に入りましたか」と文字が現れます。「どんなもんだい!」と言わぬばかりです。夜中に急いでバソコンを開けて仕事を片付けようとしている時には、少し腹が立ちます。映像を開発する人々は、だれもが美しいものに魅了されたたい、幻惑されたいのだと思っているのでしょうか。
私は若い頃、盲学校に数年働きました。一緒に働く教師の中に、また生徒の中に全く見えない人々がいました。この人々は映像に幻惑されない人々。されたくてもできない人々でした。しかし彼らとの間にも、本当に喜ばしい平和な時があり、分かち合う知恵があり、楽しい善き交わりがありました。ところが、大多数の人々は目の見えない人のことなど他人事だと思っています。良き交わりなどよりも、人々は目の覚めるような、耳がうっとりするような世界に驚きながら、そこに浸って生きていたいのです。しかし、その目も衰える。耳も衰える。足も衰える。これは大問題です。いつまでもいつまでも、この世界の輝きが目標であるならば、わたしたちの人生は落胆するばかりであります。
しかしそれに対して、神が差し出された福音。イエス・キリストの救いを信じた者は、「私たちは落胆しません」と言います。なぜなら「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ」と彼らは言います。見えるものは一時わたしたちの目を蒋い、心を魅了しますが、過ぎ去ってしまいます。それに対して、見えないものは永遠に続く。それは何でしょうか。それは、神が差し出された永遠の命。神との交わりです。しかし、福音に出会わなければ、果たしてそれがどのようなものなのかは、目に見えて分かりませんので、人々はやはり地上の生活の豊かさ、華やかさに心を向けざるを得ないのでしょう。
私たちは、神を信じる人も信じない人も、衣食住が満たされることを求めます。それは 当然の率直な願いであり、神様もそのことをご存じです。主イエスは「求めなさい。そう すれば与えられる」と言ってくださるのです。しかし、衣食住を求める祈りだけに終始することは正しいでしょうか。主イエスは主の祈りを弟子たちに教えてくださいましたが、主の祈りの前半こそ、大切ではないでしょうか。「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心の天になるごとく地にもなさせ給え。」御名を崇め、御国を求める祈り。御心を求める祈りこそ、神の喜ばれることではないでしょうか。主イエスによって、このことを知った人々こそが、教会の信徒となったのです。思えばこの祈りは何と大きな求めでしょうか。それは、神の御心の広さ、深さ、高さ、永さをたとえ僅かでも知りたいと願うことだからです。なぜなら、キリストの心が私たちの中にあり、私たちの「内なる人」がキリストに在って生まれたからです。そして成長しているからです。
さて、そこでパウロは私たちの「外なる人」を地上の住みかと呼ぴます。年を取るにつれて衰える肉体は、私たちの地上で住む家に例えられていますが、それは頑丈な建物ではなくて、幕屋、テントです。 つまり、時が経てば古びて倒れてしまうものです。 しかし、その幕屋が滅びても、神によって用意された建物がわたしたちにはある。それは天にある永遠の住みかです。「私たちは知っている」とパウロは言うのです。「知っています」という言業は、とても強い確信を表します。この言葉はキリストによって救われた者の言莱です。キリストを信じないならば、一体、神がわたしたちに永遠の住みかを用意してくれると、どうして確信することができるでしょうか。
信者である私たちは、地上の生活を生きている間にも、天から与えられる永遠の住みかを地上の命の上に、更に着たいと切に求めて苦しんでおります。一方信仰のない人々も別の意味で苦しんでいます。その人々は地上の幕屋を失いたくないので悶々としているからです。 幕屋のたとえは、ここで着る物のたとえに変っております。3節で「それを脱いでも… 」という所は、地上の幕屋を脱いでもという意味です。地上の住みかを失ったときも、裸のままではないというのは、当然のことながら、信仰を持っている者たちの魂のことです。彼らは信仰を身につけているからです。それはキリストの義の衣と呼ばれます。なぜなら、私たちがキリストを信じることによって、キリストの正しさは衣のようにわたしたちを覆ってくださるからです。
他方、信じない者も地上の幕屋を脱いだ時、その魂は体という幕屋を失うのですが、神の御前に裸を覆ってくれる衣は何もないことになります。地上の生活のことだけを考えている限りは、多くの人々はこのような信仰を持つ人と持たない人の違いを考えないのです。またたとえ知らされたとしても「そんなの不公平だ」とか、「キリスト教徒は倣慢だとか」と批判するだけです。そして、1節にあるように神によって建物が備えられていると知っているという言葉は、科学的にも論理的にも客観的に証明できることではないのですから、パウロの言葉のような確信は、聖霊が私たちに与えてくださらなければ、だれも持つことができないでしょう。ところで、私たちが天の住みかに住む希望に生きる者となったのは、わたしたちの努力ではありません。私たちの能力ではありません。 ただ神さまがわたしたちをふさわしいものとしてくださった。そのことが分かるのは、私たちに聖霊が与えられたからです。だからこそ、確信をもって、私たちの地上の住みかが滅びても、「神によって建物が備えられていると知っています」と断言しているのです。
私たちは人間の最善の生活は神と共に歩むことであり、神の御心に従って歩むことであると教えられています。人と人との交わりは、地上に限定されたものになりますが、神と共に歩む交わりは永遠の命をいただくことです。神との交わりを信じる者にとっては、地上の命は本当にその一部にしか過ぎないもので、それも、やがては過ぎ行くものです。地上の幕屋に住む私たちは、日々重荷を負って苦労しております。しかし、信じる者は、既に永遠の命をいただ<希望の中に生きており、その命がより良い命であることを知っています。聖霊に確信を与えられているので、私たちはいつも心強いのです。
私たちは、ヨハネ福音書でイエス様がおっしゃった言葉を知っています。(ヨハネ 14:23, 197頁)「わたしを愛する人は、わたしの言莱を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き一緒に住む。」また、聖霊の神様が来てくださることも主イエスは約束してくださいました。(ヨハネ 14:16-7)「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は真理の霊である。」
こうして私たちは地上の生活の中で、既に主と共に生きています。今このように信仰によって、生きているわたしたちは、地上の生活が終わるときを思っても、心強く生きることができます。それでもこの体をもって生きている限りは、私たちは本当の意味で救いが分かっている訳ではありません。永遠の命が分かっているわけではありません。今の私たちは、コリント ー 13章12節に言われているような状態です。(317頁下)「わたしたちは、今は、鏡におぽろに映ったものを見ている。だがその時には、顔と顔とを合わせてみることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、その時には、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。」とパウロは述べています。
おぼろに見ているような神の国。そのような意味で主から離れていることも知っているというのです。しかし、聖霊の助けによって確信をいただいて歩んでいます。地上を去って神の御前に立つ時にこそ、はっきりと永遠の命の交わりについて知ることができるでしょう。そのようにはるかな希望を、憧れをもっている信仰者には、地上を去ることは少しも辛いことではなく、むしろ望ましいことであります。しかし、だからと言って、それは何が何でも早く地上を去りたいということでは決してありません。
ただ、私たち心強い気持ちで日々生きるのです。心強い思いで年を取って行くのです。目に見えるものを頼りにして歩いているのではなく、信仰によって歩んでいるからです。ここで信仰という言莱と目に見えるものとが、反対の意味で使われていることに注目してください。信仰は目に見えません。しかし、イエス・キリストによって救いを仰ぎ見た人はどんなに目を開かれたことか、まさにこのことにこそ、ぴっくり仰天すべきではないでしょうか。
救いに入れられている者は、主の許に住むことになることを楽しみに待ち望んでいます。今は体を住みかとしているにしても、この地上の体を離れる者となる時にも、望みはただ一つ、ひたすら主に喜ばれる者となることです。神は全地の造り主、全能の父なる神を私たちは告白します。そして私たちの主イエス・キリストは救いのために天から降り、十字架に掛かり、私たちの罪を贖ってくださいました。そして聖霊の主は世に来てくださり、信じる者を呼び集め、キリストの体の教会を形成して、世の終わりまで救いの御業を完成してくださいます。
私たちはこの神、三位一体の神を告白する教会の信仰を受け継いでいます。この信仰に立って、地上の生活においてこの救いの恵みに向かって人々を招きたいと願うものです。 聖霊の助けがなければ、だれもイエスは救い主と告白することはできません。私たちは、自分にこの信仰が与えられていながら、それは、本当に理屈では説明できない奇跡なのだと思わずにはいられないのです。しかし同時に、自分の力で伝道して信者が増えるなどとはとても思えないので、伝道には知らず知らず消極的になっているのではないでしょうか。
私が成宗教会に赴任してから15年が過ぎようとしています。世は高齢化に向かおうとしておりましたが、その中で、「高齢者へのケアには自分が向いている」等と私が考えたのは、かなり安易であったと思います。高齢者を支えることは、間接的に下の世代を支えることであると思いましたが、高齢の教会員を支えることが、その家族の伝道に繋がることは困難でした。また病気の方や障害の方を支えることで、家族伝道に繋がるということはもっと困難でした。また、若い世代を支えることの困難さも痛感しました。
使徒言行録(使徒行伝)が聖霊行伝と呼ばれたように、伝道は、聖霊の御業なのであります。私も伝道者として多くの失敗と多くの困難を経験したのですが、連合長老会に加盟してからは、教会の務めは牧師の個人プレーでは決してなく、教会長老会の働き、教会全体の祈りと奉仕によって成り立つことを、改めて実感するようになりましたことは、真に喜ばしい反省点であります。
最後に、しかし、家族の救いについて一言申し述べます。救われた者には地上を去ることは恐ろしいことではありませんが、福音を受け入れない、または福音に触れたことのない皆様の家族について、日頃から祈りを熱くしていただきたいと思います。この執り成しが無ければ、ご家族が世を去るにあたって大変な苦しみ、悩みに襲われることを、私は経験上、思わずにはいられないからです。世の人々は、死んだあとどうなる、ということについてもちろん確信もなく、また考えることも避けていますから、適当に気休めを言う中にだんだん追い詰められます。皆、家族といえども、自分でない限りはなるべく考えずに済ませようとするのですから。
私は2012年に母親に老人ホームで洗礼を授けることができました。それから2014年に鈴木尚美姉のお父様に病床で洗礼を授けることができたことは、特別な感謝の体験となっております。母の場合は「自分には行くところがない」と大変に悩み苦しみ騒ぎました。周りは非常に困りましたが、だれもその解決策を思いませんでした。娘のわたしが牧師でなかったら、洗礼は全く可能な状況ではなかったのです。太田口兄の場合は、もう長く生きられないと分かった時、ご家族がそろって洗礼を強く希望してくださったので、太田口兄も「もちろんです!」と仰って、御自分が天国に招かれていることを確信なさったと思います。私たちは、ひたすら主に喜ばれる者になりたい。主に喜ばれる者とは、どのような者でしょうか。主は多くの人のために命を捨ててくださいました。その方に喜ばれる者とは、自分が救われたように、愛する人々に天にある永遠の住みかが与えられることを、私たちが真剣に祈り求める人になることではないでしょうか。祈ります。
恵み深き天の父なる神さま
主イエスキリストの執り成しによってあなたのいます所にわたしたちもいる希望を与えられましたことを感謝します。高齢に進むにつれて思い知らされるこの絶大な恵みを、どうか、老いも若きも知ることができますように、どうか福音を世に伝える教会の務めを強め、わたしたちの心と体と魂を励ましてください。良いもの、美しい者はすべてあなたからあふれるばかりに分け与えられます。どうかあなたの御心に適って、多くの人々と良き者を分かち合い、天にある喜びがわたしたちの中にも満ち溢れますように。
新しい年度の計画を立てようとしています。どうかあなたの救いの喜ぴが満ち溢れる教会となりますよう、主よ、御心を行ってください。小さな群れを励まし、一人一人が世にある時も世を去った後もあなたの恵み深さ、ご栄光を顕す者となりますよう、主よ、御国を目ざして歩ませてください。どうか東日本連合長老会の交わりにおいても同じ主の蕗い御体を形づくるために前進させてください。今、わたしたちの中にある病気、孤独、多忙、過労の悩みをどうか顧みてください。日々、お守りをお願い致します。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。