神と人との正しい関係

聖書:創世記21825節, コロサイの信徒への手紙315

本日は説教題を「神と人との正しい関係」と題して、モーセの 十戒 を学びます。十戒のうちの第七の戒めです。それは、「あなたは、姦淫してはならない」という戒めです。姦淫とは、どういう意味でしょうか。古代イスラエルでは、婚約しているかまたは結婚関係にある女性が、婚約者もしくは夫以外の男性と性的な関係を持つことを意味しました。それは殺人と同じ位重大な犯罪で、両方共に死刑を免れないほどだったのです。なぜでしょうか。これは結婚の関係を破壊する悪事であるからです。破壊されるのは、夫婦関係ばかりではありません。親子関係、子供たちとの関係、年老いた親との関係にも計り知れない打撃となるでしょう。だからこそ、「あなたは、姦淫するはずがない」と戒められているのです。

この戒めの根拠は、今日読んでいただいた創世記2章に見ることができるでしょう。18節。「主なる神は言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。』」そこで神さまは野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を形づくり、人に名前を付けさせましたが、自分に合う助ける者は見つけることができ」ませんでした。そこで神さまは人を深く眠らせ、人のあばら骨から取った骨で女を造りました。アダムはすぐに大変喜んで、言いました。「ついに、これこそわたしの骨の骨、わたしの肉の肉。」

この言葉は、自分にふさわしい助ける者を動物たちに見つけることができなかったのとは、対照的な喜びでした。今やアダムは助け手を与えられました。エバはただ肉体的にアダムと共にいるだけでなく、精神的、霊的にも助けとなるものとして共にいる者となったからです。2章21~23節では、神さまは女を男のあばら骨から造られたと書かれているので、これを盾にして女は男より劣った存在とする風潮が長く世界を支配したかもしれません。しかし、これより前の1章27節では、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」と宣言されています。神さまは男も女も神の形に創造されたのです。ですから、当たり前ですが、人類は男と女から成り立っています。男がなければ女は存在しないように、女がなければ男は存在しないという相互的な関係であります。

そして2章24節に戻りますが、「こういう訳で、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と言われます。結婚は、人をその妻と一つの体、一つの魂に結びつける絆であります。それは、人間の他の一切の結び付きの中でも、際立って聖なる絆であるということなのです。聖なるとは、神さまが特別に分けられたという意味です。神さまは男と女を創造された時、彼らを祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言われました。ですから、生殖行動をも祝福されたことは明らかです。しかしそれは、神さまが制定された結婚の関係という秩序を守ることにおいて祝福されているのです。

結婚をこのような聖なる秩序として、絶えず大切にし、守って来た夫婦から生まれた子供たちは、そうでない夫婦から生まれた子供たちよりも結婚の秩序を守ること、すなわち第七戒の「姦淫してはならない」を守ることが当然のことだと感じるでしょう。しかし、長い人生の歩みの中で、この戒めを破る誘惑は非常に多いと言わなければなりません。旧約聖書の中で、有名なのはダビデ王の姦淫の罪です。サムエル記下11~12章に詳しく語られています。ダビデは少年時代から勇敢で忍耐強い人で、戦争で数々の勝利を収めましたが、それがかえって自分の主君の妬みを買うことになり、王を敵に回して命がけの逃避行が何年も続いたのでした。そのような地獄の年月を救ったのは、彼が信頼して止まない神さまであって、そのためにダビデは今に至るまでイスラエルの最も尊敬される王であり、イエスさまもその子孫からお生まれになった、ダビデの子と呼ばれるのです。

しかし、そのような立派な王にも大きな誘惑が訪れました。誘惑は人が苦しみに苦しんで戦っていた時では無く、九死に一生を得て、ホッとした、安心、安楽の時にこそ来るものです。ダビデは何と忠実な彼の部下が戦場で戦って留守の間に、部下の妻と姦淫の罪を犯しました。しかもそれを何とか誤魔化そうとしてできないことが分かると、部下を戦死させるように画策したのです。

ダビデ王ほど有名ではありませんが、創世記が記している姦淫の事件があります。それは、創世記39章に記されています。この物語の主人公はヨセフという少年で、彼はアブラハムのひ孫にあたります。ダビデの場合とは正反対で、彼は姦淫の加害者ではなく、被害者とされそうになりました。ヨセフは兄たちの妬みと憎しみを受けて殺されそうになったのですが、殺されず、エジプトに奴隷として連れて来られました。彼はエジプトの王ファラオの侍従長の家で働いたのですが、その妻がヨセフを誘惑しました。しかし、当時まだ未成年であったと思われる彼は、毅然として主人の妻にこう言ったのです。

39章8節。「しかし、ヨセフ拒んで、主人の妻に言った。『ご存知のように、ご主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお使いになりません。財産もすべてわたしの手に委ねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう。』」68下。

ヨセフのこの気高さは驚くべきものです。彼は純真で人を疑うことなく、人に取り入ることのない人で、神さまから受けた夢をそのままに語りました。姦淫が大きな悪であると宣言したことも、自分の経験や知識から出たことではなく、神さまから受けた啓示であったに違いありません。彼はこのような性質のために罪人たちから大変な憎しみを受け、患難苦難を忍ばなければなりませんでしたが、それはすべて神さまの救いのご計画のためであったことが後に分かります。彼は自分を殺すほど憎んでいた兄弟たちを含む家族、父イスラエルを始め一族全員の命を救う者となる、それが神さまのご計画でありました。

このヨセフの物語は、後に地上に送られた救い主イエス・キリストを指し示すものであります。ヨセフは罪深い自分の家族を救いましたが、イエスさまは御自分を憎み、殺そうと謀った人々を含め、すべての罪人の命を救うために、死に至るまでの艱難苦難を忍ばれました。さて、そのお方御自身、姦淫の罪について語られているところが、新約聖書に二か所あります。その一つは、マタイ福音書マタイ5章の山上の説教にあります。27節~28節。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」

このようにイエスさまは、わたしたちの目には見えない、従って他の人には知られない心の中の罪について指摘しておられます。すると、だれも人の前では誇れることでも、自分の中では誇ることができない罪があることを認めざるを得ないのではないでしょうか。このように、姦淫の罪は、他の罪と同様、たとえ目に見えなくても私たちの心の奥底にまでこびりついたものなのです。

それでは、一体だれが第七戒を守っていることになるでしょうか。人の心を見ておられる方は、だれ一人正しくないことを知っておられます。だからこそ、罪人を救うためにイエスさまはわたしたちの所に来てくださったのです。ヨハネ福音書8章では姦淫の罪に問われた女の人がイエスさまの前に連れて来られた、という出来事が記録されています。連れて来た人々は、「姦淫の女は律法に従って石で打ち殺すべきである」と、イエスさまが答えるかどうか、試すのが目的でした。

姦淫の罪は、神さまから祝福された結婚の秩序を破壊するもので、重大な罪であります。しかしイエスさまは言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に対して石を投げなさい」と。すると、だれも石を投げることができませんでした。これはイエスさまの起こされた奇跡の一つではなりでしょうか。イエスさまの前では、なぜか誰も自分を偽って「わたしは罪がない」と思うことができなかったからです。イエスさまが地上に来られた目的は、罪人を救うためでありますから、イエスさまは第七の戒めを破る者に対しても、死罪に当たる罪を犯した者にも、罪の赦しを与えようとしておられます。姦淫の女のように、罪のただ中でイエスさまに出会うならば、本当に自分の罪を認めない訳には行かない。本当に罪の報いとして死ぬか、罪を認めて心から悔い改め、イエスさまから罪の赦しを受けるか、その二つに一つを選ばなければならないでしょう。

今日の新約聖書はコロサイの信徒への手紙3章です。パウロは、コロサイの教会の人々に語りかけます。「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にある者を求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」と。キリストは復活されたのは、十字架に死んだからこそ、復活されたのでした。ですから、キリストを信じるわたしたちも、キリストと共に罪に死んだからこそ、共に復活させられて、新しい命に生きるものとされたのです。

新しい命は上にあるものを求める生活です。キリストは地上を離れて神さまの右におられます。つまり、神さまと共にすべてを御支配なさる方なのです。わたしたちはこの方の執り成しによって罪赦されてキリストに結ばれ、キリストの体と呼ばれているのですから、ひたすら、イエスさまの執り成しによって、神さまとの正しい関係を求めて生きるのです。それは、神の形として造られた本来の人間の祝福に満ちた関係です。だから「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」と勧められています。

すると、「地上のもの」というところを、何か禁欲的に解釈して、物を持つことを禁止したり、結婚を禁じたり、断食をしたり、そういう目に見える何かをしないといけないかのように考え、勧める人々が力を持つことがあります。また、そういう勧めによって人々の行動を支配しようとする力が働きます。しかし、神さまはこのような偽善をご存じで、決してお見逃しにはなりません。「地上的なもの」とは、5節にその例が示されているとおりで、今日のテーマに関わっています。

「だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝に他ならない。」姦淫もまた情欲であり貪欲の一例であります。お金をいくら集めても飽き足らないのと同様、立派な美しい配偶者がいるのに、姦淫をする人が後を絶たないのは貪欲の罪、偶像礼拝の罪と重なっているからだと教えられます。

このような罪を罪とも思わない人々に満ちている社会に生きています。しかも殺人は禁じている法律はあっても、姦淫にはほとんど無法状態の世の中であります。脅迫されて罪を犯さざるを得ないという危険は沢山あるのではないでしょうか。しかし、ヨセフ物語でヨセフと共にいらして彼を救った神さまは、わたしたちにイエスさまの助けという現実となって勇気を与えておられます。コロサイ3章3節です。「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。」あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されて見えなくても、そこにある!と力強く言われているのです。ですから、わたしたちの命は、見かけはそうは見えなくても、危険から守られています。神さまに従う約束を神さまは受け入れてくださいました。神さまは誠実な方です。神さまにお委ねし、頼り行くわたしたちを、神さまは欺くことは決してありません。

ですから、わたしたちは上にあるもの、すなわち神さまとの正しい関係を求め、共に生きる人々との関係を、神さまの戒めの下で慎ましく喜ばしいものにしていただきましょう。

今日はカテキズム問47を学びました。それは、第七戒は何かということです。そしてその答は「あなたは、姦淫してはならない」です。わたしたちの心とからだは、神さまのものなので、神さまの御前に純潔を守り、神と人との関係を正しく保つことです。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神さま

尊き御名を讃美致します。一週間の旅路を守られ、導かれて、わたしたちは礼拝を捧げる幸いに招かれました。代々の教会と共に、主の日の礼拝を守り、地上にある主の教会の民と共にあなたを見上げて感謝と讃美を捧げます。あなたは御子イエス・キリストの執り成しによってわたしたちの罪を赦して下さり、天にある、朽ちず、しぼまない命の希望に生きる者と作り変えてくださいます。地上の日々は大きな変化に絶えずさらされ、自然の営みも人の営みも激しく変わって行くように思われます。

その中でわたしたちは、目に見える幸いを追い求めることに忙しい世に在って、あなたの御心を尋ね求める者こそ幸いであることを教えられました。どうか神さまの喜ばれることこそが、わたしたちの喜びとなりますように。あなたの喜ばれないことから遠ざかる知恵をお与えください。わたしたちの教会で計画され、行われることが、福音を宣べ伝えるあなたのご命令に従うものとなりますように。また、わたしたちが礼拝の場を去って、それぞれの生活のある所に出て行くとき、どうか福音をそこにもたらすものとならせてください。

命の神よ、わたしたちはあなたの御許に隠されているわたしたちの命を思い、感謝します。どうか、苦しみの時、悩みの時、わたしたちの命に至る道を指し示してください。地上に与えられる新たな命を祝し、またキリストの執り成しによって生まれる救いの命を祝してください。また、地上を去ってあなたの御国に目覚める命を目指して歩む教会を祝してください。わたしたちの信仰の旅路を今週もお守りください。

この感謝と願いを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

教会が受け継いで来た信仰

聖書:詩編33篇4-19節, コロサイの信徒への手紙1章15-20節

 今、多くの人が、買い物はネット通販を利用しています。忙しい人々も、時間はあるけれども買い物に出ることが難しい人も、ネット通販で物を手に入れることが出来ます。しかし、それで問題になっていることがあります。一つは今までのような商店街が成り立たなくなって行くこと。もう一つは配達業者が忙しすぎて苛酷な労働を強いられることです。

これは物流の話ですが、では心の問題はどうなのでしょうか。教会まで一人一人が足を運ぶ。みんなで集まって礼拝する。自分の声を出し、皆と合わせて、祈り、讃美する。自分の耳を傾けて聖書の言葉を聞き、その説き明かしを聞く。本当にわたしたちは当たり前だと思ってこれらのことをして参りました。

歴史的に見ても、戦争や、疫病や、政治的迫害、弾圧を別にすれば、そのようにして全身全霊を上げて、具体的に動かして礼拝するために教会に集う。それが当たり前のことだったのです。そして、共に集まることは、大きな喜びでありました。しかし、今ネット通販と同じようなことが起こっているのではないかと思います。本当に働いている人々は多忙を究めています。日曜日の、決まった時間に休みを取ることが難しい時代になりました。

また休みと言っても、文字通り倒れて寝ているだけ。そうしないと疲れが回復しないということもあるのでしょう。まだまだ他にも原因があるのだと思いますが、分かりません。

それに対して、これまで喜んで共に神様の前に出ていた人々が出来なくなる、その理由は大変良く分かるものです。とにかく高齢世代になると、病気やケガ、その他の支障が起こるからです。それで、礼拝に出かけることが困難になるのです。物を手に入れるためには、ネット通販がある。注文すれば、届けてもらうことが出来る。衣食住の問題はそれで何とかなるのでしょうが、しかし、私たちの命の糧の問題はどうなるのでしょうか。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」とは、旧約聖書申命記8章3節の言葉です。また、主イエスも、悪魔の誘惑に遭われたとき、この聖書の言葉によって戦ったのでした。

私たちが試練に遭うことについても、主はそれを通して命のパンに飢えることについて私たちに考えさせたいと思われているのでないでしょうか。すなわち、肉の糧を得る物流(それはもちろん大切なのですが)、それにもまして大切なもの、命の糧を得るためにはどうしたらよいか、考えなければならないのではないでしょうか。私がこの教会に参りました時に、最も努力したことの一つは、このことでした。すなわち、教会に来られない状況になっている方々に、どうしたら教会をお届けするか、ということでした。教会を届ける、と申しましたが、一体何をどうしたらよいのか、私には分からないまま、暗中模索の日々でした。ただ、聖霊の助けによって、一つだけが分かったことがあります。それは、教会に来られなくなった高齢の方、病気の方は、私が「教会から来ましたよ」と声を掛けると、嬉しそうに相好を崩されたことでした。

その時、私は使徒信条の告白を思いました。「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、体の甦り、永遠の命を信ず。」そうだ、私たちは教会を信じているのだと。そして私たちは、教会が受け継いで来た信仰を信じているのです。成宗教会は毎週、使徒信条を礼拝で告白しております。これは、プロテスタント教会とそれを生み出したローマカトリック教会でも告白されて来ました。このような信仰の内容は長い歴史の中で整えられてきたものです。私たちが今日取り上げましたコロサイ人への手紙の中に、使徒信条の信仰の内容の一部が語られています。

読んでみると一見、とても難しいことをバーンと言われたような印象です。しかし、神について、信仰について考えること、そして「私たちはこう信じます」と告白することは、実は大きな、そして真剣な戦いの中から生まれて来たのです。そして、私たち自身もいつ倒れるかもしれない、いつ礼拝を守れなくなるかもしれない、という危機感の中で、このことを考えることの大切さを発見するわけです。なぜなら、教会とは何か。神とはどなたか、という問いの答を見い出さないでは、私たちの救いはどこにあるのだろうか?ということになってしまうからです。

コロサイ人への手紙は使徒パウロによって書かれました。この教会があった場所はフリギアという地方で、今のトルコの内陸です。コロサイの町はラオデキア、ヒエラポリスというこの地方都市と共に、ローマ皇帝ネロの時代に襲った地震のために破壊されたということが5世紀の歴史家によって伝えられています。つまり、パウロがこの手紙を書いてから何年も経たないうちに大災害が起こったことになります。その頃、パウロが手紙を書いてコロサイ人を教えようとした背景には、災害とは別の大変大きな危機感があったのだと思われます。この地方には人々を伝えられていた福音から外れさせようとする力が働いていました。しかし、それは何も暴力的な力ではないのです。

私たちは「暴力でなければ大丈夫だ、平和だ」と思ってしまいがちですが、実は人を唆し、救いから遠ざけるものは、暴力とは限りません。それは、主イエスが福音を宣べ伝える前に荒れ野に行かれ、そこで受けたサタンの誘惑を考えても納得するでしょう。(マタイ、ルカ、共に4章)コロサイ教会の人々を逸脱させようとしたものは、哲学者たちが論じる星、運命、その他さまざまの空想でした。また、そういう興味を引く話の一方、教会にいるユダヤ人たちは儀式的なことにこだわりました。ああでなければならない、こうでなければならないという主張が、次第に律法主義的になって行ったのです。その上、この時代盛んに論じられていたのは、何と天使の階級論でありました。見たこともない天使についてあらゆる空想を加えた結果、その人々は天使をランク付けし、天使を神と人との仲介者として立てて、天使によって神の御前に近づこうと企てたのです。

それに対してパウロは真っ向から否定します。彼の主張は、あらゆるものはキリストに在り、コロサイ人にとってはキリストのみで十分であり、それどころか十分以上であるべきだということでした。まず15節。「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」とパウロは述べます。これは、ヨハネによる福音書の主張でもあります。ヨハネ1:18「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」(163下)すなわち、神が我々にご自分を表されたのは、ただ、キリストによってのみなのだとパウロは言いました。

また、15節では、神の姿と言われていますが、それでは、神がキリストの人間としての姿をもっておられるということではありません。キリストのお姿は、あくまでも私たち人間、限りある人間の目に認識できるように現れてくださったお姿なのです。つまり、私たちが理解できるように、そうして下さったということなのです。そして神が私たちにご自分を表されたのは、ただキリストによってのみであったのですから、その他の姿形によって神を求めることがあってはならないのです。もし、キリストを抜きにして、神を表そうとするものがあるとしたら、それはすべて偶像に他ならないでしょう。

また、キリストは「すべてのものが造られる前に生まれた方」と主張されています。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。万物は神の言葉によって造られたのですから。キリストはまた、死人の中から最初に生まれた者と呼ばれています。なぜなら、私たちもキリストによってのみ、復活の希望があるからです。すべての被造物はキリストによって造られたということは、キリストが万物の基礎であるということですから。

「天にあるものも地にある者も、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。」天は、神の居ますところを表しますが、また天使の存在するところをも表します。人々は天使の階級という複雑な空想を造り上げ、人間と神との間の仲介者と考えようとしました。その考え方は結果的にキリストの権威を弱めることになったのです。これに対して、パウロは、天使は体を持たないが、被造物であり、天使の持つ主権も支配も権威も含めて、すべてのものが御子において造られた、と主張しました。

天使がキリストによって造られたその目的は、キリストに仕えるためであります。キリストは天使をその力によって支えておられるのだと。

次にパウロはキリストと教会との関係を教えています。「また、御子はその体である教会の頭です。御子は初めのもの、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、すべてのことにおいて第一のものとなられたのです。」キリストは、人間の体に対して頭に例えられています。なぜなら、人間の体において、頭は、そこから生命力が他のあらゆる部分に流れる司令塔ですから。それと同じように、教会の生命はキリストから生じるからです。しかし、ここでは、主として支配について語っています。キリストは教会を支配する権威を持った唯一の存在です。そうであるならば、信徒はキリストにのみ注意を払わなければならないのは当然ではないでしょうか。なぜなら、キリストはこの栄誉を受けておられる通りに、その職務を真実に遂行なさる方に他ならないからです。

キリストは創造の初めに神と共におられた方であり、甦ることによって神の国を始められたので、初めのものと呼ばれます。私たちは、キリストと共に十字架に死んで、キリストの死と結ばれたように、キリストの命に結ばれて再び生きるものとされる約束をいただきました。そして、新しい命の希望に生き始めているのです。キリストは「復活の初穂」(Ⅰコリント15:20)と呼ばれています。その結果キリストは、御自分の体である教会にも生命を取り戻してくださったのです。19-20節。

「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」「満ちあふれるもの」とは、「あらゆる完全」と訳されることが出来ます。父の御心は、あらゆる完全がキリストに宿ることであったからです。キリストの完全とは何でしょうか。宗教改革者は述べています。それは、「全き義、知恵、力、あらゆる種類の恵みである」と。では、私たちの救いのために何が必要でしょうか。私たちは真剣に考え、真剣に願わなければなりません。そして、私たちが望むすべての善きことを、キリストの完全から引き出さなければならないでしょう。

言い換えれば、「キリストは私たちにとってすべてである。キリストなしには、私たちは何も持たない」ということですこれが私たちが代々の教会から受け継いで来た信仰です。だから、反対のことを考えてみるならば、神から離れること以上に、悲惨なことは在りません。また私たちは、この称賛をキリスト以外の人間に移すことはできない。ましてや、人を神に近づける仲裁者として天使などを考えることも、救いから遠ざかる悲惨につながるのです。

キリストの血は十字架において流されました。それは、私たちと神との和解のしるしです。私たちが神に義しい者とされるために、御子は償いの生贄となり、罪の罰に耐えなければならなかったからです。私たちは平和な時代を生きている間も、教会が受け継いで来た信仰を告白し、礼拝に連なることが出来ました。パウロが大きな危機感を持って書いた手紙、その中に記されたキリストをほめたたえる信仰は、今日にまで続いているのです。この手紙を受け取ったコロサイ人の町はまもなく破壊されました。人々は悲惨な時代を生き抜いたでしょうか。生き抜いた信仰者がいたからこそ、この手紙が残され、聖書正典の中に入れられたのではないでしょうか。

私たちも困難な時代を生きなければなりません。ただいつの時代の教会にも目標があります。時が良くても悪くても、福音を宣べ伝え、福音を生きることです。それは、「礼拝を守れなくなる時まで」ではありません。むしろ、礼拝を守れなくなっている人々の信仰生活のために祈り合うことこそ目標です。祈りによってキリストにを通して神と交わり、祈りによってキリストに通して人々と交わり、これを地上にある限り続けることです。なぜなら、この私たちのために主は地上にいらして労苦の限りを尽くされ、私たちを教会に呼び集めてくださいました。私たちはその愛を思い起こしているからです。だからこそ、キリストの完全の中に、私たちはすべてを期待しましょう。祈ります。

 

主イエス・キリストの父なる神様

御名をほめたたえます。使徒信条の中に表された教会の信仰を感謝します。私たちはあなたの御心を知らないままに唱えていることが多いのですが、改めてキリストによって示されたあなたの計り知れない御心を思うことが出来ました。どうか愚かなもの、貧しいものの罪を赦し、ただキリストのみを救い主と信じる信仰の計り知れない恵みを悟らせてください。教会に来られなくなった方々を訪ねて互いに喜んだ過去の交わりを今、思い起こします。今、私たちの多くが年を取りましたが、どうかこの恵みのうちに歩むために、あなたの豊かな知恵と力をお与え下さい。

また、若い人々のためにも祈ります。激しく変化する社会にあって、昔の知恵の思い及ばない世界を生きて苦闘している

人々のために、どうかあなたが必要なすべてを備えてくださいますように。一切をあなたに委ねて、教会が祈りをもって世に送り出すことが出来ますように。また高齢の世代にもなすべきことが沢山あることを教えてください。御言葉をもって、知恵をもって励ますために、聖霊の神様、弱い者にも、病気の者にも勇気と愛とを増し加えてください。私たちが御国へと続く道を指し示す者でありますように。

この感謝と願いとを、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。