この喜ばしい知らせを

聖書:ゼファニヤ書314-18節, ルカによる福音書1525

 待降節も本日は第三の主の日となりました。今年もいつもと変らない恵みに満ちたクリスマスが迎えられるように、私たちは身も心も魂も整え、備えたいと思います。今日読みました新約聖書はキリストの誕生に先立つ物語です。それは一人の預言者の誕生です。後に洗礼者ヨハネと呼ばれたヨハネは、イエスさまが世に表れ、福音を宣べ伝える前に表れて、救い主に先立って道を備える務めを果たした人であります。

ヨハネの父となったザカリアは祭司でありました。また母エリザベトも祭司の一族であり、6節にありますように、二人とも神の御前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかったと言われます。わたしたちの神さまは外観の整った行いを喜ばれるのではなく、特に心を見られる方ですから、この二人も心から神さまに従うことを喜び、律法の教えに従って隣人を愛することに努めていたので、「非のうちどころがなかった」と言われたのでしょう。そのように忠実な二人はそれだけで幸せでありましたが、一つだけ叶わない願いがありました。それは子供が与えられることでした。長い間待っているうちに、二人とも年を取って既に子を持つ望みもなくなっていました。

ある時、ザカリアは主の聖所に入って香をたくことになりました。祭司が神殿の聖所に入る時はいつでも、神と人々の仲保者として神の前に立つために入るのです。律法によれば、人々の祈りは祭司が神さまに執り成しをして初めて天に昇るのでした。そこで人々が祈っている時、祭司は聖所で香をたきました。この日、ザカリアが聖所に入ったとき、彼は主の天使が香壇の右に立つのを見ました。彼は非常に恐れました。神さまは私たちに御自分の言葉を聞かせたいと願っておられます。しかし、私たちはなかなか神さまの言葉が分からない。御心が分からないのではないでしょうか。私たちはどうしたら神さまの言葉を聞くことができるでしょうか。聞いて理解することができるでしょうか。そのために、神さまはまず、わたしたちの傲慢を打ち砕いてくださいます。それは、祭司であっても例外ではありません。たとえ、民の中でも優れた者、主の掟と定めをすべて守り、人々から尊敬され、非のうちどころのない祭司さえも、本当に謙って心低くされなければ、神さまの恵みの言葉を聞くことはできないのです。

ザカリアは天使を見て、恐怖の念に襲われました。一瞬のうちに思うのは、自分の罪、咎、過ちを裁かれる方の前に、自分が塵に等しいことでありました。しかし、天使はすぐに彼を立ち上がらせました。「恐れることはない。ザカリア」と。そして神の言葉を告げます。「あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。」ザカリアが既に望むことさえできなくなっていた優れた息子が生まれるというのです。そして、その子供の誕生は単に両親とか、家庭内だけの喜びではないのです。

「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊にみたされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」と、天使は預言し、ザカリアとエリサベトに生まれる子、やがて洗礼者と呼ばれるヨハネがすべての信仰者にもたらす絶大な喜びを語ろうとしました。

今、神さまはご自分の民に、大きな救いの御業を携えて現れようとしておられます。この約束に向かって民を用意させ、人々を神さまのもとに導くこと。そして神さまが恵み深く人々のところに来てくださることができるようにすること。これこそが、生まれて来る幼子に与えられた使命なのです。神さまが人々の中に恵みを現わしてくださるために、必要なことは何でしょうか。それは人々が共に生きる共同体で、分裂を引き起こしている争いが止むことではないでしょうか。ところが現実は、遠い国との平和どころか、同じ社会に生きる人々、もっと身近な家族でさえ分裂している有様です。

傲慢な者は、すべての人すべての物を永久に支配しようと、神さまのご意志に逆らって立ち、地上に平和を求める願いと志を圧殺しようとしている。このことは、昔も今も変りありません。天使が語る言葉によっても当時の礼拝共同体は、今の世界に建つ教会以上に、社会の堕落と混乱の中にあったことを想像することができるでしょう。ヨハネの使命、それは神さまから離れ去った罪人たちを主のもとに立ち帰らせることでした。預言者ヨハネはすべての人を悔い改めに導いて、それによって共同体を一致させ、子供たちを親たちと共に神様に立ち帰らせるのです。これまで神さまに不従順であった者たちが、従順であった人たちと共に、神さまのご意志に服従するのです。そして皆共に、新しい神さまの恵みが現れるのを、ひたすら待ち望む者になる。ヨハネはそのために働くでありましょう。

そうです。ヨハネは神の教会を建設するために、その地馴らし、道備えをするでしょう。17節で天使は神の言葉をこう締めくくりました。「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、(複数)の心を子(複数)に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別をもたせて、準備のできた民を主のために用意する。」ヨハネの偉大な使命のために彼は生れる前から「偉大な人」と呼ばれました。ヨハネが偉大なのは、母の胎にいるときから聖霊に満たされていたからです。彼がこの世に生まれ出る前から、見ることも聞くこともできないうちに、聖霊が彼を満たしていたと天使は語りました。ヨハネにこの使命を果たさせるのはヨハネ自身ではなくエリヤの霊、すなわち神さまの聖霊が共にいたからであります。

私たちは聖霊の助けがなければ、神の言葉を聞くことができませんし、聞いてもそれが神さまの言葉であると理解できないのです。だから、この知らせを聞いたザカリアは信じられませんでした。長年の願いは既に不可能になっていたのに、神さまが可能にして下さったということも。また、生まれて来るわが子が偉大な使命をいただいて、神さまに仕えるということも。それは気の遠くなるような良い知らせであったのに。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』

人間のこの肉体の耳は、この良い知らせに対して閉じられていることが分かります。自分の目に見えるものに圧倒され、自然の現実が彼を支配しているからです。だから、まさか、そんなことはあり得ないと思うばかりです。しかし、神さまの思いは、私たちの判断、知恵、思いとは別のところにあるのではないでしょうか。神さまは隠れておられ、私たちに思い図るところを超えておられます。すると、私たちには神さまが遠く離れておられ、無力な方であるように見えるのです。これもまた人間の浅はかさと思い上がりの為す結果ではないでしょうか。

これに対して、天使は答えました。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」この天使ガブリエルというの名は、ミカエルの名と並んで、神の王座のまじかにいる最高の天使を指し示す呼び名でありました。つまり単に天使の一人が語っているのではない。聖なる大天使が、神さまから遣わされた者として神さまの言葉を伝えることによって、委ねられた職務を忠実に果たしているのでありました。

それに対して、ザカリアは疑いの心を抱いて、自分が受け取った良い知らせを他の人々に知らせるためには、真にふさわしくない言葉を口にしたわけです。そこで、ガブリエルは彼の不信仰を明らかに咎めるために、一つのしるしを行いました。それは口がきけなくなるという罰でした。天使の言葉がやがて事実となって初めて、ザカリアの不信仰の罪は赦されることになったのです。それまでは彼にとってどんな日々であったことでしょうか。それは苦しい日々であったとしても、決して悲しい日々ではなかったと思います。エリサベトが子を宿したことが分かった日から、ザカリアは悔い改めの祈りを続けて行ったことでしょう。約束通りヨハネが誕生し、神の言葉の真実が明らかになる日の実現をどんなにか待ち望み、喜んで耐え忍んだことでしょうか。

全世界が御子の誕生を祝うクリスマスに向かっているこの時、わたしたちは、成宗教会臨時総会を開いて新しい教師を招聘しようとしています。全く計画的ではないのですが、この日の説教はバプテスマのヨハネについてみ言葉に聴くことになりました。ヨハネは自分がメシアではないかと思う人々に対してきっぱりと否定し、後からお出でになる方こそ救い主であると証ししたのであります。2千年後の私たちから見れば、これは当然のことですが、当時の人々には全く分からなかったでしょう。ヨハネのメシアを待ち望む姿勢こそ、私たちの手本であり、教会に仕え、教会を建てるものであります。

洗礼者ヨハネの次の言葉をお聞きください。ヨハネ福音書3章27節-30節。168頁です。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

ヨハネが指し示した救い主によって教会は建てられました。イエスさまの教会に仕える者はすべて、救い主の到来を待ち望む者たちであります。この喜ばしい知らせを信じることができるのは、ヨハネに働いてくださった聖霊によるのですから、私たちはいつの時代も忍耐強く教会を建てて、主を待ち望む者となりましょう。「生きているのは、もはやわたしではない」とパウロは言いました。私たちは地上にある限り、主の聖霊によって活かされ、教会の主に結ばれて、生きて働くのです。

成宗教会もこの喜ばしい知らせを伝えるために、全国全世界の諸教会と共に、この地に建てられて来ました。自己中心的で不信仰な世の力が教会の中にも入り込み、兄弟姉妹に大きな躓きを与え、諸教会は苦難の中にありますが、私たちはただ神の御言葉によって活かされていることを、証しして参りました。これからもそうでありますように。そのために成宗教会に新しい時代に向かって教師を招く希望が与えられました。これからも、成宗教会から力強く主の御言葉が語り続けられますように。そして主の聖霊のお働きによってみ言葉が聞き続けられ、み言葉に生かされ、成長する群れとなりますように。祈ります。

教会の頭なる主イエス・キリストの父よ

尊き御名を褒め称えます。あなたは私たちの罪を贖うために御子を世に遣わして、壮大な救いのご計画を実現してくださいました。今日の礼拝を感謝いたします。あなたの御前に非のうちどころのないと言われた祭司ザカリアでさえも、あなたの喜ばしい知らせを信じることができませんでした。私たちは増して罪深く、あなたの善良さ、慈愛に満ちた御心を信じることができず、不信仰のあまり、多くの悩みに陥る者であります。どうぞ、私たちを憐れみ、この罪にも拘わらず、耐え忍んで恵みを現わしてくださるあなたの忍耐と愛を褒め称える者と造り変えてください。

成宗教会を今日まで守り導いて下さったことを思い、真に感謝申し上げます。沢山の苦難、困難がありましたが、私たちの不信仰を打ち砕いて、困難な中に力強くお支えくださっているあなたの聖霊のお働きを見上げることが許されました。大きな恵みでございました。私たちは大きく力に溢れている時以上に、弱り果て困難を抱えている信徒の方々の背後に働くあなたの愛を強く感じ、励まされて参りました。

本日私たちの教会では、長老会が新しいお二人の教師をお招きして共に教会を建てる働きをお願いするために、臨時総会を開きます。先生方には成宗教会の牧師となっていただくばかりでなく、主の体の教会形成のために、東日本連合長老会を通して、また改革長老教会協議会、また、日本基督教団の神学校である東京神学大学を通して、広く、深く教会と手を携えて働いていただく教師としてあなたが任務をお与えになることを願います。成宗教会にとってこれ以上の大きな望みはございません。どうか、あなたの御心ならば、小さな群れに、この大きな志をお与えくださり、この群れをあなたの御用のためにお用いくださいますようお願いいたします。

来週のクリスマス主日聖餐礼拝の上に、教会学校の礼拝の上に、またイヴ礼拝の上に、あなたの恵みをお与え下さい。多くの人々が集められ、み言葉なるキリストの祝福に与ることができますように。主よ、どうか奉仕する者の健康を支えてください。今、心身に不安のある多くの方々を覚えます。どうぞあなたの豊かな顧みが、皆様の上にございますように。

この感謝と願いとを、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。