幸いなる人になりなさい

《賛美歌》

讃美歌224番
讃美歌67番
讃美歌502番

《聖書箇所》

新約聖書 : テモテへの手紙二 2章19節

2:19 しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。

旧約聖書 : 詩篇 1編1-6節

1:1 いかに幸いなことか/神に逆らう者の計らいに従って歩まず/罪ある者の道にとどまらず/傲慢な者と共に座らず
1:2 主の教えを愛し/その教えを昼も夜も口ずさむ人。
1:3 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び/葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
1:4 神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殻。
1:5 神に逆らう者は裁きに堪えず/罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。
1:6 神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。

《説教》『幸いなる人になりなさい』

詩編はイスラエルの長い歴史を背景にしています。その多くは神殿の礼拝で歌われたものと考えられ、また或るものは、エルサレムへ巡礼する人々の愛唱歌でもありました。そのため、一つ一つの詩の作者ははっきりとは分かりませんし、また、その詩の背景を確定出来ないものが殆どです。時代の流れの中で、人々が苦しみ、嘆き、神様を叫び求め、また神様の栄光を讃美する数々の詩は、信仰者の魂の結晶として貴ばれて来ました。

教会は、初代教会以来、イスラエルの伝統を受け入れ、詩編を礼拝の中で用いて来ました。私たちもまた、礼拝において朗読し、交読している詩編の意味をよく考え、神様を正しく礼拝・讃美する信仰を養うことが大切でしょう。

長い時の流れの中で作り上げられた詩篇は、初め幾つかの独立した詩集として存在していたようです。後に、現在のように5巻に分けてまとめられたことは、各巻の終わりが「頌栄」となっていることからも明らかです。

第1巻は、第1編から第41編、

第2巻は、第42編から第72編まで、

第3巻は、第73編から第89編です。

第4巻は、第90編から第106編まで、

第5巻は、第107編から第150編までです。

そして最後の第150編は、詩篇全体の頌栄ともなっています。

因みに、神の呼称、神の名は、第1巻ではヤーウェですが、第2巻と第3巻ではエロヒームが用いられ、第4巻と第5巻では再びヤーウェが神の名として用いられています。

このように、詩編の成り立ちや構造を見てみると、今日の第1編が特別な意味を持っていることが分かります。第1編は第2編と共に表題がありません。更に、最後の第150編が全体の頌栄となっているとするならば、第1編はそれに対応するものと考えるのが自然でしょう。即ち、この詩篇の初めの部分は、詩篇が現在の形に編集された時、全体の序曲として特に選ばれ、加えられたものと思われるのです。

詩篇1編1節は、「いかに幸いなことか」で始まっています。詩編全体の初めが「幸いなことか」という呼びかけで始まっているということは、神様の御前に立つ者が先ず告げられる御言葉が何であり、自ら口にすべき言葉が何であるかを教えるものと言えます。これは、神様よりの祝福を受け、希望を与えられた自分自身の姿の確認であり、信仰に生きる者としての自分を神様の眼差しの下にある者として見ることなのです。

そしてこの祝福は、マタイによる福音書に記されている有名な「山上の説教」の冒頭に記された主イエスの「祝福の言葉」に対応していることも明らかです。主イエスも、集まった人々に対し、「幸いなる人よ」と呼びかけられました。この意味で詩篇は、主イエスの更に遠い昔に、既に、主イエスの福音を先取りしているとも言えます。

詩編の作者は何を「幸い」と言っているのでしょうか。「幸い」と訳されている言葉は、原語では「真っ直ぐに歩く」「導かれる」という意味であり、それから「幸い」という意味が出て来ました。「幸い」とは、人生の道を真っ直ぐに歩くことであるというのがユダヤ人の考え方なのです。

このように真っ直ぐな人生の道を歩く者と対称的なのが、1節に挙げられている三種類の人間です。それは、「神に逆らう者の計らいに従ってあゆむ者」であり、「罪ある者の道にとどまる者」であり、そして「傲慢な者と共に座る者」とあります。

この三種類の人間は「遠ざかるべき道」と呼べる道を行くのです。これらの人間の先ず第一の者とは、「神に逆らう者」の計らいに従う人間です。「神に逆らう者」とは、ことさらに反逆とは言えなくても、神様を認めない、神様に従わない、神様の御心の外に生きる者をも含めています。従って、彼らは神様の平安に包まれません。その結果、この者は不安の中にあり、不安に基づく自己中心的な想いに囚われて生きることになるのです。神様に背を向ける人生に平安はありません。これが共に歩いてはいけないと言われている第一の人間です。

「遠ざかるべき道」を行く第二の者とは、罪ある者の道にとどまる人間です。「罪」とは元来「的を外す」という意味でした。間違ったものを求める者のことです。的外れの人生。それは神様を知らない、知ろうとしない人間の生きる道です。

「遠ざかるべき道」を行く第三の者とは、傲慢な者と共に座る人間です。傲慢な者とは、自分をあらゆることの中心にし、自分の生き方や考え方に何処までも拘(こだわ)る者、自己中心的に生きる者です。これが的外れの人生を生きる者の典型であるとも言えるでしょう。そして私たちの周囲に最も多いのがこの第三の人間かもしれません。

これらの三種類の人間は、人間の悪の代表的な三つの側面を現わしていると言えるでしょう。そして更に問題なのは、これら三種類の人間が、特に悪しき姿とは思えないことであり、いくらでも私たちの周囲に幾らでも居るということなのです。

神様から離れて生きる者は誰も不安から逃れられません。それどころか、誰もが不安を道連れにして生きていると言えるでしょう。そしてこの不安から逃れるために、様々な策を繰り出すのです。

或る者は豊かさに溺れ享楽的に生き、或る者は仕事へ熱中して、その忙しさの中で不安を忘れようとします。また或る者は趣味で気を紛らわし、また或る者はアルコールの力を借り、なかには法律を犯してまで麻薬などの薬物を求めます。人間が行うすべての行為は、所詮、不安からの逃避でしかないと言えましょう。

当然それらの行為は、不安から解放される道ではなく、その場限りの気紛れでしかないことは、誰でも知っていることです。それは、間違った行為なのです。安らぎのないところへ安らぎを求めているのです。神様に背を向け、自分の思いで不安から免れようとする行いは、神様の御心を考えず、神様の愛を虚しくすることであり、神様なしでも生きて行けると錯覚しているに過ぎないのです。

そこに「真っ直ぐな道はない」と詩篇の作者は語ります。神様の導きを考えず、それを求めず、また、御心を想わず、神様なしで人生を全う出来ると考えるところに「幸い」はないのです。信仰とは、これらの誤りから脱け出ることであり、神様の導きを、「必要欠くべからざるもの」と信じることなのです。

この様に、1節では、「幸いなる人」がしないことが纏められています。続いて、2節では「幸いなる人」のすることが、「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人。」と語られています。これが「幸いな人」の姿であり、主の道を真っ直ぐに歩む人のことです。ここにある「主の教え」とは、ユダヤの人々にとって「律法」のことです。元々「教え:トーラー」というヘブライ語が、後にユダヤの「律法」を現わす言葉として使われるようになったのでした。しかし「律法」は、規則・戒律として守るだけのものではなく、「それを愛し、昼も夜も口ずさむ」のですから、詩篇の作者の心は、「律法」それ自身にではなく、「律法」を与え給うた神様の御心である「教え」へ向けられていることは明らかです。

主なる神は、何を目指し、何を実現するために「律法」を与えられたのでしょうか。それは私たちが「真っ直ぐな道」を行くための「道標」であり、的はずれの迷子にならないための「案内地図」であったと言えましょう。

知らない道を歩くためには「案内地図」は不可欠です。登山には計画の時だけでなく登山中にも常に地図が必要です。登山中は、いつも自分が地図上の何処を歩いているのか把握してないといけません。登山が好きな私も、山の中で歩いている道に不安を感じた時、地図に記された「道筋の特徴」で自分の立ち位置を地図上に発見してホッとした経験は何度もあります。この道は正しい道なのかという疑問は、地図を見ることによってしか解消されません。登山者の平安が「正確な地図」にかかっているということは、自明のことであり、人生の道に対しても「人生の地図」といったものが必要なのです。

主なる神は、私たちの救いを願っておられます。私たちが永遠の生命へ到達することを最大の目標にされています。示された「正しい道筋」とは「神の国への道」です。そして、その「神の国への道」のために、それだけではなく、道を誤った者を引き戻して「神の国への道」へ導くために、御子イエスさえ惜しまず十字架につけられたのです。その御心に包まれて「真っ直ぐな道を行くこと」が人間の幸いな姿なのです。

3節には、「その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。」とあります。

イエス様のお生まれになったパレスティナにはわが国のような小さな川はまったくと言ってよいほどありません。自然の川は、雨期の時だけ水が流れるワジと呼ばれるもので、雨期が終われば水は干上がり、ただの窪地の溝になってしまいます。そこで、人々は、畑で作物を作るために、数少ないオアシスの泉から水を引く水路を作らねばなりませんでした。そして、水の蒸発を防ぐためと、砂地に水が染み込んでしまわないためにその水路の両側に木を植えました。それでも、夏になりムシーンと呼ばれる厳しい砂漠の熱風が吹くと、木や草はたちまちに枯れてしまいます。パレスティナの夏は一面茶色の岩と砂漠の世界となります。現代ではスプリンクラーや点滴灌漑されている所だけ植物を見ることが出来ますが、古代ではそれが泉からの水路だけでした。一面茶色の熱砂の世界に、水路の両側に植えられたわずかな木だけが緑を保ち続け、実を結ぶことが出来たのです。

詩篇の作者は、それを「たとえ」として用い、神様に養われて生きる幸いを読者に告げました。つまり、人間が示す活力とその結果としての豊かな実りはすべて、天地の主なる神様によって備えられ、造り上げられたものであって、決して自然の中で、おのずからもたらされるものではないのです。

緑の葉はみずみずしく活力に溢れた信仰者の姿を表し、その結果としての与えられた幸福を「誰がそれを与えてくれたのか、それを考えよ」と詩篇の作者は語っているのです。

「流れのほとりの木」が、人工の水路や植樹という仕事に支えられていたように、人間の幸福は、すべて神様が用意して下さり、神様の御計画と御業によるものであることを、人生に正しく位置付けなければなりません。そしてその実りも、「時が巡り来る」と表現されているように、神様の定め、神様の秩序の下での出来事なのです。

4節と5節には、「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされるもみ殼。神に逆らう者は裁きに堪えず罪ある者は神に従う人の集いに堪えない。」とあります。

脱穀した麦をもみ殼と麦粒に分けるのは風の吹く所で行い、風によってもみ殼を吹き飛ばすことは、今日でも行われています。旧約の預言者たちは、それを「神の審きのたとえ」として常に用いて来ました。詩篇の作者も、その「たとえ」によって、神の審きが必ず訪れることを語るのです。

神の審きは、それもまた「神の秩序」の一つです。「時」が来れば実を結ぶ木もあれば、「時」と共に滅ぼされるものもあります。その捨て去られるもみ殼の運命を、みずから選び取る者がいるのです。間違った目標を見ている罪人を、吹き飛ばされるもみ殼にたとえているのです。不安から始まったその道は、価値なきものとして捨てられるもみ殼のように、滅びへ向かうのを必然としているのです。

最後の6節には、「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る。」とあります。

ここの「知る」とは、知識や認識という意味ではなく、人の人格的な愛と真実の交わりを表す言葉です。最も深い人格的な関わりを表す言葉と言っても良いでしょう。主なる神は、そのような真実と愛をもって私たちを常に顧み、交わりを保ち続けて下さる、ということなのです。

かつて、エジプトを脱出してシナイの砂漠に逃れた人々が、昼は雲の柱、夜は火の柱で守られたように、主は、御言葉に従う者の人生を守り導かれるのです。エジプトの軍隊に追われた人々を敢えて海の中に道を造ってまで救われたように、私たちをあらゆる危機から救うために、主は、新しい道を創造して下さるのです。

それを歩むのがキリスト者の人生であると言えるでしょう。なぜなら、主イエスは、山上の説教をこの詩編と同じ「幸いなる人よ」という祝福で始めているからです。「幸いなる人よ」という語りかけは、遠い旧約の時代から主イエス・キリストに至るまで、そして私たちの今の時代まで変わることなく続く神様の御心であり、主イエス・キリストにおいて、この詩編の祈りが成就したと言えるのです。

それは、新約聖書277ページ、ローマの信徒への手紙3章21節から24節に、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」とあります。

ここに、「ところが今や」と強調されていますが、今や私たちには、その主イエスの十字架の救いの力が、信じる信仰によって与えられているのです。

主イエスは、シカルの町近くのヤコブの井戸で出会ったサマリアの女に、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の生命に至る水がわき出る」(ヨハ4:14)と言われました。まさしく、今日の詩篇の水の流れは主イエスによって造られ、私たちは、その枯れることのない「流れのほとりに植えられた木」なのです。もはや砂漠の熱風に生命を奪われることなく、枯れた荒野の中でも緑の葉を茂らせ、豊かな実りを結ぶもの、それこそ、生命の水に守られたキリスト者の姿なのです。私たちを守り、養われる主なる神の恵みの「水の流れ」が、如何に力強くまた確かなものかということを、私たちははっきりと証しすることが出来ます。

主に守られ、導かれる者の幸いを感謝し、希望を持って歩んで行きましょう。

お祈りをいたします。

 

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