起き上がりなさい

《賛美歌》

讃美歌66番
讃美歌365番
讃美歌225番

《聖書箇所》

旧約聖書  ネヘミヤ記 13章17-18節 (旧約聖書761ページ)

13:17 わたしはユダの貴族を責め、こう言った。「なんという悪事を働いているのか。安息日を汚しているではないか。
13:18 あなたたちの先祖がそのようにしたからこそ、神はわたしたちとこの都の上に、あれほどの不幸をもたらされたのではなかったか。あなたたちは安息日を汚すことによって、またしてもイスラエルに対する神の怒りを招こうとしている。」

新約聖書  ヨハネによる福音書 5章1-18節 (新約聖書171ページ)

5:1 その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。
5:2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。
5:3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。
5:3 (†底本に節が欠落 異本訳<5:3b-4>)彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。
5:5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。
5:6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。
5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
5:8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」
5:9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。
5:10 そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」
5:11 しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。
5:12 彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。
5:13 しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。
5:14 その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」
5:15 この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。
5:16 そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。
5:17 イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」
5:18 このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

《説教》『起き上がりなさい』

今日、この礼拝のために与えられた御言葉は、2000年前のエルサレムの町のベトザタ池の畔での主イエスの癒しです。

2000年前の主イエスが歩かれたユダヤの都エルサレムの町は、周囲をぐるりと城壁で囲まれていました。

そのエルサレムの北東の城壁に「羊の門」と名付けられた門があり、その近くにベトザタと言う名の池があったと伝えて語られていました。ヨハネ福音書だけにその名が残されている、このベトザタの池が本当にあったのか、長い間、その存在が疑われていましたが、近代になってエルサレムの町の発掘調査が行われ、ついにこの池の跡が発見されたのです。

2000年前の主イエスの時代、このベトサダの池は隣り合う二つの池、北の池と南の池からなっていた様です。その二つの池をぐるりと囲む様に、屋根のついた四棟の回廊が建っており、その回廊には、沢山の病人たちが横たわっていたとヨハネ福音書は語っています。病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが横たわる、病人だけが集まる所で、当時のユダヤ人にとっては近づき難い穢れた場所でした。この時は、ユダヤ人の祭りがあったので主イエスがエルサレムに上られたと1節に記されています。そして、主イエスはこのユダヤ人の近付かない穢れた場所をお訪ねになりました。

病人達がこの池に集まっていた理由を記す文章が、ここにはありませんが、よく見ると3節の終わりのところに十字架の様なマーク(♰)が印刷されています。そのマーク(♰)の後には4節がなく、すぐに5節となっています。これは、従来本文とされてきたこの箇所の文章が、元々はなかったものであり、後から誰かが加えた文章であるとされて削除されたことを表す印なのです。

そして、後に加筆されたと判断された3節後半から4節は、このヨハネによる福音書の一番最後212ページに付け足されています。そこにはこう書いてあります。

「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」(3b-4)

何かの拍子に水面が動いたとき、人々はそれを天使が池に降りて来た証拠だと考えました。そのときに真っ先に池の水に入ったものはどんな病気でも癒されると信じられていたのです。この殆ど迷信の様な言い伝えだけが、当時の、この世から見捨てられた人々の望みをかすかに繋ぐものだったのです。

つまり、ベトザタの池に集まっていた多くの病人は水が動くときを待って、真っ先に池に入って、自分の病気を治してもらおうと集まっていたのです。

ここに集まる人々は「めったに起こらないその瞬間を逃してはならない、その瞬間が来たら、真っ先に飛び込もう」と考えて集まっていた人々でした。

「水が動いたとき、真っ先に水に入る者」だけ、つまり一番最初の一人しか癒されないのです。水が動いたらそこには何が起きるでしょうか。激しい競争が起きます。夜もおちおち眠れない、神経をピリピリとがらせた、不安な毎日が続きます。先に池に降りて行く者を憎み、呪い、妬む生活が続きます。池の水面が少し動くだけで、池の周りは修羅場と化したのです。

この様に、人と人の激しい競争から、憎しみや妬みに捉えられ、自分だけが先にならなければ幸福を得られないとベトザタ池の周りの人々は思っていました。この姿は私達の現実の姿とも似ています。

我先に池に入ろうと待ち構えている病人の中に38年間もの長い間、病気に苦しめられ、殆ど寝たきり状態だった一人の男が居ました。この男は、病気のために素早く動くことも出来ず、池の畔で横たわっているだけで、当然人より先に池に降りることも出来ずに38年間居たのでした。

つまり、この男は、仮に20歳位で病気を患っていたとしたら、この時は既に58歳にもなって、当時の人間の寿命から考えると、老人と言ってよい年齢です。

彼は、治る見込みもなく、家族からも見捨てられ、財産なども持っていなかったでしょう。ここには、同じ様な境遇の人々が沢山いた筈です。そして、この男を含め池の周囲の人々は皆孤独でした。なぜかと言えば、あの、いつ起こるとも知れない水の動きを巡って、お互いにライバル関係にあったからです。

ライバル関係ですから、勿論お互い慰め合いや励ましあい、会話や笑い、楽しみ喜びなど一切ない、それこそ魂の荒れ野とも言うべきところであったのです。

この病人ばかりの回廊に人々は決して近づこうともしません。周辺はユダヤの祭りで多くの人々が祝い騒いでいました。このような病人たちで穢れていると人々が思う場所、魂の荒れ野に主イエスだけがわざわざ訪ねられたのでした。

主イエスはその病人を憐れに思い「良くなりたいか」と声をかけられたのでした。私達は、この人が「はい、そうです。良くなりたいのです」と当然答えるだろうと考えます。ところが、この男の答えは「主よ。水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」でした。彼は、一緒に池の畔に横たわっているライバルを責めることしかしていません。他人への非難と自分の現実への不満の中でしか生きることが出来なくなって、心が歪み、魂がすさんでしまっていたのです。自己本位のこの男に、主イエスは、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言われました。これは主イエスにしか言えない言葉です。それは、主イエスこそがこの人の病と、その苦しみを代わって背負って下さる方だからです。主イエスはこの人を憐れに思われました。憐れまれて、肉体の病、憎しみと呪いにまみれた人生全体、それらすべてをご自分のものとして引き受け、担って下さったのです。「私が十字架の上であなたの惨めさ、あなたの病、あなたの苦しい思いをすべて代わりに担うから、あなたは起き上がりなさい」と仰って下さったのです。

この「起き上がりなさい(evgei,rw)」という言葉は主イエスが2章19節で「三日で神殿を立て直してみせる」とおっしゃった時の「建て直す」と同じ言葉です。その主イエスの「建て直す」は、2章22節の「復活される」という言葉とも同じです。主イエスが後に十字架の死から復活される、そのことを語るのと同じ言葉で、「起き上がりなさい」と言われているのです。そこに込められているのは、「私があなたのすべての悩みと苦しみ、いや死の力に打ち勝って復活するから、あなたは私の復活の光の中で立ち上がりなさい。その光の中に留まり続けなさい」、という主イエスの思いです。「起き上がりなさい」というみ言葉は、主イエスの十字架と復活による救いの恵みに彼をあずからせるためのみ言葉だったのです。

私たちもまた、この復活の光の中に置かれるとき、たとえこの男の様に完全な肉体の癒しが与えられなくとも、神様に向かって立ち続けることができるのです。主イエスの「起き上がりなさい」という御言葉のもとで、神を信じる信仰によって、希望を持って生きて行くことができるのです。

床を担いで歩き出したこの男に備えられた道は、主イエスの御言葉に立ち続け、歩み続ける道、主の救いに感謝し、その恵みを証しする道でした。自分を立ち上がらせた力が、何というお方のどの様な力であるかを正しくわきまえ、その恵みの中に留まって歩み続けることであった筈です。しかし、この男は、その道に踏みとどまることが出来なかったのでした。ヨハネ福音書が語るこのベトザタ池の癒しの奇蹟の出来事は更に複雑になって行きます。

この男は主イエスの癒しに与りながら、神の恵みの中に留まり続けることが出来ませんでした。

キッカケとなったのは、安息日に床を担いで歩いているところをユダヤ人たちに見咎められたことでした。それは律法と呼ばれるユダヤ人が守る神の掟を破っていることを意味していました。ユダヤ人たちは、38年間の長い苦しみから解放されたこの男の恵みを共に喜んだのではありませんでした。それどころか、「今日は安息日だから床を担ぐことは律法では許されない」と、「ユダヤの神の前に相応しくない」と、この人を責め立てたのです。

当時のユダヤ教では、神がモーセを通してイスラエルの民に与えた十の戒め、十戒をもとに600以上もの細かな規定が定められ、その中には安息日には何をしていいか、何をしてはいけないかが、細かく定められていました。安息日には何歩以上歩いてはいけない、一度使った炭ならば再び火を起こしても良いが、新しい炭で火は起こしてはならない、など、守らねばならない細かい規定が沢山ありました。病気を癒されたこの男が床を担いで喜んで歩き回っていたのは、この細かな規定に違反していたのです。それを責められたこの男は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えました。この男は、ユダヤ人たちに責められて、自分では主イエスの恵みの大きさが分かっていながら、周囲の人々の批判に会い主イエスの救いを見失ってしまったのです。

責めるユダヤ人たちは「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねました。しかし、その答えは驚くべきもので、そこには、「病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった」とあります。考えられないことです。人生で最高の恵みを受けた筈なのに、その癒しを行って下さった方に名前さえ聞こうとしなかったのです。自分が癒されればそれで良い、誰が救って下さり、その方と自分は今どういう関係に招かれているのか、そういった事はこの人にとっては問題ではなかったのです。

ユダヤ人たちは、この男から聞き出した話によって、主イエスを迫害し始めます。そして何と、彼らは益々はっきりと主イエスを殺そうと狙うようになった、というのです。

その理由は、主イエスが安息日の律法を破り、この男に床を担がせただけではなく、全能の神を「私の父」と呼び、「御自身を神と等しい者とされたからである」といった理由からでした。

この男は、主イエスから受けた忘れてはならない筈の癒しを、「安息日には床を担ぐことは律法で許されていない」と咎めるユダヤ人たちの言葉に、その恵みを忘れてしまいます。

主イエスのお陰で今の私たちがあるのに、池で救われたこの男の様に、主イエスの光の中に立つことを忘れてしまう事や、今自分に与えられている恵みを恵みと思わずに当然の事として過ごしている事が、私たちの歩みにおいても多いのではないでしょうか。

ユダヤ人たちは神の御子を迫害するという罪を犯しながら、自分達は神に奉仕している敬虔な信仰者だと信じていました。また、病を癒されたこの男も、自分が癒され、楽になる事だけに留まり、自分を癒して下さった方との出会いと、この方との新しい関係に入って歩む事が出来ずに罪の中に留まってしまいました。

あろうことか、さらに、この男はユダヤ人たちの主イエスに対する殺意をあおり、結果として主イエスを十字架刑に送ることに加担してしまいました。

ベトザタの池の畔で、主イエスはこの男に出会って下さり、愛を持って救い上げて下さいました。

その後、神殿の境内で主イエスはこの男に再び出会って、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と言われました。それはその男の病気が罪の結果であると言っているのではありません。ここで問題となっている罪とは、主イエスに癒されたにも拘わらず、主イエスを自らの救い主として受け入れられなかったことです。

その男に再び出会ってくださった主イエスの御言葉は、「あなたは良くなったのだ。癒されたのだ。罪を赦されているのだ。礼拝に生きる者、ただ神の恵みのみによって赦され生かされている者なのだ。救われる前の苦しみを忘れることなく私の光の中にいなさい」と繰り返し語りかけてくださり、新しく目覚めさせようとして下さっているのです。

時間的には後になった、主イエスの十字架の贖いの死は、ベトザタの池で病を癒された、この男のためでもあったのです。この男を病から癒されただけではなく、罪からの救いを与えるために繰り返し会ってくださり、招いてくださっているのです。この男が主イエスを信じて救われたとは、ここの聖書箇所には書かれていませんが、この男も、この後でキリストの十字架の御業で救われたと信じたいものです。

主イエスは今日のこの礼拝においても私達に出会い「良くなりたいか」と声をかけてくださり、従う私たちに、「あなたは良くなったのだ。私の光の中を歩きなさい」と導いて下さっているのです。

主イエスは、私達に「起き上がりなさい」と声をかけられた時の事を、私達に思い起こさせ、主イエスの復活の光の中に留まる様にと、今日も出会って御言葉を与えて下さり、信仰に生きる希望を与えて下さいます。

お祈りを致しましょう。

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主において常に喜べ

聖書:ネヘミヤ記15-11節, フィリピの信徒への手紙447

 主の年2019年、新しい年の歩みが始まっております。この年はどのような年になるのか、人々の関心は経済の動向、また政治や社会の動向に向けられていることでしょう。そうすると、明るい見通しが立つという話、楽観的な見方は出て来ないようです。むしろ、不思議なほど長く続いた世界的な好景気が一転するとか、貿易戦争が激化するとか、難民、移民政策が内向きになり、世界中で自国の利益第一主義が支配的になる結果、利害の対立は経済戦争にとどまらなくなるのではないか、等々、心配の種が尽きない年のようです。

しかし、私たち成宗教会は、1940年の創立以来、どのような時代にも主の日に集まり、礼拝を守って参りました。この国がどの外国を敵に回して戦っていた日々も、昨日の敵が今日の友となった日々にも、変ることなく頼る者を救ってくださる主イエス・キリストによって、全地の主なる父なる神様を礼拝して来ました。ある時は互いに敵となった民族もあり、またある時は味方となった民族もいます。私たちの信頼する神さまは全世界どこに行っても一人の神さまとして崇められます。ですからこの神さまを信頼する人々は全世界に在って、同じ主キリストを頭と仰ぐ唯一の主の体の教会に結ばれているのであり、このことは真に大きな恵みであります。

この恵みのために、私たちは年の初めの主の日に、まず礼拝から一年を始めることができたのです。そして先週から成宗教会は祈りについて学びを始めました。私たちが信仰問答カテキズムによって学びました2018年12月30日の問は、「なぜわたしたちは祈るのですか」でした。そしてその答は、極めて単純明快なものです。なぜなら、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから」だから私たちは祈るのです。そして、続いて今日はカテキズム問の53です。その問は、「わたしたちが祈るとき、どのような恵みが与えられますか」というものです。つまり、祈ったら神さまから恵みが与えられるということです。だから「祈りなさい」と勧められているのですね。

今日は祈りの恵みについて教えられたいと思います。教会の幼稚園や保育園では、小さい子どもたちにお祈りを教えます。すると子どもたちは喜んでお祈りしている。そんな様子を目の当たりにしたものです。しかし、大人になるとなかなか祈りができない、という話は前回もしました。どうしてでしょうか。今日読みました旧約聖書はネヘミヤ記1章です。ネヘミヤは紀元前5世紀にペルシャのアルタクセルクセス王に仕えていたユダヤ人の指導者です。彼は戦争によって滅ぼされたユダヤ人の国から奴隷として遠くバビロンへ捕え移された人々の子孫でありました。よく言われる日系何世とか、在日何世と言う表現を使えば、ネヘミヤは在ペルシャ3世あるいは4世ぐらいのユダヤ人だったでしょう。

その彼が祖父か曽祖父の故郷エルサレムについて最近の様子を聞いた時、彼は大変なショックを受けました。あの忌まわしい敗戦と破壊から百何十年も経っているのに、今だに都エルサレムは荒れ果てて悲惨な状態にあるというのです。ネヘミヤは『座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげました。今日の聖書箇所は彼の祈りの内容です。とは言え、私たちは少し不思議に思うのではないでしょうか。ネヘミヤの先祖はバビロンに連れて来られてから、既に長い年月が経ち、もうネヘミヤはエルサレムを全く知らなかったでしょう。そして彼の家はペルシャの王侯に用いられ、高い身分にまで取り立てられて繁栄していました。なぜ彼はエルサレムの惨状にこれほどまで心を痛めたのでしょうか。断食をしてまで祈りをささげたのでしょうか。

それは彼に呼びかけがあったからなのです。秘かな呼びかけがネヘミヤの魂を揺さぶりました。普通なら、自分の先祖にかかわる遠い昔のこと、今は知っている人もいないような遠い世界と思うはずなのに、彼はそう思わなかった。大変心を痛め、悲しんだ。その痛み、その悲しみは、実に神さまからの呼びかけであったのです。神さまの秘かなご計画によってネヘミヤは呼ばれました。エルサレムのために何かの働きをするように召し出されていたのです。だから、彼は嘆き悲しんだ末に祈り始めたのでした。このように、祈りは私たちの目から見れば、自発的なものですが、神さまからの見えない秘かな呼びかけがあるのです。そして、わたしたちの祈りは、神さまからの呼びかけに応えるものなのです。

わたしたちはそれぞれ自分の計画があるでしょう。今年はあれをしたい、これをしたいと。ああなるように、こうなるようにという願いであります。しかし、神さまには神さま御自身のご計画があります。そしてそれは私たちの思いを遠くはるかに超えたご計画なのであります。イザヤ55章8節、9節。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを高く超えている。」(1153頁)

ネヘミヤは神さまの霊に導かれて、願い求めます。神さまから秘かに与えられた務めを果たすために、今まで思いもよらなかった志を願い求めたのです。このようにしてネヘミヤは廃墟の復興の先頭に立ちました。しかし、彼はそれを実際行動から始めたのではありません。彼の行動に先だったのは祈りでした。しかもその祈りは、願いではなく、懺悔から始まりました。彼は祈りました。「わたしたちはあなたに罪を犯しました。私も、わたしの父の家も罪を犯しました」と。人が祈るためには、神さまに近づかなければなりません。しかし神さまから遠く離れているわたしたちは、どのようにして神さまに近づくことができるでしょうか。先立つ祈りは懺悔の祈りです。神さまに背を向け、好き勝手な生き方をして来たことを神さまはご存じなのですから。すべてをご存じの方に悔い改めの告白を捧げることなしに、わたしたちはどうして親しく語りかけることなどできるでしょうか。

申命記30章をご覧ください。(328頁)神さまはモーセによって、次のように語られました。1-4節。「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに望み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。」

このように真剣な懺悔の祈りはみ言葉から与えられます。祈りから生まれる最初の恵みは、すなわち神への信頼であります。心から悔い改め、神さまに立ち帰るならば、神さまは豊かに赦してくださる、という信仰、これが神さまへの信頼です。

新約聖書フィリピの信徒への手紙は、獄中にいる使徒パウロによって与えられた言葉です。パウロは教会の人々に勧めます。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と。福音を伝え、教会を建設したパウロが迫害され、獄に繋がれている最中、信者たちは非常に不安でありました。悲観的になっている、これからどうなるのか、明るい見通しは何もない。心配なことばかりでくじけそうになっている。彼らの心と思いはそういう危険な状態でした。しかし、だからこそ、パウロは目の前に押し寄せて来る不安にも拘わらず、主にあって喜ぶように勧めているのです。

なぜなら、神さまが与え給う慰め、わたしたちを喜ばせ、元気づけるような霊的な慰めは、この時にこそ、特に全世界がわたしたちを絶望に陥れようとする時にこそ、力を発揮しなければならないからなのです。この時、たとえ彼らが迫害、投獄、追放、死にさえも脅かされているとしても(パウロは正にその中にいました)、その真っ只中にも、自ら喜ぶばかりでなく、他の人々をも喜ばすようふるまっているパウロ、彼がここにいます。「主において」と訳されている言葉は、「主が自分たちの側に立っておられるのだから」、すなわち「主が自分たちの味方なのだから」という意味です。主が味方なのだから、それだけで喜ぶ理由は十分なのです。

主イエス・キリストを信じて告白して、洗礼を受けて主と結ばれた者。神の子の喜びがここにあります。その喜びは、この世の喜びと比べてみれば分かります。この世の喜びはあてにならず、長持ちがせず、空しいもの。イエスさまが呪われたものとさえ仰ったものです。ルカ6章24-25節です。113上。「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」それに対して神の子の喜びは、だれも奪い去ることのできない喜びです。神が共にいてくださるから、それはいつも変らない。この喜びを、わたしたちはイエス・キリストに在って持つことになるでしょう。

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」パウロはすべてのことを「広い心」、すなわち優しさと忍耐(寛大、思いやりのあること)をもって耐えるように勧めています。この世の格言に、「狼の中では吼えなければならない」というものがあります。すなわち悪人の傲慢と鉄面皮に対しては同様な態度によって抑え込まなければならない、と。しかしパウロはこれに対して、神さまの摂理(神さまの秘かなご計画)に対する確信を主張するのです。主の御力は悪人の横柄、横暴に優り、主の慈愛は彼らの悪意に打ち勝つものではないか、と。だから、わたしたちが主の掟に従うならば、主はわたしたちを助けてくださるに違いありません。

ですから何よりも大切なことは、信仰者が神さまの深いご配慮と隠されたご計画によって守られていることを悟り、神さまの摂理に全く信頼することなのです。「主は近い」と信じる者は、神がご自分の子らに正に救いの手を差し伸べようとしておられることを知っているのです。だから、一切の思い煩いを捨てて、何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に撃ち明けることが勧められています。

しかしながら、同時に、神さまへの信頼は何よりも日々わたしたちが祈りを捧げることによって訓練されること無しには生まれるものではありません。まして、わたしたちが何かの誘惑や、不安に襲われる時にはいつでも、直ちに時を移さず祈りに訴えることを実行しましょう。祈りの時と所こそが、わたしたちにとって逃げ込むべき避難所となりますように。そして、神さまへの信頼は感謝を込めた祈りに現れます。過去を振り返り、必ず助けてくださった恵みの主を思い起こし、感謝するとき、未だ行き先の見えない明日を委ねる祈りが、そこに生れます。

そして、7節の「あらゆる人知を超える神の平和」とは何でしょうか。大きな失望の中にあっても、なお望みを抱く。また、非常な貧困の中にあっても、なお豊かさを思い描く。極端な無力の状態でも、なお圧倒されることなく、すべてのものを欠いていても、なお自分たちには何も欠けているものはないと確信する。このような思いほど、この世にあり得ない思いがあるでしょうか。しかし、ただみ言葉によって、ただ聖霊の助けによって、このようなすべての思いがわたしたちに与えられるとしたら、これこそが祈りによって与えられる恵みなのです。わたしたちが祈る時、わたしたちは神さまに近づき、親しく語り合う恵みが与えられます。主が近くにおられることの喜びは計りしれません。祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

新年最初の聖餐礼拝を感謝し、御名をほめたたえます。本日は祈りの恵みについて、み言葉を学びました。新しい年、身も心も新たにして祈りを献げます。御子の贖いによって罪を赦されたわたしたち、日毎夜毎に罪を告白して、あなたの御前に祈る時と所を与えてください。そして、み言葉に聴くことができますように。すべてのことをあなたと語り合い、この世界が与える喜びをはるかに超えた平安を、祈るわたしたちにお与えください。沢山の悩みある時代、世界のただ中に在っても、あなたの喜びがわたしの喜びとなり、あなたの力がわたしたちの力となりますように。そして罪人のために命を捨ててくださるために世に遣わされた御子イエス・キリストの愛がわたしたちの愛となりますように。

新しい年、教会の歩みが始まりました。主よ、あなたは小さな歩みを喜ばれ、小さな働きを祝して、わたしたちの群れをこれまでお導きくださいました。真に感謝です。新しい年度に、新しい教師の先生方をお迎えするために導いてくださっている連合長老会の働き、あなたの尊きご配慮を感謝します。どうか招聘されようとしておられる先生方を聖霊によって守り導いてください。ご健康とご準備が祝されますように。また、成宗教会がどうか御心に適う準備をしてお迎えすることができますように。長老会を励まし、導いてください。今日から始まりました教会学校の働き、集う方々をも祝してください。

また、教会の信徒一人一人が教会の全てを整えるために、何か奉仕に加わることを考えることができますように。それぞれが限りある体力、時間の中で、喜んで捧げる知恵と力とをあなたからいただくことができますように。本日行われます長老会議をどうか御手の内にお導きください。特に先生方をお迎えするための物理的な準備をも進めて行くことができますように。また、教会記念誌の編集の道筋が守られていることを感謝します。御心であれば3月中に印刷発行を果たすことができますように。今、試練の中にある者、病床にある者を助け、また家族、社会を支える人々の働きを祝してください。

すべてのことを感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。