主は近くにおられる

8月の説教

説教箇所 フィリピの信徒への手紙4章1-7

説教者 成宗教会牧師 藤野雄大

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようにしなさい。主はすぐ近くにおられます。」(5節)

主にある兄弟姉妹の皆様、今日もまた、共に主の御言葉を聞きましょう。

本日の礼拝では、「フィリピの信徒への手紙」第4章の箇所が与えられています。これは、使徒パウロがフィリピという今日のギリシャにあった町の信徒に対して送った手紙です。

また「フィリピの信徒への手紙」は、別名「喜びの手紙」と呼ばれることがあります。それは、この手紙の中で、パウロが、繰り返し「喜び」という言葉を用いているからです。今日の聖書箇所である4章は、そのフィリピの信徒への手紙の1番最後の章になりますが、その3節には、次のように記されております。「だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。」さらに4節にも、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と記されております。

このように喜びということが強調されている手紙ではありますが、それはなぜでしょうか。それほどフィリピの信徒たちが、喜んでいたからでしょうか。喜びに満ちた信仰生活を送っていたからでしょうか。残念ながら、多くの人は、そうではないと考えられています。喜びなさいとパウロが命じるのは、実際には、フィリピの教会が、喜びとは、ほど遠い状態であったからでした。

フィリピの教会から喜びを奪っていたものとは、教会内にあった不和や対立であったと考えられています。それは、今日の聖書箇所にも表れています。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。」(2節)

ここでは、エボディアとシンティケという二人の人の名前が登場します。パウロの手紙には、しばしば実在の人物の名前が登場します。それは、パウロが、ただ深遠な神学書を書くことを目的にしていたのではなく、現実の教会のために、つまり実在する教会とそこに集う人々を想いながら、手紙を書き送ったからです。そのため、このエボディアとシンティケというのも実在の人物であったと考えられています。おそらくフィリピの教会に属する人で、フィリピの教会に対して、とくに重要な働きを担っていた人だったと考えられます。

興味深いことに、この二人の名前は、ともに女性の名前だとされています。今日でも、教会は、男性よりも女性の数が多いところです。それは、日本の教会ばかりではなく、世界的傾向といってもよいと思います。そのため、教会の実際の働きには、女性の力が必要不可欠です。それは、この成宗教会もそうでありますし、聖書の時代の教会も同様であったわけです。

おそらく、エボディアもシンティケもフィリピの教会を献身的に支えていた女性であったと考えられます。そして理由は、はっきりとは記されていませんが、この時、二人の間には、何らかの行き違いや対立が生じていました。些細な事が原因であったかもしれませんし、あるいは重要な信仰上、教会運営の意見の対立であったかもしれません。一つ確かなことは、二人の対立の結果、フィリピの教会から喜びが失われ、悲しみが生じており、またそれが遠方にいたパウロの耳にも達していたということでした。

これは教会の現実の姿を伝えていると言えます。悲しむべきことに、教会にもしばしば対立が生じることがあります。伝道や教会の方針を巡る意見の対立を巡って、あるいは、もっと個人的な問題、たとえば気の合う、合わないと言ったことでも対立が生じることがあります。このような対立が生じるのは、究極的には、私たちが、主イエスを信じ、主イエスによって罪許されても、なお罪を犯しうる存在であるからです。人間の弱さであり、また愚かさであると言えましょう。残念ながら、それはどのような教会でも起きうることです。そして、この時のフィリピの教会でも、まさにそのような対立が生じていたのでした。

それでは、そのような教会に使徒パウロはなんと語ったのでしょうか。一体、どうすれば、対立がある教会に、喜びが再び回復されると教えているのでしょうか。それは、先に引用しました2節の「主において同じ思いを抱きなさい」というパウロの言葉に表れています。

そして、続く3節以下で、当事者のエボディアとシンティケだけでなく、他の人々にも、この二人のことを支えてあげるように言います。

つまり、パウロは、二人の問題を他人事として無関心でいるのではなく、二人のために祈り、理解してくださいと願っています。それはなぜかと言うと、二人とも、他の協力者とともに、福音のためにパウロとともに戦っていたからだとパウロは言います。エボディアもシンティケも、今は対立していますが、ともに主イエスを熱心に信じる人でした。そして、福音伝道のために力を惜しまず働いていた人だったのです。このことを思い出させた後、パウロは次のように語りました。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」(4節)

キリスト者の喜びというのは、主イエス・キリストにおいて、もたらされるものであるとパウロは語ります。ここにキリスト者の喜びの根本があります。教会は、主イエスを離れて、存在することはありません。また教会で語られる喜びというのは、世間的、この世的な喜びではありません。教会の喜びとは、常に主イエスから生じるものです。この世的、人間的な喜びというのは、やがては消え去るものですが、主における喜びというのは、変わることがないものです。

エボディアもシンティケも、パウロの他の協力者たちも、またフィリピの信徒たちも、主イエスを知り、主イエスを信じることで救われました。ここに、すべてのキリスト者の一致の基礎がありますし、また喜びがあります。

パウロは、この喜びと教会の一致の基礎を今一度強調いたします。「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことにも思い煩うのはやめなさい。」(5節)

パウロは言います。「主はすぐ近くにおられます」と。そして、そうだからこそ広い心で、互いを受け入れ合い、あれこれと思い煩うことはやめさない。パウロは、そのように勧めます。

ここでパウロが言う「主がすぐ近くにおられる」というのが、空間的に近いということか、時間的に近いということかは、はっきりとは分かりません。主は、わたしたちの側近くにおられるのか、あるいは主は、まもなく私たちの所にやってこられるという意味なのかは判然とはしません。

結論的に言えば、おそらく両方の意味が込められているのでしょう。主が近くにおられるということは、パウロの差し迫った終末的希望への信仰と密接に結びついているからです。

古代教会の有名な説教者であったクリュソストムスは、今日の聖書箇所について、「『主がすぐ近くにおられる』ここに慰めがある。」と語りました。

私たちには、思い煩いがあります。思い通りにはいかない現実があります。心配事があり、悩みがあります。それは、一人一人の信仰生活にもありますし、また教会の中にもあります。しかし、パウロが語ったように、主は近くにおられます。これこそが、信仰者にとって唯一にして、究極の慰めです。

「主は近くにおられる」ということを礼拝の中で、もっとも端的に表しているものが、聖餐式であると言えます。聖餐式を通して、主の御体と御血に与る時、私たちは、「主が近くにおられる」という恵みをはっきりと味わい知ることになるからです。そして、主が親しく臨在される聖餐式は、同時に教会が主に在って一つであることを示します。教会の一致の基礎でもあるのです。

この聖餐式の直前に「平和の挨拶」というものを行う教会があります。これは、聖餐式の前に、互いに「主の平和がありますように」と挨拶を交わすことです。自らの罪を悔い改め、お互いに対立があれば、まず仲直りしてから主の聖餐に与るというものです。主において一つである教会において、互いの罪を赦しあい、主において喜び合うことの大切さを象徴したものと言えます。

先ほども申しましたが、教会では、さまざまな対立が起こり得ます。フィリピの教会がそうであったように、日本の教会でも起こり得ます。小さな群れの中であっても、さまざまないさかいや対立、意見の相違は見られることです。しかし、使徒パウロは、そのような私たちに向けてこう語ります。人間的な目で見るのをやめなさい。この世的なものを求めるのはやめなさい。そうではなく、ただ主において喜びなさい。いつも喜んでいなさい。そして、主に在って一つとなりなさい。なぜなら、主はすぐ近くにおられるからですと。

この御言葉を心に留めて、今日もまた、主の聖餐に与りましょう。そして、そこからもたらされる喜びに生きるものとなりましょう。

お祈りをいたします。

主において常に喜べ

聖書:ネヘミヤ記15-11節, フィリピの信徒への手紙447

 主の年2019年、新しい年の歩みが始まっております。この年はどのような年になるのか、人々の関心は経済の動向、また政治や社会の動向に向けられていることでしょう。そうすると、明るい見通しが立つという話、楽観的な見方は出て来ないようです。むしろ、不思議なほど長く続いた世界的な好景気が一転するとか、貿易戦争が激化するとか、難民、移民政策が内向きになり、世界中で自国の利益第一主義が支配的になる結果、利害の対立は経済戦争にとどまらなくなるのではないか、等々、心配の種が尽きない年のようです。

しかし、私たち成宗教会は、1940年の創立以来、どのような時代にも主の日に集まり、礼拝を守って参りました。この国がどの外国を敵に回して戦っていた日々も、昨日の敵が今日の友となった日々にも、変ることなく頼る者を救ってくださる主イエス・キリストによって、全地の主なる父なる神様を礼拝して来ました。ある時は互いに敵となった民族もあり、またある時は味方となった民族もいます。私たちの信頼する神さまは全世界どこに行っても一人の神さまとして崇められます。ですからこの神さまを信頼する人々は全世界に在って、同じ主キリストを頭と仰ぐ唯一の主の体の教会に結ばれているのであり、このことは真に大きな恵みであります。

この恵みのために、私たちは年の初めの主の日に、まず礼拝から一年を始めることができたのです。そして先週から成宗教会は祈りについて学びを始めました。私たちが信仰問答カテキズムによって学びました2018年12月30日の問は、「なぜわたしたちは祈るのですか」でした。そしてその答は、極めて単純明快なものです。なぜなら、「神さまがわたしたちに祈ることを求めておられるから」だから私たちは祈るのです。そして、続いて今日はカテキズム問の53です。その問は、「わたしたちが祈るとき、どのような恵みが与えられますか」というものです。つまり、祈ったら神さまから恵みが与えられるということです。だから「祈りなさい」と勧められているのですね。

今日は祈りの恵みについて教えられたいと思います。教会の幼稚園や保育園では、小さい子どもたちにお祈りを教えます。すると子どもたちは喜んでお祈りしている。そんな様子を目の当たりにしたものです。しかし、大人になるとなかなか祈りができない、という話は前回もしました。どうしてでしょうか。今日読みました旧約聖書はネヘミヤ記1章です。ネヘミヤは紀元前5世紀にペルシャのアルタクセルクセス王に仕えていたユダヤ人の指導者です。彼は戦争によって滅ぼされたユダヤ人の国から奴隷として遠くバビロンへ捕え移された人々の子孫でありました。よく言われる日系何世とか、在日何世と言う表現を使えば、ネヘミヤは在ペルシャ3世あるいは4世ぐらいのユダヤ人だったでしょう。

その彼が祖父か曽祖父の故郷エルサレムについて最近の様子を聞いた時、彼は大変なショックを受けました。あの忌まわしい敗戦と破壊から百何十年も経っているのに、今だに都エルサレムは荒れ果てて悲惨な状態にあるというのです。ネヘミヤは『座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげました。今日の聖書箇所は彼の祈りの内容です。とは言え、私たちは少し不思議に思うのではないでしょうか。ネヘミヤの先祖はバビロンに連れて来られてから、既に長い年月が経ち、もうネヘミヤはエルサレムを全く知らなかったでしょう。そして彼の家はペルシャの王侯に用いられ、高い身分にまで取り立てられて繁栄していました。なぜ彼はエルサレムの惨状にこれほどまで心を痛めたのでしょうか。断食をしてまで祈りをささげたのでしょうか。

それは彼に呼びかけがあったからなのです。秘かな呼びかけがネヘミヤの魂を揺さぶりました。普通なら、自分の先祖にかかわる遠い昔のこと、今は知っている人もいないような遠い世界と思うはずなのに、彼はそう思わなかった。大変心を痛め、悲しんだ。その痛み、その悲しみは、実に神さまからの呼びかけであったのです。神さまの秘かなご計画によってネヘミヤは呼ばれました。エルサレムのために何かの働きをするように召し出されていたのです。だから、彼は嘆き悲しんだ末に祈り始めたのでした。このように、祈りは私たちの目から見れば、自発的なものですが、神さまからの見えない秘かな呼びかけがあるのです。そして、わたしたちの祈りは、神さまからの呼びかけに応えるものなのです。

わたしたちはそれぞれ自分の計画があるでしょう。今年はあれをしたい、これをしたいと。ああなるように、こうなるようにという願いであります。しかし、神さまには神さま御自身のご計画があります。そしてそれは私たちの思いを遠くはるかに超えたご計画なのであります。イザヤ55章8節、9節。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを高く超えている。」(1153頁)

ネヘミヤは神さまの霊に導かれて、願い求めます。神さまから秘かに与えられた務めを果たすために、今まで思いもよらなかった志を願い求めたのです。このようにしてネヘミヤは廃墟の復興の先頭に立ちました。しかし、彼はそれを実際行動から始めたのではありません。彼の行動に先だったのは祈りでした。しかもその祈りは、願いではなく、懺悔から始まりました。彼は祈りました。「わたしたちはあなたに罪を犯しました。私も、わたしの父の家も罪を犯しました」と。人が祈るためには、神さまに近づかなければなりません。しかし神さまから遠く離れているわたしたちは、どのようにして神さまに近づくことができるでしょうか。先立つ祈りは懺悔の祈りです。神さまに背を向け、好き勝手な生き方をして来たことを神さまはご存じなのですから。すべてをご存じの方に悔い改めの告白を捧げることなしに、わたしたちはどうして親しく語りかけることなどできるでしょうか。

申命記30章をご覧ください。(328頁)神さまはモーセによって、次のように語られました。1-4節。「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、これらのことがすべてあなたに望み、あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。」

このように真剣な懺悔の祈りはみ言葉から与えられます。祈りから生まれる最初の恵みは、すなわち神への信頼であります。心から悔い改め、神さまに立ち帰るならば、神さまは豊かに赦してくださる、という信仰、これが神さまへの信頼です。

新約聖書フィリピの信徒への手紙は、獄中にいる使徒パウロによって与えられた言葉です。パウロは教会の人々に勧めます。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」と。福音を伝え、教会を建設したパウロが迫害され、獄に繋がれている最中、信者たちは非常に不安でありました。悲観的になっている、これからどうなるのか、明るい見通しは何もない。心配なことばかりでくじけそうになっている。彼らの心と思いはそういう危険な状態でした。しかし、だからこそ、パウロは目の前に押し寄せて来る不安にも拘わらず、主にあって喜ぶように勧めているのです。

なぜなら、神さまが与え給う慰め、わたしたちを喜ばせ、元気づけるような霊的な慰めは、この時にこそ、特に全世界がわたしたちを絶望に陥れようとする時にこそ、力を発揮しなければならないからなのです。この時、たとえ彼らが迫害、投獄、追放、死にさえも脅かされているとしても(パウロは正にその中にいました)、その真っ只中にも、自ら喜ぶばかりでなく、他の人々をも喜ばすようふるまっているパウロ、彼がここにいます。「主において」と訳されている言葉は、「主が自分たちの側に立っておられるのだから」、すなわち「主が自分たちの味方なのだから」という意味です。主が味方なのだから、それだけで喜ぶ理由は十分なのです。

主イエス・キリストを信じて告白して、洗礼を受けて主と結ばれた者。神の子の喜びがここにあります。その喜びは、この世の喜びと比べてみれば分かります。この世の喜びはあてにならず、長持ちがせず、空しいもの。イエスさまが呪われたものとさえ仰ったものです。ルカ6章24-25節です。113上。「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる。」それに対して神の子の喜びは、だれも奪い去ることのできない喜びです。神が共にいてくださるから、それはいつも変らない。この喜びを、わたしたちはイエス・キリストに在って持つことになるでしょう。

「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。」パウロはすべてのことを「広い心」、すなわち優しさと忍耐(寛大、思いやりのあること)をもって耐えるように勧めています。この世の格言に、「狼の中では吼えなければならない」というものがあります。すなわち悪人の傲慢と鉄面皮に対しては同様な態度によって抑え込まなければならない、と。しかしパウロはこれに対して、神さまの摂理(神さまの秘かなご計画)に対する確信を主張するのです。主の御力は悪人の横柄、横暴に優り、主の慈愛は彼らの悪意に打ち勝つものではないか、と。だから、わたしたちが主の掟に従うならば、主はわたしたちを助けてくださるに違いありません。

ですから何よりも大切なことは、信仰者が神さまの深いご配慮と隠されたご計画によって守られていることを悟り、神さまの摂理に全く信頼することなのです。「主は近い」と信じる者は、神がご自分の子らに正に救いの手を差し伸べようとしておられることを知っているのです。だから、一切の思い煩いを捨てて、何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に撃ち明けることが勧められています。

しかしながら、同時に、神さまへの信頼は何よりも日々わたしたちが祈りを捧げることによって訓練されること無しには生まれるものではありません。まして、わたしたちが何かの誘惑や、不安に襲われる時にはいつでも、直ちに時を移さず祈りに訴えることを実行しましょう。祈りの時と所こそが、わたしたちにとって逃げ込むべき避難所となりますように。そして、神さまへの信頼は感謝を込めた祈りに現れます。過去を振り返り、必ず助けてくださった恵みの主を思い起こし、感謝するとき、未だ行き先の見えない明日を委ねる祈りが、そこに生れます。

そして、7節の「あらゆる人知を超える神の平和」とは何でしょうか。大きな失望の中にあっても、なお望みを抱く。また、非常な貧困の中にあっても、なお豊かさを思い描く。極端な無力の状態でも、なお圧倒されることなく、すべてのものを欠いていても、なお自分たちには何も欠けているものはないと確信する。このような思いほど、この世にあり得ない思いがあるでしょうか。しかし、ただみ言葉によって、ただ聖霊の助けによって、このようなすべての思いがわたしたちに与えられるとしたら、これこそが祈りによって与えられる恵みなのです。わたしたちが祈る時、わたしたちは神さまに近づき、親しく語り合う恵みが与えられます。主が近くにおられることの喜びは計りしれません。祈ります。

 

教会の主、イエス・キリストの父なる神さま

新年最初の聖餐礼拝を感謝し、御名をほめたたえます。本日は祈りの恵みについて、み言葉を学びました。新しい年、身も心も新たにして祈りを献げます。御子の贖いによって罪を赦されたわたしたち、日毎夜毎に罪を告白して、あなたの御前に祈る時と所を与えてください。そして、み言葉に聴くことができますように。すべてのことをあなたと語り合い、この世界が与える喜びをはるかに超えた平安を、祈るわたしたちにお与えください。沢山の悩みある時代、世界のただ中に在っても、あなたの喜びがわたしの喜びとなり、あなたの力がわたしたちの力となりますように。そして罪人のために命を捨ててくださるために世に遣わされた御子イエス・キリストの愛がわたしたちの愛となりますように。

新しい年、教会の歩みが始まりました。主よ、あなたは小さな歩みを喜ばれ、小さな働きを祝して、わたしたちの群れをこれまでお導きくださいました。真に感謝です。新しい年度に、新しい教師の先生方をお迎えするために導いてくださっている連合長老会の働き、あなたの尊きご配慮を感謝します。どうか招聘されようとしておられる先生方を聖霊によって守り導いてください。ご健康とご準備が祝されますように。また、成宗教会がどうか御心に適う準備をしてお迎えすることができますように。長老会を励まし、導いてください。今日から始まりました教会学校の働き、集う方々をも祝してください。

また、教会の信徒一人一人が教会の全てを整えるために、何か奉仕に加わることを考えることができますように。それぞれが限りある体力、時間の中で、喜んで捧げる知恵と力とをあなたからいただくことができますように。本日行われます長老会議をどうか御手の内にお導きください。特に先生方をお迎えするための物理的な準備をも進めて行くことができますように。また、教会記念誌の編集の道筋が守られていることを感謝します。御心であれば3月中に印刷発行を果たすことができますように。今、試練の中にある者、病床にある者を助け、また家族、社会を支える人々の働きを祝してください。

すべてのことを感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。