貧しい人に良い知らせを

聖書:イザヤ61章1-4節, ヘブライ人への手紙4章14-16節

 先週11月19日の主の日には、今村裕三先生ご夫妻がカンボジアから日本に一時帰国されている機会に、4年ぶりに成宗教会を訪れて下さり、礼拝説教と宣教報告会のご奉仕をいただきました。真に感謝でした。

この日、出席された方々はいろいろなことに心打たれたことと思いますが、私には、この教会の牧師として、責任者として特に印象に残ったことが一つあります。それは今村裕三先生が、説教の中で「日本の教会について心配していることは、今、伝道について内向きになって来ているように感じられること」と仰ったことです。このお言葉を聞いた直後は、私は「それは致し方ないことではないか。これだけ高齢化、少子化が進んでいる中で、私たちはそれぞれの教会がどうしたら次世代に教会を残していくことができるか、という問題に集中しない訳には行かないのだから」と感じていました。

しかし、今村先生は使徒言行録の中で福音がどのように伝えられて行ったか、を説き明かされました。新約聖書の時代にも国々がローマ帝国の支配を受け、平和な時には交易が進み、戦乱の時には国を越えて人々が移り住んでいくことが当然であったのでした。主イエスを迫害して十字架にかけた人々は、主のご復活後に生まれた教会をも迫害しました。教会の人々は故郷を追われ、散り散りになって行きましたが。教会は人々と共に消えてなくなってしまったのではありませんでした。それどころか、散って行った先々で福音を告げ知らせたというのです。真にありえない不思議です。さらに、主は最も強力な迫害者のサウロを取って、最も強力な福音伝道者、使徒パウロに生まれ変わらせました。このように真にありえない奇跡が起こったのです。

私たちが常々思うことは、明日をも知れない時代を生きているということです。ずーっとここに住んで、ずーっと同じように生きて行こうと思っても何の保証もない。それは昔も今も変わりなくそうなのです。しかし、それにも拘わらず、主イエス・キリストの福音は宣べ伝えられて来ました。なぜなら、それは聖霊の神の働きそのものだからです。今村先生ご夫妻が所属する宣教団体の母体はイギリスの宣教師ハドソン・テーラーという人によって設立されました。イエス・キリストの福音を地の果てまでも伝えよ、という宣教命令は19世紀にも、人々の心を神の愛で満たし、動かして、想像を絶する困難を乗り越えさせ、福音は中国をはじめとするアジア諸国に届けられたのです。

想像を絶する困難というのは、パウロも手紙に書いていることですが、嵐や戦乱、盗賊の危険に遭う旅行、病気、そして多くの迫害で、命を落とす人々が後を絶たないことでした。そういう日々の危険の中で、それでも人々は福音を伝えようとするなら、これは聖霊の働き以外の何ものでもありません。使徒パウロは、そのことを「神の愛が私たちを駆り立てている」(Ⅱコリント5章14節)と証ししています。なぜなら、私たちが生きていて様々な喜びがあるとしても、神の愛を知ることよりも大きな喜びはないからです。主イエスは聖書の中で私たちに放蕩息子の例え話を聞かせてくださいました。天の父は、私たちが神に背を向けた生活を悔い改めて、御自分のもとに立ち帰る時を今か、今かと待っておられる。父の愛する子として、神のかたちに造られたものとしての命を回復させるために待っていてくださることを教えられました。

それだけではありません。天の父は私たちの中のもう一つの息子にも限りない忍耐を示しておられます。それは自分では父の傍にいて正しく生きている親孝行息子と思い込んでいるけれども、実際は父の真実の心を知らないもう一人の親不孝な子であります。罪の生活から悔い改めて立ち帰る兄弟に怒りを持つ、あるいは妬みを持つからです。このことは、全く天の父を悲しませる以外の何ものでもありません。しかしこのようにして、わたしたちが神に背いているにもかかわらず、神はなお私たちを愛していてくださる。この天の父の御心こそが、神の愛なのです。

では、神の愛はどのようにして私たちに明らかになったのでしょうか。それは主イエス・キリストを私たちの世界にお遣わしになられたことによって明らかになりました。来週からクリスマスを迎える待降節が始まります。キリストは神の子でありながら、小さな幼子として世に来られ、私たちと同じ人間として地上の生涯を送られました。しかし、神はその愛を世に知らせるために、世に遣わされたキリストに、二つの務めをお与えになりました。その一つは、神の御心を教えることです。キリストは、私たちには見ることも聞くこともできない天の父の御心を教えるために、二千年前、私たちの世界に見える姿で現れ、私たちが聴くことのできる言葉で語ってくださいました。主は言われました。「わたしを見た者は、父を見たのだ」と(ヨハネ14:9)。また言われました。「わたしが父のうちにおり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい」と(ヨハネ14:11)。

そして、キリストが世に来られた第二の目的は、今日読んでいただいたヘブライ人への手紙の御言葉です。4章14節にこう書かれています。「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。」主イエスは、ここで大祭司と呼ばれています。祭司の務めは神と人との間に立って執り成す務めであります。

神はキリストに二つの務めを与え給うたと申しました。それは、すなわち教える務めと執り成す務めです。この二つの務めは、どちらも私たちを天の父に近づけるためなのです。つまり、キリストはまず私たちに救いの教えを与え、御自分に従って(信じて、信頼してということと同じです)来るように招いておられるのです。あなたがキリストに従う者となるならば、そのとき初めてキリストは祭司として執り成す者として、神とあなたの間に立ってくださるのですから。

神の御前に立つということを、わたしたちは、また世の人々はどれだけ考えることがあるでしょうか。神は全知全能の神として、私たちのすべてを知っておられる、ということを真面目に考えるならば、私たちの誰もが恐れずにはいられないでしょう。旧約聖書でも預言者イザヤは神の栄光を見た時、次のように告白しております。イザヤ6:5(1069下)「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇のもの。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た。」しかし、私たちのために神の御前に立って執り成しをしてくださる方がおられる。イエス・キリストがその方であります。大祭司としてのキリストの務めを信頼することほど、幸いなことはありません。

聖書には、イスラエルの民の中で祭司の務めを果たすレビ族のことが書かれています。彼らは私たちと同じ人間に過ぎませんが、しかしレビ族の中から人が立てられ、祭司の務めに当たります。祭司は人間として、神と人の間に立ち、人々のために神に祈りを捧げました。ですから祭司は人間であることが重要でありました。そのためにも、神は御子を人間として生まれさせ、キリストは私たちと同じ肉体の姿、人間の性質をお持ちになられたのです。それはすべて、私たちのために取り成しの務めを果たされるためなのです。

キリストはこのようにわたしたちと同じ体のご性質を持たれた真の人であります。しかし同時に神の子であられるということ。これは、人間として執り成してくださると同時に神の力を持って執り成してくださるということなのです。私たちはこのことを真剣に受け止めなければなりません。ただの人間の執り成しに過ぎないとするならば、その執り成しはどのような力があるでしょうか。しかし一方、神の御子が執り成してくださるならば、私たちの全存在の一切を引き受けて救うために、ただ一度だけ十字架にかかり、罪の犠牲としてその命を捧げてくださったということなのです。その働きは絶大なものです。

この事を信じるか、信じないか。この信仰が改めて問われているのです。信じて洗礼を受けた者たちは、すでに公に信仰を言い表しました。洗礼は、一度限りの主の十字架の死と復活に対する、私たち一人一人のただ一度限りの応答なのです。ですから、本日のヘブライ人の手紙は私たちに呼びかけます。既に公に信仰を表したのならば、その信仰をしっかり保とうではありませんか!と。神の愛が私たちに迫って来た。私たちはその愛に応えた。それならば、何よりも大切なのは、私たちが神の愛を確信して生きることです。

神の子イエスは世に来て大祭司となってくださいました。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」神の栄光を表すキリストの御前に、私たちは恐れを抱くしかないものでありますが、真に感謝なことに、福音を信じる私たちは罪赦されて神の子とされ、キリストの兄弟とされました。キリストはその恵みを私たちに与えるために、私たちの弱さをもって試練に遭ってくださったのです。わたしたちの弱さに共感をもってくださることが目的でありました。ヘブライ人への手紙2:17に次のように言われた通りです。「それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての天で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。」

ここで言われる弱さとは、イザヤ書61章1節に言われているあらゆる貧しさを表します。すなわち、貧困や外的な悲惨だけではなく、それらと共に、恐れ、悲しみ、死の恐怖、その他の心の諸々の動きを指しています。貧困、病気、その他の、私たちの外側にあるものはそれ自体が罪ではありません。しかし罪に近づく弱さは、人の心に湧き起こる様々な動きであります。人間はその弱さのゆえに、そうした心の動きに捕えられ支配されてしまうのです。キリストは、私たちの肉も心の動きもご自分の身につけ、その経験自体から教えられて、悩む者を助けてくださいました。しかし、このような手ほどきが御子に必要だったのではないのです。そうではなくて、私たちの救いのための御子のご配慮を、私たちは他の方法では理解することができないからなのです。

このように、キリストは人間の弱さを引き受けられた方です。進んでそれを引き受け、それらと戦おうとされたのです。それは単に私たちのために弱さに勝つためだけではない。私たちが自分の弱さを体験するときいつも、主が私たちの傍におられることを確信するためであります。ですから、宗教改革者も私たちに勧めます。「私たちは肉の弱さの元で苦しみあえぐときいつも、神の御子が同じ苦しみを経験し、感得されたのだということを覚えよう。御子がそうされたのは、その力と権能によって私たちを立ち上がらせ、そうして苦しみに私たちが押しつぶされないためである」と。16節。

「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」このように神はイエス・キリストを執り成す者としてお立てになり、この方の名によって御許に近づく者を招いておられるのです。私たちに求められていることはただ一つ。恐れず神に近づきましょう。この方の執り成しによって神の愛は明らかにされたのですから大祭司イエス・キリストの御名によって神に祈りましょう。必ず私たちに救いの約束を実現してくださる、という大きな確信、全き信頼をもって。神は天の御座に、御子イエス・キリストによって新たな旗印を掲げてくださいました。それは、私たちに対する恵み、父なる神の愛という旗印なのです。

最後に「時宜に適った助け」とは何かについて申し述べます。それは、「私たちの救いに必要なすべてのことを得ようとするならば」という意味なのです。「時宜にかなった助け」とは、神がわたしたちを招いておられる恵みの時のことですから、「いつの日か」とか「そのうちに」とかいうことではなく、正に今、「今日」のことです。「今日、福音を聞いたなら、今日、恵みの神に近づきなさい」とキリストは招いておられます。祈ります。

 

恵み深き天の父なる神さま

終末主日の礼拝を感謝し、尊き御名を賛美いたします。あなたは御子イエス・キリストを地上に遣わして、御自身の御旨をお知らせくださり、私たちが悔い改めて神の子とされる救いの道を開いてくださいました。

10月に続き、11月も行事に恵まれたことを感謝します。私たちは小さな群れですが、あなたは私たちをお用いくださり、福音の恵みを世に表してくださいました。先週の礼拝において、あなたの大きな働きを証ししてくださった今村先生の派遣を感謝いたします。どうか先生ご夫妻が健康を与えられ、善き働きが続けられるように道を整えてください。

今日はクリスマスの準備を始め、来週から待降節を迎えます。どうか心を一つにして準備をなし、2017年のクリスマスを迎えることができますように。何よりも私たちの心をあなたに向けて清め、悔い改めと感謝で満たしてください。私たちが謙って主の御姿を仰ぎ望み、ただ主の救いの恵みによってのみ、生き、福音を世に伝える者とされますように。

また、この教会のうちに、連合長老会、全国全世界の教会のうちに、主の福音に聞き悔い改めて主に従う者を起こし、キリストの命に結んでくださいますように祈ります。来週は成宗教会の長老会議が開かれます。この教会に進むべき道を示し、また教会を建てるために働く者を与えてください。いろいろなご事情で教会に来られない方々を、その働く場で、また休む場で、お恵みください。若い方々を祝し進むべき道を与えてください。ご病気や試練に遭っている兄弟姉妹やそのご家族を憐れみ、その困難から救い出してください。また、今日の御言葉に従い、私たち自身、あなたの恵みを確信して恐れず大胆に祈る者となり、多くの人々の救いのために執り成す務めを担う者となりますように。あなたの広い御心、深い愛の御旨を信じて、すべてのことを御手に委ねます。

この感謝と願い、尊き主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。