聖書:詩編139篇1-10節, ペトロの手紙一 3章18-19節
6月を迎えました。わたしたち、それぞれの生活の中から、呼び集められこうして主の日の礼拝を捧げることが許され、真に感謝です。わたしたちは小さな群れといつも言うのですが、礼拝に出席できるわたしたちの内に家族があり、いろいろな出来事があります。結婚式という人生の一大行事を祝う一方、地上から去って行く家族を見送るという送別の儀式もあります。人生の初めから終わりまで、神様の祝福の許にしっかりと歩みたいと切に願います。
教会にわたしたちが集められているのは、この目的のためです。ここに恵みがあり、祝福がある。ここに救いがあるから、感謝がある。わたしたちを集められているのは、恵み、祝福、救い、感謝をわたしたちに証しさせてくださる神様がおられるからです。わたしたちの地上の命は、数十年です。よほど長命な人でも120年も生きることはほとんど期待できません。けれども教会は二千年も続いています。この世界が滅びる時が来るまで、地上の教会は世界に建ち続けるでしょう。教会はキリストが建ててくださったからです。教会とは、実は目に見える建物のことではありません。キリストに呼び集められた人々の群れのこと。つまり、わたしたちも集められていますから教会です。ただし、自分でここに来たのだけれども、本当は違うと知っているなら。自分でここに来たのだけれども、本当はイエスさまが今日もわたしを呼んでくださったのだと信じるならば、わたしたちも教会なのです。
ですから、わたしたちは教会に呼び集めてくださった方を知りたいと思います。招集者であるイエス・キリストを、キリストが説き明かしてくださった天の父を聖霊の神の助けによって、理解することができますように。理解して喜びに溢れますように。
さて、わたしたちはカテキズム(信仰問答)によって使徒信条を学んでいます。使徒信条は教会が代々にわたって告白して来た信仰の内容であります。わたしたちは先週、イエス・キリストが十字架に付けられたという告白を学びました。主は十字架の苦難を御自分の務めとして受けられたのです。その務めとは、わたしたちが罪のために呪われたその呪いを、わたしたちに代わって引き受けられること。そうすることで、今度は御自身の持っておられる祝福をわたしたちにお与えになることでした。
人間と人間との間で行うトレード、取引、交換では、考えられません。人間と人間との間では必ず、良いものと良いものとを交換します。お互いに損がないように、得するためです。ところが主は御自分の持つ最も良いものを、人間の持つ最も悪いものと取り換えてくださった。これこそ、神の御心。これこそ、神の業なのです。
そして、本日は「十字架につけられ」の次に来る「死んで葬られ、よみにくだり」とはどういうことか、について考えましょう。イエス・キリストは十字架の苦難を負われて、その結果、本当に死んでしまわれました。植物学者の牧野富太郎という人は長命でしたが、90代の時亡くなったので、家の者が集まって葬儀の相談をしていると、死んだと思われていた本人が、「世間が騒がしいようだねえ」と言って起きて来たという話がありました。しかし、イエスさまの場合は、決して仮に一時的に死んだとかいうことではなく、本当に、わたしたちが経験する死を御自身で経験されたのです。
イエスさまの十字架の死について記録している四つの福音書には、アリマタヤのヨセフというエルサレムの有力な議員のことが書かれています。彼は、イエスさまが十字架で息を引き取られた後、出て来てイエスさまのご遺体を引き取り、亜麻布で包み、新しい自分の墓に納めたということです。さて、それでは「陰府にくだり」とはどういうことでしょうか。当時の聖書の時代の人々の考えを表しています。まず、天には神様が住んでおられます。次に人間は生きている間は地上に住んでいますが、死んだ人は陰府の国に行くのだという考えであります。
陰府の国は、死者が陰のように無為に不活発に過ごすところです。しかし、ルカの福音書16章19節以下では、陰府はもっと大変なところとして描かれています。それは乞食のラザロと金持ちの物語です。ラザロは乞食でできものだらけの一生を終えて天国に迎えられたのに対して、金持ちは贅沢三昧の一生を終えて、陰府に落ちて苦しみ苛まされるという物語です。仏教でもそうではないかと思うのですが、地獄の恐ろしさを描き出す目的は、地上の生涯を悪から離れ善を行うように勧めるためであるかもしれません。しかし、自分で考えても、自分は陰府に落ちないという自信と確信を持つことができるでしょうか。親しい人々が地上を去って行き、見送った後はどうしているのだろうか、と思うことも多いと思いますが、何しろ、地上に生きている者には決して見えない世界であります。
そこで、教会は告白してきました。主イエス・キリストは陰府にくだり給うたと。キリストは、わたしたち人間と全く同じ死を経験されました。そして人間が行かなければならなかった死後の世界まで降りられたということなのです。わたしたちは皆罪あるものであります。そのためにわたしたちが自分自分で引き受けなければならない死を御自身で経験されました。その目的は何でしょうか。
それは、イエス・キリストの救いの恵みが届かない所はどこにもないということです。天にも地上にも、そして死者の住むという陰府にも、キリストによって神の御支配がもたらされたということなのです。ペトロの手紙一3章18節を読みます。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。」
このことは、一度本当に死んだイエスさまが、その全人格において復活され、聖霊として今も生きて働き続けてくださることを意味します。わたしたちは聖霊降臨日の礼拝を守りました。ご復活のキリストはその御体をもって昇天されましたが、今も聖霊によってわたしたちを励まし、慰め、働き続けておられます。しかし他方、主は、わたしたちの生きている地上だけでなく、死者が住むという陰府にまで降ってくださいました。そして、そこで行き場を失い、神様から最も離れたところでさ迷い続けている人々を憐れみ、その魂にまで伝道されたのでした。わたしたちは、このことから教えられるのです。イエスさまは陰府にくだってくださるほど、どこまでもわたしたちを救おうと決めておられるのだと。
ですから、十字架に死んで葬られ、陰府に降られたイエスさまを、教会は真に神の子と告白するのです。このようなことは人間にできることではなく、神の子であったからこそ、人間のために、しかも罪ある人間のために死なれたのではないでしょうか。「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」この聖書箇所はペトロの手紙の中でも最も解釈が難しいところで、たくさんの説が唱えられた所であります。まず一つの解釈は、18~22節は洗礼時に歌うキリスト賛歌である。洗礼の意味が21節に述べられています。キリストは正しい方であるのに、正しくない者のために苦しまれたと語られ、その目的はわたしたちを神のもとへ導くためです。だからわたしたちの受ける洗礼はキリストの正しさを受けるため、キリストの苦難をいただき、キリストの正しい良心を願い求めるために、洗礼を受けるのだと教えられているのです。
一番多い解釈は、18-19節を、主の死と葬りそして復活との間において、キリストが経験されたことを言い表しているとする説です。すなわち主が肉において殺された後に、霊においては生かされ、信条が語るように、地獄または陰府に、すなわち死者の住む所に降り、獄にとらわれている霊どものところで宣べ伝えてくださったのだ、という説です。
この他にもいろいろあるのですが、カトリック教会は長い歴史の中で、死者のためのミサを伴う煉獄の教理や功徳の教理を作り出しました。わたしたちの親しい人々が何とか救われるようにと願う気持ちは尊いものだと思います。しかし、愛する人々の救いが他の人々の業によって達成されると教えることが、神様に許されることでしょうか。ルターの宗教改革の発端となったのは、カトリックが献金集めの手段に贖宥状を売り出したことだと言われています。煉獄で苦しんでいる死者の霊がその献金によって天国に入れられると謳ったのでした。その他、教会の業を伴う機械的手段によって獄にとらわれている霊どもを助けることが可能だと教えたのです。
わたしたちが、地上でお別れした愛する人々について思う時に、何よりも大切なことは、神の御前に謙って、慈しみを行ってくださる主の恵みにすがることです。人のことでも自分のことでもお金を積んだり、良い業を積んだり、具体的に何かをすれば、必ず救われると考えることこそ、神に背くことになるのではないでしょうか。なぜなら、キリストが世に遣わされたのは、神の慈しみ、神の恵みによる救いの道を開くためだったからです。これこれのことをすれば確実だ、というのは単に人間のこの世における営みに過ぎません。そしてこの世の営みが素晴らしい成果を上げているように見えるのは、ただただ、神がそれをお許しくださり、祝福してくださっているからに他なりません。それを忘れて誇り高ぶるからこそ、突然すべてが覆されるようなことが起こるのです。
業を誇る者は業によって救われようとします。そして恵み深い神を信頼せず、無視するのです。今日の詩編139篇を読みましょう。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上においていてくださる。」わたしたちの主はこのようなお方なのです。神とはこのようなお方でないはずがありましょうか。一体この方から離れて、この方のご存じないところで好き勝手に生きるなどということが可能でしょうか。
「その驚くべき知識はわたしを超え、あまりに高くて到達できない。どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。8 天に登ろうとも、あなたはそこにいまし、陰府に身を横たえようとも、見よ、あなたはそこにいます。曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも、あなたはそこにもいまし、御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしを捕らえてくださる。」わたしたちの神はこのようなお方。背こうとする者にとっては恐ろしい支配者です。しかし、信頼し頼り行く私たちにはどんなにありがたく、感謝すべき方であることか、陰府にまで降って虜を解放し、ご自分と共に天に昇ってくださる方。御自分の命と結んでくださる方なのです。
一方、繰り返して申しますが、自分の業に頼る者は、絶えず神の御支配以外のもの、律法の支配に縛られる危険にさらされています。スポーツにはスポーツのルールがあります。ルール、法を守って法の支配の下に頑張っているはずが、いつの間にか理不尽な罪の支配に苦しめられ、行く道を歪めれらてしまうということが、社会では横行しています。教会といえども、罪の支配に歪められないという保証はありません。しかし、わたしたちを呼び集めてくださる方を信じて、私たちはここにいます。私たちはみ言葉を聞き、信仰を言い表しましょう。私たちは主イエス・キリスト、十字架に付けられ、死にて、葬られ、陰府にくだられた方を告白しましょう。
最後に黙示録1:17-18を読みます。453上。「わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。『恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。』」
主イエス・キリストの父なる神様
尊き御名を賛美いたします。4月の教会総会が終わり、教会は新しく長老の姉妹を加えられました。また、5月には東日本連合長老会の会議が行われ、西東京教区の総会が行われました。非常に困難を極めている諸教会の歩みは、私たちの社会全体の困難を反映しております。いつもどうしたらよいのか、と方法を捜し求める私たちですが、あなたの御言葉を聴く時に、いつでもどこにでも、いまし給う方、頼り行く者を決してお見捨てにならない方を改めて見上げることが許され、真に感謝に絶えません。
どうか、私たちが絶えずあなたに道を尋ね伺い、祈り求める教会でありますように。弱い者、貧しい者、無力な者をも、決してお見捨てにならず、むしろ喜んで御業を表して、あなたの慈しみの大きさ、死ぬ者も生かすほどの偉大な力を明らかにしてくださるように祈り願います。 若い人々が少ない日本社会ですが、どうか勇気と知恵をお与えください。前代未聞の社会状況にこそ、イエス・キリストの計り知れない恵みが働きますように。どうか、救い主キリストを告白する信仰をお与えください。私たちの家族に、友人に、社会に。そのためにこそ、主よ、私たちがいる場所にいつもいらしてご栄光を表してください。
本日行われる長老会議を祝し、あなたの御心によって導いてください。また、来週の花の日に例年教会学校が行っている訪問行事を今年も導いてください。また、全国連合長老会の会議が来週行われます。どうか成宗教会について行われる人事の上にあなたの恵みの御支配がございますように。
今日もこの礼拝に参加できなかったすべての兄弟姉妹のために祈ります。どうぞ主の豊かな顧みをお与えください。再び礼拝を守ることができますように道を開いてください。
今日、これから主の晩餐に与ります。
すべてを感謝し御手に委ねて、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。